悪意と善意の調合薬
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全てを魔法や薬で操れるとして。
それを使う者の気持ち一つで、心からの善意も。
凶悪な悪意に変わる。
体をスルスルと触る手、体に零れるきらきらと七色に光る液体。
全身に走る傷跡から薬が染み込んで行く。触ると薬の効能がわかる「彼女」が全身で受け止めた液体の効力と魔法の意味を知った時、畏れ慄いた。
痛いよ、痛い、何故こんな事をするの? 貴方はお姉様の……
痛みが消える、消えた痛みは込み上げる快楽に変わっていた。そう言う行為を知らなかった幼い彼女の感覚を掻き回し、息を乱す。彼は小さな唇を奪い、良いようにあしらっていく。それが何かもわからぬままに、あられも無く声を上げ、体液と混じり、自然と体が反り返る。
「やはり綺麗だな、彼女も君くらい素直だったらいいのに」
やめてよ、苦しいよ。
「後はこれを飲むんだ。注射より経口摂取の方が良い。ほら、わかるだろう? こんな薬を組み立てられるのは俺じゃない」
白色の液体を唇にあてがわれ、飲まされる。吐き出そうとして口を手で塞がれ、酸素を奪われた事で更なる波が襲い、薬が回って抵抗を奪う。
辛い、そう思うばかりで、彼女の耳にはもう彼の言葉の意味を理解する力はない。薬に酔わされ、瞳孔が開き切り、切ない声を機械的に上げるだけ。
「全部を犯して奪いたいくらいだ。けれど、今回はそんな為じゃない。頼む……」
「ああ……」
「お願いだ、俺も彼女を失いたくない。だから、頼む」
「は、い」
自分が何を許可したのか、思い出せぬままに、すっ……っと扉が開き、その気配に彼女は意識を現実に戻した。
「私、今、何考えていたのかしら?」
考え事をしながらエレベーターに乗っていた彼女は、いつの間にか引き込まれた思考の世界から飛び出すように、ふわりとそこから降りる。
彼女が乗っていたのは、草木がレリーフとして彫り込まれた、木目の美しい狐色の壁をしたエレベーター。降り立ったのは寒々しい白い廊下。先程プリシラと訪れ、退室したはずの特別図書室の前にソネットは立っていた。
「んーーーー? あら、警報?」
何を考えていたか彼女から抜け落ちた、記憶。心地の悪さが脳に残っているものの、ソネットはちょうど危険を知らせる警報が廊下に響いた事で、その探求を止め、天井を仰ぐ。
目の前の濃いチョコレートの様な色形の扉の上に、飾られた鷹の様な鳥が翼を広げた彫刻。その足に
握られた宝石が黄色に輝いていた。あまり大した事はないらしく、警報は小さな音だけで退避勧告は降りてこない。
「地震でもあったのかしら?」
エレベーターが使えないと大変だなと思いながら、事態が見えないので、先程も座った柔らかい椅子に腰かけ、手にした本を開く。
この警報が、今、自分が手にしている本を届けてくれたファーラがタイムターゲットの標的になり、抵抗の為に炎の化身と身を一つにして起こした火事騒ぎの片鱗などとは思わなかった。
彼女は黒い装丁本を開く。
間には封筒、レイルが長く借りたお詫びと、これが何だか調べられないかという依頼があった。中には薬包紙で包まれた黒っぽい薬が入っていた。
混合されていただろう薬が、見事なまでに仕分けされており、それがソネットの気を一層引く。その効能はかなり偏ったモノで、劇薬にも値すると彼女は踏んだ。だが天使界では殆ど使われない薬で、他界から取り寄せたと思われ、薬に詳しい彼女でも調べる必要があった。
「クリューンは間違いないけれど、後のは……こんな強烈なもの、どこで手に入れて……って……私なんであんな奴の為にわざわざ特別図書室にまで来てるのかしら?」
愚痴りながらも警報が消え、気の抜けた音と共に石が青に変わった為、ソネットはキラキラと電飾が眩しい部屋に入った。
『コンニチワ、ようこそ東特別図書室へ。まず身分証、所持されていない年齢の方は、最初に魔力認証を取ります。いずれかを提示して下さい』
また、同じ事をしなければならないのかと面倒を感じながら、
「さっきの警報何だったのかしらね?」
『校内でボヤ騒ぎがありました。この場所には関係ない為、警報を解除しました』
「え、これ、機械じゃないのっ」
個性のない機械仕掛けの音声ガイダンス、声は同じだが、間違いなく独り言に返事が返って来た。余りの驚きに、素で尋ねる。
『全ての特別室は私達が中央一括で管理してます』
「そんな事、答えちゃっていいの?」
『聞かれればお答えしますが、誰も聞かないので答えないだけです。コンニチワ、ようこそ東特別図書室へ。まず身分証、所持されていない年齢の方は、最初に魔力認証を取ります。いずれかを提示して下さい』
「ねえ、じゃあ、私がさっきも通ったのわかっているわよね。通せないの?」
『はい。コンニチワ、ようこそ東特別図書室へ。まず身分証、所持されていない年齢の方は、最初に魔力認証を取ります。いずれかを提示して下さい』
「…………」
何の考慮もない返事の後、同じ文言を繰り返されて黙る。
融通が利かないなら、機械でもいいのじゃないのかしら、そう思いながらソネットは身分証を取り出した。
暗い暗い部屋の中、彼は手を休める事無く、レイルの体に薬をのばしていく。
命を削って作った薬剤など気持ち悪くて吐きそうだが、レイルの気持ちに反して快楽を味わっていた。体の芯が痺れて、今までの痛みがうっすらと笑いが込み上げる様な気持ち良さにすり替わる。筋肉が弛緩し、目の前がチラチラとして我を忘れかける。
飲み込まれまいとして抵抗しようとしても、甘い声を上げてしまうだけで、レイルに避ける術はない。途切れなく脳を刺激する緩いが突き上げてくる高まりを押さえる為に、何かを吐き出したい、そう思うがそれは手が縛られていてそれも叶わない。
いや、彼の目の前でそんな事しようものなら、一生を棒に振る、絶対にそんな真似は出来ないと思う。手が縛られていてありがたいと思うなど考えてもいなかった。
14で成人となる世界だから、女子に対してファーラとは男同士でそろそろ「そう言う話題」で盛り上がって良い筈だが、それはなかった。 ファーラは父親との関係で自分の体を嫌悪している。レイルは虐待は背中や脇腹の傷で知っている事になっているが、それ以上を強要された姿を見たのは「なかった」として、切り出した事はない。
ファーラも話さないままだ。
レイルとしてはどんなに誤魔化そうとしても見ているから、下手に藪は突かない様に、ファーラが銀天使のルナを好きに想っている事を茶化しても、ある一定以上は突っ込まない様にしていた。
そんな風だからか、同年代の少年よりレイルはそう言う事に疎い。
そして今までレイルは他者をそう言う意味で求めた事がなかった。
副生徒会長と言う目立つ立場、紫水晶の放つ異様で妖しい輝きは、そろそろ異性も引きつけていた。だが、レイルはユリナルをキスの直後に失ったから、他の天使とは線を引いている。
思えば、熱で浮かされていたとはいえ、北の上級学校から来たソネットを意識したのが、初めてだったのかもしれない……などと考えられる程、レイルの余裕はなかった。
途切れる息をしながら、
「ファーラの兄さん、だよね? どうしてこんな……」
「ふふ、かつて、そうあった事もあります」
「それも母さんを忘却の姫って呼んでいたよね?」
「知らないのですか。……そうでしょうね」
レイルは矢継ぎ早に喋って、何とか誤魔化そうとするが、そう自分を騙せるものではない。
時折、体がガクガクと痙攣して、喉を逸らして、しかし決して達する事のない感覚に喘ぎ始める。ソネットに僅かな欲情を抱いた事はあるが、堕ちてしまいたいと思えるほどの感覚は初めて味わう。もう笑っていられる快感は通り過ぎ、鞭で与えられた痛みとは違う苦痛に頭が狂う。
「もう、止めて、ああ、母さんを何故……」
「止めて良いのですか? ふふ……止めてあげませんけど」
「な、ぜ、やめ、姫と……ひめ……」
楽しげにあやしい薬品を塗布する彼の姿に、怒りを覚えながら。
自分が狩った訳ではないにしろ、誰かの死を冒涜する行為。だが薬の効力は絶大で、レイルを強く悩ませた。それでも彼に話を傾け、逸らし続けようとする。だが自分で何をどこまで喋ったか不明になって、何度も同じ言葉を繰り返し出しているのに気付かないほど、レイルは混乱し出していた。
「はあ、で、母さんを何で、姫なんて……」
そんな彼を見て、オレンジの髪を揺らして微笑んで、次は白色の液体をレイルの唇に落す。
必死で吐き出そうとすれど、彼の手がレイルの微妙な個所を探り当て、弄ぶため、反り返る喉はごくりと反射的に液体を飲んだ。途端、もうどうしようもない波がレイルを攫い、翻弄する。手首を千切らんばかりに、鎖を引っ張るが、何の解決にもならない。
「良い気持ちでしょう?」
「な、にが」
反抗的な態度が彼を喜ばせるなど、思いもつかず、正気を保つために口内の薬を必死で吐き出そうとし、それが無理とわかると酸素を出来るだけ吸って呼吸を整えた。
「意外と大丈夫そうですね。傷無しですが、素手で触っている、これだけで相当気持ちいいのに。あ、そう、その話の途中でしたね、メアリ夫人は記憶を操作する事が出来るそうです」
「そ、操作?」
「正確には指定した「ある部分」を無かったかのように「消す」そうです。ただ記憶喪失のように抜け落ちるだけではなく、勝手に記憶は繋がって都合の良い記憶になる。そこで彼女に付いた名が、忘却の姫、です。本当に忘れたわけではないので、何かきっかけがあれば戻りますが、なかなかその魔法が解ける事はないそうですよ」
「知らな、かった……よ」
「無理もないです、彼女がそれを引きうけていたのは貴族の中にいた時で、それも秘密な事。逆に彼女自身は産まれた時から、記憶力が並外れていて、日常のくだらない所でも細部まで忘却できないらしいですが」
「忘却? 忘れられない?」
「ええ、例えば彼女に一年前の今日、何を食べたのか……幼い記憶がある日まで、ずっと遡れたそうです。彼女が昼に給食システムを使っていたため、その精度は立証できた。発表されていませんがマハイル教授のメモに残っていましたよ」
通常『忘れた記憶』も脳に存在するが、大抵、必要な記憶だけを残して整理され、あたかも忘却したかのようになる。それが普通の仕組みだ。
だが、稀にいる、起きた瞬間から寝るまで、毎日繰り返す時間を全て鮮明に覚えており、いつでも思い出せる者。メアリ自身はそう言う体質、そして逆に他者の記憶を扱って消えた様に出来るとは何とも皮肉な話だ。
レイルは忘れられないほどではないとはいえ、自分の記憶力の良さが、メアリから受け継がれている事を悟る。父マハイルも記憶力は良かったので、そちらの血だと思っていたのだが。
「今でも噂は残っていて貴族間で『忘却の姫』と言えば、青天使の少女を語ってくれる者が居ました。色々、消さなければいけない記憶を持った者が居たという事ですが。そう言えば彼女にはアリエルが世話になっているので、キチンと挨拶した方が良かったでしょうかね?」
その台詞で、自分が喋り止め、答えに反復するばかりでウットリしかけていたのに気付く。
「か、母さんにこれ以上、変な事を吹き込むなっ!」
レイルは咆えた。
「ふふ、御挨拶ですね……しかし『忘却の姫』が紫水晶の少年を産んだとは誰も知らないようです。厳しい情報管制が敷かれていますからね、貴方に対して」
その情報管制を掻い潜って、こうやって手を出してくるお前は何者なのか、そうレイルが問おうとした時、一段と薬が体を回って一瞬だけ浮上した意識が深く沈む。視界が歪み、ぼやける。
「そろそろでしょうか?」
レイルに彼の声が聞き取れなくなっていた。見れば瞳孔が開き、明らかに正気を失っているのがわかる。潤んで湿ったまつ毛に紫の瞳が正気も無く妖しく輝く。
「面白いですね、この薬。製法が残っていないのが惜しまれます。ただ、使い方が面倒ですね、趣味的には外れてませんけれど」
レイルは彼の口から黒い文字が溢れるのをボンヤリ見ていた。暗い室内のそれよりも黒い黒い言葉が文字や図形になってそろそろとレイルの耳に入りこむ。
脳に張り付いて体に溶け込む感覚にレイルは呻き、抵抗したが意味はなかった。
「貴方の母親の記憶を消す能力を、誰でも使える薬にしたいという試みで出来た、調薬と魔法による催眠術だそうです」
ポンっと弦の音が響き、意識が飛んでいた事にレイルは気付く。
いつの間にか、オレンジの髪の男は傍らに立ち、撫でまわすのを終えていた。遠のきかけた意識が鮮明になり、気持ちよさが僅かに落ち着いていた。それでも彼が触った感覚が消えない。体が熱くて、汗が垂れ、痛みとは違った快楽という苦痛に苛まれながら、彼の手に銀色の琴が握られているのを見た。
「催眠術……俺に、何をしたんだよ」
「残念ながらこれは記憶を消す事はできず、被験者をただ操るだけだそうです。それもたった数分、一度だけ」
「あ、やつる」
レイルはゾッとした。この何を考えているかわからない男の手先に数分とてなる事が如何に恐ろしいか、考えただけで背筋が寒くなる。だが、彼は笑う。
「もし拒否するならアリエルにプレゼントしましょうか?」
「や、やめろよ、あいつに、ファーラにもう何もしないでくれ。それぐらいなら俺が受ける」
「良い子です……」
うける、そう言った途端、レイルの体から僅かな黒煙が上がる。その煙の禍々しい文字に、彼の言う所の催眠術が完成した事に気付く。最後に本人が承認しなければ受け入れられないそれに、安易に了解を取ってしまった自分の迂闊さを呪いながら、焼け付く痛みに叫んだ。
「「玉」で作った薬はいくらでも量産できますが、白い方の薬はそれで最後ですから、アリエルに使う事はありませんよ、安心してください」
「だ、だましたな」
「いえいえ、暫くは私が直接アリエルに手を出さないと約束しましょう。さて、ある条件下の元に、貴方は私が掛けた魔法の衝動に駆られる事になるでしょう。頑張って耐えれるものか私にも解りませんけど、まあ、頑張って」
「頑張って耐えろって……かけた本人が言うのかよ」
「ふふ。では、今からメアリ夫人との約束通り、貴方を解放します」
「えっ」
「目覚めて次、私を見たら全速力でお逃げなさい。攻撃に回りますので。色々契約があって大変です、私も。では、おやすみなさい。今、暫しの休息を」
「ま、待てよ……」
「そう言えば、アリエルに何かあるかもしれませんが、ふふふ。よろしく伝えて下さい」
「そんなの、伝えるわけがない……だろ……ぅ……」
嫌な予感だけを残して、彼は笑いながら琴を鳴らす。
直で鼓膜を打つ旋律に、レイルが耐えられる事はなく、眠りの縁に突き落とされる。
無邪気に笑うファーラに隠れた苦悩の影は、この男からもたらされている。断ち切ってやりたいと思うが、全く何も立たないどころか、変な薬や術までかけられて歯噛みする。
だが抵抗虚しく綺麗な音を聞きながら、眠りに落ちた。
次の瞬間、
……と言ってもレイルは暫し眠っていたのかもしれない。
突然どこかに放り投げられる感覚とほぼ同時に体が地面に叩きつけられる。
「な、何?」
どこか、オーバーラップする状態だったが、自分が居るのは馬車ではなく、暗い部屋でもない。既に目の前は砂ぼこりに銀の文字。
倒れた時に手を付き触れた地面に玉砂利が敷き詰めてあった為、ここが祠の入り口だと知れた。
「しゅうやく」
煙は瞬時に消えた。石で造られた扉は吹っ飛んでおり、まだ青い空、走り抜けてきた黄金草原の緑が目に入った。
あの腹が立つ、どこまでも理解不能な少年、いやオレンジの青年の姿はない。目の前に現れたのは、真白のシラーだった。息が僅かに上がっていたが別れた時から、彼に変化はほぼ見られなかった。
レイルは自分が服を着ていて、鞭で叩かれ割かれた痛みも、与えられた快楽ももう無い事に気付く。指で拭ったが右の頬や首筋に大きな傷を感じなかった。
ポケットには懐中時計と花が入ったガラスの重みもある。耳にはきちんと鎖で繋がれた耳栓に、精霊の祖母から預かったリングも二つ輝いていた。
「ゆ、夢落ちとか、冗談だろ」
「レイル様!」
「え? ファリア、お前ッ」
シラーの隣を抜けて、走り寄ってきたファリアは全体的に煤けて、額から血が滴っていた。手に握られた剣は同じ色に染まり上がり、刃こぼれが見える。
「話は後で。まだ終わってないのです」
「え?」
「この丘を登り切り、走って樹海へ逃げて下さい。先に神殿都市へっ」
ファリアに引き上げられるように立ち上がったレイルは祠を出た。
丘の下に、そして草原に人影はない。だが強い風がレイルを後押しするように吹いていた。
「早う、行かせるのじゃ」
耳を塞いでいるレイルが気付いたのは声ではない。
自分の真上に大きな影が降って来て、見上げてその口を読んでそう言われたのを知る。
鷹のバックルでまとめた長衣に薄いマントを揺らし、年老いた者が杖を片手に浮かんでいる。魔道士長セレフィードそのヒトだった。
レイルにはその足元に魔方陣が見える。
魔道士長は更に上空に浮かぶ天使達が着地できぬように、風の壁を作り上げていた。
上空からは無数の矢がレイル達の居る場所に向けて撃たれている。その矢を全て魔道士長は弾いていた。だがその膠着状態では埒があかないと踏み、上空の数人が地上に向けて降りようとする。
その全員を押し留めるなり、倒すなり出来ないと踏んでいるのだろう。そうでなければ祠にレイルが居るままにして、戦闘を終わらせて彼を起こせばいい。そうしなかったのは彼をここでは安全に守りきれないとの判断があったから。
レイルは降りられぬ天使の中に、オレンジの髪にミルクを溶かした緑の目をした男を見つけてハッとする。綺麗な白羽根に覆われたその翼を大きく広げ、見えないはずの視線がレイルに絡み、戦慄した。
何と美しい白き翼だろう、シラーの純白とは違う、オレンジに映える象牙色。キラキラと光輝く蜜柑色の髪は悲しいほど透明で光に溢れて見えた。
ファーラの兄、見た目は違い過ぎるが間違いなく彼らは兄弟なのだろう、弓をキリキリと絞る姿勢の良さや体の輪郭に、剣を構えるファーラのソレが重なる。
何故あんなに美しい青年が、狂気の中に佇んでいるのか……そんな事を検索している場合でも無く、レイルは目を逸らし、丘へ駆け上がる。
「ちれ」
散れ、そんな簡単な語句と共にシラーは剣に魔法を纏わせてを天に放ち、側に降りる天使を阻み、矢をへし折る。
魔法に撃ち崩れ、空から力なく降ってくる天使がべちゃりと地面に激突して崩れた。鮮やかなまでに命を刈り取る、真白の魔導師が放つ見えない剣の刃が舞う。
一方、小さい摩擦音の後、レイルの数メートル手前に棒切れが付き刺さる。
その驚きで見上げたレイルの視界に、もう青い空はなかった。
夜とは違った墨色に塗りつぶされた汚らしい空。その黒が空に浮かぶ天使達から滲み出しているのを見た時、彼は捕らえ所のない恐怖に身を凍らせる。
「レイル様、いそいでっ」
「あやつの矢は鋭いのう」
魔道士長がそう評したのは、オレンジの髪をした彼の矢。
撃ち放す数は少ないが、強風の中、シラーが穿った穴から正確にその隙を狙ってくる。自分達側から届かぬ攻撃も、シラーが放つ攻撃が届く事で、僅かな穴を長が開けているのに気付いた様子だ。
ファリアはレイルの背を押しながらも、剣を鞘に戻して透明なペンを中空に走らせた。シラーが使った穴を即座に埋める為、光の壁を作り、それを空間移動させて亀裂を塞ぐ。
「とにかくこの丘を登り切って、樹海を抜けて都市内へ入って下さい、レイル様」
「東を守護するラファエルの吐息、道を定めよ! 急ぐのじゃ」
「ちれ」
耳栓をしたレイルに言葉を聞く事は出来なかった。だが、魔道士達の言葉を背に感じ、先程休んだ老木を通り過ぎ、丘の完全なる頂上に立った。
「これ……」
レイルは躊躇した。
彼が登りきった丘、その反対に丘はなかった。それはそこから突然切り立った崖になっていた。
200メートルは垂直に落ちた下。
そこには鮮やかな緑であふれた森が広がり、遥か先に町が見える。神殿都市ヴァルハラ、王冠のように漆黒の神殿を載せたその威風堂々とした街。
ここから先は飛ぶ事は許されないが、レイルに飛べる翼があるならワザとに飛んで、掴まって助けを求める事も出来るだろう。
だが、レイルにこの崖を飛び下りるのは、死ねと言うのと同じだ。引きつった彼に、ファリアが抱えてくれるのではないかと甘い考えを抱いたが、
「魔道士長が風の魔法で支えます、行って下さい」
「解くぞ、良いな2人とも」
風が、ふと、止んだ。
「ご無事で」
「待っ…………」
魔法で支えると言われても、そう簡単に高所から飛び込む覚悟などできない。そしてその時間が取れないので、ファリアは精一杯の一言を唇の動きで伝えて、レイルを中空に押し出した。
長が作った風の壁が消えると入れ替えに、ファリアがガラスペンで防御壁を展開する。それも巨大化させるために呪文も付加させた。
レイルを押し出す時間とペンを走らせるタイムラグを縫って、矢が飛来するのをシラーが折り刈る。だがどうしても折り取れない数本が、3人の魔道士を貫く。
長は怯む事なく、レイルが落下する速度を緩める事に集中する。何かに守られるように、だがそれなりのスピードで落下していくレイルの体。
それを見ながら、オレンジの髪をした男は今までになく鋭く弓を絞った。
「シラー、あれからレイル様を守るのだっ」
「っ……」
シラーは長の言葉を聞く前に地を蹴っていた。純白の4枚翼を惜しげなく広げ、剣を構えオレンジの髪をした彼の胸元に飛び込む。それだけで怯むかと思ったが、彼の意に反して、弓を構えて身じろぎしない。シラーの切っ先はオレンジ色の髪を切り付け、彼の左肩に朱を散らせたが、全くブレる事無く矢を放つ。
「しまっ!」
にやりと笑いながら、落下するオレンジの男が手で番え、同時に放たれた矢は2本だった。
1本は風の守りを失った長へ。
もう1本はレイルへ。
ファリアの防御壁の展開が薄い所を狙って、的確にそれは飛んだ。
シラーの剣で弾き飛ばそうにも、時すでに遅く、更に前衛に出た為、彼の前にファリアの防御壁がない今、他の天使からの集中攻撃を1人で受け止めねばならなかった。
レイルに矢を避ける様なスキルはない。また、風の魔法でレイルを降ろしている長は無防備状態になっている。
「そ、んなのっ……」
ファリアは混乱する。
彼にとって、レイルは自分の立場で1番に守らなければならない紫水晶の天使。
彼にとって、長は幼い頃から可愛がってくれた、血よりも濃い恩を受けた魔道士。
「選べませんよっ!」
ファリアはガラスペンで作った防御壁を、素早く長の前に空間を扱う能力で投げる。
もう1枚を描き飛ばしたり、弾き飛ばす為にペンを振るったりする暇などなく、落ち行くレイルと矢の間に飛ぶと、体を張ってそれを受けた。
「ふぁ、りあ?」
「ご無事で、何より……」
後追いで更に降る矢の全てを受け止めるうちにファリアの口から溢れ、降り注ぐ赤い血液と共に、樹海の中へとレイルの体は見えなくなった。
フラフラと歩くレイルを、小鳥が不思議そうに眺め下ろしている。
大木は風に揺れて、明るい緑に色付いた葉の隙間から木漏れ日を落とす。木々の根元には細いせせらぎが至る所に流れ、足元が悪い。
彼は靴を脱いで抱えるとそのまま水の流れを踏んでいった。苔が張り付いた岩に足を取られそうになりながらも、澄んだ水飛沫を上げて少しでもその場を離れる。土は落ち葉が積もっていて柔らかく、小枝が度々痛かったが、怪我をするほどの事はなかった。
じきに水の流れが少なくなり、乾いた場所が増える。レイルは綺麗な水たまりを選んで足を洗った。喉が渇いたが、飲むには勇気が要って断念する。喉が潤うわけでもないのに反射的に乾いた唇を舐めた時、僅かに血の味がした。
「これ、ヤツの血……」
腕に鎖で繋がれて無茶に捻った痛みが残っているものの、手足や体を見ても、鞭で打った傷はない。一番酷いと思われた右頬から首に走った傷もやはり感じない。だが唇に残ったその味に嘔気がした。だが、吐くモノも無く、苦しく喘ぐしかできない。
加えて、頭痛に熱も上がって来て、寒気を感じたが、レイルは靴を履くと、ゆっくり立ち上がり歩を進める。
樹海と言っても光があるので、不気味ではなかったが、夜になれば抜け出られなくなるかもしれない。魔が住んでいる可能性もある。そんな考えもあったし、自分に似せた少年が矢を浴び、血を流してまで切り開いた道を歩む事でしか自分の存在を感じられなかった。
「空、曇って来たな」
レイルは一度だけ大きく空を仰いだが、文字や図形で埋まった禍々しい黒い空はもうない。ただ夕暮れを前にした後僅かな時間の青空と遠くから暗い雲が流れて来るの捉えるだけだった。追手も無ければ、待ちわびる魔道士の影もない。
心底疲れた顔をフードで隠しつつ、やっと見つけた道を辿る。そして停留所に止まっていた乗合馬車に転がる様に乗り込んだ。
天気が良いので、幌も付けていなかった馬車。樹海を抜けるこの地区は飛行規制があるが、空から奇襲をかけられても視界だけは確保しておきたいレイルには丁度いい乗り物だった。
学生証を使えば無料であったが、顔写真を晒したくなくて小銭で乗り込んだ。
「気分でも悪いのかい? 変な所で乗り込んで来たけれど」
「は、え、大丈夫です」
乗り合わせた気の良さそうなおばさんが話しかけてきたが、そう答えるだけで精一杯だった。
頭痛がする頭を抱えながら、馬車の揺れに耐える。魔道士が用意した馬車の乗り心地の良さが懐かしかった。何だか一気に逃避行をしている態になったと思いつつ、たまに回りを警戒する。ここでランチャーなど大きな武器で攻められれば、そのおばさんも、馭者も馬も一緒に吹き消されるだろう。だが、もうレイルに歩く気力はなくて、それを思いやって馬車を降りる気にはなれなかった。
レイルは気持ちの悪さに耐えながら、少しずつ自分の状況を探った。
鏡がないので見る事は出来ないが、落ち着いて触ってみると、唯一、首に刃物を当てられたそれだけが皮膚に残っているのに気付いた。身なりは元に戻したのか、持ち物に過不足はない。あるとすれば得体の知れない術をかけられた体。
レイルは自分に与えられた薬の体感や見えた記号、途切れながらも覚えている事を整理する。
キラキラ輝いていた水晶の「玉」で作った薬は傷を癒しながら、浸透する事で痛みを愉悦に変えて脳を支配する。本能に直接訴える極端な快楽にて、正常な思考判断能力を奪う。
その後、口に注がれた薬の能力を高める役割を果たしながら、脳に働きかけて血を持って術をかけた者の言いなりにしてしまうのだとレイルは判断する。
それも言いなりにする時間は短いが、時限式か……何か切っ掛けがあれば動くらしい。いつ彼の意思がこの身に働くかは全く不明。それをわざわざ口にして教えるのだから、悪趣味にも程がある。
調薬と魔法による催眠術、もともとは母の忘却の魔法を、薬でやれるようにしようとして、誤って出来たもので、話を鵜呑みにするならば、もう在庫はないらしい。
「誰が作ったんだろう? それにしても、まずいのかな」
喉元過ぎれば、痛みも消えて、何事もなかったかのようだと思う。
だがすべては夢の中のように見せながら、一筋の切り傷や唇の味がレイルを悩ませる。どこまでも嫌なやり方だと思った。
母メアリの事も気になった。
ファーラの事も気になった。
身を挺してくれた魔道士達の事も気になった。
でも何も解決はしないまま、少し黄みのかかった日差しが降り注ぐ頃、レイルの通う学校や家からは随分離れている街、ヴァルハラにたどり着いた。
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