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本形の滝

いつも感謝です。

とても、感謝です。


 誰かに布かれたレールを走っている。

 抗っていたつもりなのに。

 否、それさえも手のうちなのか。

 それでも、それでも!










 余り明るくない照明の下だからか、壁に掛けられた各種時計や、棚の薬瓶、魔法具の数々が濃い影を落としている。さっきまでそれがレイルの好奇心を掻き立てるモノだったのに、今は異様にさえ感じられる。それは主人の浮かべる笑みにもそう感じてしまい、お茶を口にした寛ぎ気分は吹っ飛んでいた。





 マスターは何か言いたげにしたが、レイルの質問に答えず、

「何を言っても信じられないだろうから、いいやー」

 明るくそう言って立ち上がる。

 出来れば納得する答えをくれて、ゆっくりココで休ませてくれる、そんな展開を期待していたレイルはドップリと疲れを感じた。

「さてレイル、ボクは今から神殿に行く事にしたいんだけど。付いてくるー? 来たくなければ店前で別れようねー」

 熱と頭痛に悩まされ、信じられないほどレイルはクタクタだった。だが、シャードのマスターが信用できない今、ココを出してもらえるなら出た方が良い。閉じ込められたら手も足も出なくなる。

「ちょっと待っててね、消して行こうかなー」

 それが分かっているのだろう、レイルの返事も聞かず、髭を撫でながら店仕舞いの用意を始めた。伝票などをしまい、ディスプレー用の電気はつけて、室内は暗くして、と、慌ただしくしている。

「じゃ、行こうか?」

 室内の用意はできたようだが、レイルはなかなか立ち上がれなかった。ぼんやりと闇に浮き沈んだ商品の陰影に目をやりながら、何とか腰を上げる。



「で、どうするんだい?」

「あ、うん、公園とか広場とか、どこかに座って連れを待ちます」

「そうかーでもそれなら、やはり一緒に神殿に来ないかい? 治安は良い方だけど、もう暗くなるし。それでも誰も来なかったら宿を借りてあげるよ。ボクの所じゃあ休めないんだろう?」

「あ、その」

「お金の心配はいらないよ。後からメアリさんにちゃんと請求するからね。そこに一晩泊まって様子を見たらどうだい?」

 小柄なレイルが一人宿に行っても部屋は貸してくれないだろう。もっと田舎に行けばそうでもないだろうが、瞳の色もあるし気味悪がって、最後には警察沙汰になるかもしれない。魔道士は見つかるかもしれないが、騒ぎを大きくしていいのか、見当がつかなかった。

 自分があまり良く思われていない、警戒されていると知りつつも、気を回してくれるシャードのマスター。体調もこのままで回復するとは思えなかった。そんな今、これ以上無碍にするのは得策ではないと思い、

「その時はお願いします」

「良い子だねー良い子だね。あーいるいる。ほら、そこの神殿だよー」



 そこには幾つかの小神殿があって、その一つへと人々は足を運んでいた。

 その時、もう藍に近い水色の空に盛大な拍手が巻き起こる。マスターが指差した神殿からの熱狂的な声に誘われて向かった先には、一際小さな神殿があった。

 レイルは神聖な場所に入るという事で身なりが綺麗か確かめてから、低めの石扉を抜けて中に入る。

 そこでは黒いケープを身に纏った神官が祭壇の上で話を説いていた。もう拍手は消え、静かな、それでいて透明感のある雰囲気が漂う。

「……申している通り、世界は悲しみで満ちています。努力しても報われない、優しくしても受け入れられない。これが現実です」

 その神官は弱肉強食を語りながら、何て悲しい目をするのだろうとレイルは思った。

 漆黒のケープ、その中に着た白きローブが尚更に映える。その首には特徴的な形をした十字架が、ちらりと見え隠れしていた。レイルはどこかでそれを『知っている』気がしながら、話に耳を傾けた。

「神に仕える者として嘘は付けません。ですから私は貴方達の総てがわかるとは言ってあげられません。神とは違い、私達神官は全知全能ではなく、ただ神託を預かるだけの者。所詮は他人、貴方達を理解など出来ません」

 そう言い放つ神官の見た目の年は、四十に足が掛からないぐらいか。

 温和な微笑みを湛えている彼の、低いが若々しい声は不思議と耳に残る。ただレイルにはそれを耳で聞く事は出来なかったが、彼の言葉は魔法にも似た力のこもった優しい文字となった。

 偽善ぶって『わかる』と言われるより心地好い。それにわかってやれないと言いながら、誰より心の傷の痛みを感じているとレイルには思えた。

 時にそれが見えぬ者もいるが、彼の話術はそんなヒトをも巻き込んで、まっすぐ道を指し示す。



「私は現実を戦う貴方達の加勢はできません。ですが、総ての結界内に幸せと平和が育まれる事を祈念する天使が、ココにいる事を忘れないで下さい。そして今、祈っているだけでは何にもならないと思ったソコの貴方! その通りです!」

 何を言い出すのだろう、レイルは口を読み間違えたのかと少々驚いた。祈りを捧げる、神官がすべき大切な事だ。それをやっている本人が「何もならない」、そんな事を口にしていいのだろうか?

 さらにその神官は続けた。

「神殿は大いなる自然を敬い、先祖の霊を弔うとき、ついつい来るぐらいで良いのです。そして普段、それに関しては専門家の私達が居ます。貴方達が心を砕く時間がない時は任せて下さればいい。もしこうやって神殿に来たり、私の話を聞いて下さるなら、平和惚けして祈ってばかりいる私を眺めて、俺はああなりたくない。自分の道を切り開くぞと思って下されば嬉しいのです。私を杖に、私を盾にして進んで下さい」

 暗い顔をしていた参列者から笑いが漏れた。

「ただ皆さん。個人は誰かに支えられて成り立つものだと言う事だけは忘れないで下さい。私は貴方が杖として、盾として必要とするなら、それを支え、幸を祈り、安らかなる……」

 レイルは椅子に腰掛けると言葉の波にウトウトし始めた。

 半開きになった瞳に映る神官の体からは、今までに見た事のないほどの輝く『光』の文字が溢れていた。暗き心が作る黒き文字が見れるなら、その時レイルに見えていたのは、神官の心から発される『光』だった。

 しかし彼に判別する間はない。眠りが深く彼を引き込む。祠で寝てしまって、迂闊にもファーラの兄を名乗る男に掴まって、酷い目にあったと言うのに。

 訪れるのは眠り。深い眠り。










 睡魔から開放された時、耳に入って来たのは、低いが威圧感のないとても柔らかい声であった。

「起きたようですね」

「起きちゃったー? もう少しかかるよ」

 続けて響くシャードのマスターの声に、何だろうと思った。

 黒いケープの内に着た純白の聖衣に包まれた温かい腕に、レイルは眠っていた。

 優しくほほ笑む先程の神官。

 見上げると、黒縞瑪瑙の嵌め込まれた十字架がキラリと揺れていた。蓮の花を銀で編み上げ透かし十字に成型した中心に輝く黒は、白にはえて見事である。まるでそこにいるのが当たり前のように彼の胸で存在を放つ。

 これ……さっき見た時もどこかで『知っている』と思った。レイルは膨大過ぎる記憶を手繰り寄せ、ハッとする。

「父さんが作ったんです、それ。ココに奉納舞の来た時に控えの神殿で赤ん坊に祝福を授けていたのも」

「はい、私です。とても疲れていたようでしたので、少し魔法をかけさせていただきました。調子はどうですか?」

 そう言って声を掛けながら、そっとレイルの体を起こした。



「あれ? 頭が痛くない」

 体が随分軽く、頭の痛みが感じられない。そしていつもの癖で手を耳にやり、同時にそこにあるべきものがないのに気付く。

「耳栓!」

 声が直で聞こえている事にやっと気付き、レイルは慌てる。

「ごめん、預かってるよ。だいぶ調整が狂ってるからちょっと待ってねー」

 レイルはその声で周りを見回し、マスターの姿を目に入れた。

 彼はレイルの耳を塞ぐ部分を分解して組み上げている。だがレイルがいつぞや時計にやったようにドライバーなどを使っているわけではない。

 フワフワと宙に舞う極細の部品。それがカチリカチリと勝手に組み合わさる。目に見えないほどの糸状のネジがキリキリと回る。勝手ではなくそれはマスターの魔法だった。

 その状態を見て、レイルは少しだけ事情を飲み込んだ。

「もしかして、俺の時計や浮遊靴を用意してくれたのって……」

「魔道士長から頼まれてね。君専用の品を集めて、お買い上げいただいてるんだよー」

 ならば、レイルが魔法を使えなくなっているのを知っていて当然だ。



「修理もボクがやるんだよ。あんまりだったから寝てるうちに触ってしまって済まないねー。ほら、出来た」

「マスター、魔法具の制作ができるんですか!」

「基本、修理と改良だね、一から作るのはあまりしないよ」

 戻してもらった鎖に指輪が二つある事を確認して耳に入れる。

 レイルは違和感を覚える、だがいい方の違和感だ。今まで耳に入れると気圧が変わったような僅かな不快感があったのだが、それを感じなくなっていた。

「どう?」

「すごく良いです。ありがとうございます。ならさっき説明してくれれば……」

「うーん、そうも思ったけど」

 もしレイルが付いて行かなかったらどうするつもりだったのだろう? それを考えてはいなかったのだろうか、マスターは髭面に憎めない微笑を浮かべると、

「ディープを掴まえた後の方が良いかと思って。掴まらなかったら宿は借りてあげるつもりだったよ」

「ディープ?」



 茶色に白髪が混ざりかけた神官が名乗りかけた時、近くの扉がノックされて開く。

「皆さん、治療が終わりました。それからお部屋の用意もできましたよぉ、司祭」

「サーシャ神官、ありがとう、滝の方は?」

 他にも何人かの女の神官達が、彼を待っているようだった。レイルから離れると、彼女達に小声で何か言った。本来なら彼が熟さなければならないだろう仕事を頼んでいるようだった。

「え、あ、はぁーい。失礼します」

「失礼いたします、司祭様」

「司祭、今度は、ちゃんとお願いしますよ」

 神官の楚々としたイメージより、町の娘と同じ明るい感じで彼女らは行ってしまう。彼もヒラヒラと手を振って、まるで緊張感のない感じだ。

 ただレイルはその時、彼が何と呼ばれていたかを反復する。

「司祭?」

「はい」

 柔らかそうな茶色のくせ毛に白髪が混じりかけた神官は、返事をしながら黒いケープと十字架を揺らして振り返る。

「私が現在の上界神殿最高司祭、ディープ・メイルラ・ファース、です。サウルカート・シャードは私の盟友。ちなみにファリア・ルーシートーン・ルーク・ファースの伯父です」

 そこでレイルはやっと自分が会いに来た目的の天使が目の前にいるのだと知った。

 彼がファリアの伯父であると偽証していなければではあるが、流石に上界神殿最高司祭を名乗りながらそんな嘘はつかないだろう、そう思った。

「司祭様ってもっと年寄りで怖い感じかと思った、です」

「確かに貫禄ないですけどね」

「そんな意味じゃなくって」

「いいんだよーディープは歴代、一番若い最高司祭なんだよ。今までの最高司祭は百は越えて就任していたから、年寄り職のイメージが強いし」

 レイルの弁解、それに司祭が何か言う前に、マスターがそう突っ込んだ。

「だって他にいる現在の最高司祭二人は、彼の三倍は年を食っているんだよー」

「そうなんですか」



 司祭は各神殿を預かる神官長と神殿長をまとめた上、祭事を司る役目を果たす。それの頭に「最高」がつくならばもっと偉そうな感じにしていて問題ないように思えた。だがディープはとても謙虚な、そして小さな神殿で話を説いていた所からして、気さくな印象をレイルに与えた。

「年の話はもういいよ、サウルカート」

「俺……私はレイル・グリーンと言います。ディープ司祭様」

 名前ぐらい知っているだろうと思いながらも、レイルはきちんと礼を取って頭を下げた。ディープはその礼を当たり前として受けるだけではなく、優しく微笑んだ。

「『降り注ぐ神の光』。精霊界の神名レイ・ルーから取ったのでしょうね。よい名前です。私の事はディープ、と呼び捨てで構いません。言葉も気を使わないで。長い付き合いになるでしょうから」

「長い、付き合い?」

「紫水晶瞳……が、私と貴方を引き合わせる事でしょう」

 どんな最上級の紫水晶よりも、見事なその色を見て、司祭は時が刻まれたのを感じた。

「貴方の瞳は赤子だった時と変わらず、まっすぐですね」

 レイルを見る彼は、紅玉にも緑玉にも見える金緑玉瞳アレキサンドライトアイズをしていた。レイルの深い紫を見ても全く揺れる事なく、先程と余り変わらぬ音調で低くそれでいて綺麗な文字を放つ。



 それに見とれながらもレイルはあたりを見回した。

「司祭様、マスター、ココは何処ですか?」

 レイルは眠っている間に居場所を移されていた。

 見上げた天井は六角形の水晶板を隙間なく繋いでいる。その上に水を張り、空から降り注ぐ光が透明な六角形の影と波紋の影を床に投影するようになっていた。

 ただもう日の光は沈んでいる為、ちょうど蝋燭を模した様な揺らめく灯りに染められて、ゆらりとした炎に照らされた不思議な空間を作り上げていた。

「ルネ・ファースの本神殿です。さっきの所は閉めてしまったので、こっちに」

「本神殿!」

 本神殿はいつも一般に開放されているわけではない、それを知っていたレイルは驚いた。

「ごめんなさい、司祭様」

 立上がり、先程よりも心を込めて金髪頭を下げるのを忘れなかった。動きに合わせてさらりと揺れる陽光を集めて作った金の髪色に、

「本当に、見事にお父さん譲りだね」

 と、そう言い、本神殿に入る事に何の問題もないから安心するように付け加えた。

 ディープはレイルが生まれた時から知っていた。こうしてレイルが意識した状態で会う事は初めてだったが。

 レイルは一度口をつぐみ、少し考えあぐねた様子でそっと質問を口にした。



「あの、ファリアと、シラー、魔道士長は? 何か消息は……」

「少し前に辿り着きました。皆、生きてますよ」

 無事、とは表現しがたいのだろう、司祭はそう言って、少し休ませてやってほしいとレイルに付け加えた。それでも皆、死んではいなかった、その事だけがレイルを救った。

「それはわかりました。で、早速なんですが、わかるんですか?」

 レイルは期待を込めた目でディープを見た。

「貴方の体調を元に戻すためにも、これから譜を起動させる位の魔法が戻るか、鑑定してって事でしたよね?」

 魔道士達を盾に、ココに来た理由はそれだ。天使界最高の「鑑定」能力でそれを見てもらうのだ。

 レイルはしっかり深く頷いた。

「そうですね。魔法巡回系がダメになってます。誰かから膨大な何かを注ぎ込まれたような、オーバーロード状態で回路が焼き切れているのです。どなたかから、何か攻撃を受けたとかありますか?」

「いや、無いけれど」

「じゃあ魔法が使えないと意識したその前に何か変わった事をしませんでしたか」

「あ」

 レイルには思いあたる節があった。

 魔法を失くした五年前、死に逝こうとするファーラを留める為に力を使った。その時に必要な体の「地図」を銀天使のルナに叩きこまれた。

「夜にすごくたくさんのデータを受け取って、朝にヘロヘロになりながら飛んで以降、飛べなくなりました。魔法具も殆ど使えなくなって」

「なるほど、もしかして銀様?」

「え?」

「銀色の天使ですね、痕跡が。あの方も無茶苦茶しますね、それを受けて回路が切れるくらいでよかった。貴方のキャパが大きいので何とかなりましたが、私だったら頭の針が振り切れて廃人になっていたのではないかと思いますよ?」

 レイルは驚いた。自分の体を切り売るようにルナはファーラを助けたが、それをやっていた自分も綱渡りな事をやっていたと今更突きつけられて笑ってしまった。

 ファーラの為なら命は惜しくないと思うが、少々血の気が引く話だ。



「頭痛と熱は貴方がそんな回路のまま、発情期に入ったせいですね」

「それって」

「成長したって事ですよ。今までなんともなかったのにも驚きですが、ホルモンバランスが変わって、色々と体に変化が起こってるんでしょう」

 レイルは顔が赤くなった。

 頭痛が始まったその日、目の前にいたソネットに目を奪われた事。見るとも無しに走らせてしまう自分の目線を、嫌になりながらもつい背けきれなかったのを。

 マスターが無言で笑ったので、レイルは余計に恥ずかしさを覚える。

「一時的に癒しの魔法をかけていますが、これを治すには本形の滝に入ってもらった方が良いですね」

 司祭はレイルの紫水晶から視線を外す。疲れを示して金緑玉色の瞳を閉じて指で押さえ、

「でも根本的な『鑑定』が利きません。天使界最強と言われる私の力を跳ね返す強さ、かわってませんね。恐ろしいほど強固な鍵……」

「どういうことですか?」

「貴方が魔法が使えた頃、紋章士の特級所持者のように手を硬質化させていますね。そして魔法などを構成する文字が読める。普通なら私は貴方がそれを使ったと聞かずとも見える。それが鑑定の能力。しかしソレが見えないのです。『本形の滝』は真実を明らかにし、清浄化する場所。そこに入れば体は正常な状態に戻るでしょう。ただ、今まで私の力を跳ねのけている鍵を破壊すると思います。それによって何が起きるか、見当がつかない面もあります。それに何か別の魔法の影を感じるのですが」

 レイルは首を傾げ、

「俺ココに来る途中で変なヒトに変な魔法をかけられました、変な影ってそれじゃないかなっと」

 変なヒト、それはファーラの兄の事を指している。

「手を出してもらえる?」

 レイルが言われた通りにそうすると、司祭は脈診するかのように手を取った。

「条件はわかりませんが確かに貴方を支配する魔法がかけられていますね。これはかなり深い形で刻み込まれましたね。でも条件式なので、滝に入る事が条件でなければ何も起動しないかと思います」



「その滝に入るか入らないかは、俺に選択権はあるの?」



 レイルは冷静にそう口にした。

 ココに来るまでの妨害を考えたら、ただ体調を治すため、僅かな魔法が使える体を取り戻す為だけに払われるにしては犠牲が大きすぎた。その犠牲もレイルが目にしたのは、ほんの一部ではないかと思う。

 たぶん、そうでもして紫水晶瞳の裏に何の力が眠っているか、知りたいと思う者達が上層に居ると言う事だろう。

「すみません。確かに裏でいろんな意図が引かれてます。でもこのままではいつまでも誤魔化せず、頭痛も発熱もひどくなり、身動きも取れなくなります」

 ふっとレイルは息を吐きだした。

「俺は、まだ死にたくないんです。だから、行きます。その滝は何処にあるのですか?」

「来て下さい。皆様がお待ちです」

 レイルはもう一度、息を吐きだした。自分で歩いているように見えて、自分が誰かに良いように転がされている気がして。

 司祭とマスターは物わかりのいい様子を見ながら顔を顰めるしかなかった。











『それによって何が起きるか、見当がつかない』司祭が言った台詞にレイルは一抹の不安を覚えた。鑑定の力を跳ねのける程、強固な鍵を壊して出てくるのが紫の瞳を持ったかつての魔王、サタンの力であったら。

「やっぱり心臓に悪いよ」

 今、レイルは自分自身に命令して呼吸していた。吸って、吐いて、また吸って……意識しなければ緊張によって、普通は自然に繰り返す命のリズムが止まりそうだ。

 覚悟は決まっているはずなのに。



 レイルには『本形の滝』と呼ばれる場所に入ることになった。

 その滝はルネ・ファース神殿の地下から、別空間に出て存在するという。

 滝は体に『眠るもの』を一時的に開放し、体の状態を元に戻せると言う話だった。

 言うのはたやすいが、手違いで暴走したら取り返しがつかないので、今まで政府は護衛を付けるのみで開発には消極的だった。だが彼が知らない事情が、裏では動いているようだ。



 レイルは心の内で『利用されるのはあんまり好きじゃないんだけど、な』と呟きつつ、岩をくりぬいた堅牢な神殿の地下の一室で着替えた。

「着替えましたか?」

「いけるよ」

「では行きましょう」

 レイルは導かれるままに中庭に出た。

 シャードのマスターは入れないらしく、『ボクは神官じゃないけれど、無事を祈りながら待っているよ』と言い、その場に残った。



 レイルの住む場所では春先だと言うのに、ここは初夏の若葉で賑わっている。それもここは地下から来た場所なのだから、そこに太陽のような光に照らされているのも不思議だった。それも地上は真っ暗である時間なのに。

 ロの形に作られた建物は高く聳えていたので、監獄のように無気質だ。物見遊山ではないと言う、彼の心理状況も影響していたが。

「地下なのに。太陽がある」

「天使界の太陽や月と同じ造りですよ。ここは雨も降れば雪も降ります。もう別空間に入っているんですよ」

「へえ」

 何もせず、自然に任せて恵まれた惑星もある。

 しかし天使界の太陽は、作為的に創作された空間である。本形の滝がある場所も、同じ原理を利用して作られた空間だ。

「時空を開くのは難しいらしく、現在その方法は残ってませんけども」

「地下って考えると変な感じだなぁ」

 新鮮な朝露を受けた地面から立ち上ぼる、柔らかい自然の香り。中心に植えられた老木に、リスに似た動物が駆け回る。その姿にレイルは心を和ませた。微妙に笑いながら彼はどうしても言わねばならないと考え続けた台詞を口にした。

「もし俺がサタンの力を持っていて……それかもし俺に掛けられた魔法が……誰かを殺す様なことがあるなら、ディープ司祭様は俺を止めてくれますか?」

 ディープはその言葉に顔を歪めた。彼の言う所の止めるは「死」をも含まれているのを司祭は見逃さなかった。

「司祭様もそんな役イヤだろうけど」

「わかっているなら。格好つけて綺麗事は言わないで下さい。それは誰よりも生きていたいって宣言しているだけですよ」

「当たり前、俺は生きていたいから」

 レイルはピシャッと姿勢を延ばす。そして紫水晶瞳が何一つとして見落とす事がないように輝いた時、ディープは自分の鑑定の力が反応し視たモノに息を飲んだ。

「まさか、もしや……」

 しかしディープの思考を遮るように、

「ディープ司祭、総ての方がお揃いです。始めてほしいと。お早くこちらへ」

 二人を呼びに現れた神官は滝への道へと導いた。



 滝は野外ではなく建物の中であった。レイル達が長い廊下を抜けて、そこにたどり着いた時、室内はざわめいていた。身なりを見るだけで部屋にいる人達がかなりの権力者だと幼くとも分かる。それだけの天使をいつ来るかわからないレイルの為にそこで待たせていたのだろうか?

 ほんの一瞬、レイルに死への恐怖が急に湧き上がる。自分が言い出さなくとも、レイルから何らかの力が暴走したなら、殺す手筈も整えている事は容易に想像が付く。

 部屋の天井の高さは二、三十メートルを軽く越す。その大きさ、出入口の多さは並ではない。天井はステンドグラスで、幾つか開いた天窓から風が吹き下ろしてくる。

 その広間の中心に水柱があった。天井からどこからともなく真っすぐ落ちてくる。

 水柱…『本形の滝』と名付けられた滝の水が、どこから現れているかは不明である。落ちた水は四方八方に掘られた溝に沿って、部屋の端まで流れていく。



「この『滝』が使われるのは数百年ぶりと聞きましたが、本当ですか?」

「そうです、こんな仰々しいもの誰が開発したのやら」

「何時の時代もわからぬモノを知りたいと願うのですよ。それにしてもココが斯様に美しいものであったとは、いささか待ちくたびれましたがね」

 小さな声で誰かが会話していた。レイルのはその言葉がすべて読めていた。



 天窓から注ぐ光は水を輝かせ、白地にアイボリーホワイトで僅かにマーブル模様が出た大理石の床は、鏡のごとく滝を映して冷たい光沢を放つ。壁側には四方を守る天使が、それぞれの獣を従える像が置いてあった。美しい空間ではあるが、俗世を生きる者にとっては、余りにも白すぎた。

「皆の者、静かに」

 ディープ司祭の一言で波がサッと引いた。

 彼はその様子を確かめた上で、自分の首から下げた首飾りをレイルにかけた。

「これ」

「貸してあげます。貴方のお父様の護符、守りです。今つけるにふさわしいのは貴方でしょう。でも、必ず返して下さいよ?」

「わかりました」

 レイルの背を軽く押しながら、ディープが進み出る。

 白い聖衣に黒縞瑪瑙の十字架が、きらっと光り輝く。その隣に立つ少年の見事な黄金髪に彼らは目を奪われる。

 レイル・グリーン。

 容姿も整った体型と顔立ちで美しい青年になる素質を放っている。見た目だけでなく学習能力の高い彼は、本来なら明るい将来を約束され、誰からも無条件に愛されたろう。

 瞳が紫水晶色でなければ。



 紫水晶瞳。



 白い空間に紫が映えて、更に濃さを増して見える。間違いない最高級の紫水晶の色。最高司祭の『鑑定』の力を弾いた者の瞳。

「行っておいで」

 いつもは若々しいはずのディープの声がただ小さく、そして低く、確かにそう言った。回りで見守る者、総ての耳にずしりと重みを持って響いた。



短めに。


本当にありがとうございます。

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