禍根と波乱
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気付かない、私の意図を飲み込んではくれない。
ならば、久しぶりの悪夢を堪能するといい。
ぼんやりしながらファーラは部活動の道具が置いてある着替え部屋に入った。更衣している人数は少ない。ちょうどファーラのロッカーの並びには誰もいない程度だった。
人が多かろうと少なかろうとファーラは必ず自分の背中が他の天使に見えない所、トイレや校舎の影まで服を握って移動した後に着替える。
今日もそうするつもりではあったが、素早く動く気力がなかった。
5年前、動きを制約するほど引き攣っていた背中のそれは、人魚のリュリアーネが称した「紫と銀の子の英断」で癒えて彼をもう縛る事はない。
全体的に不自然に白っぽく傷跡が残る。そして部分的にケロイドや深い溝を描いているが、癌化しそうな黒く焦げたような所もない。醜く酷い火傷とケガが悪化する事なくここまで癒えたのは奇跡だろう。
だがそれでも何もなかった事にはならない。
見る者が見ればまだ汚らわしく見えるのだろうと思うと、さすがに人前で思い切り、晒す気にはファーラにはなれなかった。
更に時が経過するにしたがって、逆に傷の一つ一つをどんなふうに受けたか思い出せる時が、ファーラにはあって辛い。
刻まれていく傷跡の記憶に、たった一つ、対抗できるのが友との繋がりを示す脇腹の手形。
襲い来る父の幻影から救ってくれる、優しい波動に今もまた触れる。
背中の傷を誰彼かまわず見せたいとは思わないが、出来るだけ体や心の傷より前を見ようと、ファーラは考えて生きている。
時折、夢で、幻で、胸が締め付けられる様であっても……死神と称され、傷つけられ、心穏やかに寝る事も出来なかった日々は終わったのだから。
「もう目的地には着いたのかな?」
体調を崩し、万全でない中、何かにとり憑かれたレイル。
彼がその時見た事実でシラー……と言うより魔道士長ないし政府にお膳立てされた旅。せめて体調がよくなってにした方が良いのではと言いたかったが、レイルは居ても立っても居られないと言う感じでそれを了解していた。
そんな友人の旅路を慮りながらも、今日は暗い何かにファーラの心は捕まっていた。
レイルとソネットと言う名の女史。
本を貸し借りしあっていたようだから、前から仲が良かったのだろうか? ファーラは考える。
でもレイルの何だと聞けば、「恨んでいる」と真っ直ぐ言い放つ女性。
そんな彼女がファーラには良くわからない。
レイルが旅に出る前に「返せなかったらいけない」と言い、託された本。
その2人の間で動いたのが銀天使に関する本であったから、もしかしたらレーヴェに関する何かを知っているかもしれないとは思った。だが、まさかあの夜に居たとは。
思い出せなかった自分が口惜しくもあるファーラだが、レイルはどう考えても覚えていただろう。それなのに黙っていた。
あの夜が明けた時レイルは言った『お前の好きな天使を傷つけてしまった、死んでしまうかもしれないくらいに深く、深く』と。
一体何をしたのか、泣かせても喚かせても聞けばよかったと、ファーラは初めて考えた。だがすぐにそう考えて後悔する。辛そうな顔をする友人の顔がよぎると言うのに、何と勝手なのだろうと自分をなじる。
「俺、心までも汚いんだな。あんな顔したレイルの口を開きたいだなんて」
ファーラは呟く。
ソネットはレーヴェをルナと呼び、彼女の今ではなく、「思い出話なら出来る」と注釈がついていた事が彼の思考を曇らせる。
消息の欠片が死を告げるモノなら辛すぎる。
「レーヴェ……ルナか……生きていないのか……? だから言わなかったのか、レイルは」
レイルが家に居るなら言葉通り飛んで帰り、話がしたかった。だがそうする事は彼を傷つけるだろうし、聞くにしろ聞かないにしろ、体調の悪さを押して、親友はシラーと出かけている。一晩は空けると告げていた。
レイルが本の間に挟んだ封筒を開けてみればよかったかもしれないとまで思って、否定的に首を振る。
「本当に俺、最低じゃないか」
どうしても考えやめる事も出来ず、額をロッカーに当て、項垂れる。白い鉢巻越しに傷と鉄の冷たさを感じる。
レーヴェが死んだ。
もうこの世にはいないのではないかと考えるのと、彼女の死を現実に突き付けられるのは違うのだと改めて彼は思った。レイルが戻ったら彼女を呼びに行く、その時に何を言われるのかと考え、心が重くなる。どうしても悪い方に考えてしまう。良い方の言葉が出て来ない。
「部活行かずにマハイル父さんの見舞いでも行くかな……」
レイルの父親の側には、その母親がいる。迷惑はかけたくないとファーラは思う。けれど、本物の母を知らない彼にとって、母性を感じさせる優しい眼差しは側にあるだけでホッとする。
レイルが休んでいる間、余り部活には顔を出さず、生徒会ばかりで、それも彼の体調が気になるから早めに帰宅していた。生徒会の仕事も丁度落ち着いて、今日は帰ってもレイルがいないからと、ノンビリ部活を幾つか梯子する気でいたのに。
ソネットの態度とルナの消息、黙っていたレイルの態度にすっかり彼のやる気は失せていた。
「急に行ったら、メアリ母さん驚くかな……」
安心感を求めて動こうとした彼からは、注意力が奪われており、不安と動揺の波はいつもはない隙を与えた。
ドンっ
気付いて顔を上げると同時に、誰も居なかったはずのそこに、現れた3人の学生がファーラに強く当たる。
あっと言う間の出来事だった。
ファーラの背中から、腰の帯が背後から服ごと断ち切られ、大切にしている銀の剣がベルトと鞘ごと奪われる。その上、気にしている背中の傷が露わになった事で、激しく動揺する。
「会長の服を脱がして、背中を見ろっを達成!」
「思ったより簡単なタイムターゲットだったな。会長相手じゃ無理と思ったのに」
「げ……す、すげえ傷……」
呟かれる言葉。ファーラは鈍る思考でこれがタイムターゲットの一環だと察する。
油断していたとはいえ不意を突かれ傷を晒された、それを悲しいとか苦しいとか思う暇も、叫ぶ間合いもなかった。
「ここからもっと楽しくなるよ」
誰ともなく口にした言葉と共に、鮮やかな緑を帯びた黒髪ごと頭を掴まれ、ロッカーに数度叩きつけられる。傷を見られた事で委縮した体は、脳震盪を起こした頭と相まって、抵抗の形を取れない。防御の魔法を展開する言葉も、そんな状態では形を成さなかった。
唯一、額を布で覆っていたので、額が割れず、切れた頭から流れた血が目にかからずに済んだ事ぐらいしか幸いはない。
顔には紙袋の様な面をかぶっていたが、彼らの服装には見覚えがあった。柔術系の部員が2人、剣術系が1人。3人ともさほど素行は良くない、ファーラはそう記憶している。
更に3人ほど影が増えた。その際に電気を消した為、日が当たりにくい上、窓の外に倉庫があるこの部屋は薄暗く、視界が狭まって誰か判別できなくなる。
ちょうどこの部屋に誰かが入ろうとしてノブをガチャガチャ言わせたが、開かない所を見ると内鍵をかけたらしい。ファーラは両腕を2人に掴まれて膝をついた形で、ロッカーに押さえつけられ、脹脛に1人がどんと乗った。
6対1。それでも剣さえあれば負けないと思うが、それを奪われている今、身動きも取れない。意識ははっきりしてきたが、着けた者の魔法を一時無効化するピアスをバッチリ付けられてしまう。
「くっ! 何が楽しいんだよっ」
「生徒会長さん、出来るヒトだけど、流石に多勢の急襲はきついか」
こんな事をして、ただで済むと思うな、ファーラはそう考えるが、口からその台詞が出る前にフラッシュのようなものが誰かの指先で光った。
「俺、魔法で写真が写せるんだ、綺麗に撮れてるよ、傷跡」
「なん、だと」
「これ、親に折檻されたんだって? エグイね。でもこんな事だけじゃないだろ、されたの」
「もう一遊びしようよ、生徒会長」
長衣が裾まで割かれ、否応なしに上半身裸にされ、腰に他人の手が這い、帯を切られたズボンは簡単に他者の侵入を許す。
「反応してるよ、やっぱり男でも良いんだ」
「そういうんじゃなっ……やめろ、触るな」
「副会長ともこんな事してるんだろう?」
「あの紫色の副会長、魔王のくせに……会長も騙されてるんだよ」
囁かれる手前勝手な理由に、ファーラは憎悪する。腕を押さえた生徒を見ると、その目が異常に見開かれ、視点が定まっていない。ただファーラにその異常さをゆっくり観察する暇などなかった。
微妙な感覚を与えられる体に意識が行かないように逸らしながら、
「レイルはこんな事しない。どこのお花畑に住んだらそう言う思考になるんだよ!」
「花畑に居るのは会長だろう? 気持ちいい? このまま天国まで送ってやるよ」
「噂はおもしろいぞ、現生徒会長と副会長がこんな中だなんて言いふらしたら……」
長衣の下にはいていたズボンを降ろされ、体が冷たい空気にさらされる。また何枚か写真が撮られ、恥辱にファーラは顔を赤くする。
「この傷痕や写真見たヒトは僕達の流す噂と、生徒会長、どちらを信じる?」
ファーラは顔を歪ませ、落ちそうな思考を回す。
こんな事、されたくない。でもこいつらは知っている。背中にある傷の原因も、その後父親に迫られた行為まで。忘れたい過去を。
それを知っているがプリシラはそんな事を言わないだろう。汚れている自分に彼女は手を差し出してきた、汚さないように握り返せなかったファーラだったけれど。
他に自分の過去を確実に知っている天使と言えば、1人しか思いつかない。
「まさ、か、裏を引いているのは、に、い……さ……いやだ、止めてくれ」
ファーラは混乱しながら、白いフードが付いた服を身に纏った少年の口で吐かれた過去、そして重ねられた唇から飲まされた屈辱を思い出した。
そして銀天使に言った言葉が頭を過ぎる。嫌な事は嫌とハッキリ言え、と。
だが、言った所で、誰の耳にも、心にも、届きはしないのならば、それは無為な行為ではないかと。それでもファーラは叫ぶ。かつての悪夢のように。
「嫌だっ!」
「あんまり叫ぶと、本当に噂流すよ。それで困るのは大切な副会長だろうね」
「っ…………」
「テープ貼れよ、口を楽しむのは完全に気力を失ってからだろ」
自分の過去が晒されるだけならまだいい。
だが、それにかこつけて親友が謂れのない中傷を受けるのは考えたくなかった。それでなくても紫の瞳による風評は絶えないのだから。発情期にさしかかろうとする年頃の青少年に与えられた性的な噂は、面白おかしく変化し、流布されるだろう事は容易にわかる。
きっとレイルは事実無根だと撥ねつける。そして誤解の全てを解く方法さえあいつなら見つけるかもしれないとファーラは思う。その確信はあるが、それでもこんな事に巻きこみたくはないのが本音。
誰かを守る為なら、それも親友の為なら自分はどうであっても良いと彼はさらに考える。レイルが困るのは本意ではない。その思いが嫌な事を否定する気持ちを凌駕する。
その時、怯えた仔猫のよう、ソネットがさっき言い放った言葉がファーラの頭をグルグル回った。
仕方がないじゃないか……
兄を想い、父親を受け入れたその瞬間と同じ気持ち。どうして兄さんは俺の気持ちを弄ぶのだろう、全てを飲み込まなければいけない状態に追い込んで。どうして明るい方へと歩いてくれないのか、もしそれを望むなら誠心誠意、尽くして良いと言うのに。
理不尽な扱い。だがファーラには怒りは浮かばない、でも心の底から悲しかった。同じ道は歩めなくても幸せをこの5年で掴めたのではないか、誰かが彼に寄り添っていて本当の笑いを浮かべて暮らしているのではないか。消息の知れない兄の事を思う時に僅かに抱く希望。
希望は満たされる事なく、沈黙を破ってファーラに深い影と傷を再び刻印しようと迫っていた。
誰かが痺れの魔法でも使ったのか、もう誰も押さえつけてなどいなかったのに、体が上手く動かない。耳につけられた魔法具が呟いてみた攻撃呪文の形を壊し、防御の呪文を消去した。
「無駄だよ、会長」
「魔法はそんなに得意じゃないでしょう、剣だけが頼りなのに、その剣はココだし」
ファーラの体は混濁する意識の縁で嬲られる。
暗い緑の淀んだ視界に、自分の手を離れた銀色の剣がちらりと入った。
銀天使を思わせる大切な剣は、現在の師シラーから貰ったもの。由来は聞いていないが、銀色が出ないとはいえ銀天使の血筋にある彼が手にしていたモノだというのが、より彼女を想わせる。
その剣の前で無様な格好をしているのが、何より恥ずかしかった。
まるでレーヴェに見られているような感覚に陥り、それは彼の何かを滾らせる。
自分はどうなっても良い。
その考え方ではまた同じ過ちを繰り返す。屈服し、服従する事だけしか出来ない、怯えた仔猫のままでは何も変わらない。
だが自分に何ができる?
そう問うたファーラの耳に走る、「誰か」の声。
……の、為に、力を貸そう……明け渡せ……
口は塞がれた為に言葉には出なかったが、ファーラはそれに頷く。
「うっ……」
「何だっ、あ、熱っ」
異常に気付いた6人の少年が、ファーラの体から離れようとした瞬間、彼らの服が一斉に燃えた。手にしていたテープや縄、魔法で撮った写真が脆く灰に帰す。
与えられた熱を帯びた銀の剣は床に打ち捨てられる。
「うあっ」
「魔法は使えないはずなのにっ」
「て、言うか俺達なんで……」
錯綜する少年達の前で、ファーラの穏やかで澄んだ緑の瞳が、オレンジを帯びた深い赤に燃える。割かれ脱がされたファーラの衣も熱く燃えて形さえ残さない。口を閉じたテープも蒸発して消え、唇を舐めるように舌が動く。熱い中にありながら、彼の額を覆う血の滲んだ鉢巻だけは揺らめいて燃える事がない。
少年達は、自業自得ながら火に捲かれて阿鼻叫喚を漏らすが、慌てる余り扉の鍵を開ける事ができなかった。
ファーラが1人の少年の肩を掴むと、熱傷を通り越して、掴んだ肉体を瞬時に溶かす。激しい熱が彼の体から放たれていた。
その時、彼らではなく、外側から扉が開く。
駆け込んだ来たのは、金の髪を固くセットしたスーツの男、もう1人は小太りな体にソフトクリームのに似た微妙な髪形をした男。
ファーラは掴んでいた生徒を放り投げて笑う。
スーツの男は側にあった蛇口を捻ると、水をバンと横に叩いた。
「水の残滓よ。火の怒りを鎮めるのに力を貸しなさい」
短い呪文で水は部屋に蔓延し、細い雨を降らす。少年達に付いた火を消すにはとりあえず充分だった。
「教頭先生……生徒会長がおかしいんです」
「何もしてないのにいきなり火を……」
「あつい、あつい、あついいいいいいィ」
教頭は激しく体を焼かれた生徒を抱き留めながら、言い訳する生徒を睨んだ。
「ほう、何も、ですか。その話は後程ゆっくり聞きましょうかねぇ」
教頭の冷たい視線と言葉に、自分達がタイムターゲットと共に、ファーラを更に辱めようとしていた事がバレていると察した少年達は扉の外に走り出た。仮面代わりの袋は焼け、ボロボロになった服で飛び出してもすぐに人目に付き、逃げ切れる事はないだろう。
「ま、貴方は命に別条がないか。廊下に転がっていなさい」
負傷した生徒に「失礼」と言って、蹴りながら廊下に放り投げると、
「私は彼らを拘束、処分に行きますよ、校長。ちなみにここは結界展開中です」
「そうですかーーさすが根回し良いですね。お手柔らかによろしくお願いしますよ、教頭。扉は閉めて下さいな」
教頭は一房だけ乱れて、額に落ちた金髪を整えてから、姿を消した。
扉が閉まると残ったのはファーラと校長。
校長は身長と共に体重もある体を揺らし、
「もうやめたまえ、フィール君。いや、「火の君」とでも呼んだ方が良いのかな?」
「…………」
「普通の魔法無効化の魔法具は効かないんだねぇ。まあ、魔法というより、火の質であり存在ですから当たり前ですか」
白が混じった黄緑の髪がソフトクリームのように巻いているのが、教頭が降らせた水で濡れてもぽよぽよしている。そしていつもの柔和な表情で笑っている校長。いつも回りを笑わせるその姿だったが、いつも彼が放つ、ノンビリした質感がなりを潜め、強い力と支配力を持つ天使のそれを纏っていた。
掌に拘束魔法を唱えて作った青緑の強い不透明の魔方陣を展開している。
降ってくる水はファーラの体に触れる度、水蒸気として舞う。高湿度サウナ状態に、校長は流れ落ちる汗をぬぐった。
濃い毒の霧を放つかのような笑みをファーラが浮かべた。校長は眉をしかめて網を投げる。
赤髪のファーラは足で蹴り上げて銀色の剣を手にすると、一刀のもとに網を切り裂く。その刃の先に緑色の炎が宿り、間合いを詰め、揺らめくそれを校長に突き出した。
「やはりこんなモノではダメですか」
ふう、と彼は鼻先3センチで揺れる炎を見つめた。緑の炎は小さいが質量を感じさせ、触れた瞬間に天使を蒸発させる程の魔力を宿していた。
それを目の前にしながらも、校長はその場にそぐわないコミカルな髪の毛をポヨポヨ揺らして笑う。
「情報として聞いては居ましたが、火の霊王が本当にうちの生徒に居るなんてね。サタンの瞳のレイル君もいるし、古代のモノが蘇ってでもいるのですかねぇ。それにしても凄い魔力ですが、どうして押さえているのですか? そうでなければこんなプレハブ吹き飛ばして余りあるでしょうに」
校長はゆっくりと剣の刃の中ほどに触れた。
もし今ファーラが剣を振るえば、ふよっと脂肪質である校長の指は床に落ちてモノの役には立たなくなるだろう。だが彼は鼻先を掠めそうな緑炎が灯る剣をゆっくりと下げさせた。
それにファーラも抵抗する事はなく従った。
「ほう。それにしても聖ミカエルにのみ従うと言われる王が、どうしたというのです? 5年前の惨状は聞いてますから、次に現れたならもっと好戦的に暴れるかと予想してました」
押し黙り、ただ笑っていたファーラの口から、
「あいつはミカエルと同じ……」
途端に体が左右にフラリフラリと揺れ、髪が黒い緑に戻り、目の色が赤を帯びているものの、緑に近い色になる。力なく剣から炎が消えて床に落ち、校長は倒れかけたファーラを支えた。体はもう熱さを帯びてはいない。
「大丈夫ですか? フィール君」
「つ、俺の話を聞いてくれ…………」
何かを言いかけたファーラの体は痛みを覚え、呻き、校長の太い腕の中へ完全に崩れ落ちた。
校長は、古傷がやはり痛々しく見える体を、自分の上着で体を覆ってやる。それしきでは覆い切れない傷に、細い目を僅かに開いて呟いた。
「これでは見えてしまいますね。聞いていたほどではないが、これはやはり惨い……」
燃えていなかった離れた場所のカーテンを剥がして体をくるむと、湿気の強さから白む、サウナのような部屋から軽々と担ぎ出した。
天使界の学校。
子供達はその素質を体に秘めている。
それ故に予期せぬ暴走や激しい悪用を押さえられる力のある者が配置されていた。
細かい事まですべてと言うわけにはいかないが、校舎を吹き飛ばしかねないような生徒の状態を食い止めるのは、東校では校長と教頭の二人が筆頭となる。
だがそれは関わった生徒以外は知らない事実だった。
金の髪を揺らしながら走るレイル。
「どうしてこんな事になる?」
わからない、頭を振る。
整った顔だちにあどけなさを残していると言うのに、紫水晶色は見る者をどこかに連れ去る様な深さを持って、輝いている。
「そんなに俺の「玉」って欲しい物なのか? 俺自身は何の力もないのに」
この世界に生まれ落ちた天使なら、誰もが持つ簡単な魔法の力さえも失っている彼。その隣に立った少年に、シラーがぼそりと言う。
「逃がせ」
「わかってます、兄さん。レイル様、早く」
レイルは普通魔道士が身に着けるマントを羽織らされ、頭からフードを被る。逆にファリアはよくレイルが身に着ける長衣のみをまとっていた。ファリアの目薬で変化させた瞳の色はレイルと並べてみれば薄い紫だったが、髪型も似せて長く保っているから、彼らを見慣れない者にはどちらがどちらかわかりはしないだろう。
シラーの使い魔、チャーチの唸り声に送られながら、2人はその場を離れる。
飛べるなら飛んで逃げる方が良いのだろうが、レイルにその力はない。ファリアが何か魔法を働かせているのか息切れせず走りぬく事は出来た。
疎らな木が徐々に密集し始め、また疎らになっていき、目の前に広いスペースが見え始める。そこでファリアはくるりと反転する。
「先に行って下さい! レイル様」
「一緒に行こう、ファリア」
「ダメです。この先、黄金草原は身を隠す場所が少ない。多分3人ほどシラー兄さんの手を掻い潜って来てます。ここで全員足止めします。草原を抜けてその先に丘がありますから。その中腹の祠の中で待っていて下さい。わかりにくいですが、必ずありますので、探して下さい」
彼は言葉を一瞬だけ淀ませ、
「そこから樹海を抜け、一緒に行くつもりですが。追手が来たら中へ入って抜けて逃げて下さい。その先は魔物も住まないし、その頃には誰か魔道士が来てくれるでしょう」
にっこりと笑うが、追手が来るという事はファリア自身が倒された時を前提で、話しているのにゾッとした。
「大丈夫です、必ず来ますから。シラー兄さんも自分の手元が片付けば応援に来てくれます」
魔道士の中では、年長の男性である程度の年だと、先輩とか兄さんと呼び合うのが常らしい。信頼を込めたその呼び方をしながら、レイルに似せた少年は笑った。
手に握った綺麗なガラスペンを回して、四角いガラスのような壁を描き、展開し始める。防御壁だと思われたが、空間を操る彼の力の使い方はレイルには良くわからない。魔道士の中でも珍しい能力だとは聞いていた。
「さあ、レイル様。早く靴の電源を入れて」
「か、必ずだぞ、必ず来いよ」
レイルはここに居ても役に立たないのを感じ、言葉を残して走り出す。
ここに居ても戦力にならないどころか、足を引っ張る。魔法も剣も得意でないものなど、子供にも劣る。
浮遊靴の電源を入れて走ると、すぐにだだっ広い草原に出た。
レイルの浮遊靴は魔法具でも天使自体の魔法は使わず、軽く走れるモノ。蓄電仕様となる為に長時間は使用できない。そのため危険や緊急時に短時間使用するだけで、普段の生活に使う事はない。
魔道士がどれほど壁になってくれているか、レイルは知らなかった。とにかく彼の目前にまで「玉」の狩り人が来る事は稀。
だからいつもはほぼ使いもしない機能であり、少し重めの靴に閉口するのだが、飛行が出来ないレイルが実際に逃走する時には役に立つ品物だと実感する。
「いつも使えた頃は便利だったよな」
魔法が全く使えなくなる前は、それなりに日常使っていたから、使いこなす事に問題はない。
彼は軽快に草原を走る。何も使わず走るより軽く、自転車を軽く漕ぐ程度のスピードを得ながらレイルは確実にファリアの防御壁で設えた場を離れる。
ここは黄金草原と呼ばれる場所。
秋になると、この草原に生える草は一夜にして水分を失い金色に変わるので、そう呼ばれる。その時分にはレイルの腰ほどになる草達。
金色の稲穂のように風に揺れ、広く遮蔽物がない為に空は高く見える。金と空青の色が寒さを控えた空気に融け、見る者の口から感嘆の息を吐き出させる美しい光景となる。
ただ今は新緑の萌える時季にあり、金色の片鱗はなく、まだ芝ほどの丈しかない明るい黄緑に染まった広いだけが取り柄の場所。
言われなければわからないほど緩いくぼみになっているが、走っているレイルにも感じられないほどなので、ほぼ平面と言えた。
魔物の出現率は低く、普通なら家が建ち、街が出来そうな場所だが、天使達は余りここに近付かない。
かつてここはミカエルとサタンが最終決戦に臨んだ地と言われる。天使界には何ケ所かそんな場所があるので、真偽のほどは確かではないが。
その戦いの場の証拠なのか、余り磁場が良くなく、魔法が全く使えないわけではないが、安定しない。電気よりも魔法が幅を利かせるこの世界で街を作るには不向き。その為ここは秋の観光シーズンか、軍や警察が特殊状態に際する演習をするくらいしか使われない。
見渡す限りの草原は、マトにして下さいと言わんばかりに危険だ。レイルはポケットに忍ばせていた譜を握る。誰か側に天使が居なければお守りほども意味のない紙切れ。
それもここは黄金草原。
使えるかも定かではない。だからこそファリアは魔法の使える範囲ギリギリで陣を張り、レイルは逃がしたのだろう。
魔法攻撃は難しくても、普通の天使なら飛べないほどではないし、物理攻撃されたら逃げ切れる自信はない。
逃げなければ。そう思いながら、更に足を速める。丈のない草は彼の足の進みを軽くした。だが、ファリアが居て使ってくれた魔法は切れたのか、次第に息は荒くなって彼の体には空気が重く感じられる。
ただただ降りそそぐだけの光が、彼には鬱陶しいものにしか思えなくなる。紫瞳に落ちかけた大きな汗の玉を拭った。
ドオン!
その時、何かが破裂する低い、だが大きな音が響いた。しかし耳栓をしたレイルの耳には届かない。それでも異常な数の鳥影が頭上を飛んでいった事と、僅かな空気の振動で、やっと異変に気付く。
「ふぁ、ファリア! シラーっ」
空気の振動はすぐ消えた。振り返っても抜けてきた茂みはもう見えない。木も疎らな黄緑の草原が広がるだけ。空は青いだけで煙も上がっていないので、目視で判断できる異常は鳥の動きだけだった。
振り返った所で何になる、そう思いレイルは前を向きなおし、再び走り続ける。
レイルは飽きるほど広く萌える黄金草原とは名ばかりの黄緑色の草原を抜け、目的の丘らしき場所に付いた時、靴は重いだけの品物に変わる。
緩やかな丘へと駆け登った。
視界が先程より濃い緑に変わる。足元の草は、黄金草原のより少し丈が長めで、緑も鮮やかである。芝に近い硬さがある単一の草が殆ど覆っていた黄金草原に比べ、クローバーやタンポポなどの柔らかい草や、小さな太陽を思わせる小花がそこここに咲き、蝶を出迎える。
余り登る者はいないようで小道さえも出来ていない。
見た目緩やかだが高いこの丘は登るにはかなりきつく、彼の息は増して弾みはじめた。決して立ち止まることはなかったが、途中は靴を使ったとはいえそのまま休憩なしに動くにはそろそろ限界が近付いていた。
「は…ぁ…」
人語になっていない言葉が口から漏れる。いつしか丘の頂上が見える所まで、彼は辿りついた。
ぽつりと立つ一本の老木の太い幹に体を預ける。頂上にほど近い場所にあるその木の作り上げた影が、彼に幾分か涼しさを与えてくれたが、全く風が無いので暑さにかわりはない。
「風がない、暑…い。走って…た方が、よっぽど涼し、い。しかし祠? どこにあるんだ? ここじゃないのか?」
ファリアが中腹にあると言った祠を見つけられない。
丘のほぼ頂点まで登ってしまったレイルだったが、ファリアが言った祠は中腹にあると言った。あんな事態で指示した祠がないなど、あるはずがない。ほぼ同じ年で副魔道士長と言う冠を被った少年の言葉を信じて、来た道を振り返って少し下ると、先程は無かったはずの小さな白い扉がそこにあった。
「何かの……幻視か何かかかってるのかなぁ」
薄い絹布で編まれた細い縄が器用な形で編み上げられ、扉の上を飾っていた。レイルはそのこまやかな細工を堪能する暇も無い。
白い石で作られた、厚手の二枚扉は、レイルが何とかしゃがまずに入れる程の高さ、両手を広げると端まで届いてしまう大きさだった。その真ん中をぐっと押す。だが重くて全く動かない。
扉はざらっとした質感で、手にはチョークの様な白い粉が付く。そして手の平ほどの四角の格子を描いている。格子の穴から出て来る空気はひんやりと汗ばんだレイルの肌を撫でた。
「祠って言うか、石牢?」
そう呟きながら、格子の一つに手をかけるように、次は勢い込んで引いてみた。
すると石であるのに重みを感じず、発泡スチロールを思わせる軽さで動く。驚いている場合ではない、レイルは素早く中に入り、扉を閉めた。
先程走ってきた黄金草原が地平線を描いているのが格子になった扉からばっちり見えた。そこに天使の影はない。どうして丘を登る以前にこの祠を見つけられなかったかがわからないほど、ここから見れば外が良く見える。
「本当ならもう目的地に付いていたんじゃないかな」
腰のベルトにさげた懐中時計の蓋を開けた。息切れで涙腺が刺激された為か視界が良くはなかったが、時計の針はすでに学校の授業の終わりを差しているのは読み取れた。
懐中時計の蓋をパチンと閉める。
その蓋には複雑な模様が細々と彫ってある。父と共に考えながら作り上げたソレ。
「学校何日休んでいるかな……ファーラに生徒会任せっぱなしだし。今日は部活に出られたかな? 来週こそは行かなきゃ」
ファーラが今、タイムターゲットを仕掛けられ、校長の腕の中で気を失っている事など知らない。懐中時計の竜頭に嵌った紫色の水晶を撫でるように丁寧にネジを巻く。
「紫のサタンか。アメジストっていわれるのは嫌いじゃないんだけどな」
彼はアメジストという響きと紫の宝石は嫌いではなかった。それのせいで殺されかけていると言うのに。
迷う事、傷つく事、そちらの方が多い、たまに目を体から取り出して終わらせたいと思う事もある。でもこれなしでは今のレイルはココにないのだから。そこは諦めても、回りの誰かの命を繋げる医者の道を歩む事だけは諦めたくはない。この旅がそれを切り開く一歩になればと思う。
そして気になる祖父の体を持つ魔。
「でも誠実、平和の石言葉を持つ石の色が、魔王の瞳の色だなんて皮肉だよな」
レイルは扉から差し込む光の届く範囲で座り、誰かが来ないか地平線や空に視界を移し、目を凝らそうとする。
だが疲れからか眩暈を憶え、壁に背を預ける。体が熱い。忘れていた頭の痛みがレイルを襲う。
「だいたい祠って事は何を祭っていたんだろう?」
祠の中の空気は静かで澄んでいるようにレイルは感じた。
もともと自然の洞穴に扉を拵え、祠としたのだろう。壁の粗さ、その見た目がどうしても人工物とは思えなかった。座った床には細かく丸い玉砂利が敷き詰められ、それだけが丘にあるべきものではなかったが、それでも自然の力で削られた柔らかい丸さで、触れると温かみを感じた。
まだ気を抜ける状態ではないとわかっていたが、体調不良の体に襲った睡魔とも眩暈ともつかない空気に、レイルは抗う事も出来ずに微睡む。
もし先程、懐中時計を眺めた時。
レイルがちゃんと秒針まで読む事ができるほど視界が良ければ。
その秒針が音楽が側にあるのを探知した動きになっていたのに気付いただろう。
だが、彼は音楽が鳴っている事を気付く事なく、またそれとは関係なく。
ただ今朝の事を考えながら、つかの間の眠りに落ちた。
お読みくださった後に「読んだよー」など
一言でもいただければ。
いえいえ無理なら評価だけでも……
あ、ポチして下さった方、ありがとうございます。
お気に入り登録いただけたら飛び上がって喜びます。
前回登録いただいた方、ずっと継続していただいている方に感謝を。
「これよし可愛い」が落ち着くまでは、こちらを二週一回更新にさせて下さい。
ここ最近、ずっと週一更新にすると書いてきて、その約束を守れないのは心苦しいのですが、紫水晶の連載を止める気はありません。ですので、もう暫く二週一回更新で、紫水晶の方、お待ちいただけると嬉しいです。




