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第七十話 広がる評価の輪


「八幡さま……お茶をお持ちしました」


 すっかり家政婦が板についた葵は、八幡の書斎を丁寧に開けるとお茶の乗ったお盆を先に室内へ入れ、そのあとに自分が入室してから障子を閉め、八幡のもとまでお茶を運ぶ。


 八幡や氏治が海老ヶ島を訪ねた次の日から、数日かけて白木は住まい替えの支度をし、それを終えて小田を立つ頃には鈍斎の病状もすっかり回復していた。

 白木は、北条治高と共に住まいを海老ヶ島へ移し、鈍斎はと言えば、まだまだ家督相続後に積み重なった政務のしわ寄せに苦しんでいるようで、早々に帰城した。


「あぁ、すまん、そこに置いておいてくれ。……ん? 葵、なんだか今日は元気ないな。どうかしたのか?」


 書斎で資料に目を通していた八幡は、お茶を手に取ろうと顔をあげると、気の抜けたような表情をした葵が目に入る。


「いえ、何でもありません」


「はぁ……あぁ、なるほどな」


 八幡は、葵の様子をしばらく眺めると何かに気付いた様子で、小さく堪えた笑い声を漏らすと、挑発的な笑顔を葵に向ける。すると、それに気づいた葵は心を読まれてからかわれていると思い、赤くした顔をお盆で隠す。


「な、なんですか!」


「はぁん、あれだろう。御前が居なくて寂しくてしょうがないんだろう? 何時もことあるごとに御前の元へ行ってたもんな。一日として会話しなかった日なんかないだろう?」


「し、失礼ですね! 私は長女ですよ! 別に甘えたりなんかしていません!!」


 葵は熱を帯びた顔をお盆で隠しながら怒り気味に大声で反論する。すると八幡は更にからかうように薄い笑みを浮かべて目を細める。


「……いま俺、甘えてるなんて一言も行ってないけどな。会話しなかった日がないだろうって言っただけで」


「な……な、な!! 八幡さま謀りましたね!?」


「違う、そういうのは自爆っていうんだ。やっぱり甘えてる自覚はあったのな」


 八幡が笑いながら葵の失敗を指摘して楽しんでいると、葵はお盆を正座した膝の上に置いて、真っ赤な顔を隠すことなく呟いた。


「……べ、別にいいじゃないですか……憧れるくらい」


(あ、開き直った)


「私はどうせお転婆な賤しい町娘ですから、ああいったお淑やかで大人な女性に憧れるんですよ。別にいいじゃないですか。御側にいられるだけで幸せなんですから。迷惑はかけてませんよ。……たぶん」


「いや、悪かないけどさ。なれるといいな。御前みたいに」


 開き直って不貞腐れる葵に、少々やりすぎたと八幡は薄ら笑いを苦笑いに変えて、どうにか機嫌を直してもらおうと宥めすかす。


「はい。暮らし向きはよくなくても、白木さまの様に笑顔で包容力のある優しさを振りまいていけたらなぁと思います」


「そうそう、それで思い出したけど」


「はい?」


 唐突に話題を変える八幡に、葵は首を傾げて対応する。


「しかし葵、農民の暮らしってみんなああなのか? 北条家は善政を敷いているって聞いていたから、もっとましな生活をしてるんだろうと想像していたんだが」


 八幡は、ついこの前の小田原遠征で見聞したことに疑問を抱き、もしかしたらと葵に答えを求めた。


 すると葵は少し俯き「皆が皆というよりは、農民でもさらに下位の方ですが」と前置きをして始めた。


「私達、()()に生きている農民にとっては国主様が誰であろうと何にも関係ないんです。どこに行っても、どこへ逃げても戦や戦。火事、焼き討ちに、(あまね)く夜盗は百鬼夜行のようで、そんなことさえも慣れて日常生活に組み込まれます。厳しい徴税、略奪は正常な神経に痺れを切らします。国主様たちがどれだけ民のためなんて大義を謳っていても、私達農民は何の保護も安心も得られず、何のために、何が楽しくて生まれたのかすら、わからない日々なのです……」


 突如として生まれた重々しい空気は、葵の語り口によってより生々しく八幡に伝わり、現場を何も知らないはずの八幡さえもその想像する(さま)に、苦虫を噛み潰したような苦しげな表情を浮かべる。


「酷いもんだな……確かにそれに比べりゃここの生活は恵まれてる方か……」


 八幡は、実際に善政と聞いて見聞した北条の村と小田の村を比較して、どちらが生活する分にはまだマシかを天秤にかけた。


「ですから私は八幡さまには感謝しているんです。農夫にはより多くの糧を得られる植物や生育させる種の取り合わせ、肥え土の種類やそれぞれの植物に与えるに適正な時期、量とあらゆる農法を教えてくださったのですから。さらには体の弱い人にも仕事を作り、貧しくて学の無い私たちのような人にもできる仕事や、知識をくださいます」


「大したことはしてない。“大唐米”の事なら、元はと言えば手塚殿が取り寄せた品種だ。あれだって味が悪いし他の年貢米と混ぜ合わせて誤魔化されてはたまらないから、きちんとした管理下でしか栽培を許してない。農民にはさぞや窮屈だろうさ。木綿の栽培や手工場が作れたのだって氏治が陣頭指揮を執って町の女衆をまとめて頑張ったおかげだし、体の弱っていた人への仕事も極楽寺の顕然様を始めとして多くの人に協力してもらった」


「それでも、です。小田家の皆さんは本当に、お武家さまの中では善良な心を持った方たちだと思います。他を知らない私の言葉は客観的ではないと百も承知ですが……」


「いや、肌で感じるものごとってのは、結構真に迫るものがあると思うぞ」


「ありがとうございます。皆さんが善だけでないことも、氏治さまの御前と他とでは使い分ける面があることも承知です。それでも、氏治さまの影響は凄いと思うんです」


「それは全く同意だな。他はからきしでもそればかりは他の追随を許さない大したものだと思う。魅力だけはピカ一なんだよなぁ」


「ええ。でも、それをうまく引き出しているのは、八幡さまだと私は思いますよ? 皆さまがこう変わったのも、胸の内にある善良なものをもう少し、民に直接施してくれるようになったのも、八幡さまが現れてからの事ではないでしょうか? それが少しづつで違いが分かりにくいかもしれませんが、私には感じることができるのです」


「……過大評価だよ。俺は戦には何の役にも立たんしがないの文官だ。計算と発想が少しばかりできて、知識が足りないところもあれば、皆が持たないものも僅かに持っているに過ぎないさ」


「別によいではありませんか。農民たちも全ては知らなくても小田家に八幡さまが来て以降豊かになったのだということを感じ始めています。皆、尊敬してるんですよ?」


「尊敬かぁ……そうは言っても俺だって元々普通の農民だぞ?」


 八幡の唐突な農民発言に、葵は親しみを通り越して驚き、半信半疑といった様子で狼狽える。


「え……? そ、そうなのですか? ですが、八幡さまは様々なことをご存じで、何でもできるではありませんか」


「いんや、俺のもともといた場所であればほとんどの人間が知っている常識だったものが多いし、そうでなくとも俺と同じ農民だったら、誰がやって来ても結果は同じだったと思うな……」


 会話の最中なのに、視線を宙に泳がせ始め、どことなく独り言のように呟いた八幡を見て、何か空気が変わったように感じた葵は気を遣いながら、少し慎重にどうしたのかを訪ねる。


「えっと……どうかしたんですか?」


「ん? あぁ、ちょっとな。前に暮らしていた場所が懐かしくなって……」


「あ、すみません……その、遠いのですか?」


 葵は、どこか悲しげな八幡に罪悪感を覚え、悲しいことを思い出させたのではないかと心配する。

 しかし、心配や罪悪感とは裏腹にどうしようもなく、八幡の言う農民でさえ当たり前に知識を持つという故郷が気になってしまい、悪いとは思いつつも質問してしまう。


「まぁ、かなり遠い……かな?」


 しかし、八幡の返答はどこかよそよそしく、誰の目にもあまり触れてほしくないのだと映るだろう寂しげな笑みを浮かべた。


(話題変えたほうがよさそうかな……)

「八幡さま、そういえば故郷と言えば、ついこの間に手塚さまもそういう話をしていらっしゃいました」


 故郷話で思い出した手塚の話を引き出して話題をすり替えようと試みる。


「え、手塚殿が? あぁ、そういえばここの出身じゃないんだっけ」


 それは見事に功を奏したらしく、八幡は先ほどまでのしんみりとして空気は明後日の方向にでも放り捨て、興味深そうに手塚の話題に食いついた。


「もともとは上方の智土師郷(ちはじごう)という村の商家の出身だそうです」


「マジか……まだ農民の方が説得力ありそうだが……」


 八幡は真顔でさらっと失礼なことを言いつつ、胡座に立て肘をつき、指先で顎を撫でる。葵はそんな八幡の様子を見て少し安堵し、小さく呼吸を整える。


「なんでも南北朝の時代から塩商いをしていたお家なんだとか。でも戦渦に巻き込まれて売り上げも減ってしまい、姉婿に家を任せてかねてよりの悲願だったお侍様になろうと、里の仲間を引き連れて大道芸をしながら諸国を放浪したそうです」


「へぇ……まぁ、それなら芸事もできて武術もあって、計算や経営が得意っていうのもうなずけるな。しかしまぁ似合わないことこの上ないが」


 苦笑いをしながらも、今まで不思議に思っていたことが解決したことですっきりした様子の八幡に対し、葵も同じ思いだったのか苦笑いで返す。


智土師郷(ちはじごう)では昔から武士を雇ったり、自分たちで弩を装備して富のあった村を野武士から守っていたそうです。でも、守るべき富を失い、食い扶持に困ったこともあって、仲間を連れて大所帯で旅をしたのだとか。なので、八幡様が配備なさった弩を懐かしげに眺めておられました」


「そうか……弩を使ってる人って昔の日本にもいたのか……ん? というか、手塚殿ってそんな頻繁にここ来るの? 俺会ったことないんだけど」


 八幡は本格的に弩を導入したのが自分でなく、割と身近にいたことで自分の奇抜な発想がそんなに奇抜でもなかったと知り少し落ち込む。

 そして、この曲輪で遭遇したことが無いにもかかわらず、葵がそこまで詳しく知っていることに疑問を抱く。


「たまにいらっしゃいますよ? 鈍斎さまや氏治さまのお話を聞きに来られます」


「そういえば、あの人も氏治や鈍斎にやけに執心的だよな……赤松様とは違った感じで」


 以前から小田家の家臣団に漠然と抱いていた違和感が、なんとなく形になってきたような気がした八幡は、口元を手で押さえて視線を畳に落し、真顔でしばらく何かを考える。


(というか、俺って案外小田家についてなんも知らねえな。仕えてる家なんだし、もう少し知っておくべきだよな……家中の確執とかなんも知らないで地雷は踏むのは不味いし……)


「葵、手塚殿って結構世間話するのか?」


 八幡は姿勢を変えることもなく、視線も畳に落したまま考え事の最中なためか、抑揚のない声で尋ねる。


「はい、手塚さまはそれはもう楽しそうに語ってくれますし、荷物運びやお洗濯も手伝ってくださって本当に親しみやすい方です! お話の内容も楽しいのですが、楽しそうにいろいろ語ってくれるのを見るだけで、こちらも楽しくなってきます!」


 葵が楽しそうに手塚について語り始めると、八幡もそれに空気を合わせて少し楽しそうに笑いながら、話をより引き出そうと相槌を打つ。


「それな。すごくわかる。あの人ってなんだかいつも楽しそうだよな。それじゃさ、手塚殿との世間話で覚えてることできるだけ教えてくれないか?」


「はい、かまいませんよ? 智土師郷(ちはじごう)を出た後すぐに戦乱のあった中国地方で傭兵をしていたそうで、その時にもある程度大道芸の腕は身につけていたそうですが、そこで鉢屋衆(はちやしゅう)の頭目さんと仲良くなってしばらく旅芸人に必要な技術を仕込んでもらったそうです」


「鉢屋衆!? ここでそんな名前を聞くことになるとはな……尼子家の忍びだったな?」


 突然思いもよらない言葉を聞いた八幡は驚き葵の目を見据える。

 それに少し驚いた葵はたじたじとして視線をずらす。


 鉢屋衆とは出雲尼子家の忍びである。しかも、その知名度の低さから歴史好き同士でも知る者は少なく、話題に上がらないほどなのに、この時代の常陸の住民からその単語が出たことに驚きが隠せない。


「確かそんな事を言っていた気も……それで、その方々に頼まれて筑波にいる同じ一族の集落に手紙を託されたそうです。もともと出身地の伝手で千葉家か鎌倉の領主に仕官しようと関東へ向かう予定があったので快く受けたのだとか」


「ちょっと待て!? 筑波に同じ一族がいるだと!?」


「ひゃぁ! は、はい……確かにそういってました……」


 鉢屋衆に続き、次は八幡さえも知らなかった情報につい大声が出る。

 しかも、それが身近にいることで驚きも倍増したのだろう。無意識に詰め寄られた葵は驚き、身を後ろに倒して後ずさりする。


「そうか……それはいいことを聞いたな。名前は解るか?」


 逸る気持ちを抑えつつ、それでも熱の籠もる声で葵に尋ねる。


「えっと、詳しいことは手塚さまに直接お願いいたします……」


「あぁ、すまん。そうだな。ほかに何かあるか?」


 流石に少々退き始めた葵の様子に気づき、これ以上はまずいと思って謝罪をする。収穫としては十分なので後は適当に世間話でもと話題をもう一度葵に振る。


「後は、智土師郷(ちはじごう)は鎌倉の極楽寺ともゆかりがある土地だそうで、そこには手塚さまの遠縁の一族が寺子屋を代々務めて多くの子供たちが学ぶ環境があったのだとか……」


「へぇ、そりゃまた珍しい」


 何やら残念そうに視線を落とす葵に、八幡は特に気にする素振りもなく話に只々感心した。

 残念そうにしている理由を尋ねてくれないので、葵は二度ほどちらりと視線だけを八幡に向ける。八幡はそれが何を意味するか微塵も解らず首をひねると葵は言葉をつづけた。


「いいですよね……そういうの。農民は知恵がなくて学ぶ機会もないままだからいつまでも貧しいままです……八幡さまの知識ももっと多くの人に広められたら……」


 此処まで聞いて、ようやく合点のいったらしい八幡は、また嫌味な笑みを浮かべる。


「なるほど、もっと寺子屋を立てろと言う訳か」


「わ、私はそのようなことは一言も言ってません」


 身の程を良くわきまえている葵は、あくまで身の程以上の要求をしようというつもりはないらしい。八幡が自発的に善意でどうにかしてくれないかと思ってたようで、少し恥ずかしそうに反論する。


「いや、顔が語ってるからいいよ。言いたいことあるなら全部言ってくれ。叶えられるかはわからないけど胸に留めておくから」


 その反論もむなしく、考えが見透かされていた葵は観念して、少し躊躇いながら胸の内を吐露することにした。


「えっと……寺子屋で知識を増やしていけば農民の皆さんも仕事が楽になったり収穫も増えますし、お寺で千歯扱きとかを管理してもらえれば問題とかも起きないでしょうし……そこで僅かな貸出料とかを取って、そのお金で悲田院も併設していただけたらなぁ……と思ってみたり……」


「……案外ちゃっかりしてるな」


 葵が真面目な話をしているにもかかわらず、嫌味な笑みを崩すことのない八幡に、顔を赤くしながら少しだけ葵は怒って見せる。


「そういう事を言われそうだったから黙ってたんですよ!!」


 八幡は葵をからかう一方で、内心では他人頼りだけでなく、財源に当てをつけて、現実的な経営を念頭に置いていることに驚いていた。


「まぁいいや。すごくいい案だと思うぞ。とりあえずは氏治にも話して置こうか。結構大掛かりになりそうだから、すぐにはいかないだろうが、できるだけ意に添うようにはするよ」


 葵が怒るところまで来るとようやく嫌味な笑みを止め、「悪い悪い」と軽く謝罪をして宥める。

 そして、葵の願い事は八幡一人ではどうにもできないためにすぐにどうこうという訳ではないが、とりあえずは受理したという旨を伝える。


「……感謝は、してあげます……」


「……あれ? 俺って上司だよね……一応……」

(さっき、多くの人が俺を敬ってるとか言わなかったっけ?)


 なぜか、太兵衛と言い葵と言い部下の兵士たちと言い、日に日に存在を軽んじられていることに苦笑いを浮かべるしかない八幡であった。

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