選んだ道は
レオナの歪んだ笑顔が、とても醜いものに見えた。
「今なんて?」
「だから、ルシアン様はゴードン伯爵の血を引いていない子供なのよ」
「そんな馬鹿な」
幼馴染として育ったレオナが俺を訪ねてきたのは、仕事が終わった後だった。寄宿舎に戻ろうとしたときに声をかけてきた。隣の領地に住む彼女が王都に来ているのも驚いた。俺が12歳で王都に出てきたときから、かれこれ8年ぶりだ。
王都に出てきたから知人に会いたいと思うのも不思議はないので、誘われるまま食事をすることになった。もちろん、二人でいるとあることないこと噂が立つので、開かれた場所を選んだ。ある程度のこみ入った話は周りに聞こえないようになっているのでよく利用する店だ。この店を選べば、誤解をする人間は少ない。
席につけば、レオナはすぐさま用件を切り出した。それが先ほどの言葉だ。
「信じられないのは仕方がないと思うわ。でもほら、これが証拠よ」
そう言って見せられたのは、一冊の日記。
恐ろしい物を見るようにその日記を睨んでいたが、腹に力を入れてページをめくった。
見慣れた母の筆跡が目に飛び込んでくる。
それは数年前に亡くなった母の苦しい恋を綴ったものだった。
相手は当然、父親ではない。
「一番最後のページを読んで」
何も考えられず、ただただページをめくる。ざっと拾い読みしながら、母の感情の変化に気がついた。先程の苦しさが嘘のように舞い上がっている。そして最後に恐ろしい言葉が書かれていた。
生まれた子供はわたくしに似ていた。
だから、このままで――。
その言葉が何を示すのか、この流れでわからないわけがない。ありえないという気持ちと、もしかしたらという気持ちで体が震えた。
5つ年上の兄は確かに父親によく似た風貌をしていた。自分は母親によく似ていて、父親に似ているところがほとんどない。それは事実だ。だが誰も気にしたことはなかったし、母を愛していた父親は母親似の自分をとても可愛がってくれた。母に似て得をしたな、と兄もいつだって笑っていた。
母は家族を大切にしていて、父親にも愛情をもって接していた。母に愛人がいたとは聞いたことはない。
「これだけで信用するわけにはいかない」
「信用してくれなくてもいいわよ。高く買ってくれそうな人に売るだけだから」
売る、と言われて血の気が引いた。事実でなくても、いくらでも捏造できる。噂などすべてが真実でなくてもいいのだ。
「貴方が誰の子かなんて、わたしにとって関係ないの。わたしの望みをかなえてくれるのなら黙っているわ」
「金か」
「ふふ、わたしのお母さまはお金をもらっていたみたいね。でも、わたしの望みはちょっと違うわ」
レオナは可愛らしく首を傾げた。無言で先を促せば、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「わたし、貴族になりたいの。ルシアン様と結婚したいわ」
「……無理だ」
「もちろん婚約者がいるのは知っているわ。だから婚約破棄して? 愛人の子だとばらされるよりはよっぽどいいでしょう?」
怒りと諦めと憎しみがごちゃ混ぜになって、吹き荒れた。
すでに母親も死んでしまっている。
相手の男性も分からない。
唯一知っていたと思われるレオナの母親も昨年病気で亡くなった。
とぼけることは可能だが、その日記がある限りいくらでも話は作れる。人の足を引っ張る話は社交界では面白おかしく幾らでも囁かれるだろう。レオナが先ほど脅したように売るというのはとてもいい圧力だ。
「わたしね、お母さまが亡くなってしまったから、来年には家を出ないといけないの。ずっと貴族として暮らしてきたのに、突然平民になれなんてひどいと思わない?」
レオナは俺が反応しないのをいいことに、ぺらぺらと上機嫌に話し始める。
「お母さまが生きていた頃、ルシアン様のお母さまからお金を受け取っていたのを見たのよね。それを思い出してお母さまの荷物を探していたら、出てきたの」
「この日記を渡してほしい」
「わたしと結婚した後にね」
レオナは俺の手から日記を取り上げた。彼女は立ち上がる。
「あまり待たせないでね。婚約者がいるから難しいのはわかっているけど、長く待つのは嫌だわ」
レオナが去った後も、いつまでも動けずにいた。
******
何度も何度も考えた。
父親と兄に相談しようとも思ったが、何も知らない二人に母のことを告げるのは躊躇われた。今はまだ動けているが、最近体が弱ってきた父に母の愛人について聞くことも二の足を踏む理由だ。
この国の貴族は愛人を囲うこともある。もちろん男女ともにだが、嫁いだ女性が他の男の子供を産んだ場合、離縁して出て行くのが通例だ。婚家とは全く血のつながりのない子供になるのだから、当然と言えば当然だ。離縁にならなくとも、生んだ子供を大抵は手放す。
もし本当に俺が父の血を引いていない子供だとすると、母は父を騙していたことになる。
このまま知らないふりをしてクローディアと結婚してしまおうとも思った。
だが、その後、母が父を騙して、愛人の子を育てさせたと言い広められたらどうなる。
母の名誉も傷つき、ゴードン伯爵家も傷を負う。表に出てしまえば、王家を謀ったことにならないか。俺とクローディアが婚約した時、まだ母は生きていた。血のつながりを求められての婚約であることは知っていたはずだ。
クローディアも醜聞にまみれるだろう。そのまま婚姻を続けることは難しい。俺がゴードン伯爵の血筋ではないのだから、当然離婚することになる。離婚した後、クローディアが幸せな再婚ができるとは思えなかった。
頭がおかしくなるほど、考えた。
レオナに金を渡すことも考えたが、あの女の目的は貴族であり続けることだ。金もすぐに尽きてしまう。それに騎士が平民よりもはるかに高い給料であっても、限界はある。金で解決できることはなさそうだ。
どうすべきか、まったく決められず時間だけがずるずると過ぎていく。
レオナに呼び出されるが、なるべく接点を持ちたくなくて断った。断られるとレオナは日記をちらつかせてくる。質の悪いことに、ゴードン伯爵様に伝えてもいいのよ、なんて言い出すものだから応じないわけにはいかなくなった。
嫌々ながら会っているうちに、婚約者を紹介しろと言われてクローディアと引き合わせた。その時クローディアはレオナの思いなど気がつかず、もしよかったら誰かいい人を紹介しようかとさえ申し出てくれた。
そんな善意を与えられていい人間じゃない。
日に日にレオナに対する殺意が芽生える。
なかなか婚約破棄をしない俺に焦れているのか、当てつけのように俺を呼び出した。王命で整った婚約が簡単に覆るわけがないと言っても、何とかしろと圧力をかけてくる。
愛を囁くような逢瀬ではなくても俺とレオナのことはすぐに噂となって広まった。その噂を聞いたクローディアが不安そうに二人で出かけるのをやめてほしいと言ってきた。それを何とか誤魔化し、宥める。
そのうちにクローディアと顔を合わせるのも辛くなってきて、仕事で忙しいと断るようになった。レオナをどうにかしたいが、何の手立ても見つからない。
「お前、どうかしているぞ」
そう注意してきたのは同僚の騎士だ。仕事中であったが、二人になった時、同僚は苦渋の表情で俺に話しかけた。彼は騎士の見習いで彼女の弟であるスティーブを可愛がっていたから、他の人よりも色々知っているのかもしれない。
「そうだろうな」
「政略結婚が決まっていると浮ついた恋が眩しく思えると思うが、よく考えろ。今はよくても先は真っ暗だぞ。今なら間に合う。早めに幼馴染という女と手を切れ」
「……恋しているように見えるか?」
「恋に狂っているように見えるよ」
その言葉に思わず口の端が持ち上がった。
恋に狂った男。
これは使える。
天から示された道のように思えた。
クローディアの悲痛な訴えを無視し、会いたいという願いを断る。
レオナには誘われるまま一緒に出掛けた。前とは違い、できる限り恋人のように振舞った。なるべく恋に狂っているように見えるように。その後ろにあるものを気がつかれないように。
侯爵家から注意を受けない程度にレオナと付き合いながら3カ月経ったとき、レオナを夜会にエスコートした。
彼女は貴族令嬢として暮らしながら、令嬢としての教育は受けていない。王族主催の夜会に婚約者以外の女をエスコートすることによって、どうなるか理解していない。
俺もレオナも貴族社会から間違いなく弾かれる。ゴードン伯爵家は恋に狂ったどうしようもない息子を持ったと嗤われるが、俺を切り捨てる理由が手に入る。今後、俺がゴードン伯爵の血を継いでいなかったと表沙汰になってもすでに貴族ではない息子だ。噂になってもすぐに収まるだろう。
現実に気がつかない女を気の毒に思いながらも、この女の望みを砕くことに暗い喜びを感じていた。
はしゃぐレオナを宥めながら、夜会会場についた。
これが止めになってくれることを祈って。
願った通り、この行動と体調を崩したクローディアの見舞いにも行かなかったことが決定的になり、婚約破棄になった。
慌てて領地から父親と兄はやってきた。気がつかれないように注意していたから、彼らにとっては寝耳に水のはずだ。
淡々と事情を説明すれば、二人は信じられないものを見るような目で俺を見ている。
「何が、どうして」
言葉にならないのか、父親は呻いた。兄はもっと苛烈だった。俺の胸ぐらをつかむと、目と目を強引に合わせられた。
「理由を説明しろ」
「恋に狂っただけだ」
「違うだろう?! あのクソ女はお前に一体何をしたんだ?」
「クソ女?」
クソ女、という乱暴な言葉に目を丸くした。模範的な貴族である兄が使う言葉ではない。
「お前はずっと王都で暮らしているから知らなかったのかもしれないが、領地では有名な阿婆擦れだ。誑し込んだ男から金品を巻き上げ、婚姻間近の恋人の関係を壊す」
「そうだったのか。でも、俺は何もされていない。頭が彼女のことでいっぱいになってしまっただけだ」
唇の端を少しだけ引き上げて笑って見せた。
「ルシアン」
俺が話さないと理解したのか、兄の手が緩んだ。胸を圧迫する力は消えても、胸を押しつぶそうとする塊はなくならない。
「兄上、こんなことになって、すまない」
今日を最後に、兄上と呼ぶことはできないだろう。これからの未来を思い、ほっとする気持ちと、空しい気持ちがないまぜになる。
ずっと黙っていた父がじっと俺の目を見た。
「……ルシアン。事情をどうしても話せないのか?」
「愚かな恋をした男だと切り捨ててください」
きっぱりと言えば、父はため息をついた。
クローディアとの婚約破棄の後、俺はゴードン伯爵家と縁を切った。騎士団を辞め、辺境の一般兵として入ることになる。
父親は責任を取って、家督を兄に譲った。
「どういうことなの? ルシアン様は子爵になるんじゃなかったの?!」
怒鳴りこんできたのは、レオナだった。誰が寄宿舎に通したのか。今回のことで、色々な方面から嫌悪されているから、嫌がらせで通したのかもしれない。彼女を一瞥した後、荷造りを続ける。
「どうして子爵になると思っていたんだ?」
「だって、結婚したら近衛騎士になって子爵を賜るって」
「その身分はクローディアとの結婚が条件だ」
誰もが知っていることを言えば、レオナが絶句した。
「え?」
「元々、王族が決めた結婚だ。それがなくなれば、与えられるわけがない」
「そんな、じゃあ、わたしは?」
レオナは茫然として呟く。
「さあ? 好きにしたらいい」
「今回のことで、マッコード伯爵家から追い出されてしまったの。お金も持っていないのに」
「それは気の毒に。早めに王都から出て行った方がいい」
聞いているのか聞いていないのか、レオナはそのままふらりと出て行った。思った通りの未来がつかめず、茫然自失といったところか。我に返って、縋りつかれる前に俺は部屋を出ることにした。
荷物を持ち、部屋を振り返る。
何年も過ごしていたのに、今は何もない。がらんとした部屋は何も持たない俺のようだった。
兄上はマメなことに、辺境にいる俺宛に定期的に手紙を送ってきた。縁を切ったのだから手紙を送るなと何度か書いたが、気にすることなく送ってくる。俺は早々に兄の手紙を止めることを諦めた。
今では兄の手紙は知りたいことがいつも書かれていて、唯一の楽しみだ。
送られてくる手紙の中で、レオナのことも知ることができた。
愚かなレオナは母の日記をゴードン伯爵家に持ち込んだらしい。兄の手紙からそのことを知った。細かな説明は何もなく、「母上の日記が手に入った」とだけ書かれていた。その一言で、レオナがどういう行動をしたのかわかる。
弱みを握っていると思っていたから警戒心なくゴードン伯爵家に行ったのだと思う。
兄からはレオナについて何も書かれていなかったが、彼女がいい最期を迎えられたとは思えない。生きていてもきっと死んだ方がましな状態であることは容易に想像ができた。
時々、目が覚めるような驚く内容が綴られてくるが、概ね領地のことや寝込んでいる父のことが書かれていた。その細い繋がりが、家族の温かさを感じさせた。血が繋がっていなくても、確かに家族として愛されていたのだと。
「ルシアン、手紙だ」
食堂で昼を食べていると、一緒に仕事をしている仲間に手紙を渡された。
「ありがとう」
「今すぐ読んでもいいが、時間を忘れるなよ」
俺が手紙を読み始めると時間を忘れることを知っている彼はそんな忠告を残して次の手紙を配りに行った。
空になったトレイを脇に寄せ、手紙の封を切る。広げれば、いつもの兄の生真面目な文字が目に飛び込んだ。
じっくりとその手紙を読んで、俺は息を吐いた。今回はクローディアのことについて書かれていた。
クローディアは無事に結婚し、第一子を出産したそうだ。
もうあれから3年が経つ。
自分が手に入れるはずだった幸せが眩しくて目を細める。
色々な思いが沸き起こるが、それはすべて失ったものだ。
彼女が幸せになれたのならよかった。
「おーい、ルシアン。そろそろ交代の時間だぞ」
遠くから同僚が時間を知らせる。
手紙をポケットにねじ込み立ち上がる。
今の生活に戻っていった。
Fin.
最後までお付き合いありがとうございました。
予想以上に読んでいただけでとても嬉しかったです。
誤字脱字の報告もありがとうございました。とても助かります。




