愛しそこねた傷
僕の人生はまだ子供の頃に終わりを告げている。
いっそ、幕がおりてしまっていればと考えたことも一度や二度ではない。
しかし自ら決定付けるほどの絶望も覚悟もなく、子供らしく無邪気でいることも出来ずに、毎日迎える朝にその日暮らしの生を繰り返し、いつしか夢を見ることさえ無くなっていた。
世の中には僕よりも不幸せでどうしようもない人たちはたくさんいるだろう。
けれど誰だってそうだけど、比較の基準は自分であり、ごく平均的で普通の家庭を羨む人生を余儀なくされた僕は、やはり僕基準で不幸せなんだと思う。
だから、僕は誰から愛される価値も、誰かを愛する資格もない。
過度に悲観する悲劇の主人公気取りの痛いやつと一蹴されるかもしれないそんな自己認識を、けれども僕は実感として胸に感じている。
きっと、抜けない棘のように、ずっとそこに残り、僕の人生に引導を渡してくれるのだろう。
始まりは失恋だった。
過ちと言うのが正しいだろう。
正しくないことをしたがゆえの、過ち。
どんな手を使っても手に入れたい、そんな衝動を隠して関わっていた友人との一夜の過ち。
断罪されて然るべきそれの詳細を、僕は墓場まで持っていく。相手の名誉もあるが、それは語るべき話ではないから。
良くない、恋愛の結末は、僕に微かな望みを抱いたことを後悔させた。
勘違い甚だしく、今更人並みの幸せのほんの少しでも手に入れれるかもしれないと、錯覚したことを僕自身が許せなかった。
いわゆる失恋であり、十数年ぶりのそれは僕が少し安牌で無難な生活をしていることすら否定するきっかけとなった。
たくさんのひとへの迷惑や裏切りの上に立つ僕が、不幸せさを忘れて生きてはいけないのだと思い出させてくれた。
そこからの散財は僕のわずかばかりの貯蓄を空にし、何かひとつ不慮の出来事があれば明日をも分からない立場にしてくれた。
そんなことに、ほっとする自分を見つけて、心底安心した。
寂しい終わりを迎えた親や親族たちと同じところに戻れたことに、普通の人なら底辺と呼ぶべき場所に立って、涙した。
そして、失恋を埋めるように異性と関わり、愛のない関係に慣れ、人間などそんなものだと、あの辛さを虚無で上書きしていった。
そんな、何人もの人たちの中に、彼女はいた。
出会いはSNSだった。
今どきは子供たちでさえ級友と付き合うよりもSNSでの出会いが多いなんて話を見たことがあるが、それは大人もそうなのだろう。
むしろ、まとまった男女の集まりを卒業した大人たちにこそ、都合のいいツールなのは明白であり、彼女はそんななかで、既婚者でありながら、知り合いには打ち明けられない思いを持ってネットの海を彷徨っていた。
とても明るく、好奇心旺盛な彼女は、僕から見ても拙く愚かな存在だった。
若い頃の軽い考えが今の彼女を縛りつけ、知恵と財力が乏しいがために、不満な現状から脱却出来ずにいた。
僕は彼女のことをそう分析し、既婚者で子供もいる彼女に出来ることは少ないと知りながらも、それでもごく一部だけ満たすことが出来ると知った。
彼女の、人生を早まったために解消出来ない日々の不満であり悶々としたものの解消だ。
単純に、飢えていたのが彼女だ。
そして実に、僕にお似合いだと直感した。
彼女は生い立ちからして不幸せの部類だった。
きっと僕と同じか、それ以上に不幸せで、僕よりも自由があったからこそ、過ちによって人生の可能性を早々に狭めてしまった。
不確かな愛の結果に、彼女は苦しんでいた。
馬鹿ではないにしろ、知恵が足りなく、流されやすく、場当たり的な生き方の彼女は、見た目が好みなだけの男と関わり、身籠って結論を急いだ。
献身的な妻となり母親となってなお、彼女には深刻な弱点があった。
人よりも多めの、満たされない欲望。
きっと誰よりも愛に飢え、その行為を求めていたからだろう。
僕と知り合ったときの彼女は、好奇心旺盛にもそんな話をし、自ら誘ってきた。
僕は僕で、これまで出会ったことのないタイプの彼女に興味を持ち、文字と声だけの関わりの中で彼女の欲求に付き合い、何度も朝まで電話口でやり取りをしていた。
既婚者でありながら、パートナーに内緒で見知らぬ男性と妄想の中で発散する彼女と、不幸せとい秤で釣り合いを見る男。
そんな僕らが実際に出会う流れになるのは必然だったのだろう。
お互いに乗り気で、出会った時こそ不慣れにぎこちなかったものの、たどり着いた先で僕らは濃厚な時間を過ごした。
肌を重ね、体液で交わり、偽りの愛の形に溶け合った。
相性は控えめにいって最高だった。
普通なら絶対に手を出さない既婚者のはずなのに、僕は彼女の不幸せのいくらかを癒すという名目で自らを正当化した。
夜の生活に不満しかなかった彼女が夢中になるほどの時間を与えて、快楽によがり、自分自身でも知らなかった扉をいくつも開いていく様を見て、僕はこの時だけは彼女に幸せを与えることが出来るのだと、満足した。
不幸せな僕でも、不幸せな女性に一時の幸せを感じさせることができた。
お互いに求め合う夜は続き、嘘の理由で外泊をする彼女を抱いたまま、僕はその時ばかりは自分を肯定出来ていた。
ふたりの関係は、計画的に、安全に行われ、無事に別れることが出来た。
そう、無事に、その日を終えて僕らは他の誰にも悟られることなく離れ、連絡し合うだけの関係に戻れた。
けれどそれは、あくまでも“僕らは”というだけの話だった。
僕は、僕の物差しで、秤で彼女を見ていた。
だから、未婚で男の僕が抑えられるものが、既婚で女で母親である彼女にも当然抑えられるものだと思い込んでいた。
僕はあの日あの時、空を知りたがった籠の中の鳥に空の一片を教えてしまったんだ。
連絡をとり続けるだけの日々で、少し距離のある彼女とまた会いたいという思いが無かったといえば嘘になる。
けれど彼女は既婚者。
不幸せさが僕にちょうどよく、相性もいいからと、軽い気持ちで続けていれば、そのうち明るみに出るのは間違いなく、それはきっと彼女をさらに不幸せにするだろう。
僕もそんなことは望まない。
だから会うのはしばらく無いと考えていたけれど、彼女は我慢出来なかった。
僕とは別の、いつでも会える距離の男と出会い、知恵の足りない彼女らしく、男運の悪い彼女らしく、頻繁に逢瀬を重ねた末に、自らの所業がパートナーの知るところとなった。
それからの彼女は子供を愛しているにも関わらず、彼女の有責で親権を得ることも出来ずに、そのうえ元夫の言いなりの条件を飲まされたうえで独り身になった。
養育費を払わされる彼女が、間男にも逃げられて生きていくのに夜の街で働く選択を取るのもまた、必然だったのだろう。
夜の蝶として働き始めた彼女とも連絡は続いていた。
親権や養育費などの話の相談に親身になってアドバイスもしたが、彼女自身の性質も相まって、上手くはいかなかった。
彼女は快楽の代償に全てを手離さざるを得なくなった。
幸いなのは、僕はきっかけでしかなく、彼女の不貞行為は僕の後に出会った男との度重なる逢瀬だということでしかなく、僕のことを語らなかった彼女の振る舞いに助けられたことだったろう。
なんて身勝手なことか。
分かっていて、僕たちの綿密なスケジューリングによって成り立った一夜の交わりで満足出来ずに、僕以外の男との関係に溺れた彼女を、不利益を顧みずに助ける覚悟までは持てなかった。
楽しんだのは僕も同じなのに。
僕が目覚めさせた快楽の扉を、僕以外の男と楽しんだ彼女を愚かだと、自業自得だと切り捨てていた。
独善的で、偽善的で、なんと嫌悪されるべき人間だろうか、僕は。
堕ちた彼女が、それでも新しい人生を前向きに生きているのを、愛おしくも、もう無関係の他人事として捉えていた。
そんな彼女が真夜中に電話をよこしてきた時も、僕は親身に寄り添っているような声音で、けれどももう別世界の人として感じていた。
だからこそ、僕は彼女の懇願に、答えに窮したのだ。
「彼女にしてほしい」
仕事でどうしようもないほどに飲みつぶれたであろう彼女が、こらえきれずに打ち明けた胸の内を、僕は酔った上での戯言と捉えるべきか、酔っぱらった彼女の弱みにつけ込んで付き合い始めてよいのか、などと考えが渦巻いて、うやむやのままに通話は終わった。
その後素面の彼女からそんな発言が出ることもなく、いつしか夜の蝶は泡姫となり、今はもう音信不通となっている。
あの時、僕が受け入れていれば何かが変わっただろうか。
自分でお似合いだと、彼女の不幸せさを理解した僕なら救えたのだろうか。
既読のつかないSNSに、胸が締め付けられる思いがするのは、後悔か、それとも僕は恋でもしていたのだろうか。
偽りの愛に溺れた夜は、果たしてほんとにその時だけのことだったのか。
あれからもう一年になる。
重ねた唇と熱い吐息。濡れたシーツに照れる彼女。
お互いの境遇など、些細なことでしかなかったのかもしれない。
手に入れたくても諦めた、人並みの幸せらしきなにかに手が届いていたのかもしれない。
振り返って、触れることが出来なくなって、気づく。
この胸に刺さった棘が傷付けたのは果たして僕だけだったのか。
愛を知らず、恋を恐れ、幸せが分不相応だと自覚して思い込むばかりの独善的な男にはもう、その傷を確かめることも出来ない。
少し長くなりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
つらつらと書いた文章がフィクションかノンフィクションかは読まれた方の判断にお任せします。
たまーにこういった作品を書いたりもしますが、メインはお気楽なファンタジーものだったりしますので、良かったら他の短編含めて読んでくださると嬉しいです。
ではまた別の作品でお会いしましょう。




