逃れ得ぬ火炎の影
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もう居ない影。
闇は自分の心に巣喰う。
そこに確かな火があって、一層の暗がりを作る。
それでもソレを手に取る勇気と力は何処にあるのだろう?
ファーラは雪の降り続ける中を前も後ろもわからず、ただ歩いていた。
腰にさしているはずの銀の剣はなく、脇腹をしきりに触ったが、何故かいつも感じる優しい波動を感じないのが心許無い。
そしてただ、逃げなければ追ってくるという事だけに心は占拠されていた。追ってくる、それが誰か考えたくない。でも過ぎるのは自分の父親の顔。死んだはず、なのに、いつもどこかで見張っているのを感じ、恐怖に足掻く。屈託のない豪快な笑い声を上げていたかと思うと、その唇が歪んで淫らな事を要求してくる。手足が竦んで、受け入れるだけの肉の塊になってしまうその前に、必死で逃げなければならないとファーラは思った。
それはとても、とても寒い、そう考えていると、誰かが笑う声がした。
それは神経を逆立てて撫で上げる男の声ではなく、透明で澄んだ鈴の音。忘れもしない銀色の彼女、レーヴェの声。ルナと言ったか……彼にはどうだっていい事だった。この風では翼は役に立たない。彼女に会えるのならと、悴む体で雪をかき分け、進む。
雪の結晶のように儚く、月の光のように繊細。
笑い声の後に続いた歌はハラハラとファーラの耳に飛び込んでくる。レースの服に身を包んだ姿が一瞬だけ見えて、手を掴もうとしたが、するりと彼女は反転して二つ結びの髪を揺らした。
心底嬉しくて、怖いのも一瞬忘れる。
だが、彼女がもう一度笑うと、それはそれは小さな銀のウサギの姿になって、雪の中を駆けて行く。
「ま、待てよ! お前に会いたかったんだ」
「歌を詠って欲しいの? 今度は……誰を殺すの?」
「もう、誰も殺さなくていい、もう……」
歌を奏でながら、それは次第に途切れに、途切れ、そして霞んで聞こえなくなる。
「どこ、だよ、どこにいるんだよ?」
その銀色の姿を探して目を走らせるが、ウサギとなった彼女は見えない。暖かいその肢体を抱きしめて感じたい、そう思うのにどうやっても見つけられない。雪が視界と体を冷たく閉ざす。
その時、ふと気づいたのは、白い雪にかき消されそうな赤いシミ。
血痕だと気付いて、再び身が凍る。それなのに、ゆっくりとそれを追う。追わなくていい、そう思うのに、レーヴェに近付きたい一心で前へ進む。
樹氷を載せた、木々の森にファーラは次第に迷い込む。
風が荒ぶ中、足を雪にとられ、転ぶ。
その時気付く、ただひたすらに赤い溜まりが目の前に落ちている事に。
そこに倒れているのは血まみれの長い耳の動物、たぶんウサギだ。
そして目線を上げると、そこには、ウサギの耳のように銀色のツインテールを揺らした天使の体が樹からダラリと吊り下げられていた。中空に上げられ、締り切るまでに酷く苦しんだのか、爪跡が綺麗な喉元に走り残るのまでが鮮明で、靴の履いていない色のない形の良い足の指に、ドロリと伝う血や汚物が恐ろしいほどリアルなのに、臭いはしない。
夢の狭間である事に気付かず、ただ茫然と雪の中でフラフラと後ずさりする。
「な、んだよ、これ」
しかし体が上手く動かず、隣の木にぶつかり、積もった雪が落ちてくる。そして何かが揺れる気配に見上げてしまう。そこにも何かがぶら下がっている。
その豪華な金髪に小柄な子供、そして透き通った淡く青い髪の女性……
「レーヴェ? レイル? ……メアリ母さんまで? 何で?」
その誰もが生きていなくて、死んでいるのは一目瞭然だった。
綺麗な新緑色の瞳から涙が零れる。瞬きも無くただただ零れる涙で視界が埋まり、雪の中に突っ伏した。
彼の前に誰かが降り立つ。
その気配にぞくりとしながらファーラが顔を上げると、そこに立っていたのは、軍服に身を包み、聖なる微笑を湛えたプリシラだった。特徴的な巻き毛を揺らし、しゃがみ込むと優しくその頬で凍りつきかけている涙を拭ってくれる。淡い口紅がひかれた形のよい唇に湛えられた微笑にファーラは少しだけ安堵を覚えた。
彼女は何も言わず、そっと抱きしめようとしてくれた。
だが、その後ろでレイルのボンヤリと見開いた紫の瞳から頬を伝い、赤い血の涙が雪に落ちて鮮やかな模様を描いた瞬間、どうしようもない虚しさと恐怖が込み上げて来て、彼女の手を振り払い……
……叫び声も上げられないほど、怖くて虚ろな夢から目覚めたファーラは勢いよく体を起こしたが、全身にフラツキを覚えて頭を抱えた。額にいつもの鉢巻がないのに気付き、戸惑ったが、隣にいたふくよかな男の手にそれはあった。
「大丈夫かねぇ、フィール君」
ソフトクリームの形をした、白が混じった黄緑の髪を揺らしながら彼は笑って話しかけてきた。
そんな変わった髪型をしたのは校長しかいない。
彼は手にした布切れをファーラに渡す。綺麗に洗われていたが、少し生乾きだ。気になるのは傷を晒している事だったので鉢巻を額に戻しながら、側の窓際には神経質そうな教頭が、外を睨んで立ち尽くしているのも見つけた。
二人が自分の過去や現在の状態をだいたい知っているのは、どことなく感じた。自分の中に何かが居てそれを暴走させかかった事も何となく覚えている。
間違った事はしていない、自分を、そしてその後ろにある者に過去を晒されたくなかったのだと叫びたかったが、
「俺、退学ですか……」
ファーラからぽつりと出たのは、それだけだった。
そんな事になれば、養い親のメアリにも迷惑がかかる。それよりレイルに……どんな説明をして、どんな顔をして会えばいいのだろう。そう思うと気が重かった。
やっとの事で、取り繕わねばと動かない頭を働かせて、
「それは……困るんです。退学って言ってもレイルが普通に納得してくれないだろうし、だからってこんなの……話したくないんだ。それにメアリ母さんには、これ以上ないってくらい大切にしてもらっているのに、学校辞めるって言えないし。来年働き出せば、校舎を壊したお金も返せますから、だから卒業までは……」
「だ、大丈夫ですよ。保険が掛かっているし。行き過ぎにも見えるが、剣を奪われ、魔法が使えなくなる小道具まで使われては、正当防衛だよ、フィール君とにかく落ち着いて」
後半は迫ってくるように言うのを、含めるように優しく、校長は心配いらないと付け加える。ホッとしかけた彼に、腕を組んだ教頭はその片手を解いて、
「それよりも君、ここで勉学を続けられるかね? それでなくても生徒会長は目立つ」
きっちりと整えた髪のどこを気にしているのか、撫でつけながらファーラを見やる。
まあまあ、そう言いながら校長は、教頭を宥めようとしている。ファーラは自然と脇腹の辺りに触れながら口ごもる。
「それは……」
ヒトの口に戸は建てられない。
卒業までに一年もないが、その間にファーラの実家での素行が今まで以上に晒される可能性がある。奇異の目に晒されながらもやっていく自信があるのか、教頭はそう聞いていた。
「俺は良いです」
「俺は?」
「でもアイツには迷惑をかけたくない」
「アイツ……副会長のグリーン君ですか?」
それに頷いたのを見た途端、教頭はつかつかとファーラに歩み寄ると、顔を覗き込む。
「いいか君、私の目を見ているんだ」
「え、何を……」
「御託は要らない。さあ、出て来るがいい、古に失われた王よ」
言葉の端に埋められた何らかの魔法と、突然向けられた激しい殺気がファーラの目の色を変えさせる。文字通り、緑から湧き上がる様な赤に……
「これで正気はあるのかね、君」
「は? なんです、か?」
ただ色が染まり出している事に本人は気付いていなかった。教頭は振り返る。
「既に……こんな簡単な方法で呼び出せるのか? 報告より発動条件が緩すぎるぞ、校長。ただ、ここまでで全く正気とはかなり慣らされている様だが」
校長は脂肪質な指でトントンと自分の膝を叩き、
「フィール君は父君に剣を教わっていたのだったよね。以降、誰かに師事しているかい? 他に……魔法師に付いたり、病院に通ったりは?」
「は、い。警察官のシラーっていう天使に剣を……他はないです」
「……ジョージ・シラー、真白か……」
その名を聞いた途端、教頭はファーラへの目線合わせを開放した。すぐに通常の色に戻って行く瞳。途端に何かがすうっと四散するのは感じたが、ファーラ的には自分の変化には気付いていない。
「少しずつ奴を引き出して、融合をかけていずれ制御できる方向に持って行く気だろうが、本人が全く気付いてないのは問題ではないのかね」
「グリーン君の叔父が精霊夜飛のセリバー、アレード君だから、紹介はその流れでしょう。フィール君、自分の中のそれと対話するような訓練をジョージ君からさせられていたのではないです?」
ファーラは校長から話を振られて、首を傾げるだけだった。
「良くわからないけれど、部活とか道場とかと余り変わらない、です。素振りと剣を合わしたり、型を習ったり……なんだか今までは知らなかった綺麗な剣技です」
「奴が得意なのは攻流ではなく護流だからな……他に変わった事は?」
「別に。でも、そういえば……たまにだけれども、ずーっと部屋に座らせられるんだ、です」
「君は従うのかい?」
「え、え。問答無用なんです、あのヒト。たまに『静かにしろ』って言うだけで、意味わからないんですけれど……」
ファーラの台詞に2人は顔を見合わせ、彼らにしかわからない会話がその後は交わされた。
「シラーのやり方は独特で、彼に向いているか……」
「彼は強い使い魔を使役しています。その系統のエキスパートですから、私は彼に一任したのは頷けると思いますよ。剣もああみえて、五星をきっちり修めているはずです」
「今回のような彼を刺激する事態を作った我々に非があるが、もう少し、連絡を取る必要が……」
「ジョージ君にそんな考えはないだろうね」
「わかっていますかね、校長。4つ、ないし8と言われる神の眷属、霊王の内でも苛烈で知られる火の霊王、その重要性と危険度を。かの霊王は神に似た者と言われるミカエルと、当時まだ光織りし者であったルシフェルが、神の加護に在りながら双方でやっと封じ込めたと言われているのが火の霊王ジン。以後シャイターンとイブリースに分けられていたが、ミカエルの剣に納められ、失われたシャイターンの波動を彼からは感じる……」
「さすが魔法歴史学の先生です、よく舌も噛まずにそれだけ説明できますね?」
「私を茶化すより、そんなモノを相手にして、連絡も取れないような相手に生徒を任せておかなかればならないとはナンセンスだ、校長」
「そう言っても彼は昔から、ああですからねぇ。アレード君に報告を頼みますかね」
「だが彼には昨夜、特命が出て、協力を求める知らせが各所に配布されたのをお忘れか?」
「そうか、そうだったね」
いろんな言葉が交わされるが、ファーラに理解できる事は少ない。そんな中、彼は顔を伏せて、脇の傷を忙しなく擦る。感じる優しい波動。それが今は逆にファーラを責める様に感じながら。彼に縋る物はそれしかなかった。
「ごめんなさい、先生」
「ん?」
「俺、ここの所、幸せだったんだ……」
自分達が少し話している間にファーラの表情に辛く暗い影が落ちているのに気付き、彼らはそこに座る生徒を見やった。
ここ東校の本年生徒会長ファーラ・アリエル・フィール。本名は別にあるらしいが、幼いうちに抹消、登録されていない。
少し遅めの入学で来年は成人を迎える彼は中級4年で、ほぼ今年の卒業は確定している。
黒の髪は光により緑を帯びる。瞳は北の街に多い緑石瞳を有し、体格は良く、面倒見の良さや配慮の細やかさに慕う者は多い。ただし接客や規律の順守は苦手で、言葉遣いに荒さが目立ち、成績は中の上が平均。
幼い頃から虐待、および性的暴力を受けている報告が入ったのは、入学年の末頃に火災にて父と兄を亡くした後。その火災原因が彼が父親の「玉」を狩った際、魔化と共に目覚めた火の霊王と思われる存在の暴走であるとも知らされた。
その後、紫水晶の瞳を持つグリーン家に、それなりの駆け引きの元で引き取られ、穏やかな生活を送っている。
本人希望進路は就職で、正式に警察の方から引き合いがある。だが、その剣技などを見込んで軍上級学校からも声がかかっている状態で、養い親のメアリからはもう少し彼を学校などでノビノビとさせてやりたいと希望が出ている。
校長と教頭からすると、能力的に強い見守りが必要だが、今は特に問題がない生徒に位置付けられていた。
そんな彼が保健室のベッドで蹲る様にして顔を伏せ、力なく言葉を吐く。
「俺、が、居ると、全部だめになってしまうのかな、父さんも兄さんも、居なくなってしまったんだ。でもレイルもメアリ母さんも何も言わないで俺を家族として扱ってくれて。今朝なんか2人して、俺なんかにありがとうって言うんだ、俺、単純だから……」
「……フィール君は嬉しかったんだね」
「うん、でも俺、何も返せてない……俺、兄さんと父さんの時はすごく我慢したんだ、自分はどうなっても良いって。でもそのやり方じゃダメだって、思って。でもそれに対抗する手段は考え付かなくて、そしたら声がしたんだ。でも、でも、でも……ごめんなさい、ごめんなさい、生徒の1人を焼き尽くしかけたの、覚えてる。何とか、校長先生達のおかげで止まったけど、たぶん俺だけだったら、何人か……いや、全員殺してた……俺が悪いんです、俺が……我慢すればよかった、そうすれば……ごめんなさいっ」
「君のせいじゃない、君は悪くない。何も悪くないから謝らなくていい。終わったこ……」
校長が何気に肩に触れようとした途端、ビクついてしまうファーラ。その姿に2人の教師は、彼の古い癒え切らない傷が、また抉られてしまったのを知る。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」
またそうしてしまった自分を見下ろす二人の視線に、泣きながら謝り続ける。
剣も魔法も奪われ、どうしようもなくなった彼が反抗の為に、内に住む「者」を呼び出さねば、校長も教頭もその事態に気付く事はなかっただろう。そしてそのまま押さえこんだなら、面白半分にもて遊ばれ、ボロ雑巾のようになったファーラが今頃転がっていたはず。
「大丈夫、正当防衛だといっただろう? フィール君は悪くない」
「でも俺は見境なくなるんだ、殺したいって、あんな奴ら捻りつぶしてやるって心のどこかで今だって、俺、俺、だめだ……ごめんなさいじゃ済まないのに」
「よしよし、泣きたい時は泣きなさい」
校長は泣き続ける生徒の肩すら擦ってやれない無力さを噛みしめる。
彼らを一瞥しながら、教頭は部屋から出る。
暫く廊下を歩いて死角に入り込むと、教頭はその壁を思い切り、何度も何度も殴りつけた。
「最大限、君に不利な事などないようにしよう。もちろん今まで通り、紫の君にも。それが教育者としての役目だ。だが、ここで勉学を修めるかは君達の意思……」
「ここでいいのかね?」
「はい、でも教頭先生どこに行ったんだか……ですかね?」
「彼はああ見えて、君のような思いやりがある、真っ直ぐな生徒には優しいんだ。出来るだけ君の過去が拡散しないようにしてくれるよ」
「ほんとうですか?」
「ええ。でも限界はありますから、覚悟はしておきなさい。でも、だからってあんな聞き方しなくても良いのに。ね。教師の愛情の裏返しと言うか……ほら、よくグリーン君をこき使ってるでしょう?」
「ああ、確かに」
「彼は教頭の事、嫌いでしょうけど」
「ははは、そうかも。あれ、愛情なんですか?」
彼自身は隠していると思っているだろうが、不平を顔に余り出さないレイルが、教頭を見ると僅かに目を細めたり、間を置いたりする話し方をするのを知っているファーラは笑った。
あれから、ただ泣くファーラにゆっくりと付き合ってくれた校長。
2人はバス停にいた。だいぶ落ち着いて普通に会話できるようになったファーラだったが、決して校長は彼に触れず、急がせようとはしなかった。泣きはらした為、目の白い部分が赤くなっているが、もう睫毛は乾いて、瞳の色はとても穏やかな緑だった。
「病院には伝えておくから、受付で名前を言うだけで良いよ」
「さっき、頼んだ事は……」
「離れるのかね? まあ、いつでも好きに使えるように手続しておくよ」
頭を打ちつけられたので、大事を取って病院に行くよう勧められ、付き添うと校長は言ったが、行先の病院にはマハイルが居て、その側にはメアリがいる。だから仰々しく先生に連れられて行ったなら心配させてしまう。そう言うと校長は無理を言わず、病院に手配だけしてくれた。帰りは必ず保護者のメアリと一緒の帰宅を厳命されたが。
ファーラは巡回バスに乗る事にした。走っていくか、飛んでいくと言ったら、頭を打ちつけられているから危ないと叱られた。黒天使としての体の強さを過信しないようにと。
車は少ないが大量移送用として巡回バスはそれなりに動いている。
バスに乗り込むファーラを見送りながら、
「本当はもう少しついていてやりたかったのだが」
と、校長は呟いた。それが聞こえていたファーラがフルフルと首を振り、返された銀の剣を押さえながら頭を下げる。その凛々しい姿に校長は溜息をついた。
「どこをどう見ても育ちのいい普通の天使に見えるのに、ねえ」
「気付かせないように顔には傷をつけないんですよ、忌々しい」
「……教頭」
「タイムターゲットに加担した生徒には何か魔法がかけられていて、正気ではなかった」
「とはいえ、彼ら自身が生徒会へ不満があったり、彼の親友に少なからない反感があったりする者を、選んでいる様な気がするよ、教頭」
「本当に……性質が悪い」
何処からともなく現れた教頭と並んで校長は、ファーラの乗り込んだバスを見送り、自分達の仕事に就いた。
病院に着いたファーラは建物を見上げた。
赤いレンガで作られたその病院の四階にある角部屋の窓に目を向ける。そこは眠り続けるマハイルの部屋だ。出窓にあるカーテンが揺れているのは、僅かに扉が開いているからだろう。一度顔を出そうかと思ったファーラだったが、受付に名を告げると、白いガウンに着替えるように言われ、そのままCTスキャンなど大きな機械にかけられた。
校長が手を回したのか、彼に無闇に触ったり、背中の傷を見て追言しようと言う者はいない。上手く言ってくれているのだろう、それにホッとした。頭の傷はもう血も止まっていて、消毒だけで縫うほどはなかった。今の所異常なし、運動は数日避けて、三日位後にもう一度精密検査に来るよう言われる。
「ありがとうございました」
キチンと頭を下げて、診療室を出て、マハイルの部屋に向かった。
看護師の詰所には誰もいず、ファーラは名前を書きつける場所で筆跡を残すと一番奥の部屋に向かった。そしてノックする。
いつもだったら、すぐに扉を開けて答えてくれるメアリの声も姿も返ってこない。二度ほど繰り返したが、やはり返事がないので、ファーラは扉を開けた。
部屋には夕暮れの光が満ちようとしていた。
開いた窓から僅かに吹き込む春先の風。日暮前なのにもう部屋は涼しすぎるほど冷え切っていた。いつもなら風邪をひかせてはと、メアリが閉めているだろうに。と、言う事は、彼女がこの部屋を離れてだいぶ経つのだろうとファーラは思いながら、まず窓を閉めた。
「ただいま、マハイル父さん」
そこに五年もの間、眠り続けるレイルの父、マハイルがいた。
レイルの「玉」を狩ろうとした者から守り、命は長らえたものの、目覚めない天使。
ファーラは「玉」を奪ううちに、魔に堕ちた父を狩った。自分の持った実の親とは全く真逆の父。
部屋には酸素呼吸器も置いてあったが、自発があるので部屋の片隅に追いやられ、稼動していない。吸引器が枕元に、そしてサチュレーションの機械や点滴の管が足元に少しあるだけで、ちょっと豪華なホテル仕様の広い部屋。
柵は付いていたが、名工の一品とも思える整ったラインの宮が付いた大き目のベッド。服を入れるチェストや薬を置く床頭台も、そこらあたりの安っぽいスチルではなく、特別室らしく誂えて揃えてある。
ただ綺麗に掃除されているが、何かが零れたようなシミが落ち着いたグレーの絨毯に少しあったり、薬品の匂いがしたりするのが病院らしかった。
そんな部屋のベッドに眠る男性の綺麗な金色の髪はとても艶やかで、いつもメアリが櫛で梳いて横に流している。だが今日は肩の下に敷かれている髪があった。
「乱れてるよ、マハイル父さん。今日はちょっとメアリ母さん、手抜きしたのかなぁ?」
そう言っても、ずっと切らずにいるのに少しも痛んでいないのは、病院の介護が厚いせいもあるが、彼女が気持ちを込めて看病しているからだ。それは髪だけではない、ずっと寝ていると体位が固定されていると体に褥瘡が出来たり、尖足になったりもするのだが、そんな事も無く行き渡っている。
どれだけ気持ちを込めているのだろうと言う細やかなケアで、意識さえ取り戻せばすぐに車椅子を頼りながらでも生活できそうに彼の事を看病し続けている。
「メアリ母さん何処に行ったのかな? まあ、体位交換しとこうかな? ずっと同じ向きだとキツいよね、マハイル父さん」
そっと掛け布団と柵を退けると、仰臥位に寝ていた体の下に敷いたタオルを引いて、下になる右手を敷きこまない様に気を付けながら長い枕を背に挟み、自分側に向けた。
右手の指に挟んだ機械の線にも気を付けながら、左手を楽そうだと思える位置にそっと動かしてやる。
やはり筋肉はどうしても落ちている足を少し擦ってから、腰を引かせて、小枕を挟む。導尿の管や鼠径から取られた輸液の管など踏んでいないか確かめて、シーツの皺がないのを確認の上で布団を先程より厚めに掛け、柵を戻した。
付きっ切りのメアリはこの作業に慣れていて、たまに来ていた時に手伝っていたから、いつの間にかファーラも一人でも出来るようになっていた。
「今日はヒゲ剃ってないのかな? 珍しいな。それにしてもやっぱ、レイルに似てるよなぁ、叔父さんも似てるけど肌の色が違うし……」
顔にかかった髪をそっと流した時、取り憑かれたと言って寝かせたレイルの顔と余りにそっくりすぎて呟いた。
ただ彼の方がレイルと違って彫りが深く大人なせいか、女性っぽくは見えなかった。貴族の証である紋章は腕にないが、純血の金天使と言うのは嘘ではないのだろうなと思う。
何時だったか、手に握っていたホウキが残念ではあったが、スーツを着こなした姿を見ていたファーラはそれを思い出しながら、近くの椅子に腰かけメアリを待とうと思った。
「…………………………………………………………………………………………………………っ」
「…………………………え?」
何と言ったのか、ファーラには聞き取れなかったし、幻聴かと思った。
だがずっと閉じたままのマハイルの瞳が僅かに、本当に僅かに開いていて、金にも青にも見える不可思議な金天使特有の瞳が微かに生気を帯びて光って見えた。
「マハイル父さん!」
立ち上がり、呼びかけてみるが、まるで消えかけた蝋燭の火を吹き消すように、もうその瞳は色を失い瞼は閉じられた。
その時、ちょうど扉が開いたので、メアリかと思って振り返ったが、そこに居たのは介護士と看護師だった。
「体位交換に来たのだけれど、してくれたの?」
「あ、うん。今、父さんが何か言ったんだ、目も開けた!」
「え?」
2人の職員が近寄って、簡単にマハイルを見て声掛けしながら、ファーラにはわからぬ程度に爪などに刺激を与えて、マハイルの状態を診る。
「体位交換、ありがとう。ファーラお兄ちゃんはしっかりしてて、メアリさんも安心ね」
「でも、この頃、弟くん見ないわね、元気なの?」
「あ、うん……」
弟くんとはレイルの事。五年間、最初の頃はともかく、この頃彼はあまりこの部屋を訪れていない。
ごくたまに、シラーと待ち合わせる時だけ、ここを使っているようだった。そうやって訪れても、僅かな時間、そっと手を握って行くだけ。
だいぶ感情が現れるようになったその顔から、全てが消え、何も考えが浮かばないような紫の目をして。
あまりにも来ないから病院の職員は、レイルを紫水晶瞳を有している事に気付いてないほどで、ただ「気難しい子」と思っているようだった。一方のファーラはメアリを迎えに来る事も多くて、この病棟では顔見知りの職員も多い。二人を本当の兄弟のようにメアリは話すのか、良く見舞いに来る兄と、来ない弟と言う位置付けになっていた。
「本当に目を開けてくれたのなら、そんなに急がなくてもまた目を覚ますと思うわ。夜勤でもしっかり巡回するから安心して?」
「……はい」
看護師の言葉にファーラは頷く。
五年、眠っていた天使が目を開けるとは思っていないし、刺激への反応もいつもと変わらなかったのだろう。
ファーラも俄かには信じがたい。
それも一瞬だけ。
気のせいだからと直で言われないだけマシだ。目覚めない者を看病していれば、ただの不随意運動や震戦を見て目覚めたと勘違いする事は多い。
だから余り取り合う事はせず、だからと言って冷たくあしらう事なく、患者の家族に手向ける上手な言葉を口にして、職員二人はファーラを気遣いながら出て行った。
「気のせいなのかな、マハイル父さん」
それでも、どうしてもメアリに今少しだけ目が開いたのだと伝えたかった。
だが、少し待っても彼女は姿を現さない。更に室温がそれなりに上がるほどに待っても目を覚ます気配もなくて、やはり気のせいだったとも思う。
「母さん、何処だろう?」
メアリが部屋を開けるのは普通、10分くらいだ。こんなに長い事開けるのを知らないファーラは彼女の姿を求めて歩き回る。
屋上の洗濯干し場や売店、いそうな場所を歩いてみる。だが、その姿がない。
捜している間に戻ってきているかもしれない、そう思ったファーラが中央の受付を通りかかった時だった。
「急患通ります!」
カラカラと音を立てながら走るストレッチャー、患者を搬送するのとすれ違った。それを避けつつ、何となく見ていたファーラは見送りざまに自分の目を疑う。
「め、メアリ母さん?」
それに横たわっているのは、淡い青の髪が特徴的な、色の白い綺麗な女性。それがエレベーターに吸い込まれて消えるまで数秒、彼は何も反応できないままに扉は閉まった。
慌ててボタンを押した時にはもう二階に昇降していた。回りのエレベータ待ちの患者が何事かとファーラを見やる。
彼はそれを気にかけもせず、六階で止まり、降りてくるのを確認すると、近くにあった階段を凄い勢いで登る。エレベーターが一機しかない場所だったので、別の場所に行ったり、降りて来るのを待って他の乗客を押しのけたりするより良いと思ったからだ。
頭を打ちつけられたため、今日は運動は避けてと言われた事など忘れていた。
鍛えている足腰だから、ファーラは何の苦も無くそこまで駆け上がる。少しふら付いた気もしたが、彼には堪えない程度だった。
六階に踏み込んだ途端、ファーラは違和感を覚えた。
消毒液の様な病院特有の薬剤臭が薄く、暖かい感じがする。壁が優しいピンク色で、置かれたソファーも淡いベージュやピンクが基調で、壁に可愛らしいイラストや花が飾ってある。そこに座って話している女性が数人いたが比較的元気そうで、首の座らない赤ちゃんが眠ったカートや抱っこした姿があって、ここが産科だという事を悟る。
「貴方? どうしたのかしら。お見舞い?」
優しい微笑を向けて、一人の天使から話しかけられる。ファーラはその腕に横抱っこされた赤ん坊の小ささに驚きながら、
「い、いや、はい。今、誰か運ばれて来ませんでした?」
「ああ、そこ右に曲がって、赤ちゃんのお部屋の隣にある階段の側、そこの診察室に入ったわ。すぐって事はないわ、まだ大丈夫よ」
「大丈夫?」
「ああ、生まれないって事、すぐ生まれそうなら左の分娩室近くの診察室に入るのよ」
「い、あ、そうなんですか」
ファーラは苦笑いをしながら頭を下げて、言われた角を曲がる。
五年もの間、意識のないマハイルとメアリの間に子供など出来るはずもない。きっと他人の空似だろうと思いながら新生児室の前を通る。
ガラス越しに並べられた小さなベッドは殆どカラ。日中は母親の側で過ごす子が多い。一人だけ、寝かされた赤ん坊の前に、一人の女が立っている。
ファーラと同じ緑のかかった黒髪に、緑の瞳をした女はファーラを見た。
服はネグリジェではなく高い位置までスリットの入った体のラインを強調するようなドレスに、高いヒール。見舞客にしても、少し似つかわしくない気がしたし、他者を魅入るような視線にファーラは気後れして避けるように通過しようとする。
「昔はアーサーもこんな感じだったのよ」
ファーラにとって慣れない呼ばれ方、こう呼んでいるのは世界に帰った人魚のリュリアーネと自分の殆どあった事のない親戚だけだ。
家の玄関で兄が対応し、部屋に隠れていた。『あいつを出せ、死神だ、アーサーさえいなければ』彼らがやって来るのは、たまにではあったがそう喚き立てていたのを思い出す。兄がどんな返事をしたのかは知らないが、上手く言い包めてくれたのか、いつしか彼らは来なくなった。
「誰? 俺を、死神だから探しに来た?」
その台詞を聞いた途端、彼女は抑え気味に笑った。
「伯母よ、貴方の母、その双子の姉……マーヤ。もうお前を死神なんて思っている天使は居ないよ」
何時の間にか詰められた間合い、すうっとファーラの頬を撫でる。その瞬間に漂ってきた気配にファーラは顔を歪ませた。
「だって私が食べてしまったからね。うるさく無くなっただろう? 折角生かして沢山財産を持たせてやったのに、それで満足しない屑天使ども……」
「魔……」
このフロアに入った時に感じた違和感は、見た目や患者層が妊婦や産婦、そして赤ん坊ばかりという事だけではなく、彼女がそこに佇んでいたから。
祖母が言っていた、居ても居なくてもわからない感じの気配ではない。存在を主張し、他者を威圧する天使のそれで押さえこんだかのような淡い「魔」の香り。
「そう、よくわかるね。私は母を狩った。たまに頭が痛むだけで、やる事しておけばこうやって意識を保てるからね。天使にはない素晴らしい力よ」
「や、やる事?」
「性交と食事、我が一族に伝わる方法よ。ああ、動かないで。そこの赤ちゃんが死んでしまうよ」
ファーラが剣に手をかけるのを、彼女はそっと手を重ねてやんわりと止める。
手入れの行き届いた爪に塗られた赤が血のようだった。そのまま同じ赤い口紅が塗られた唇をファーラの首元に寄せ、歯を立てる。
「っ……」
「ああ。昔飲んでいたお前の兄の血は冷たくて芯が凍るようけれど、お前の血は熱くて喉が焼けそうだよ……」
恍惚とした口調で彼女は語る。
「あの子は赤い血より、白い血が美味くて、見た目も良くて器用だったから、随分かわいがってやったのよ。お前より何本か狂っている子だったから、苦痛を楽しむようになるのも早かったし。でもルイーザがあの子を醜く変えた……腹立たしかったわ」
「お前が兄さんを歪めて狂わせて……」
「ふ、あれは地だよ」
彼女は自慢げに緑がかった髪を揺らして、掻き上げる。
「お前と私のように姿形は似ていないけれど、やっぱりこの一族の生き物なんだろうね。それも占い婆の血がよりそれを狂わせている。さあ、その血をお前が御馳走してくれるかい?」
見も知らない天使の子供、ふにゃふにゃして頼りない生き物。しかし今、その命は自分にかかっているとファーラは自覚する。命を盾にされ、彼は怒りで震えるのを堪え、目を閉じた。
お読みくださった後に「読んだよー」など
一言でもいただければ。
いえいえ無理なら評価だけでも……
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ありがとうございます。




