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第五十九話 関東管領叙任式

 小田家の一行は、先日の夜冷えによって霜の降り立つ早朝の鎌倉で、鶴岡八幡宮方向に馬を歩ませていた。


「いよいよですな、氏治様」


「えぇ」


 牛車の中で生唾を飲み込み、緊張を抑えようとする氏治を気遣って菅谷政貞が声をかける。牛車の御者は赤松擬淵斎が引き受け、牛車の右側を八幡と菅谷、反対を手塚石見守、飯塚美濃守が護衛し、ゆっくりとした足取りで八幡宮の段葛(だんかづら)の上を進んでいた。


 氏治は、牛車の外に顔を出して新鮮な空気を肺に入れる。ふと見上げると、薄曇りの雲から微かな雪がちらつき、鼻を赤く染める。


「氏治様、外はまだ寒うございます。式典の時まで車でゆるりとお休みくださりませ」


 赤松擬淵斎に促されると、一度だけ深呼吸して車の中へと体を戻す。

 顔を外に出した所為か、せっかく化粧した顔がわずかに赤みがかり、鼻先は一瞥しただけでわかるほどに赤くなっていた。氏治は簾を閉める前に心もとなさそうに八幡を見やる。


「大丈夫だ。うまくいくから堂々としてろ」


 八幡の言葉に幾ばくかの勇気がわいたのか、小さく微笑みを返して簾を閉めた。


 長い道のりに見えた段葛は、防衛上の都合で八幡宮に近づくほど道幅が狭まるようで、それによって生まれる遠近法によって実物より長い道のりに見えていただけであった。

 実際に通ってみるとすぐに一の鳥居、二ノ鳥居を過ぎる。いよいよ源平池を覗かせる鳥居の下まで来ると、氏治も牛車から下り、脇を固めていた八幡や四天王も下馬して一礼し、腰を屈めて鳥居をくぐり、参道の右側を通って本堂方向へと進んだ。


 鳥居をくぐるとすぐに質素な、飾り気のない白の狩衣を身にまとった神官が近寄り、一行に一礼してから馬を厩まで曳いていく。

 馬を預けた一行は、氏治が駕籠に乗り、残りの家臣と護衛は徒歩(かち)で随行する。


 舞殿(まいどの)前には大きく陣が敷かれ、そこから流鏑馬馬場(やぶさめのばば)に至るまでの長方形のもので、中には重臣数名を連れた関東の大名名家が、ずらりと一堂に顔を会わせていた。


「な、なんじゃ……あれは……」


「まさか、小田家の者か……?」


 氏治が鳥居からこの場までの間乗っていた駕籠を下りると、その場に集う諸将は様々に感想を述べた。ある者は驚き、ある者はあまりに場違いなその装いに奇異の目を向ける。


「ま、政貞……ま、まずいかな……これって……」


 周囲の目線に背筋を冷やし、うなじを汗が伝う。


「氏治様、ここまで来て後戻りはできませぬ。堂々となさってくださいませ」


「そ、そうよね」


 氏治は周囲に気づかれないように小さく息をすると視線をじっと舞殿(まいどの)へ向けて歩き出す。しばらく歩くと直江実綱が現れて席までの案内を務めた。小田家一行は家格が高いことや、将軍家の血筋であることもあって上位の席を与えられていた。


 さらに上に座る大名が後へ続いてくる。どうやらある程度上位になると長尾家との親密度も席次にかかわるようで、長野家、太田家、佐竹家が小田家より上位の座に座り、同格に里見家、宇都宮家などがいた。

 北条親派である千葉家や結城家は下位に列せられ、小山家と千葉家などはささいな席次を巡っていざこざを起こしている。


 しかしこの式典、最初から最後まで粛々とはいかなかった。


「い、いかがなさいました景虎様?」


 いきなり席を立つ景虎に不穏な気配を感じ取ったのか、直江実綱は少し慌てた様子で長尾景虎に何事かを問う。

 しかし景虎はそれを無視して、ただ一点を見つめてずんずんと歩みを進める。


「貴様! そこへ直れ!」


 突如として顔を上気させ、眉間にしわを寄せる長尾景虎に諸将はいっせいに同じ方へ眼をやって冷や汗をかく。儀礼用の厚手に何枚も着重ねた礼服は熱気がこもり、背筋を冷やす思いにもかかわらず汗が止まらない。諸将は一様に胃が痛む心地で早く式が終わるよう願っていた。


 そんな一人であった成田長泰は、鬼の形相で近づいてくる景虎に訳が分からずただ口をあけ、目を丸くするばかりであった。


「な、何ゆえにござりましょうか? 当方ただひたすらに景虎様の関東管領御就任を心よりお祝い申し上げ、その末席にて忠誠を尽くそうと思う所存。何も罰せられるようなことをした覚えはございませぬ」


 成田長泰はあまりの恐ろしさに床几に座ったまま精いっぱい頭を下げたが、これだけの屈辱を味あわせても景虎の怒りは収まることはないらしく、手に持っていた扇子で長泰の頬を叩いた。


「貴様、諸将が皆神仏に恐れ多いと腰を屈めて参礼したにも関わらず、その方は無礼にも馬上で礼を済ませ、乗馬したまま鳥居をくぐりここまで参ったそうではないか! そのあまりに神仏を敬わぬ無礼様! 毘沙門天の化身であるわしに無礼を働くも同義。この痴れ者が!」


 関東の地においては成田家とは名族である。故に八幡宮への参拝なども馬上で行うのが慣例となっていた。

 関東諸侯もそれを知っておりなんという事もなかったが、唯一の部外者である長尾家はそれを知る由もなく、景虎もまたその一人であった。


 成田長泰は居並ぶ関東諸侯の前で怒鳴られ大恥を掻かされただけでなく、挙句に頬を打擲されるという侮辱に長尾景虎へのこの上ない怒りと憎しみを覚えた。

 しかし、この場で反抗するわけにもいかず式典中はその場に座して流れに従う事とした。


「では、一同が席に無事着かれました故、これより正式に景虎様の関東管領就任式典を開催させていただく!」


 直江実綱の宣言でようやくその場のざわめきは収まり、こうして諸侯が互いに睨み合い、訝しみあう中式典はどうにか進められた。


 その後、長尾景虎は近臣に梨地の鑓、朱柄の傘を持たせ、馬を曳かせる。その後ろに家臣である斉藤朝信や柿崎景家を率いて本社殿に入った。

 そこには関白近衛前嗣(かんぱくこのえさきひさ)現関東管領上杉憲政(げんかんとうかんれいうえすぎのりまさ)威儀(いぎ)を正して座っており、景虎は刀や馬、黄金などの奉納品を読み上げ、宮司が祝詞を奏して式典は厳かに執り行われる。


 式典の堅苦しいところが終わると関東諸侯も少なからず胸を撫で下ろし、その後に行われた舞殿での神楽や、神子の伝統的な舞に酔いしれて一時の癒しを得ていた。


 この儀式によって上杉の名と、憲政から政の字を賜った長尾景虎こと上杉政虎も、その美しい舞を楽しみ、塩をつまみに杯にそそがれる神酒を旨そうに一息で飲み干す。


「はっはっは! いやはや、これは愉快ですなぁ」


 恰幅の良い男が騒々しい宴の中、より目立つ笑い声をあげた。宇都宮広綱である。


「そうです、かげ、あぁ、失敬。政虎様。八人の美しい巫女を眺めるのも良いですが、せっかくここに眩いばかりの姫君がおられるのですから、何か舞っていただくというのはいかがですかな?」


 宇都宮広綱は、人好きのする笑顔で無茶なことを言う。しかし、周囲もせっかくの宴で酒が進んだこともあり、皆酔いが回って正常な判断ができていない。

 半数近くが広綱の意見に賛同を唱えてしまい、各々の家臣団がそれを冷静に諫めるが状況は刻々と傾きつつあり、上杉政虎の鶴の一声を必要とする状況となっていた。


「うむ……」


 しかし上杉政虎も満更ではないようで、無理にとは言わないまでもできることなら舞を見てみたいという気になっていた。


「あのおっさん、酔いに任せてなんつうこと言ってんだよ……」


 八幡は小さく呟いて隣を見ると、赤松擬淵斎が青筋を立て、眼を血走らせて何かを呟いていた。


「ぐぬぉぉぉ! この脂男がぁ! 何様ぁじゃぁぁ! 氏治様に恥をかかせることとなったら刺し違えてでも……!!」


(うわっ、なんて物騒な……)


「それより、氏治様も何か言わないとまずいですよ」


「そ、それは分かってるけど、な、なんて言ったらいいのかわからないのよ」


 小田家中でこそこそ話をする合間にさらに話は進んでしまったようで、上杉政虎が首だけを氏治の方へ向け、じっと目が合うのを待っている。流石にこれに気づいた氏治もわざわざ目をそらすわけにもいかず、政虎へと向き直って視線を合わせた。


「氏治殿。突然で不躾とは思うが、祝いの席ゆえ、どうにか貴殿の舞を見せてはいただけぬものであろうか?」


 さすがに不可抗力なのだろうが、この政虎の威圧的な頼みはとても断れる雰囲気ではない。

 しかし、余りに唐突すぎて心の用意ができていない氏治は、すぐにそのことを承服できるはずもなく、僅かに時が止まったような冷たい空気が流れる。


 小田家中の誰もがまずいと思い、上杉政虎に打ち首にされることを覚悟で断るなりなんなり、場の空気が壊れてでも氏治を救わねばと声をあげようとした。

 しかし、これについては一同でもどうすべきかわからず、頭で何か言わねばと思っても声が出なかった。そんな中、八幡が唯一言葉を発した。


「政虎様! 大変ご無礼かとも存じておりますが、舞うにはそれ相応の支度が必要でございまする。しかし、某でありますれば、必ずや武芸好きの政虎様をも唸らせる流鏑馬を奉じて見せましょう。ぜひとも某めに皆様を楽しませるための舞台をお与えくださいませ!」


 突然の八幡の大音声(だいおんじょう)に一同は驚き唖然とする。小田家家中の将は皆一様に上杉政虎への無礼で八幡が手討ちにされるのではと不安になり、八幡を心配そうに見つめた。


 その様は、無言無表情の上、岩の様に堅い顔つきをして、眉間の一つもあまり動かさない上杉政虎の目をも丸くさせる程の、大胆不敵な発言であった。


「ふ……ふはは、ははははは! 実に、愉快! この場でそれほどの宣言をして見せるとは、その豪胆ぶり、実に気に入った」


「は、お褒め預かり光栄です」


「腕に自信あり、か。よい、その方に舞台を与えよう。今、名を立てば、我が名と共に日の本あまねく、名が轟く。その誉、褒美とする」


 上杉政虎は氏治へと視線を向け直し、笑顔で語る。


「氏治殿、確かに急を言って申し訳ない。しかし、良い匪躬(ひきゅう)の臣を持たれたものだ。誇られるとよい」


 上杉政虎は心の底から楽しんでいる様子で、いつものように重々しく口を開かず、珍しく饒舌(じょうぜつ)に喋って見せていた。その喋り方に諸侯などは「そんなつらつらと喋ることもできたのか」と本日何度目かもわからぬ驚きに目を丸くしている。


 こうして舞殿の手前にあり、神事の際に使われる流鏑馬の馬場において、上杉政虎の関東征伐の成功を祈願する流鏑馬が、急遽執り行われることとなったのである。


 八幡は先ほどまで神楽を舞っていた者や、舞を舞っていた巫女たちの使っていた楽屋を借り受け、宮司から渡された流鏑馬用の着物へと着替えていた。


「あの……ごめん、八幡……私のせいでこんなことになって……」


 控室を訪れた氏治は、この状況が自身の軽はずみな行動によるものだと自覚し、深く謝罪した。


「いいや、気にすんなって。そりゃぁ、確かにあんなもん見た後だ。謙信公自体も想像以上に怖い。けどな、俺は今、少しだけ興奮しているんだ」


「興奮……?」


(というか、謙信公って誰……?)


 氏治は顔をあげて八幡の表情を見てみると、想像していたものとは違い、何故だかこのような状況においても普段より生き生きとした顔をしている。


「どう、したの?」


 不安と心配、罪悪感はまだあるものの、これほどの状況において尚、その似つかわしくない表情に心底馬鹿なのではないかという気がして氏治は顔をひきつらせてしまう。


 しかし、八幡はというと興奮に頬を赤く染め、うれしさのあまりあたりをうろうろとしてまるで落ち着きがない。


「いや、確かに失敗したら殺されるかもしれねぇ。でもな、俺は今までの知りうる人間の中で上杉謙信は本当に尊敬しているんだ。それにこうして会えただけでも、顔を見られただけでも興奮が収まらねぇってのに、さっきなんて言った? ひきゅうの臣? 意味は解らないけど誇れってお前に言ったってことは、俺を褒めてくれたってことだよな? 今の俺の気持ちは感動なんて言葉じゃ収まらないんだよ」


 すると氏治、今度は徐々に機嫌が悪くなってゆく。


「ふぅん。あっそ、なら心配なんていらなかったわね。全く、人がこんなに不安になって焦っているっていうのに、貴方がそんな感じだとこっちが空回りするばっかりで恥ずかしいじゃない。心配して損したわよ」


 そういってそっぽを向く氏治に、ようやく心配されていたことに気づいた八幡は苦笑いを浮かべながらその頭を撫でた。


「悪い、心配してくれてたのか。ありがとな」


「ふぁ、な、何よ! 別に心配なんか!」


 氏治は八幡の顔を見て文句を言うが、すぐに顔が熱を帯びてくるのを感じて悟られまいと俯いてしまう。


「いや、今言ったじゃん……」


「言葉のあやよ。……それより、本当に大丈夫なのよね……?」


 氏治は、頭にいつまでも乗せられていた手を振り払うと、一呼吸だけおいて顔をあげ、やはり心配そうに問いなおした。


「あぁ。任せろ。流鏑馬は俺の唯一誇れる特技だ。毎日部活の後乗馬クラブへ行って頼み込んで練習したんだ。そんな自己満足が、まさかこんな晴れ舞台を与えられるなんてな。死んでも失敗なんざしねぇよ」


 実のところ、八幡の足は微かに震えているが、それは八幡自身でも恐怖や緊張からくる震えなのか、嬉しさのあまり武者震いしているのか判断できずにいた。

 氏治はその光景を見て何を思ったか、深呼吸して何かを決意したように小さい声で「うん」と言って胸の前に両腕をあげ、手を握りしめた。


「……そう。なら、八幡が成功して無事に帰ってきたら……私も踊ってあげる」


 突然の申し出に一時空気が静まる。氏治を庇ってこうなったのに「これでは骨折り損ではないだろうか?」と内心で思い、驚き呆けるのと呆れるのが混ざった表情になる。


「……はぁ?」


「も、もちろん政虎様の関東管領就任を祝ってよ!? 頼まれていたし、家臣にばかり頼る奴だって思われたくないから余興ぐらいもそつなくこなせるってところ見せるだけだからね!?」


 氏治は、真っ赤な顔をどうにかすることはあきらめたのか、その顔のまま八幡の顔を見上げて胸座の少し下辺りを掴み、訴えるようにして言い訳をする。その勢いに圧倒された八幡は、反応に困ってからかう素振りもなく、短い返事を返すだけであった。


「お、おう」


 八幡が返事をすると氏治は手を離して俯き、一度脱力した腕がたらりと落ちて肩からぶら下がるような状態になった後、片手だけあげて八幡の腕の袖口をつまむようにして握った。


「でも……ついでに貴方にも見せてあげるから、生きて帰って来なさいよ」


 こんなにも心配する氏治を見るのは初めてであったため、八幡も最初は言葉を失ってどう反応したものかと目線が宙を舞っていた。だが、袖口をつかまれ、次第にすり寄って八幡の胸に氏治が頭を落とすと、八幡はその頭をそっと一つ撫でた。


(妹とかがいたらこんな感じなのかな……)


 八幡は優しげな眼を氏治に向け、この微笑ましい一時を存分に楽しんだ。そして八幡は氏治の両肩に手を置いて突き放すと、笑いながら氏治の容姿を頭の天辺から足のつま先までなぞるように見回して言う。


「あぁ。そうだな! せっかく氏治がこんなにきれいに着飾って踊ってくれるんだって言うなら、地を這いつくばってでも見てやるさ!」


「……うん」


 氏治は涙目になっているのがばれないように俯いて、震える声で小さく短い返事を返す。


「んじゃ、行ってくるわ」


 そして、八幡は陽気な笑顔で手を振って楽屋から出た。

 八幡が勢いよく開いた幕はすぐ元に戻り、八幡の後ろ姿は幕の向こうへと消える。すると氏治は顔をあげ、涙を流さないように一言つぶやいた。


「……いってらっしゃい……」


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