第十一話 木綿の価値
「あっと、ところで木綿木綿と、値段は……二百二十四文!?」
「何を驚いてるんだい? 安いって?」
舶来品の店棚の主が笑う。木綿を知っていることに関心しつつ、少し嬉しそうな顔を見せ「一点ものだよ」と冗談めかして語る。
しかし、八幡の驚きは当然そのようなものではない。
「いやいや、高すぎるんじゃないのこれ? え、さっき五百文が大層な金額って聞いた気がするんだけど」
「はぁ、何言ってんだい? これでも安い方だよ。高い時なんて、木綿一疋で二貫と五百文ほどする時だってあるんだからな? 冗談言っちゃいけねぇよ」
店主は目を吊り上げて声を荒らげる。薬九層倍に呉服五層倍なんて言葉はあるが、そう言ったぼったくりの類ではなく真っ当な価格のつもりで値を掛けていたのだから怒りも当然と言えよう。
もっとも、大陸や朝鮮での買い付け価格と京都での卸値は基本六から十倍であり、莫大な利益が得られる物であるのだが、木っ端商人は日本国内流通のさらに端を取引するだけなのでそこまで細かくは知らないのであろう。
「……一疋ってどんくらい?」
「一疋は二反です。私も詳しくはないですが、氏治様が確か子供や老人は一反あれば十二分に足りると仰っていたので、大人、それも我々の背丈なら一反半ではないでしょうか」
「マジかよ! 高級品じゃねぇか! どうりで流行らないはずだわ!」
八幡は目の前の薄汚れた、少しばかり機能の良い布が高級品だとは俄かに信じがたく、思わず大声を上げてしまう。
八幡の大声に通りを歩く人々が顔を覗かせるが、店主が適当な場所に肘をついて頬杖をしながら「しっし、見せもんじゃないよ」と覗く人々を散らす。そして、八幡へ向かい直すと煙管にケチるように僅かばかりの煙草を入れて火をつける。
(木綿は一般でない癖に、喫煙文化は当たり前にあるのかよ)
八幡は内心で愚痴を言いつつ、煙を避ける様に位置を移動して距離を置く。
「これでも安くなった方だがね。親父の時代は今の三倍も四倍もしたんだ。大量に買うからそのうち安くなったが、あんまりに売れるんで困った朝鮮の王様が売るのを制限したって話ですぜ。これだって本当は都で売られて、貴人や大領主様、それか銭好きの坊主が着るようなもんだ。あんたみたいな平凡な町男が着るもんじゃないよ。冷やかしならさっさと帰んな」
天文元年には一把で九百文もした木綿だが、僅か七年で六割、二十年を過ぎた頃には当初の三割近くまで値を下げており、急激な普及が見て取れる。しかし、これでも当時の庶民には手の届かないものであり、一部の富裕層の着物という認識が長らく続いた。
また、天文期以前から全国的に国産木綿の栽培が行われ始めていたが、急激な普及が江戸時代まで待つのは技術の他に、当時の有力者たちの木綿への価値の理解が不十分であったことと、庶民への木綿の一般的認識と、それに伴う有用性への理解が深く根付いていないこと。そして、生産に見合う需要が戦国初期から中期では十分に追い付いていなかった為であろう。
また、三河ではいち早く伝来していたことに加え、後の天下人となる徳川家康が有用性をいち早く理解し、木綿栽培の奨励を行っていたと思われる形跡があることも無関係ではないと思われる。
「ぐぬぬ……マジかよ……今は使っちまって二百文にもちと足らないくらいなんだが……これでどうにか負けてくれないか?」
「はん、馬鹿だね。二十文近くも負けてやれるかってぇ……ふむ」
鐚銭持ちの町男と軽んじていた店主であったが、八幡が棚に置いた銭袋から数枚の永楽銭がこぼれ出すのを見逃さなかった。店主はしばらく考え込む様子を見せた後、袋の中身を改めたいと申し出、八幡が快諾し、銭の数を数え終えると一瞬だけにやりと笑い、すぐに溜息を吐いて首を回した。
「どうした?」
「はぁ。まぁ、良いか。その有り金全部で渡してやるかえ。これも去年から置いといて、ようやく数枚売れたっきりだ。これじゃ次いつ売れるかもわかんないからね。今のうちに回収して新しい品も売らないと」
「おぉ! マジか! 有難い!」
八幡の購入したこの服もまた、元は都の大店の商人が所有する古着を購入した地侍が、戦で金が入り用になったために質入れして流れたという経緯を辿った品である。
故に相場なら一貫前後はする品が通常の三割程度となり、ようやく手が届いたものであった。
八幡が有り金を綺麗に使い切って爽快な表情で店を出ると、太兵衛が何やらそわそわとして口元を押さえており、しばらくして俯きながらゆっくりと口を開く。
「……今更の話で大変申し上げにくいのですが……」
「ん? いいよ、何でも言ってくれ」
「暖かな衣類という事であれば、紬という手があったのではと……」
「……何それ」
八幡は紬というもの自体は知っているが、改めて言われるとどのようなものか思いつかずに首を傾げる。和服然としていない和風な着物は、浴衣や甚平、褞袍や袢纏くらいしかイメージが湧かないのである。
太兵衛は常識に乏しい八幡に対し、普通以上に丁寧な説明を行う。
「紬というのはあし絹を仕立てたもので、汚れや破損で高級織物の絹糸には出来なくなった蚕の繭から作る真綿の糸を織り仕立てた布をあし絹と申すのです。糸が太く玉もあって見てくれがいいものではないですが、我々の様なものにとっては些末な事。これも安くはないですが庶民服なのです」
「それ、早く言ってよぉ~」
「すみません……」
しばらく俯きながら帰路を歩く二人であったが、八幡は気を取り直してふと笑うと、これからは何事も考えを前向きにしていこうと心を改めて上を向く。
(まぁ、これも経験だ。それに、木綿の有用性を説明するにも実物あってこそ。何も悪い事ばかりじゃない)
「でもいいや。なるほど、そうね。なんか結城紬とか聞いたことあるわ。有名だよね、確か」
「そうですね。結城方面が盛んで、国境を越えて常陸でも作られております。昔は常陸紬や常陸のあし絹として朝廷への献上品であったそうですが、今では専ら結城紬で名が通っています」
「あれ、結城って、下総じゃないか? なんで常陸紬って呼ばれてたんだ?」
「さぁ、さすがにそこまでは……それと、今では結城家は我々の仇敵なので小田領内では専ら常陸紬の方で呼ぶようになってきています」
八幡は呼び名一つに向きになる当時の人々の感性に思わず苦笑いがこぼれる。また、当時の離合集散激しい関東の事である。昨日の敵が今日の友などという言葉があるが、昨日の仇敵が明日には密月の友軍となることも珍しくはない。
事実、結城家と小田家の間柄であるが、先祖云々は無く、先代から小競り合いが続くその延長である。
小田と佐竹の様に、常に敵対する陣営同士について常陸守護職という一つの地位を奪い合う関係でもなければ事情次第ですぐ同盟関係にもなるのである。その小田と佐竹でさえも、当代の名君義昭の母は小田家の娘である。
「……なんていうか、どうでもいいところ気にするのね」
「まぁ、これに関しては氏治様の命という事ではなく、我々や民衆が自然とそうしているだけですよ。結城紬と言っても何かあるわけではないです」
「なんでもいいけどさ、さっさと木綿も普及してほしいもんだよね。そんでさ、俺を含めてみんなが凍えないで生活できれば、それだけで大分幸せになるってもんだよ」
「確かに寒いのは嫌ですが、そんな大層な……それに、そこまで木綿がいいと言うなら、自分で一計案じるなりしてどうにかすればいいんじゃないですか?」
八幡はハッと何かに気がついたような表情を見せる。
「……そうか、その手があった」
始めこそ未来人というアドバンテージで何でもできる気になり、夢を膨らましていたが、現実を知るなり自分の無力さを噛みしめ、すっかり自分でどうにかするという発想を欠いていたのである。
太兵衛は単純にころりと意識の変わる眼前の男に、薄ら笑いを浮かべる。
「言っておいてなんですが……そんなどうにかできるものなんですか?」
「……わからん」
「駄目ではないですか……」
太兵衛は溜息と共に肩を落とした。一方で八幡は肩や首を解す様に回してから水を飲み、口を袖で拭く。
「まぁ、地道にやっていくさ。今できるのは、木綿の有用性を説くのと、どうやったら農民たちに盛んに作ってもらえるようになるか考える、だな」
「では、その提案を上に進上せねばなりませんね。まずは」
「よし、氏治にちゃっちゃと頼んでみよう。あの雰囲気なら行けるだろ」
八幡は腕まくりして、まるで簡単な事でも言うかのように軽く言いながら今にも走り出しそうになる。太兵衛はそれを慌てて引き留めると、これまた常識知らずとでも罵りそうな表情で説明する。
「い、いや、何を言っているんですか!? 会えるわけがないでしょう! 私だって菅谷様の使いでお会いする程度なんですよ……?」
しかし、八幡は冷静に考えればそのような当たり前な事も、実際に氏治に会って肌で感じた雰囲気と会わず、感覚的な理解が追い付かない。
「え、でもいや、この前結構話したりしたんだけどなぁ。少し喧嘩っぽかったけど」
「いえ、八幡様が少々特殊で、御仏の使いであるというお話は聞いています。確かに雰囲気や考えが我々と違うので、何か特別なものをお持ちであろうとも思います。ですがね、かといって氏治様にそうそう簡単に御目通りできるものではないんですよ?」
「……そうなのか。なんか、遠目だけどそこらへん割と適当にふらついているのを見かけるんだが」
八幡はしぶしぶ納得する素振りを見せつつも、氏治との面会はやはり難しくないのではと言いたげな言葉を投げかける。
これには太兵衛も頬を引きつらせながら渋い顔で答えた。氏治の市井の声や百姓の願いを聞いて行こうという点には感心する一方で、さながら織田信長の様に少数の護衛で身軽に振る舞うやりようを案じており、複雑な心境である。
「それは、まぁ……氏治様も他家の大名とは少々風変わりな方ですから……。日頃から町や村に出かけては、直に領民と親しみある交流をするので、良く慕われているんです。その時に会うのも、あわよくば進上しようというのも確かにできなくはないですが……きちんとした提言をなさるのですから、段取りを踏んでください。そうでないと、家中にも示しがつきません」
赤松擬淵斎や江戸山城守がその身を案じて護衛を増やすように提案するも、一般的な大名の様に護衛をぞろぞろと付けて仰々しくなるのを嫌い、これで民草と心の壁ができることで直訴しにくくなるからと拒否した経緯もあり、氏治を案じる家臣団は皆同様の想いであった。
「確かになぁ……直訴で何でもまかり通っちゃ家老やら重臣やらの面目を潰すってことにも繋がるか。じゃぁ、どうすればいい?」
「幸運にも八幡様は塚原内記様とお知り合いなのですから、まずそちらを説得し、塚原様から氏治様の近習衆である由良信濃守様に取次ぎをしていただけるようにお願いしてください。私の方は父に頼んで菅谷政貞様にも口添えと面会の引立て人をお願いして参ります」
「……えらく面倒ね。手続き」
「当たり前です! それに、新参である八幡様への風当たりが強くならない様に、あくまで菅谷様が氏治様にお会いするという体裁でお時間と場を頂くのですから、きちんとした考えと準備をしていただきますからね。そうでないと菅谷様の顔に泥を塗り、延いては父への信頼にも傷がつくのですから」
「そりゃ大問題だ。大変だなぁ……だが、そうと決まれば早速帰って塚原内記殿にお時間頂けるように依頼して、待つ間に考えを纏めつつ用意を整えなきゃな!」
八幡は「そうと決まれば」というなり人をかき分けて走り出す。誰に狙われるでもない男だが、仮にも護衛対象ともあって太兵衛は見失わないように必死に追いかけるが、どうにも無駄に足の速い八幡にはとうとう追いつかず、思わず「韋駄天かっ」と愚痴を溢して唾を吐き捨てる。
そして、合流したのは結局城内であり、息を切らしながら人を訪問する際の作法を教えようとすると、既に塚原屋敷にて多少の粗相をしながらも約束を取り付けた後であった。




