予見の図書
前週はお休み、失礼いたしました。
いつも覗いて下さっている方、本当に感謝です。
始めて来られた方、ここまでお読みいただき有難うございます。
お気に入り登録下さった方、感想下さった方、感謝です。
すごく励みになります。
どうしてこんなモノばかり目の前に並べるの?
止めろと言うなら……あのヒトの傷ついた体と心を。
一緒に、私を串刺しにするほど強く戒めて。
父が優しく私の髪を撫でる。
「美しいね、ソネットの髪は。いい感じだ」
そう言って、まるで一本ずつを確かめるように父は私の髪に触る。その手の甲から先は服に隠れて見えないが、その腕には華奢な紋章が描かれている。貴族の三男ブレクトエルに与えられる紋章。
金天使にしては明るく淡いレモン色の爽やかな髪には白髪が多く、眉間の皺は濃く年を感じさせる。
普段は年をとっても内面の衰えは無い意志の強い金目が、愛しい愛娘の私を前に柔らかく煮崩れたような優しい琥珀色を宿している。
父が私の髪を撫でる手を見ながら、姉が言う。
「ソネットはそのままで可愛いのに」
「目の色は一緒だから。剣はね、お誕生日におねだりしちゃった。長いのが良かったけどパパがまだダメだって」
隣に座っていた姉が困ったようにしながらも、私の返す言葉に微笑む。
そう、この頃は父をまだパパ、と呼んでいた。誕生日に本当に欲しかったモノを買ってもらえなかった私から抗議を受け取った父は、笑顔を少しばかり半減させ、困ったようにその手を止める。
姉の持っていた綺麗な鞘に入った長い剣。抜き放つと透明感のある刀身に持つ者の魔力を吸い上げ、輝く。姉の魔力が吸い上げられると淡く紫を帯びた青を湛える美しい魔法の剣。
まだ長剣は持たせたくなかった父が私の用意したのは、同じ細工が鞘に入った短剣。刀身は同じように輝くけれど、高貴な雰囲気を漂わせる紫は帯びない。透明な空の青になるそれも良かったが、何でも姉の真似をしたかった私には不満の残るプレゼントだった。
ただ、あの長剣を私が握ってもその輝きは姉の物で、あの青を帯びた紫にはならないだろうに、背伸びをしたかった私は父にまたその剣をねだった。
「何時になったら買ってくれる?」
「そうだな、……成人の年だな」
「やだあ、まだ4年はあるわ」
「ソネット、私もこれをお父様から頂いたのがその年なのよ? そんなに欲しいなら、その年になったらコレを譲ってあげる」
申し出は嬉しかったが、それを姉から取ってしまうのは、真似している事にはならないから、本末転倒だった。だから頭を振ってから、
「その年になったら必ず買ってよ、パパ」
苦く笑いながら父は私と約束させられる。
もう忘れられた約束。
今も果たされないその約束に何の意味もなくなったのは、姉がこの後、さしてしないうちに死を迎える事になったから。
姉を真似ても、私にもう優しく笑ってくれない。
そんな時が来るとも知らず、私は右手に姉、左手に父が座ったソファーの真ん中で、家族団欒を楽しんでいた。
ここは家の中にある書庫。
この頃は電子文書も発達しているが、昔から蓄積された本には魔法が込められたり、背表紙がアナグラムだったりというモノもあるから、天使界では本が廃れる事はないだろうなと思う。
うちは医学系、薬学系の本が多分に積み上げられている。
狐色の板張りの床に、グレーの本棚。左側が格子状の窓が端から端まで並んでいて、天気が良い日は電気なしでゆっくり本が読める。今3人で座っている茶色の皮で出来た柔らかいソファーは1人でならごろ寝して読書にふける事ができ、側には小さなスタンドも置かれていた。
テーブルには検索用も兼ねた小さい端末、今は席を外しているが専用の司書兼掃除係が居るので、ここに埃が舞うのを見た事がない。
暖炉がその側にあるが、火事の心配もあると使われていなかった。その代わり、暖炉には大人で一抱えくらいある光る球体が置かれている。これが空調の代わりでこの部屋の温度と湿度を保ってくれる。
時々に色を変えるそれは、今は藤色に輝き、外からの暖かい光に反応しているのか、適度に冷たい冷気を私達3人に送ってくれていた。
「じゃあ、司書のリズが戻って来る前に書庫を使い終えたら、この鍵はマーガレットおばさんに渡しなさい。バイオレット、今日は軍で会議かね?」
「ええ、その後、財団の銀に会いに行きます、お父様」
「そちらが落ち着いたら、完全に戻ってくるのも考えて欲しい」
「でも、彼女の事を任されたので、退くわけにいかなくて」
「あそこにはリトアーがいるし、お前はあいつから、厄介事を任されただけだろう? それなのに律儀に……」
「お父様! 教授にそんな言い方……セレナーデは人当たりが良い天使だったからともかく、シフォルゼはソナタともだったけれど、最後の銀とも相性が悪くて」
「わかった、わかった……それにしてもリトアーとお前が結婚して交替でこちらを手伝ってくれればいいのに」
「お・と・う・さ・まっ! 本当に怒りますよ」
姉と私は20近く年が離れている。
まだ彼女は30にはなっていなかったが、女として子供が産めるのは殆ど人間と変わらない年齢まで。天使の寿命は100越え少々が普通。時に記録的に長く300歳過ぎまで生きる天使であったとしても、女が実を儲けられる時期はその頃だけ。
そろそろと急かされるのは何処の世界でも変わらなかった。
「良い婿になってくれると思うぞ?」
「私が結婚するのは、ここを継ぐための婿づくりじゃありませんよ」
「だがな、お前が研究に打ち込んでも彼なら文句も言わないぞ。良物件だ」
「物件って……もう! 悪いヒトじゃないんですけど、結婚相手としては論外ですっ」
初期から、そして今もルナを面倒を見ているはずのシフォルゼ・リトアーは、医者であり医療器具などの開発者。
腕はいいし、頭の回転も良いが、被験者や他の天使を見下している雰囲気が漂っているので、ルナほどでないとはいえ、私も距離を感じる。
彼は姉と学友だったと聞く。彼と姉、そして姉の幼馴染の女子を含めて3人で、学生時代を過ごす事が多かったと言っていた。黒天使で赤い角のリトアー、青い髪をした飛びぬけて美人な青天使、その2人と並び、3人で写った卒業写真を姉は見せてくれた事がある。
その写真は姉の死後、父が焼いてしまったが、楽しそうに笑っている3人の学生は印象に残っていた。
「まあまあ、ソネットも手伝いに出すのだから、その辺、察してくれ」
旗色が悪くなった父は鍵を姉に渡すと、3人がけのソファーから立ち上がり、白い手袋を付けながらその場を離れる。
貴族の血筋だろうと、娘に弱いのは全く男親として仕方がない。母も居ないので、甘やかされたせいもあるだろうが、私と姉は父には容赦ない。ちなみに母は金天使ではなかったので、私達姉妹は貴族の扱いはなかった。
退散する父を見送り、2人で顔を見合わせて同時に溜息をついたので、くすくすと笑いだしてしまう。
姉は優秀だったから、父はうちの製薬会社で研究員を務めて欲しがっていた。だが彼女は医者になり、就軍した。更に庇護してくれる団体であるとはいえ、リィ財団での研究を主にしているのが気に食わない。
姉の研究対象は銀天使一族の遺伝子保存。明日から私はその子の世話をする事になっていた。その代わりに姉は今までより、レイザの製薬研究所に足を運ぶ事を約束させられていた。
条件的に身元さえ怪しくなければ、若い女の子なら誰でも良かったらしいが、姉は私を推薦し、父からの条件を飲んだぐらいだから、自分の意に沿う天使が欲しかったに違いない。それに選んでくれた事がとても嬉しかった。
「さあ、ソネット」
たくさんある書物から鮮やかな青い表紙の本を姉は運んできた。
珍しい特徴を持った天使に付いて書かれた医学書。私はパラパラとページをめくる。
「えっとそこではなくて……」
「ねえ、お姉様、これは何? 余り聞かないわ」
私は姉の意思を無視して勝手に読み出し、質問する。彼女は嫌がる事も無く丁寧な口調でそれに答えてくれた。
「ああ、暗黒の天使ね。天使界に生まれるべき魂ではなく、余所で生まれるべき魂が間違って天使に入り込んで生まれる子よ。貴女が生まれる少し前に冥界が襲われた影響で生まれたの。5人くらいは政府が把握していたけれど、生まれる予定だった世界に「橋」を渡らせて送ったそうよ。結果は生存は1人。後の4人の死亡が確認済よ」
「その5人以外に、天使界に居ないの?」
「居たとしたら多分もう体調を壊して死んでいるわね。魂は生れ落ちる世界に合わせて調整されるモノ、世界が違うという事は海水の魚を淡水で泳がせるような感じかしら? 体はその世界のモノだから即死はしないけれど。助かった1人は9歳まで天使界に居たの」
「他の4人の死因は? 受け入れられなかった原因は?」
「移動するのが早すぎて、次は体がその世界で耐え切れなかったようなのよ。逆に9歳で送られた子はこちらで耐えきれるギリギリだったと言うから、生き残った事は最終的に運かもしれないわ」
そう説明した後、姉はそっとページを飛ばした。
「で、今日読んでもらいたかったのはココ、銀天使関係よ。純白の魔導師、たまに翼や角の数は天使の事もあるけど。これは銀天使の純血因子を人工受精で配合して生まれて来る子の事よ。こないだ会ったでしょう?」
「魔導師……シラー兄さんの事?」
兄さんと言っても、本当の兄ではなく、魔道士の詰所で会った年上の男性だったからそう呼んだまでだ。血縁がなくても魔道士同士、異端な体を持った者ロして結束が固く、兄さん姉さんと呼んだり、先輩と呼んだりもする。年長者はそれに答えて、年下を可愛がる。
姉は、そう彼の事よと言い、頷きながら続ける。
「銀天使は自然受精でしか銀色が出ないの。真っ白だったでしょう? 彼。目にはメラニンがあるのか、紫水晶に似た紫だけれど。銀天使同士でも人工授精はダメなの。他の天使との人工授精は着床すらしないわ。また他の天使と交わった場合、受精しにくい上に、生まれても銀の遺伝子が出た資料は今の所無い。これを銀天使の神的劣性遺伝子というの」
「ふうん。銀天使はたった1人しかいないなら、もう……」
「そうね、冷凍保存の銀天使精子はあるけれど、それで生まれるのは真白のシラーと同じ、純白の魔導師ね。他の天使と交わらせてもたぶん彼女は夫寄りの天使を生むでしょう。きっと最後の銀天使になるわ。そんな子だから守ってあげたいの」
「守る?」
私が聞き返すと、僅かにバイオレットは顔を歪めた。
「これで本当に守っているのかと聞かれたら、違うのかもしれないけど。彼女には通常の常識や倫理、道徳は教えてないの。彼女は「死に近い天使」を「死に誘う為」に居るのだから。処刑人なのよ」
「天使殺しなの? 私、そんな子の世話したくないわ」
素直な感想。姉は困ったようにしながら
「殺すのは悪い事、それは私達医者や普通の天使が持つ、通常の倫理であり道徳なのよ。彼女、聖唱使いが魔に堕ちた天使を安全に殺してくれなければ、困るのは私達なの」
「困る? 警察や軍が動いてくれるのではないの?」
「彼女はその警察や軍が困った時に財団に借りに来る「生きた兵器」だから。彼女自体が警察や軍の一部であると考えるのが良いかもね」
その口から漏れた兵器という言葉に、心にざわめきが起こる。全面的に信頼する姉が、この日は優しいだけではない一面を見せていた。
今まで自分には知らせていない「大人の事情」も、そろそろ語っていいと判断されたのだ。ちょっと誇らしい気分で、でも戸惑いながら会話を重ねる。
「でも兵器……そんなに強いのなら私達が守るなんて、何ができるの?」
「魔道士としては、不測の事態で彼女の「玉」が取られたなら、奪った者を報告する義務があるわ。本当は奪還義務もあるけど、彼女から「玉」を奪うほどの手練れなら、そこまではしなくていい。それから医者として彼女を守るのが仕事。それに貴女には医者やただの世話や補佐だけでなく、お友達になってもらいたいわ」
「友達?」
「彼女には飼い主や調教師、勉強係や世話係はいても、友達はいないから。彼女の友達になるには私では年が離れすぎているわ」
「確か3つよね? 私より7つも下よ、姉様?」
「ふふ、でも見た目は貴女より発育良いわよ」
姉が笑った理由はルナの破壊的な大きさの胸や体つきにあると後から知る事になるが、その時はわからず首を傾げた。
「それからエンゲージドラッグについて話したわね? ソネット覚えてる?」
「銀天使の受精率をあげる薬?」
「あれの使用を仰いだら教授に反対されたけど、私としてはそれしかないと思っているの」
「教授?」
「その薬のシステムを理論上作り上げた天使よ。私の恩師なの。今はこの研究からは離れていらっしゃるけど」
そう説明する姉の目が尊敬を通り越して敬愛、そして恋していたのではないだろうかと今になって私はふと思った。
だが、姉がその視線をしたのは一瞬で、すぐに押し隠してしまったから当時の私は気付きもしなかった。
「拒絶反応を使って、彼女の夫を少なくしてあげたいの」
私は頭を捻った。
姉は私の髪を触って、そっと梳く。父の触り方とは違う、泡に触れるようにやんわりと。大切にされているのを感じられる撫で方に、私の心は幸せに満ちる。
「この薬は妊娠率を上げるけど、接種時12時間に体を結んだ天使以外と契ると、死に至る様な拒絶反応が出るのは説明したわね。だからこの薬を飲ませておけばその間に契った天使だけが、以後は安全に彼女の夫になれる。子供を産んで、ホルモンバランスが変わって薬の効力が切れる場合は、また薬を追加して……」
「前から思っていたけれどお姉様、彼女は好きな天使とは結ばれないの? そういうのって大好きな天使としかしないのではないの?」
ソネットの夢を壊すようで悪いけれど。そう付け加えた後、姉は、
「彼女には常識も倫理も教えてないの。彼女が契るのは、財団が決めた相手と、よ。愛や恋なんて彼女の前にはないの。言葉は知っているけれど、教えてはいないのよ」
そう言い放った姉が冷たく思えて、さすがに私は動揺していた。頭を撫でているその手がなければ、混乱していたかもしれない。姉は私の気持ちがわかっているのか、撫でていた手で肩をそっと抱いて更なる安心をくれた。
それでも不安が来て質問してみる。
「確かに試薬を与えるラットに深い愛情はかけないけれど、彼女は天使よ?」
「だから守るの」
だが何から何を守るのか、私には意味が解らなかった。
「彼女は母親から受け継いだ聖唱使いの能力を最大に引き出すために、今までは暗闇に閉じ込めていたの」
「『酷い孤独を味わった天使の「玉」には、星彩効果が刻まれ、それは聖唱使いの力を強化する』これの為なのね、何だかギンって子、可哀想……」
私は本の記述を読み上げながら、まだ見た事のない銀の天使を思う。
「私もそう思って、いろいろ考えたけれど、財団から逃がしても、もし非合法の集団の手に落ちたら、「玉」を取り出されて捨てられるのがオチなのよ」
私は「そんな……」と、それだけ言うのが精一杯だった。
感情が込み上げてきて頬を涙が伝う。姉が遊びではなく、本気で考えた末にたどり着いた結論が、とてもとても悲しかった。姉はそれ以上言わなかったけれど、捨てられるオチ以上に酷い仕打ちがある事も今ならわかる。彼女の能力は高いが、無暗に財団から逃げたり放出されたりしても、一般の天使に混じるのは至難の技だ。容姿で目立つ彼女は、捕獲に時間と人数をかければいずれは誰かの手に落ちるだろう。
格子の窓から降り注ぐ光が、雲に遮られ、曇った。それは私の心にさした雲と同じで、完全には晴れない。
「優しいのね」
「優しいのじゃなくて普通じゃないの?」
「そうね、普通なのかもしれないわ。ねえ、よく聞いて、ソネット」
隣に間を置いて腰掛けていたソファー。姉は私に向き直り、本を側に置いて私の両手を握る。
「繁殖実験と称して、たくさんの不特定多数に彼女が回されるのなんて止めてあげたい。でも。彼女の一晩だけで、どれだけのモノが右に左に流れるか、想像つかないわ」
銀天使。
対の天使が失われた為に、神が愛したと言われる美しい天使。
この時、まだ会ってなかったが、その顔合わせの時に嫌と言うほど煌めく銀色に、幼かった私でもその価値を知る事になる。中身は子供らしい無垢さで、奔放な天使。矢車草の青を湛えた瞳には子供らしい可愛らしさと共に、いずれ開花する艶を孕んで零れ落ちんばかりに輝く。
彼女を手に入れられるならと大金を積む者は少なくないだろう。
「エンゲージドラックの副作用があれば、初めの時は複数でも、それ以上を増やす事は出来ないわ」
「初め? 複数? たくさんの不特定多数……???」
姉が何の事を口にしているか、初めはわからず、次第にそれを理解して、涙の伝った顔は赤く染まっていた。
姉は笑ったが、目は真剣なままだった。
「彼女を完全な娼婦にはしたくないの」
「でも、これってヘンだよ、可哀想」
「決して彼女にとって、いい状態ではなくても、私がしてあげられるギリギリなの。後、この状況を完全に回避できるとすれば、結局はその前に彼女を……殺すぐらい」
「お姉様っ……」
「だからっ! その時に薬を含ませてやる事が彼女の苦痛を減らすなら……それは医者としての仕事なのよ」
医者の仕事、そう言ったが、姉の真剣な目つきはその範疇を越えていた。姉がその銀天使をただの研究対象としてではなく、確かに愛しているのを感じた。
母のいない私に、姉がかけてくれる母性愛。それと同質の愛をかけられた銀色の天使はある意味、姉を通して義姉妹なのかもしれない。
「私は医者として彼女を支える。だから貴女は彼女の友達になって支えてあげて、お願いよ、ソネット」
「うん……わかったわ」
光を奪われ、愛を与えられず、いずれ体すら自分の好きでもないモノに晒される運命。
財団の庇護の下しか生きられない運命、それはさっき説明された暗黒の天使と似て、天使界にあっても財団と言う海でしか泳げない銀色の魚。
私は姉から任されたその仕事を改めて思い出す。彼女はまだ夫を取っていないだろうか?
ソネットが昔の姉との会話を思い出したのは、目の前にあるのがその日に眺めた一冊の本だったから。
特別図書室の5番と表示された机でそれを読んでいると言うより、彼女は憧憬に耽っていた。
青い青い表紙は、ルナの瞳色によく似ていると思いながら。
「懐かしいわ」
ルナに実際会って、振り回された。
例えば初めは椅子に座わるのが嫌だと、何日も……倒れるまで水も飲まなかった。食事は床にシートを広げて、ピクニック状態から次第に座らせるように仕向けた。
ただその後、紅とテーブルに着いたルナが、フォークとナイフを使って前菜からメインの魚、デザートの葡萄まで器用、かつ鮮やかにマナーを守り食べて見せた時には、今までの事は何だったのか叫びたくなった。
風呂での泡遊びの危険さは閉口したし、話の途中でも全く気にせず、裸足で駆け出すのも始終だったし、甘い物が好きだったのか砂糖や蜂蜜だらけになっていた事もあった。
小麦粉の粉塵爆弾とか、電子レンジ爆弾は悪戯や興味の域を超えていたが。洗剤を混ぜたり、おもちゃの電池を抜いて分解して中身を水に混ぜたり、日常の危なくないモノが凶器に変わる遊びだけは止めさせた。どんな知識があるか聞いて、実際にはしないように言うと、ある程度は約束を守ってくれるのだけは助かった。
そう、ある程度は。
もう……数え上げればキリがない。
余りに自由過ぎて迷惑かけまくる彼女を、容赦なく怒鳴りまわっていたソネット。
可哀想な身の上の少女、頭ではわかっていても本人が自由過ぎてそんな影を微塵も感じなかった。
愛も恋も知らない、裸でいる恥ずかしさも、分け隔ても無く、命令がない限りは幸せな時間を送っているように見えた。
いや、下された命令の重さもわからないのだろう。
酷い伝染病の拡散を防ぐために街1つを封鎖し、全てを潰すその歌を詠う時も顔色一つ変えなかった。姉が「兵器」と称した銀色の影。
何も知らないからこそできる、無垢なる者の残忍さ。
そんな彼女が最後、あの日に見せた反抗。
流れる沢山の赤い赤い血潮。
あのまま死んでいれば、女として酷い目には合わなくて済んだかもしれないけれど、ルナは貴重種。生きているだろう、財団は彼女をむざむざ殺しはしないはず。
たくさん血を降らせた体は今どこでどうしているのだろうか? 元気になったろうか? そうソネットは考えた。
ルナがシフォルゼを余り好きではないのは知っていたが、まさか5年も自分を待っているとは思っていない彼女だった。
あの夜、診てあげればよかったとソネットは後悔する。それと同時に血塗れの彼女を思い出すと気が遠くなりそうだった。
だが気持ちを引き締めて、それに耐え、必ず彼女をいつか前にすると心に誓う。
彼女に触れる事できっと何かが変わる。
予感めいた気持ちがソネットを駆り立てた。
「まず、あの夜に紫の子と何をしたか、それくらいは知っておかないと」
そう思うが、鍵を握っているレイルが、何をしたのか良くわかっていないと答えた。彼の体調も良くなかったので、真面な状態で話を聞きたい所だったが、その彼が学校に来ない。
「待っている事なんてないかも。家に行けばいいんだわ」
体調は悪いままでも、家でならゆっくりと話を聞く事も出来るだろう。姉の仇と拳を振り上げたくなる気持ちも、彼の医者になろうと言う真摯な姿勢が変わらぬ限り、取り乱さず押さえる事ができる気がした。
明日は土曜、そして日曜。学校は自由登校日だから、研究生も今日の午後からはほぼ休み。せっかく別の街に来たのだからと、観光や遊びに費やしても良い自由時間にあたる。その時間に彼の家を訪れても何の支障もない。
「休暇中に会えず、来週も学校に来なかったら、5年前の情報収集は諦めて、強行で紅様の所に行くのも考えなければ……」
ソネットは思い立つと、実行に移そうと席を立つ。
「この本なら、だいたい頭に入っているから借りないわ」
借りる場合は添えられた青紙に署名するのだが、意思表示に青紙を破り、本を机に置いたまま立ち上がる。その姿を見ていたのか、プリシラが手招きした。
「どうかしましたか?」
「ソネットはお任せにされました? 『未来を指し示す本』……つまりはマトモな本、ちゃんと出てきました?」
「え? ええ。もう読んだ本でしたけど、医学書で、たぶん今からの私の行動を肯定する本だったと思いました」
それを聞いて、プリシラはため息をついた。
「この頃、怪我をしてからここにほぼ毎日来ているのだけれど」
そう言って彼女は手にした本を見せた。
「恋愛小説?」
「それも悲恋物ばかり。何故か赤紙付」
青紙の場合は借りられるが、赤紙が付いている本はこの部屋から持ち出せない。
赤紙付は個人では買えないほどの高価な本である事が常だが、プリシラが手にしているのはさほど高価でも珍しい物でもなかった。間違いなく上の図書館でも一般閲覧できる本。
「ここの『未来を指し示す』システム壊れたのかと思ったけど、そう言う事なら、何の暗示かしら?」
もう、読む気もないらしく、プリシラは本を机に放置した。
「では出ましょうか?」
ソネットはいつの間にか現れた突き当りの扉から外に出て、プリシラも後に続いた。
開くとそこには白い廊下に、座り心地の良い椅子があった。振り返ると鳥の彫刻で飾られた扉。
空間がねじれているのか、電飾の部屋は通らず外に出られた。
「この図書室は生徒会役員が卒業制作と称して作ったって知ってます?」
「ああ、聞きました。その天使が神殿都市のルネ・ファース神殿の改装時、主任設計士になったとか……」
「どこまで本当なんでしょうね」
「そうですね」
2人は笑いながら並んでエレベーターを待つ。そうしながらプリシラは溜息交じりで、
「確かに何度かここで読んだ本に助けられた事があって、すごいと思ってたのですけど。あの本でしょ? 恋をしてもダメって事でしょうか?」
プリシラの台詞に何とも言えずに、ソネットは首をすくめて見せた。
どのくらい前の生徒会が作ったかは不明だが、特別図書室は天使界の5大学園に必ずある。
そしてここを使えるのは生徒会の会長か副会長を務め切った者だけに限定されていた。忙しく重責のある生徒会をこなした者の特権であり、これ目当てに立候補する者も少なくない。
この図書室に訪れ、「お任せ」すると、これからの進む道を暗示したり、その後必要になる知識が入った本、皆が『未来を指し示す』と呼称する本が提示されるのが常。
今回ソネットに提示されたのはかつて読んだ本であったが、初心に帰ると言う意味で、今あの本を目にするのは有意義であったと思う。
それも……彼女は思う、きっとルナと会えという兆しだろう、と。そう感じると、自分の病気も治るかもしれないという望みが来て、ソネットは本当に嬉しく思った。
だが、悲恋物ばかり出されるプリシラには何を学べというのか、理解しづらい。
ただこの特別図書室はなかなか流通しない本を頼んでも、図書室が与える価値ありと判断すれば、きっちり出してくる所でもあった。
一部にアカシックリコードと呼ばれる神の図書にも繋がっているとされる。
毎回恋愛本ばかり出されて嫌なら、お任せにせず、何か決めて注文を出せば……と、ソネットは思わなくはなかった。
だがもう、プリシラも意地になっているのかもしれない。
ただ、そんな態度は彼女らしくないともソネットは思った。覚えている限り聡明な女性。妹を失くしても塞ぎ込まずに、その年の最後まで生徒会役員を務め上げた精神力。
姉を失くしてずっとずっと恨んで自暴自棄になりかけたソネットだったから、心折れなかった彼女は強いのだろうと踏む。
強くしている事で、深く考えまいとする努力をしていたのかもしれないが、それだったら自分もルナに尽くす事でやってみた。だがすぐに湧き上がる怒りや苦しみを、恨み無しで押さえる事など出来なかった。だからとても気概のある天使だと認識している。
『未来を指し示す』と言う本が出て来る不思議な場所であるとはいえ、そんな本一冊に彼女が拘る意味が見出せなかった。
迎え来たエレベーターに乗って、上に戻りながら、差しさわりない程度にお喋りをする。そして図書館を出た2人の前に、派手な印象を与える緑がかかった黒髪の少年が待っていた。
「あ、あれ? えっと……女史がここに入って行くのを見たと聞いて来たんだ、……のですが」
「ファーラ」
プリシラの彼を呼んだ声は僅かに甘く、逆にほろ苦い気配がファーラから感じられた。
緩い金の巻毛が風に揺れる女性。その横にはレモン色の髪をした客人。
ファーラは黒の長衣を風に揺らしながら、その組み合わせに戸惑った。
巻き毛の彼女は忘れもしない奉納舞で一緒に剣で舞った、元副生徒会長のプリシラ。その容姿はあの頃よりますます洗練され、美しい女性の形を成していた。
もう一人は自分が探して来たのだ。
白いブレザーに爽やかなレモンの色が鮮やかな髪を、不思議な形でカットした女性。澄んだ水色の瞳、どこかで見覚えがある気がするが、だけどファーラには思い出せない天使。
北の学校から訪れている女史の1人、あの中でも一番権限があるソネットだった。
ただ、目の前に美しい女性が2人もいると言うのに、ファーラは全然別の天使の事に頭をよぎらせている。
それは銀天使のレーヴェ。
可愛らしかった顔立ちも、彼女達のように大人びているのだろうかとか、ツインテールをまだ結っているのだろうかとか。
ただ、余りぼーっとしているわけにもいかず、帯刀した銀剣の柄に何となく触れながら、失礼に当たらないように2人に笑って頭を下げた。
今はただの一生徒ではなく、生徒会長を務めている。客人と卒業生をないがしろには出来ない。
だがプリシラを前のように呼び捨てするのは憚られたが、何と呼べばいいかを考え、服に付いた階級章をうろ覚えで呼んだ。
「ソネット女史、プリシラ……士長様になられたのですか?」
「ええ、よくわかったわね。でも呼び捨てでいいのよ。久しぶり、ファーラ」
プリシラは彼に微笑みかける。
彼女はソネットと会った時のように偶然で驚いたと言う顔はしなかった。どちらかと言えば、やっと来てくれた、そんな感じがする穏やかな笑みだった。
すっと自然に差し出された左手に、ファーラは僅かに反応し目線が動いた。だが彼は不自然にも気付かないふりをして、彼女の手を取らない。
綺麗な手。
告げられた恋にファーラは自分の汚さを告げて断った。もっとうまく断る事も出来ただろうに、死や父殺しと言う犯罪を覚悟しているような時であったから、それから来る未来になんて構えていなかった。誰かの口から、誇張された噂話を聞くよりもと告げた。
そして刃傷事件で掴まったり自殺したり、返り討ちにあって死んだりした場合、誰かに知っていてほしかった。そうすれば望んでそう言う立場ではなかったと、親友のレイルに告げてくれるだろうという甘えもあったのだろうと今ならわかる。
この居たたまれなさは、気持ち悪い話を聞かせた上に、自分で告げる事ができなかった、今でもはっきり告げていない自分の闇のメッセンジャーに、彼女を仕立てようとした罰なのだとファーラは思った。
彼女はレイルに具体的に告げる事はなかったようだが、レイルがどこまで家庭の混乱を知っているかファーラは怖くて聞けていない。家まで同じで、深い親友になればこそ、今更そこを突く事も出来なかった。
まさか現場を見られ、更に兄と会話していたなどとは想像していない。
ファーラは出来るだけ取り繕い、
「あ、ああ、プリシラ。その腕……」
「仕事でちょっと」
避けられた左手で怪我を覆うように触れ、はにかんだ表情のプリシラ。
ソネットはそこに彼女の淡い恋を見た。
怪我をしてからほぼ毎日来ているとプリシラは言った。
本人が意識しているか否かは別として、彼女の本当の目的は本ではなかったのだろう、と。
特別図書室の選択はあながち間違いではないのかもしれないと、女の勘が彼女にそう思わせた。
何故ならソネットはファーラの額に巻く柄の薄い布切れに見覚えがある。
これはあの夜、彼の体を覆ったルナの服の切れ端。彼がどのくらい本気かは見当がつかないが、銀天使の事が忘れられないと見えた。5年間、それを身に着けて離さなかったぐらいには。
ルナは命令からか、本能からか、ファーラを守ろうとした。そして彼はルナを忘れていない。普通で言う所の両想いはルナとファーラだろう。
ただし殺傷人形と常識はある青年との恋も、普通に実るとも思えないが。
恋はヒトを変える。
そう思いながら、ふと、ソネットは思い出す。
ココに来た初日に調子の悪いレイルを介抱した時、この布切れ、彼の手首にも巻かれていた。その時は気にもしなかったが、彼の口からはルナの心配する言葉がすぐ出てきた。
それがどのような感情から来ているのか考えようとした途端、イラッとしてしまうソネット。どうしてイラつくのか考えたら、更にイライラしてつい爪を鳴らしそうになる。
そんな彼女を置いて、彼らの会話が続いている。
「プリシラは軍に入ったとは噂で聞いてました、けど」
「1年前からね、でも今は休職中。この傷が治るまでは、ね。それよりレイルとファーラのコンビが今年の生徒会を務めているって聞いたけれど、本当?」
「そ、その言い方はどうかと……とにかくやってるのはやってるけれど」
「未だにあの奉納舞は、当時の関係者なら伝説、語り草よ。……あの子の事さえなければもっと」
プリシラが、亡くした妹を思って言葉を淀ませた事に気付いて、ファーラは口調が崩れるのを補正しながら、話を変える。そのついでに2人の間をそれとなく探ってみる。
「ソネット女史とはお知り合いですか?」
「ええ、私がここに居た頃に問題になっていたタイムターゲット、あれの撲滅で北校とも話し合いを持っていたので……」
考え事をしているうちに話が進んでいたので、それに合わせてソネットは、
「私、あちらで当時、副生徒会長でしたの。失礼ですが、プリシラ……」
ソネットはにこやかに、だが有無を言わさずファーラの腕を取り、引っ張った。
「今後の視察の件で彼とお話ししたいので、これで失礼いたしますわ」
「え、あ、女史? え、あ、またプリシラ」
「ええ、ファーラ」
残念そうなプリシラを横目に、ソネットは強引に彼を引っ張り、とりあえずひと気の少ない場所にずんずんと歩いた。
それを見送りながら、プリシラはホッと息を吐く。
5年前、プリシラが小さく抱いて彼に届けた恋心は、ファーラの置かれた境遇を前に立ち消えた。彼女の常識で男性同士、それも親子間での行為など信じられず、ただ同じ学校の先輩後輩としての仲は保て、彼女の卒業時は会釈程度であったが笑ってすれ違えた。それ以降は会う事が無く時は過ぎる。
だが、時間が経つにつれ、プリシラは思い煩う。
他の男性と付き合う機会が巡っても、ファーラと過ごした短い日々が棘のように残った。常識に挟まれて愛を通せなかった自分を恥じる気持ちは、次第に燻っていた気持ちに火を灯す。
軍に入って現実に会う事の出来ない生活、だが怪我で仕事にも出られなくなった彼女の耳に彼の噂が入る。あの2人が現生徒会を仕切っていると。
「また、……ね」
プリシラは5年近く会わないうちに青年に近くなった黒天使にドキドキとする感覚を押さえきれず、暫く立ち尽くした後、ゆっくりと軽い足取りでその場を立ち去った。
一方ファーラを引っ張っていきながら、ソネットは薄く魔法を行使した。自然にファーラの手や体に、髪の長い部分が掛かるように持って行く。
5年前、彼の体は瀕死の状態から、ルナが張った魔法障壁で隔てられた一瞬で、まるで生まれ変わったかのように劇的な回復をしていた。
調べてみる所、体は完全に治り、何の問題もない。特記事項があるとすれば、彼に宿っている小さな揺らめくような火の気配があった。
それは自我を失くした彼を暴れさせたもののようだった。ただ魔に堕ちかけても、ルナの聖唱が魔化を止めた時点で消えるはず。そう言う意識体が体に居る時点で、彼は変わっている。
それでも今はとても落ち着いていて、彼のあの狂気と化した姿を知らない者が診察したら、レイルの連れているような妖霊が居るのだろうと言う程度の認識しかできない。
「うまく溶け込んでるわ。でもやっぱり体自体はどうやって治したかはわからないわね」
瀕死の状態だった彼に後遺症も残さず、ここまでの回復が望める治療を自分に出来るかと問えば、ソネットの答えは否。一体どんな仕組みか、やはりわからなかった。
「まあいいわ」
ソネットはその手を解き、くるりと彼に振り返る。白の短いスカートは下着が見えそうで見えない範囲でフワリと揺れた。髪の長く伸ばした部分がサラサラと引力に引かれて落ちる。
「レイル・グリーンを知っているわよね? 現副会長なのだから、会長が知らないワケはないわよね?」
「あ、ああ。ってか、はい」
こないだファーラとレイルが2人で話していた時に割り込んできたのだから、そんな畳み掛けて聞くような事ではないと思いながら、ファーラは言葉が崩れそうになるのを言い直して頷いた。
「彼、今、どこに住んでいるの? あの桜の木の近くだったハズだけど変わってないのかしら?」
「え、あ。俺、一緒に住んでいるけど……いや、住んでいますけれど」
「え? そうですの。なら話は早いですわ。私を一緒に連れて帰って頂戴」
「…………今日、レイルは家に居ない」
「え、具合が悪いんじゃなかったのです?」
ファーラは口調を直すのも、ソネットに笑みを向けるのも止めた。
「こないだから、あんたはレイルの何?」
すうっと辺りの気温が下がる様な威圧をソネットは感じた。それと共に、彼の体の中で火種が爆ぜる様な不思議な熱が沸くのもわかる。
ソネットも言葉と態度を崩した。
「ふーん、大切なのね、彼の事」
「あいつは瞳があんなだから、な。あんまり変な天使には近寄って欲しくないんだ」
「その警戒、間違ってないわよ。私、あの子の事、殺したいほど憎いもの」
途端、ソネットは頬に冷たいモノが当たっているのに気付いた。
今まで何も握っていなかったファーラの手に銀色に剣があり、抜刀した刃が輝く。目に見えないほどの早業。
普通の女子ならへたり込んでいたかもしれないが、ソネットはにっこりと笑った。
「応援は出来ないけど、銀天使が好きなら、そのくらいでないと困るわ」
「い、いま、何て言った? 銀……? レーヴェを知っているのか?」
貴方はレーヴェって呼んでいるのね、などと、言いながら、
「私を思い出さない? 意識あるのは一瞬だったものね。5年前、貴方が南の森を燃やし尽くし、魔を氾濫させた夜、ルナ、貴方が言う所のレーヴェね、彼女とレイルと人魚、それ以外に誰かいなかった?」
「あ…………」
僅かに剣先が下がったのを見て、ソネットは右手を振るう。キンッっという金属音で、剣が跳ね上がった隙にソネットは3歩程、間合いを開ける。
先程の素早さと本気を持ってファーラが来たら命を持って行かれる範囲だが、ソネットは逃げ出さなかった。
それはそう言う気にならない話題を振った余裕からだった。ファーラの剣を弾く為に、右手に握った手術用のメスをくるくる回しながら、
「私の質問に答えるのが先よ。レイルは今どこに居るの? 憎いけれど殺すために捜しているんじゃないわ。彼の医療能力に興味があるの。来週から出て来るなら研究生として彼に付いて、良ければスカウトしたいだけ。その前に会っておこうかと思っただけよ」
ファーラは剣を降ろすか迷った。
その表情にソネットは優し過ぎる笑みを向け、敵意がない事を示す為にメスはしまった。
「貴方、剣の腕は凄いみたいだけど、怯えた仔猫の様ね。この間合いなら一度剣をしまっても、私をやるのなんて簡単でしょう? それにこの状態を誰かに見られたら、困るのは生徒会、つまりは貴方の学校ではなくて?」
その台詞にファーラは剣を鞘に収めるしかなかった。
「あんた、普通じゃないな」
「一応、魔道士なの。やるかやらないかは別として、要人警護の為に必要なスキルは身につけさせられているから。少しは役に立ったかしら?」
「ま、魔道士?」
「今は要人警護はやってないの。おとなしく学生しているわ。で、レイルは何処に行ったの?」
「…………シラーを知ってる?」
「ああ、兄さん? 純白の魔導師のシラーがどうかしたの?」
その返事で、とりあえず話しても大丈夫かと判断し、
「まだレイルの調子は悪いけど、シラーと一緒に副魔道士長の親戚に会いに行ってる。これ、レイルから預かってきた」
そう言って、懐から一冊の本を出して渡す。
黒い装丁本、ソネットがレイルに貸していた銀天使の事が書かれた本。
「長く借りているから、ありがとうと言って返してほしいって」
ソネットはその本を受け取ると同時に、間に何かの厚みを感じる。封筒が1通挟まれていた。それが何かをソネットが聞く前に、ファーラの方が、
「中身は何か知らないけど、お礼じゃないかな?」
ソネットは、そう、と言って、本ごと胸に抱きかかえた。
ルナほどの大きさはないが、柔らかな胸が本に押されるとその膨らみが強調され、考え込む物憂げな視線は彼女を色っぽく見せる。
ただそんな効果を狙っての態度ではなく、ソネットは静かに思考を働かせていただけ。
「副長……今はファリアのはず。その親戚って事は……伯父、行先は神殿ね……それなら土曜の夜か、日曜の朝には帰って来るはずだから、…………彼が帰って来たら、寮に私を迎えに来なさい」
「迎えって……はあっ????? 何で俺がっ」
「ルナには私も今は会ってないけれど、彼女との思い出話くらいはしてあげられるわ」
そう言うと、ファーラに後ろを見せる事無く、スイっと間を開ける。その無駄のない軽やかな動きに彼女のレモン色をした髪が爽やかに靡く。
綺麗なだけではない、出来る天使の隙のない動き、これで医者だと言うから頭も切れるのだろう……才媛とはこういう天使を指すのだとファーラは自然にそう思った。
「じゃあ頼んだわね」
右手で軽い挨拶と水色の視線を投げながら走り去るソネットの背を、ファーラは止める事も出来ずに見送った。
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毎週更新が信条で、二週一回更新は三月までと思っていましたが、ここ二週で切り溜め出来ませんでした。
ピッチを上げようと苦心しましたが、年度末の忙しさでリアルとの兼ね合いが付かず、このままダラダラ週一更新に戻すと言っても、「これよし可愛い」企画をやりながら、紫水晶瞳のクオリティを下げないのは無理と判断いたしました。
切り絵の方もやるからにはしっかり仕上げたいと思います。
その為、「これよし可愛い」が落ち着くまでは、こちらを二週一回更新にさせて下さい。
ここ最近、ずっと週一更新にすると書いてきて、その約束を守れないのは心苦しいのですが、紫水晶の連載を止める気はありません。ですので、もう暫く二週一回更新で、紫水晶の方、お待ちいただけると嬉しいです。




