第八十五話 第二次山王堂の戦い
上杉の神速の行軍により、小田軍はほとんど何の用意もなく山王堂で上杉軍と対峙していた。
山王堂は主に湿地、泥地が多く、あまり大きく鬱蒼としない適度な森林が疎らにあり、見晴らしも程々と言ったところで戦場にするには悪くない地域である。
小田軍よりも早く軍勢を到着させていた上杉軍は、高低の少ないこの土地から僅かに隆起している丘を探して本陣を敷き、周囲の田畑に一定の間隔で見張りの兵を置いて奇襲に備えていた。
上杉家本陣には輝虎と共に幾多の戦を潜り抜けた、揚北衆の色部勝長、中条藤資、新発田重家、竹俣慶綱を初め、重臣である柿崎景家、北条高広、山本寺定長、河田長親等の腹心の部下や歴戦の猛者が顔を連ねていた。
「殿、小田家の軍勢がこの山王堂の地に入ったとの知らせにござりまする」
威厳のある声でそう報告したのは浅黒く日に焼け、体に無数の小さな傷の残る引き締まった筋肉質の男、見るからに勇将の柿崎景家である。
「うむ」
上杉輝虎は暗く短い返事を返す。
「やはり、期待があった分胸が痛みまするか」
「なに、寝返る小田殿が悪いのだ。輝虎様、気に病んではなりませぬぞ」
輝虎を気遣う北条高広に、乗せるようにして老練な中条藤資が染みのある声を響かせる。
「それは解っておる。この戦は悔いるところなき義の戦である。皆、安心いたせ。わしはここに戦い甲斐のある敵がいないかと考えておっただけぞ」
輝虎が顔をあげ、皆を安心させるべくその台詞と共に皆の顔を見回した。この言葉に奉行衆でこの中での一番の知恵者であろう河田長親が小田家の内情をまとめた資料を確認しながら言う。
「小田家には鎌倉よりの伝統を重んじて武芸に努める古強者が大勢いると聞き及びまする。中でも手塚、菅谷、赤松、平塚などは関東に名を馳せる名将故、夜襲や朝駆けを仕掛けてくるやもしれませぬ。御用心あるべきかと」
「なに、その時はこちらから打ち出でて返り討ちにしてくれるのみ。この山王堂の地に骸の山と血の池をこさえてくれるわ」
輝虎はジワリと近づいてくる戦の足音を聞き、徐々に湧き上がるような愉悦を覚え、顔を僅かにほころばす。
「伝令!」
一人の甲冑武者が本陣に駆け込むと、一同はいっせいに視線を向ける。
「うむ」
輝虎が頷くと、伝令は片膝をついたまま一礼し報告を行う。
「小田軍が動き出したとの由にござりまする! 氏治自ら打って出て参られた模様!」
「おぉ! 来たか!」
中条藤資は喜色ばんだ顔で立ち上がり、いよいよ戦が始まると意気込んでいる。
反対側では柿崎景家も立ち上がり、輝虎に下知を望んで目を輝かせている。
「きっと、このまま暗くなったころに夜討ちをかけるのでありましょうぞ。輝虎様!」
「うむ、自ら奇襲に出てくるとは心意気やよし。氏治公には悪いが返り討ちにさせてもらう」
「そ、それがその……」
輝虎も景家に対して大きく頷き、自信に満ちた言葉を吐くが、場の空気とは裏腹に、伝令が何とも言えない悩ましそうな顔をして一同に水を差す。
「どうした?」
比較的冷静であった新発田重家が伝令に問う。
「……小田軍は、我等上杉軍の真正面に横陣を敷いた模様……」
「!?」
上杉方諸将は呆けるように口を開け放ち、唖然として言葉を失う。上杉軍は精鋭八千に対し、急いで寄せ集めた小田勢は三千をやっと超す程度である。
二倍以上の戦力差に対して、馬鹿正直に真っ向から挑むだけでもあまりに無謀というものだが、練度のほか、個々の将の質も桁違いであると上杉諸将は自負している。
にもかかわらず、小田軍は気狂いでも起こしたように、ごく平然と上杉軍の正面に軍勢を並べたのである。
「な……奴ら……正気か?」
「大方我らに怯えるあまり気狂いでも起こしたのであろう……」
色部勝長に続き中条藤資もいまだに目を丸くしたまま、小田将兵を憐れむように呟いた。
「な、何か策と言う事もあります故、各々方、油断するには早いですぞ」
河田長親が諸将に油断させないよう慌てて警戒するように促すが、長親自信も意見は彼らと同様のそれである。内心あまりの馬鹿さ加減に呆気にとられてなお、それでも念を入れるように言葉を紡ぎ出したのだ。
「しかし……まさかな……」
見るからに策の無い、無策正面突破と奇策とも呼べない戦略にかえって上杉諸将は動揺と混乱、道理の無い違和感に嫌悪感さえ覚える。
諸将がそんな動揺を続ける最中、今なお本陣に残っていた伝令がさらに信じられない情報を告げた。
「し、しかも川を背に陣を敷いておりまする……」
諸将はもはや、驚きを通り越して頭を抱えて悩んでしまう。全く何がしたいのか訳が分からないのだ。
戦場において天才的な知略を見せ、川中島において武田家の名軍師、山本勘助の切り札『啄木鳥戦法』でさえも難なく見破ったかの輝虎でさえ、驚くべきことに今この山王堂の地において、敵である小田方の動きを見切ることができずに頭を悩ませているのである。
「……本気で何を考えているのかわからぬ。愚の骨頂ではないか」
呆れ果てた様子で重家がごちるように言う。上杉諸将は戦を前にして早くも気疲れを見せ、敵の将兵に同情心が湧くほどである。
「あそこにある川は所詮、細小川程度ではないか。背水の陣に賭けて兵共に発破をかけるには細すぎる。かと言って退却の際にはいくら細いとはいえ、足を取られることは必定。よりにもよって最悪の地に本陣を構えたものよ」
冷静に現状を分析した藤資がそういうと、一同は頷き、客観的に見ても上杉方が不利になる条件が無いことを確認する。
「いやぁ、まぁ我等には好都合ではあるがな。しかし策を疑わずにはおれますまい」
「もしや、古来に聞く空城の計を謀っておるのではないでしょうか? でないとあの行動に道理のつく説明ができませぬ」
竹俣慶綱が策を疑い、長親がこの状況でありえそうな策を続けるが、周囲に伏兵などを置けそうな地形でもなく、一同はまた頭を悩ませる。
「しかし、小田殿は聞くところによるとそういったことを度外視で行動する男だとか」
「これ、氏治殿は女子ぞ」
勝長が噂に聞いた程度の話を机上に出すと、以前輝虎の関東管領叙勲式で氏治の姿を知っている景家が指摘を入れる。
「そ、そうであったな。なればこそ負けられませぬな。上杉の名を落とさぬためにも冷静に状況を見ましょうぞ」
「いや、速攻をかける」
「な、何ゆえにござりまする!?」
勝長は、冷静に敵の策を見破ってから行動に移るよう提案するが、それを輝虎ににべもなく即座に却下されたことに驚き、床几から腰を浮かす。
「この戦はわしと氏治公との戦に非ず。これは関東管領上杉家と逆賊小田原北条氏との戦である。この戦には関東全土の目が集まっておるのだ。ここで時間をかければ、北条の先兵さえ満足に屠れぬと関東諸侯に疑念を抱かれるのだぞ」
「な、なるほど……さすがは輝虎様にござりまするな」
輝虎のこの言葉にはもはや迷いや同情はなく、一心に己が義のために容赦なく小田家を叩き潰さんと言う意気が込められていた。
気圧された勝長はこの、信念の邪魔をする者に対する無慈悲な眼差しに内心恐怖し、床几に腰をおくとゆっくりと頷いて見せた。
「なれば、今こそ上杉の破壊力を見せるときですな」
勝長の言葉に我が意を得たりとばかりの輝虎は、刀を杖に立ち上がり、もう片方の手で大きく軍配を振るいながら出陣の号令をかける。
「うむ。この戦において上杉軍がいかに力があるか、小田軍を完膚なきまでに撃滅することで示す。氏治公には悪いが関東の締め付けにはちょうど良い手合いであるからな。皆の者、温情容赦はいらぬ。蹴散らし、屠り、田畑に小田の血をそそぐことでその穂を赤く実らせよ!」
「おおお!!!」
上杉軍の士気は将兵から末端の雑兵へと徐々に伝わり、強行軍で疲弊していたにもかかわらず全軍は息を吹き返したように意気軒昂とし始めた。
そして、この士気の高さを示す鬨の声は小田方にも聞こえ、勢いの衰えが無いところを見せ付けていた。
「……どうしてこうなった」




