表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/40

意図せぬ者、愛しき者

いつも覗いて下さっている方、本当に感謝です。

始めて来られた方、ここまでお読みいただき有難うございます。

お気に入り登録下さった方、感想下さった方、感謝です。

すごく励みになります。


 感謝を述べるべきなのだろうか。

 悪意で植えつけた感情が、彼の心を優しき緑に育てた事に。

 彼が居なければ、このテーブルの前に俺はもう…………














「お前、ちょっとは食えよ。今までも食ってなかっただろう?」

「そうよ、レイル。貴方、隠して捨てていたでしょう?」

「う……き、昨日の昼は食べたよ」

「き、の、う、の、は、なのね、レイル。本当に捨てていたのね。お母さん悲しい……」

「あ、え? ご、ごめんよ、母さん」

「本当に食ってないのか、レイル。そんなだから病気も治らないし、身長伸びないんだよ」

 そこまで来て、2人にカマをかけられていたのだと気付くレイル。

「……ふ、2人は仲良しだね」

 その台詞に2人は顔を見合わせて笑う。

 ファーラとメアリ、この2人の方が、本当の親子らしいなぁと、レイルは思っていた。



 黒天使のファーラはいろいろあっても、見た目は体格が少々良いだけの少年。料理が好きという共通の話題もあり、2人は街に買い物へ出たり、のんびりお茶をしている事も多い。

 それに引き換え、歩いているだけで目立ち、医学書を読み漁って記憶し、目に見える文字や記号を記すのに時間を費やす社交性の低いレイル。

 幼い頃に母と連れ立ち何度か買い物へ出た事はあった。だが、回りの目が普通に見ているのではないのに気付き、避けるようになり、メアリも宅配のように魔道士伝いで物を取り寄せる生活をしていた時期も長い。

 もう決まった店の店主なら、ちょっと珍しい少年くらいに取ってくれるが、そう言う風になってももう一緒に出る機会はなくなってしまっていた。



 そしてそれは買い物に限らない。

 父が床に付き、滅入った彼女を病院以外の外に連れ出し、話しかけて。家でも折につけて、心安く過ごせるように、本来は実の息子がすべきことをしているのはファーラだ。そこにあるのは計算ではなく、優しい思いやりの心と信頼。

 メアリが自分を母と呼んでいいと言ってからは、家族として、息子として、居候ではありえない気持ちをファーラは手向けたから、彼女も母として応えるようになった。でも遠慮がないわけではない、その紙一重は本当に理想的な子供と言えた。

 彼の成育歴のどこを繋げたらこんなに良い子になるのだろうと思える。



 ただ買い物に行く事や、話を聞き、美味しそうにご飯を食べて笑う……おおよそ「普通」でやれそうな事すら、出来ないレイル。それを無理せず、自然に埋めて余りある彼が羨ましかった。

 しかし辛く生きてきたファーラが安らいでいるのは友人として嬉しく、そして何より母との間を潤滑にしてくれる感謝がそれに山積みされて、妬みを持つ事はなかった。

 居なければ困る、その思いが強い。

「お願い、少しで良いから食べて。今から出かけるのでしょう?」

 母の細い声はレイルの耳には入らない、でも口が小さく、抗議しているのに気付き、

「食えよ?」

 ファーラの一押しで、レイルは頷いた。



 夜は寝つきは悪かったものの、レイルはとりあえず眠る事が出来た。

 悲鳴に近い誰かの声が耳の奥で聞こえ、祖父の泥の混じった黒い瞳と金の瞳……それにまた睨まれる夢を見て飛び起きた。

 この間のような臨場感はない。

 自分の気持ちが作り上げた夢だとわかると同時に、逆に前に見た祖父母に過去や魔の瞳が本物であったと知れた。そのせいか、気持ちは重く、沈んでしまう。

 しかし頭痛は消えて、熱は下がり気味。

 だから、本当は学校に行きたいと思ったレイル。生徒会の事も気になっていたが、北の上級学校からやってきている女史、ソネットに聞きたい事があった。

 だが今日は朝からシラーと副魔道士長と一緒に、その副長の親戚という天使に会いに行く約束になっている。

 その旅路をメアリもファーラも心配してくれている、想ってくれているのだからと粥を飲み込んだ。体は食物を要求し出しているのか、塩が体に染みて卵のたんぱく質が舌に美味く感じた。

「うん、ほら、ちゃんと食べられるよ。……で、母さんはその天使知ってるの?」

 美味しいと思い、もう一口運ぼうとして手が止まる。今、食べた物だけでお腹がもういっぱいに感じてしまった。その量、大さじ一杯。

 この食欲の無さは何だろう? 集中して記号や文字を記している最中でもないのに。そう思いながら、仕方なくレイルは食べている態を繕う為、粥を崩してはスプーンに残った塩味を舐める。

 余り行儀がいいとは言えない事を繰り返しながら、今から会いに行く天使に付いて話を振った。



 メアリは行儀を注意するべきか、食べようとする努力を認めるべきか、迷った顔をしながら、

「ええ、貴方が生まれた時、鑑定して下さった方なの。けれどもね……レイルの能力はわからないって言われたのよ? 天使界一の「鑑定」能力を誇るそうだけれど。今まで放置していたのに、こんなに調子が悪い時に連れ出さなくても良いのに」

「少し動くくらい大丈夫だよ。だいたい馬車で行くから、乗っているだけ。急げば日帰りだってできる距離なのに、往復はきついだろうって宿も取ってくれたんだし」

「それはそうだけれど」

 メアリはまだ文句を言いたげに、カップに入った飲み物をゆっくり飲む。

 部屋の中にはコーヒーの匂い。だがレイルは母親のカップにはコーヒーではない何かが入っていて、父親の席に置かれたコーヒーの香りで騙されていたのだと知っている。

 その違和感にファーラは気付いていない。彼は彼女を信頼しているので疑う余地は無く、叔父との関係や腹の子と色々と訝しんでいるレイルでさえ、昨日まで気付かなかった。

 聴覚を塞がれているレイルは他の感覚が優れている、それを看過させてきたメアリの態度に気付いてしまったと言うのに、どう対処していいのか思いつくには時間と余裕がなかった。

 それは何? レイルはたった一言が言えないまま、メアリの手元を見ていた。



「この具合が悪い原因がわかるかもしれないって言うんだから、仕方ないよ、メアリ母さん」

 旅行に少々反対している母親に、レイルが戸惑っているとでも思ったのか、ファーラはそう口を挟む。

「そうね、仕方ないわね……」

 反復するようにそう言った後、メアリは溜息を吐いた。

 大きな秘密を抱える母にはこれ以上、自分の心配まではかけたくない、レイルはそう思うが、上手い言葉が見当たらない。



 亡くなったと思われていた祖父ランスを模る魔が、金天使および、自分に連なる者を根絶やしにしたいと望んでいる。レイルが見た内容と、叔父アレードが掴んでいる状況と重ね合わせたシラーは、それで間違いないだろうと結論付けた。

 シラーの報告を聞いた魔道士長が進めてきたのが今日の旅。

 旅の理由にはファーラの言ったように、長引く熱と頭痛の原因を探る事も含まれていた。

 だがそれはメアリに変異魔ランスの事を言わないまま、心配させずに、レイルを外出させる為に魔道士長が作り上げた強引な理由。

 本当の目的は、魔力、および剣も不慣れで対抗が出来ないレイルの身を案じて、せめて「譜」を起動させられる魔力だけでも回復させたり引き出せたりする方法がないか、対象とする天使の持っている素質や能力を見抜ける「鑑定士」に見てもらう為だった。



「その鑑定士が来てくれればレイルが行かなくてもいいのにな」

「そう魔道士長が要請したらしいけれど、何だか忙しい天使みたいで、それは難しかったみたいだよ」

「そうね、暇な天使ではないと思うわ。でも行っても無駄足になるかもね」

 愚痴に近い呟きを母は続けながら、誰もいないのに食事を置き続ける席に目を向けた。

「信用は……しているのよ。サイファの病気を見抜いて下さったのはその方だし」

「さ、さいふぁ?」

 レイルはどこかで聞いた事のある名前だと思った。だが一瞬では出てこない。

 それでも記憶力に長ける彼は、すぐに思い当たる。ソネットから借りてきた黒い装丁本の中で、父マハイルと彼女の姉バイオレットの会話中に出て来た天使の名が「サイファ」だった事に。



「サイファって誰?」



 至極直球の質問に、言葉を詰まらせてしまうメアリ。

 何度も頭で繰り返して、上手く喋る事ができると思って、自ら口にした話題なのに。困った彼女はファーラを見る。

 彼は少し深めの瞬きをして、その責を自然と引き受けた。

「レイルの兄さん、だってさ。俺も数日前に聞いたんだけど、そこの席の食事はその天使の為」

「何それ……聞いてないよ?」

 レイルは聞いた事のない家族の存在に混乱をきたす。

 ファーラには話せて、自分は知らなかった事に追言しなかったのは、自分より明らかに母と関わる多い彼に対し嫉妬がなかったからだ。ここでそれまで絡んできたら更に悲惨な話になっていたが、それがなくてもレイルの戸惑いは消えない。

 メアリは名前を口にしただけで、涙が止まらず、側に置いていたエプロンを引き寄せ、顔を埋めていた。

「お前が生まれた頃に天使界を離れたって。大きくなったから話そうと思っていたけど、マハイル父さんがあれ、だろ。タイミングがなくて話せなかったって、さ」

 ファーラに話した時は笑って言えたのにどうして同じように出来ないのだろう、メアリは滲む瞳でレイルを見やる。霞んだ視界に居る彼に、幼いままの長男サイファが重なる。

「瞳の色以外はレイル、貴方にそっくりだったのよ」

 兄サイファが天使界を去りし時の年頃に近いレイル。その姿が似すぎているから冷静になれないのだとやっとメアリは気付いた。だが気付いたからとて、どうしようもなくハラハラと涙を零す。口にしてしまったモノを、もう回収する事は出来なかった。

「俺のセイ?」

 一方、レイルは戸惑いを押し殺し、顔を歪めまいとした。

 昔よりは各段に表情が出るようになった彼だったから、辛い気持ちも顔に出てしまう。それを押さえた事で、彼は淡々と事実を聞こうとしている表情のない顔になる。

「俺が生まれたからその、サイファって子はどこかに行くことになった?」

 メアリの答えには間があった、僅かではあったがそれは肯定だった。

「それは違うわ」

 その間を埋めようと彼女は言葉を紡ぐ。

「それだけではないのよ? そう誤解されたくなかったから、大きくなって理解できる頃……そう、あの子が天使界を離れた年……9つまでは黙っていようとマハイルと話していたのよ」

メアリが言った「それだけではない」という言葉は、「全く関係がない」とは違う。他にも理由はあったのだろうが、レイルが生まれた事が全く無関係ではないと取れた。



「その鑑定士の方がね、サイファが暗黒の天使(ダークマター)だって、気付いて下さったの」



 メアリは何とかして言葉を紡いだ。

 感情的になっている彼女に引き換え、レイルは出来るだけ冷静に頭を回転させる。

「小さい頃から体の弱い子で、魂がどうとか。マハイルはすぐにわかっていたみたいだけれど、レイル、貴方わかるかしら?」

「暗黒の天使は病気と言うより特殊な天使で……魂を管理する冥界が乱れて、他界の魂が天使に入ってしまう珍しい現象……」

 レイルはどこかで読んだ知識を、まるで授業で当てられた生徒のように口にした。その声の抑揚の無さ、表情が消えた事にメアリが気付く余裕はない。

「私には難しい事はわからなかったけど、天使界では長く生きられないし、その魂の世界に戻ったとしても、体は天使のモノ。次は体が崩れて亡くなる確率が高いらしいの。事実、サイファ以外に4人いたのに。彼らは先に魂の世界へ旅立って行ったけれど、生存者は誰も居なくてね」

「生存率ゼロ……かよ、そんなに厳しい病気? なのか? レイル」

「……でも行かなければ確実に待つ死。それも魂がそうやって食い違う事は珍しいから、それに気付いてもらう事も難しい。その中で更に生き残れるのは、多分もう運のレベルだよ」

「私は……誰も知らない土地で1人死ぬより、天使としてここに居て欲しかったの」

 またメアリの瞳から止めどなく涙が落ちる。

「でもサイファは旅立ったの。貴方が……」

「俺の側は危ないからだよね」

「ちが……そうじゃなくて……」

 説明しようとするメアリの言葉を断ち切るようにレイルは言葉を重ねる。



「あっちでサイファ、その子はどうなったの?」

「ええ、あの子は無事だったわ。賭けに勝ったのよ。こちらとは時間の流れが違うから、もう25歳くらいで。竜騎士になったと聞くわ」

「竜? って、ドラゴン?」

「そう、何でも飛ぶ竜らしいわ」

 天使界に竜は居ない。

 竜は古代、天使界にもいたが、サタンはその頂点たる王竜を駆り、他の竜を射殺してしまった。彼の乗り物となった王竜は、彼が滅される時、運命を共にしたという。

 今、天使界に居る竜は精霊界など他の世界から借りたか、魔法で作ったり呼び出したりしたもので、それすら数も少なく殆ど見た事がなかった。



「それより、ねえ、レイル。サイファが旅立ったのは何も貴方がその瞳だからだけじゃないのよ? 暗黒の天使だったから、行かなければ今はもうこの世に居なかったの。貴方が居たから生きているん……」

「わかった、もう、わかったから……ごちそうさま。俺、準備があるから」

 レイルは会話を終わらせるために席を立つ。

 もう少し説明させてと言うメアリの口を読めたレイルだったが、見ていないフリをして自室に戻る。「別に、大丈夫だから」そう言い残して。

 説明を聞いても、自分の存在が兄をこの家から追い出した事実は変わらない。それならば、身重の母に負担をかけてまで、話を聞く必要はないと思ったレイル。彼なりの母に対する思いやりだった。

 それに今は、祖父ランスの体を持った魔の方が頭にあって、長く目覚めない父に、腹の中の子に……もうこれ以上は許容オーバーだった。



 メアリの口から洩れたのは深い溜息。レイルにそれは届かない。

「……あの子、難しいわ」

「メアリ母さん……」

「マハイルならもっとうまく言えたでしょうに私じゃダメね。レイルがサイファをあちらに行かせてくれたの。私の決心なんてサイファを殺すだけだったのに」

 ファーラは「どうして今日だったのか、タイミングが悪いよ、メアリ母さん」と心の中で呟く。レイルの容姿から来る悩みはいつもの事だが、今の彼には身内が魔に堕ち、それも標的が自分であると言う厄介な事態になっている。数日前にはレイルを狙った爆発騒ぎもあった。

 だが、メアリはいずれも知らない。

 それは禁句である為に制止できないまま、口を噤んでいた彼。何とか取り持とうと考えたが、レイルの席を立つタイミングが早かったため、形にならなかった。

 気落ちしているメアリを何とか出来ないモノかと、彼は頭を巡らせ、

「俺に昔の事なんてわからないけれど、メアリ母さんは精一杯やっているよ? ほら、レイルの奴、具合が悪いから虫の居所も悪いんだと思う。落ち着いてから話せば、きっと聞いてくれる。そういえば、2階のあの開かずの間って、レイルの兄ちゃんが使っていた部屋?」

「そうよ」

「じゃあ、帰ってきたら、あの部屋でも見せて、またじっくり話せばいいだろう。家族なんだから、切っ掛けさえあれば、分かり合える」



 ファーラは言いながら、家族だから話せばわかるなんて言うのは幻想だと知っていた。

 5年前、生き別れた兄と最後に言葉交わした時の悲しさは忘れない。気付いてもやれず、細いながら幸せを分かち合っていたと思っていたのも幻。

 現実は痛くて、残ったのは心の傷と汚い体、虚しくすれ違う気持ちだけ。

 それでもファーラは思う。

 親友と家族、その末端に座らせてもらった者だから。

 幻想ではなく、切っても切れない絆がここにある事を信じようと。そうする事で、自分と兄の間にも絆はきっとあるのだと思いたかったから。

「俺、レイルを見て来るから」

 急いで手元の食事を済ませると、ファーラはレイルの後を追いかける。

「ファーラ君!」

「んんっ! っ?」

「ふふ。本当に、ありがとう」

 ファーラは口の中にまだパンが入っていたので、返事は言葉にならず、軽く笑って、ただ少し首を傾げる。彼にとっては改めて感謝を述べられるような事をしているつもりはないのだった。



 メアリは彼の仕草に笑う。

 彼女は詳しく彼の素性を知らされていない。

 家で虐待があったのは傷を見た事があり、父親が丁度偶然あの同じ夜に火事で亡くなったのだけは聞き及んでいる。兄は行方不明、そしてレイルとは相性が良く、親しげで、好印象の少年。

 レイルが望み、ジュリアの口添えでここに住まわせるようになった。

 聞けば彼は母親に抱かれた記憶もないと言う。産んだその日に産後の肥立が悪く亡くなったとファーラは彼女に説明した。さすがに逃げた制裁として父親に殺されたとは伝えられず、あの日まで信じていた身上を伝えるに止まった。

 メアリは会った事も無い彼を産んだ母親に感謝し、とても素直な良い子に育っていますと心の中で話しかける。もう、息子の1人となった預かり子に、明るい未来が待っているようにと願う。

 これから半日もしないうちに、兄との間に伸びる、腐りきった絆の影を彼が踏む事になるとも知らずに。



 その不幸に気付かず、背を見送りながら、メアリはカップの中のモノを飲む。

 誰もいないと顔を思わず顰めたくなる不味さ。毎日3回、欠かさず飲むよう指示が出ている。

 お腹に入れてもう2年以上経つのに、まだ目立たない自分のお腹にそっと触れた。その時、炭酸の泡が数個弾ける様な何かを腹腔で感じる。初妊婦ならただ腸が動いただけだろうと思う感覚。

 でも経産婦の彼女には懐かしい……胎動だ。

「でも、まだよ。良い子だから。まだ出て来ちゃダメ」

 すぐに消えた初胎動にそう小さく語る。

「私はダメな母親ね。サイファも見捨てて、レイルの事は手に負えないし、この子も無理させてる。でも、それでも皆、愛しているのよ」

 片付けられたキッチン、女としての城。

 新婚の時、マハイルとこの家に入って、2人で幸せを誓ったのは遠い昔。



 5年前のあの夜、「玉」の存在など知らないメアリは、倒れた夫の側で呆然としながらやり取りを見ていた。止まった心臓が動き出した時、確かに感じた希望の蕾は5年間、開く事ないままだ。

 開く事はないけれどそれでも蕾を今も保てているのはレイルのおかげだと、信頼する医師の言葉にメアリは納得している。

 でもレイルが「もしかしたら」と、自分を責めているのをメアリは気付いていた。そんなに責任を負わずとも良いと声をかけてやりたい。だが、今日のように擦れ違いそうで言えない言葉。

「……ダメでもやれる事をやらなきゃ。ファーラ君が言ったように今度あの部屋でレイルにもう一度、言ってみましょう。……今日は何も言わず、笑って送り出すのが良いわよね、ねえマハイル、ねえサイファ」

 メアリは欠けた家族に同意を求め、涙を拭いた。そして泥とも、薬ともつかない、カップの中に入った、体に悪そうなのモノを全て飲み干した。













 レイルはあらかじめ便箋に書いておいた内容を一読し、内容に誤りがないか確認した。そして丁寧に折りたたみ、中に入れていたモノに引っかからないよう、そっと封筒に差し入れると固く封をする。そして黒い装丁本に挟んだ。

 その時、気配がして扉が開く。

 ドアは叩いているのだろうがレイルの耳には聞こえない。それでも誰が来るか、集中してない限りはだいたいわかる。それも顔を見なくとも、渋い表情をしているのは予想がつく。

「ファーラ」

「レイル、らしくないな」

 開口一番、ファーラはそう言った。

「冷静になるのと切り捨てるのは違う。メアリ母さんの話を聞いてやれよ」



 伏せ気味にしたレイルの紫水晶瞳に影が落ちる。

 憂うと一層暗さを増し、どこまでも深い底なしの沼を思わせる瞳。近付く者をただ撥ね付けるだけではなく、見る者を取り込む魔性を帯びている。

 見慣れているファーラでさえ、そう感じる今日の沈み込んだ紫色。

 天使の魂を怯ませる、冷たい冷気。彼自身が何を考えているかを差し置いて、妖しき美しさを湛えた紫水晶の瞳。

「レイル……聞くのが辛いのもわかる。俺はわかっているし、メアリ母さんだってわかってる。だけど、間を置いてでも良いけれど、ちゃんと話を聞かなきゃダメだ。お前の事だ、俺が言わなくてもわかっているんだろうけど」

 レイルは黙って、頷くしかない。

 理解できない訳ではない、他の天使の気持ちを汲むのは得意であったから。

 でも今はいろいろ重なり過ぎて、許容が難しい。それを耐えていられるのはこうやって耳に痛い忠言も押し隠す事なくしてくれて、その上で思いはかってくれる友人が側に居るからだ。



「そう、だよね。心配させたくない、冷静にと思ったけど、あれじゃダメだよな。わかった。帰れたら、ちゃんと聞くよ」

「帰れたらって、お前、縁起でもない事を」

「……本当にファーラって」

「ん? 俺?」

「ありがとう。いつも一緒に居てくれて」

 真顔で言われてファーラは照れたのか、口の中で、

「な、何、馬鹿な事を。当たり前だろ。レイルもメアリ母さんも……2人して急に何だよ」

 その後もごちゃごちゃ言いながら、それでもイソイソと自分用に与えられた机の整理をしだした。

 メアリも同じ気持ちで、感謝を告げたのだと彼の態度でわかる。

 それが分かったレイルに、笑いが戻る。

 きっとレイルがファーラにメアリと親子らしいと感じた様に、彼もまた逆に思ったのだろう。そしてそれが家族として嬉しいようで、その僅かな笑みはレイルも幸せにする。

 優しい新緑の色、どこまでも澄み冴えたその色はこの家を優しく守護していた。

「何だよ、レイル。あらたまってみたり、急に笑ってみたり、何だか気持ち悪いぞ」

「お前もだろう? 俺はファーラがここに住んでなかったら、悲惨だったろうなって改めて思ったから」

「何だそれ」

 レイルは黒い本の縁に触れ、「玉」を奪おうとかけられた球封じを、父が受け、倒れた、5年前のあの夜を思い出す。



「俺、父さんの「玉」を、ファリアの能力を使って、あるべき場所に戻したんだ」

「心臓も脳も、綺麗だって医者が驚いていたって、メアリ母さんから聞いた」

「うん、俺もそう聞いたし、何度も診たよ。けれど」

 医者として一般には伏せられた「玉」の存在や治療に関わる「玉」の取り扱いを知るに付けて、自分のやり方は間違いなかったと確信する。

「父さん、目覚めないからさ」

 ちゃんと資格を持った医者でもどうして意識を取り戻さないかわからない。それほど無傷の心臓、そして脳細胞、体の機能。

 全て備わっているのに、ないのは一番大切な意識だけ。

「あの時、心臓が傷つく事など気にせず、「玉」を突っ込んでいたら……もしかしたら……」

 メアリの予想通り、レイルはそう考えずにはいられないのだった。

 5年でレイルに募った罪の意識は、母メアリを遠ざけている。その上、誰の子かもわからないお腹の存在は重く、更に兄の話まで降り込んで来た。

 考えすぎないタイミングを見計らったように、ファーラがレイルに声を掛ける。

「で、それと俺が何か関係あるか?」

 こうやって彼にとって、呼吸するようにレイルとメアリの間でやっている事が、立ち込めかける霧を払拭してくれている。意識してやっていないのだから、何の事を言われているかわからないファーラは、綺麗な新緑色の瞳に疑問を浮かべる。

「わかんないだろうね」

 レイルはファーラの兄と言った白服の少年が、彼を扱いやすいよう根本に植え付けた「相手を無償に信じ、尽くせる」気持ちが、それを成していると推測する。その強さは期待していた効果を上回り、兄を失望させるほど、他人を恨まず、思いやれる清い少年を形成していた。

 悪意で植えつけた善意。

 これが彼にとって幸か不幸かはわからない。だがレイルにとって、彼との出会いは今の所、幸運だったと言える。

 そんな彼の自然な配慮が、レイルやメアリを助け、生徒会を任されるほどの人望を生んでいる。



 それでも多くの生徒の中、探しに捜してごく僅かに燻る火の粉を誰かが煽り、それによってファーラを蹂躪しようと計画していたのを、この時のレイルは思いもしなかった。

 タイムターゲットという名の遊びの延長上で。

 その僅かな種が、大人しく眠っていた彼の何かに火を点けてしまう事も予測にない。



 レイルが知る由も無く、嬉しそうに笑って、

「ファーラが居なかったら、母さんと2人では食卓を囲めなかったよ。きっとそんな勇気はなかったから。だから、ありがとう」

「んーーーーーー??? どうしてそう言う結論になるんだよ」

「さっきもファーラがフォローしていなかったら、俺、母さんを怒鳴ってたと思うよ」

「ンな事、ないだろう?」

「だから、ファーラが居てくれているからだって」

 お世辞でも何でもなく、父が抜けた時点で、母と息子ではなく、ただ屋根を一緒にする同居人とならなかったのは、何時も微妙に補佐してくれているファーラのおかげ。

 少なくともレイルはそう思っている。

 複雑な表情になっていくファーラに反比例するかのように、レイルはニコニコと笑った。珍しい満面の笑みと共に、感謝を繋げる。

「ファーラには大した事ではないかも知れないけれど、本当にありがとうって思っているんだよ」

「…………………………何か、頼み事でもあるのか? それとも、からかってるのか?」



 なかなか出来ない感謝の気持ちを口に出来てレイルは良かったと思う。ただそろそろ気恥ずかしくなってきたのと、本当に頼まなくてはいけない事を思い出し、手元のモノを差し出す。

「ああ、そうそう。頼みごとはあるんだ。なあ、面倒ついでにこれ、お願いできるか?」

「ん? それ……」

「父さんが関わっていた研究の本。銀天使について書いてあるんだ」

「シラーと少し見た。何だか難しくて俺にはよくわからなかったけれど」

「古語で書かれているから少し難しいかも。これ、借り物でさ、返しておいて欲しいんだ」

「図書館? ……じゃ無さそうだな」

「北上校の、ソネット女史。彼女に長く借りているから、ありがとうと言って返してほしい」

 借りて数日経つ、そろそろ返さないと失礼になる。ソネットにファーラを接触させるのはどうかと思ったが、他に返す手立てが思いつかない。



「へ、え……何か、あの女史と仲良いの、な」

「まあ、同じ医師を目指す者だから。もう彼女は免許持ちだけれど。これ父さんが書いたモノだって知って強引に借りたんだ」

「自分で返せばいいのに」

「一筆挟んだ。返すのが遅くなってもいけないし、何より返せないと……悪い」

「さっきから、何を言ってるんだよ。一晩か二晩で帰って来るのだから……あ、お前、もしかして、あんまり行きたくない? あそこは彼女……ユリナルの死んだ場所だから」

 ファーラはレイルを心配そうに見た。

 レイルが会いに行く天使が住むのは、この世界で最大、最高位を占めているルネ・フォース神殿がある、神殿都市ヴァルハラ。

 5年前、綺麗な巻き毛の少女が、凶刃に倒れた奉納舞が行われるあの神殿の街。

 自分の命が他の天使によって狙われている事を実感したその場所。



「ねえーーーーファーラ君、聞こえる? レイル呼んでくれる? お迎えが来たわよって」

 下階から声がする。ピクリとファーラの緑眼が動いた。

 耳栓をしているので声が聞こえるわけでもないのに、それだけでレイルは何がしかの気配に気付く。時間を見て、それが自分を呼ぶものだとも気付き、着替えの入った鞄を掴む。

「じゃ、行ってくる。本、お願いするよ」

「待て、レイ……」

「ありがとう」

 ファーラの言葉を聞きとめる事無く、レイルは部屋を出て、ワザとに扉を閉め、階段を下りる。

 引き留められたら、決心が鈍りそうだった。

 玄関で足元に巨大なネコ科の動物を侍らせて待っていたのはシラーだった。その頭を仔猫のように撫でているメアリ。

 先程の涙はすっかり忘れた様に、彼女は笑顔で息子を送り出す。

「行ってらっしゃいレイル」

「う、うん、行って来るね。ねえ、母さん」

「なあに?」

「話は帰れたら聞くよ」

落ち着いたレイルの態度に、メアリは彼の微妙な不安を込めた言い回しに気付かず、

「ええ、そうしましょう。それではお願いしますね、シラー、チャーチも」

 いつも無表情で、口数の少ないシラーはそれに小さく会釈する。使い魔のチャーチの方が代わりにグルッっと咆える様な声で答えた。

 扉を無下に仕切られた事で、一瞬出遅れたファーラがレイルを追いかけて降りてきたが、玄関口にもうその姿は見付けられず、手には託された黒い装丁本だけが残った。



せ、戦闘シーンまで入れると長くなるので切りました。


お読みくださった後に「読んだよー」など

一言でもいただければ。

いえいえ無理なら評価だけでも……

あ、ポチして下さった方、ありがとうございます。


お気に入り登録いただけたら飛び上がって喜びます。

前回登録いただいた方、ずっと継続していただいている方に感謝を。




 「これよし可愛い」が落ち着くまでは、こちらを二週一回更新にさせて下さい。

 ここ最近、ずっと週一更新にすると書いてきて、その約束を守れないのは心苦しいのですが、紫水晶の連載を止める気はありません。

 ですので、もう暫く二週一回更新で、紫水晶の方、お待ちいただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ