第四十六話 前震
「長尾景虎が関東に下って来るですって!?」
小田城会所にて重臣一同が顔を合わせる定例会議の場に、長尾景虎、後の上杉謙信からの檄文が届いたのである。
桶狭間による甲相駿三国同盟の瓦解の隙を付き、長尾景虎は上野の国へ侵攻。瞬く間に国内の主要な城を併呑して行き、国の大部分を占領した。
そして、厩橋城を関東における拠点とし、休息を挟んで武蔵国への侵攻に取り掛かろうとしていた。しかし、連れる兵は決して多くはなく、広大な占領地を抑え込むにも頭数を必要とした。また関東管領の復活を夢見る謙信はその威光の程を確かめる意味も含めて関東諸侯に「反逆の徒、北条家を討つために参集せよ」と呼びかけたのである。
長尾家の書状を取り次ぐ菅谷政貞は、小田家の家格を無視したような上からの物言いである書状を手で床に押さえつけながら、冷や汗混じりに内容をぼかして報告する。書状を見て氏治が激情に駆られ、勢いのままに戦に走らないかが恐ろしいのである。
これに、赤松擬淵斎が豊かな腹を揺らしながら歩み寄り、尋ねながら手紙を受け取る。
「どうしたというのだ、菅谷殿。聞くに、狙いは豆州北条家であろうに、何をその様に思いつめた顔を……」
「狙いが北条家とあらば、我等はこれ幸いと後ろ盾のない結城家を今度こそ翻弄できようと言うもの。我等に利することはあれど、害となることはよもやあるまい。ん?」
赤松擬淵斎は読み終えた書状を隣まで歩み寄ってきた手塚に押し付けて渋い顔をし、これを受ける手塚石見守も視線を逸らした。そして、氏治が手を差し出して「はやく頂戴」というと、手塚石見守は渋々手紙を手渡す。
氏治は書状を受け取ると黙々と読む。そして、次第に肩が震えはじめるや否や赤松擬淵斎、菅谷政貞、手塚石見守の三人が視線を逸らし、気まずい表情を浮かべる。そして、他の諸将は三人の顔色と氏治の肩の怒りようを見てその内容を察するのだ。
氏治は見るからに怒りを抑える様子で、平時より幾分低い声で呟くように場に言葉を放り投げる。
「なるほど……景虎殿は、私達に佐竹家や小山家と共同戦線を張れと言うのね」
関東諸侯のお互いの感情や政治摩擦、家格や武力、因縁その他諸々を無視するような命令は氏治のみならず、友好氏族の佐竹家や宇都宮家でさえも不快感を抱いた。
しかし、長尾景虎の実力はこれ以前に起きた下野侵攻で関東諸侯も理解しており、表立って文句を付ける人物は現れない。
「政貞、他の長尾方参列諸侯は?」
一瞬で突沸するという一同の予想を良い方向に裏切り、氏治は思いの外冷静に菅谷政貞に尋ねた。
しかし、即決で北条家につかなかっただけましとはいえ、長尾家につくと宣言をしたわけではないのだから諸将は気が気でない。
「は、他の情勢は知る限りでは下野の宇都宮家、同じく佐野家、上野由良家、安房上総の里見家が長尾の元へ降ると。那須家の動向は不明、北関東の名族である忍城の成田家は今のところ北条家に座していますが、長尾家の末席に加わろうとしているとの噂もございます」
「……そう……」
一時の無言の間が流れる。
氏治の心境は複雑である。この戦国乱世で、しかも離合集散激しい関東の地で同盟破棄そのものに深い感傷は無いが、北条家は味方に付く者には親身であり、氏治自身も悪印象は抱かなかっただけに僅かに気にかかったのだ。
加えて言えば、つい先日の小田左馬頭左近少将朝治の謀反未遂の一件で実の兄が寄食する相手でもある。氏治の性格からしても気に掛からない方が寧ろおかしいと言える。
しかし、お家の大事と個人の感情である。悩みはしたが、天秤で量れば軽重は明らかなものだ。
一同はなかなか結論の出さない氏治を依然として見つめ続け、額などからは体に悪そうな脂汗を吹き出す。そんな注目の中、氏治は一度だけ深呼吸をして決意を宣言した。
「……よし。我々は長尾家に降る! これは武門の恥ではなく、民の安寧を考え無用な争いを避けるためであり、また関東管領の威光に従い、逆賊北条を討たんとするものである! 我々は決して長尾家に頭を垂れたわけではないと知れ!」
「おおぉお!!」
当主らしい威厳のこもった演説をこなした氏治を見て、諸将は勢いのある返事をする。
そして、血縁のような親しみを氏治に感じている多くの将は、堂々立派なその姿に満足し、且つ嬉しそうな表情で会所から退出していく。
氏治はこれらを見届けると、気疲れで体力の限界だったのか、くにゃりと足をひしゃげてため息をつく。それを隣室で見ていた白木と葵があわてて傍へ駆け付ける。
「氏治さま、大丈夫ですか?」
白木は言いつつ項垂れる氏治を優しく抱き起す。
葵は温かいお茶と茶菓子をもって駆けつけ、それらを勧めた。
「氏治さま! お疲れ様です!」
「あ、ありがとう二人とも」
氏治は膝を正し、茶を啜り一息つく。すると、末席で退出せずに沈黙を守っていた八幡が立ち上がり歩み寄ってくる。
「お疲れ様、氏治」
「あはは……どうだったかな……? 結構頑張ったつもりなんだけど……?」
氏治は諸将に威厳と成長を見せるべく、意図的に大袈裟に芝居を打ったのである。
八幡の有無に関わらず結論は変わらなかったが、八幡は菅谷政貞から相談を受け、予めこの情報を氏治に伝えていたのである。これは、二度に渡る家中の騒動で揺れ動く家臣団の引き締めを行おうという意図であった。
「もちろん完璧だ。これならみんなも、氏治が大局を見据えることができる大将だという印象もつくだろうし、小田家を誇りに思う人たちも納得して、長尾家との無駄な抗争がなくなるだろうさ」
八幡が笑いかけると、氏治はまた正座していた足を左右に崩し、だらしなく安堵のため息を一つついた。
その様子を見た白木と葵は、互いに顔を見合わせてくすっと小さく笑いあう。
白木は氏治の背後に回って肩をもみながら語る。
「氏治さまはもうお休みください。明日からも気をもむような仕事がたくさん転がり込んでまいりますよ」
「えへへ……やんなっちゃうよね……もう……でも大丈夫。ありがとう白木ちゃん」
そう言うと氏治は白木の胸へと後頭部を落とし、少し甘えるようにもたれかかる。
白木は微笑しながら氏治の両肩から腕を回し、氏治の胸のあたりで両手を結び抱きかかえるような姿勢をとる。その様はさながら、母親に甘える娘といったところである。
「氏治さま……いいなぁ……」
葵は唇に手を当て、物欲しそうな目をして、誰にも聞こえない声で呟く。
八幡もそんな二人の様子を見て苦笑いをして言った。
「これではどちらが年長なのかわからないな……」
すると氏治は頬を膨らませ、八幡と反対方向を向いてしまう。
「どぉうせ白木ちゃんの方がしっかり者だっていうんでしょ? 別にいいもん。私だって解ってるんだから」
「あら、そうでもないですよ? 氏治さまは民草の前では陽気にふるまい親しみやすさを見せていますし、当主として民を善く治め家臣団を統率なさっているではありませんか」
白木は、氏治の頭をなでながら優しく微笑みかけた。
「私にはその様なことはできませんから、やはり氏治さまは立派です。私なんかよりもよほどしっかり者ですよ」
「ほんと白木ちゃんは優しぃなぁ~」
「ふふ、恐れ多いことです」
「共同で北条家や結城家と戦うんですよね? なら、これでようやく白木さまのご実家も取り返せますね!」
「ふふ、もちろんそうなればいいけれど。葵さん、氏治さまの重荷となるようなことはあまり言ってはなりませんよ」
「あ、す、すみません!」
白木は葵の言葉でふと思い出したように一つ手を叩き、体の向きを変えて八幡へと向き直る。
八幡は微笑む白木から真面目な空気を感じ取って向かい合い、表情を強張らせた。
「そうです、八幡さま。そういえば、北条さまからお話は伺いましたよ」
白木がそう口にすると、八幡は白木に苦手意識があるのかその顔を見るたびに胸を痛め、その言葉を聞くたびに心臓を突き刺される痛みを覚えて顔を顰める。
しかし、それがかえって白木には心苦しいようで、そんな八幡の顔を見るたびに白木は憐憫の情を抱く。故に八幡を刺激しないように優しい声色で話を続けた。
「八幡さま、私は貴方様に感謝しているのです。殿として敵地で死ぬ定めであっただろう父上を一度お救いくださり、そのおかげで父上は思い出の詰まった故郷で散ることがかない、その地に無事に骨をうずめることができました。小田家のために命を懸け、故郷で散れたことは父上の本望であったはずなのです」
しかし八幡の顔は晴れない。
「お気遣いありがたく存じます。しかし、私が居ようと居まいと、結果に何の差異も無かったことでしょう。私はそれほどに無力です。白木御前が最もお心を痛めておられるというのに私のような者の身までお気遣いくださり光栄に存じます」
「八幡……」
八幡の苦しそうな様を見て、氏治はついその名前が口に出る。
しばらく八幡の顔と反応を見て白木は何かを悩んでいたが、何かひらめいたらしく、息をつくように小さくふと笑うと八幡の前へ歩み寄り、その前に正座した。
「白木御前……?」
次の瞬間、部屋中にピシャン! という高い打擲音が鳴り響いた。
「な……なにを……?」
八幡は驚きのあまり目を丸くする。
数秒前の僅かな瞬間氏治達の目に映ったのは、白木が高く振り上げた手を八幡の頬へ勢いよく振り下ろす様であった。白木も、あの筋肉隆々としていた平塚自省の娘だけあって、細い腕から放たれたとは思えないほどの力で頬を叩かれ、そこはすでに赤くはれ上がっていた。
「これで、満足ですか?」
余りの速さに反応ができなく、されるがままの八幡を尻目に白木は手を引くと、にこやかに笑って八幡を見つめる。
「こちらがよいと言っているのにそう余所余所しくされると気分が悪うございます。気遣いが痛いのならば、こうして私の恨みは今の一擲で貴方にぶつけました。これで八幡さまの負うものはなく、一件落着にござりましょう?」
八幡は呆然としたまま固まり、その後数秒間は皆の発言が途絶え、一室には四人の微かな呼吸音だけが響いた。
そしてしばらくすると氏治がくすくすと笑い始める。
「くふ、あはは! さすがは長信の愛娘ね。普通の女の子とはすることがまるで違う。この荒療治ぶりは父君の血をよく継いでいるんだと思うわ」
すると白木はその聖母のような優しい微笑みを氏治に向ける。
「あら、それはまことにうれしいお言葉ですわ」
八幡はようやく我に返り自分の行いを振り返る。これは戦だから仕方がなかったのだと自分に言い聞かせ、そのことについて考えないように、最近は仕事で家中から認められるように邁進してきた。だがやはり自分のせいで死んでしまった、お世話になったのに何一つお返しができなかったという思いが心のどこかにこびりつき、無意識に白木を敬遠していたのだ。
「ありがとう……ございます」
八幡は震える唇で短く感謝を述べた。
「これでようやく、重い鎧を脱ぐことができましたか?」
「……はい!」
白木はそれを聞くと肩の力を抜き、八幡にやさしく微笑みかけてその頭を一度だけ撫でる。その後は葵が汲みなおしたお茶を飲みつつ、他愛のない雑談をしてしばらくの時を過ごした。
「氏治様、明日にも景虎さまのいる上野へ向かわれるのでしょう? そろそろお休みになられた方がいいですよ?」
「そうね……今日は早めにお夕飯を摂って休むね。白木ちゃん、葵ちゃんは置いていくから二人でお城のことはお願いね?」
「ふふ、お任せあれ」
「は、はい!」
二人に向き直って城の留守を頼むと二人は各々の反応を見せる。そして先ほどまでの緩んだ顔をかき消して、当主の顔に戻った氏治は八幡の方へ振り返った。
「貴方と太兵衛は手勢を連れてお供してね。大体千人ぐらいであいさつに行くから」
「わかった」
そうして八幡に出陣の支度を命じると、氏治は自室へ戻って食事などを済ませ、早々に一日を終えた。




