堕ちし魂の行方
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始めて来られた方、ここまでお読みいただき有難うございます。
お気に入り登録下さった方、感想下さった方、感謝です。
すごく励みになります。
お気に入り登録が20越えました! すぐに減ったけどっ爆
尚2月1日アップ予定でしたが、風邪の為、一週お休みいただければと思います。
忘れても忘れられない記憶が歪に曲がる。
愛や信頼を忘れ、曲がった信念に突き動かされる。
背中の翼は骨の様な羽に変わり、それが存在意義となる。
何年も、いや、何十年も前の苦痛を何故見せられるのか。
レイルは目を背けたくとも、強制的にそれを見続けさせられていた。
目の前で天使が魔になる瞬間。
爪が伸び、色を変え、眩しい黄金色が、闇に染まる。
その血が自分にも流れている事を確信した天使が、文字を操り、「玉」を狩り、魔と化す。
魔になる事を解除できる聖唱使いなど居ようはずもない。貧しい、自ら落ちぶれた元貴族と精霊の住む家に。
闇に染まった髪を、次は血で朱に染めながら淡々と咀嚼音が響く。
耳にハメているはずの栓は全く役に立たない。音も鮮烈に、過去を再生し続ける。暗い中であった事、レイルが医事を目指している事もあって、その恐ろしい流血場面に在りながら気を失う事もなく、だが現実ではない気持ちでただ眺めていた。
彼は床に転がった小さな青い石をつまみ上げると、飴玉のようにいい音をさせて噛み砕く。天使の魂たる「玉」を食べた為か、肩の辺りから天使ではありえない鱗状の皮膚に変化し、金を帯びた、だが黒い鱗がどんどん腕や体を覆っていく。
ただ、ランスは自分の愛した天使を、守りたかった。
屈辱から解放してやりたかった。
1秒でも早く。
その思いが魔となっても彼がしたかった事。
優しい気持ち、天使を、妻を思いやる気持ちが仇となる。
ギイィ
その時、ジュリア、ランス、そしてニーチェ、かつて3人で仲良く並んで寝たベッドが、不意に音を立てる。
一心に、自分の空白を埋めるように天使を喰らっていた魔がその音に反応する。鈍い緑の瞳を、音のする方に向けた。
口に咥えていた肉片をチュルリと飲み込んだ。端正な顔立ちを残しながらも、黒く焦げた色の鱗に肌を浸蝕されている。
音源はレイルの足元から聞こえたので、その狂気の瞳は自分に向けられたかのようであった。
に、逃げなきゃ……いや、俺じゃない……
自分はここに居ないはずの天使。
彼が見ていたのは白い大腿に赤い薔薇を思わせる紋章を入れた、同じ血を持つ天使ニーチェ。
レイルは知らない事だったが、この紋章を彼女の脚に入れたのはランス自身。幼い従姉妹、父を同じくする妹の脚に入れた。
彼の紋章士としての初仕事だった。
自分の妻として迎える可愛い天使を一生、側に置き、大切にしようと、貴族の誇りを持って歩む相手としてそれを刻んだ。
その後に現れた黒き精霊に心惹かれてはいたが、それは金色の妻あっての事。
四つ這いで、彼は狂気に満ちた目を女に向けた。そのまま長い爪で床をかちゃかちゃと言わせながら、這い寄ると、動物的な動きでベッドに飛び乗った。
ギシッっと重みがかかる音。
愛しい天使が傷つけられ、辱められた姿で、声にならない悲鳴を上げる。
彼は何故自分が魔と化したか、もう頭にない。怒りと後悔に囚われ、なるともなしに魔と化した男に残念ながら理性は残ってなかった。
喰うべき天使がいた。
傷つけられ、血を流し、他の天使の白い血に穢されていたが、彼には柔らかい餌にしか見えていなかった。若く、張りのある首の骨を折ろうと、闇色に変色した左手をその天使に伸ばす。
その時、彼女は金の髪を揺らして震える両手で、彼の手を取り、
「殺して……ごめんなさい、私が悪いの」
そう言って首を絞めるように誘った。
好都合とばかりに首を片手で掴むと上半身を起こさせ、その恰好のまま壁にニーチェを叩きつけるように押し付けた。彼女の体はされるがまま吹き飛ぶように、頭部と上肢を壁に叩きつけられる。
そこでレイルは初めて彼女の顔を見た。
唇は切れ、痛々しい痣、乱れ、汚された髪なのに鬱陶しいほどの輝きを湛えているのが、更に悲壮感を醸し出す。元々が綺麗な天使だったから痛めつけられた姿さえも色気があり、もっとレイルにそう言う知識があれば男の本能を掻き立てる程だとわかっただろう。
ランスは愛情ではなく、味見するように乳房を吸い上げながら、容赦なくニーチェの首を締め上げた。抵抗のない獲物をいたぶって楽しむそれは、今までここで彼女を弄んでいた男達の所業に通じるもの。夫であって夫でないモノにまで犯されている感覚に彼女は苦しげだった。
だ、だめだ。殺してはいけない……
過去とはいえ、やっと目の前の事が現実味を帯びて感じられ、レイルは叫ぶ。
だが届かない。2人は知らないが、彼女のお腹の中にはマハイルがもういるハズだ。
いつの間にか白み出した空、だが完全に夜が開けて、ジュリアが戻るまでには日没まである、話では死んだのはランスだけ、ニーチェは生き残ったはず。
だが、目の前で魔化したランスの手は、ニーチェの首を掴み上げ、守るべき天使の見分けも付かずそれを犯し、喰らおうとしていた。
まだ1人しか天使を狩っていない彼は、時間さえ経過すれば、じわじわと天使に戻るはず。その時、自分の守ろうと思っていた彼女をも喰い殺していた事に、絶叫するだろう。
そんなの、ダメだ。止めなきゃ、あのヒト……いや、ばあちゃん、死んじゃう!
祖母と祖父、そう言うには若い男女だったが、レイルはそう認識した天使2人。
夢か過去か、幻か。
そんな事は知らない。
体さえそこにあるかわからない自分に何ができるかレイルにはわからない。
でもこの惨事を止められるのは自分だけだと思った。何かしなくてはと焦燥感を募らせた。
紙と鉛筆、そして手があれば「譜」を書き、どちらかの体に押し付ければ起動するかもしれないが、意識は固定されており、何かに触れる事は出来ない。
その時、目に入ったのは、ランスの指の嵌った金色の指輪。その薄く青に輝く光は小さな小さな文字。その文字を書き換えられたなら、守りの「譜」ぐらい作れるのにと思う。
かつてファーラの体の記号を描き上げたのと同じ要領。全く違う物には出来ないが、指輪から溢れる小さな文字は、守りに近い祈りだった。
しかし魔法を持たないレイルには全くその力は失われており、脱力感に捕らわれる。
何故、今、その力がないのかと自分の無力を悔いる。
止めてくれ、止めなきゃ。何でもいい、何でもいいから……正気を取り戻させなければ!
その時、自分の手、右手に何か温かい感覚を感じた。
手が本当にそこにあるかわからない、見えるわけでもない。
だが、確かに何かが触れていて優しい気持ちが流れ込むのが感じられた。
この時、偶然にもファーラが右手を開き、見つめていた事をレイルは知らない。それでも確かに流れ込む、ファーラも意識もしてない細い魔力をレイルは受け取り、何とか紡ぐ。
もう少し……
細い魔力の糸が去ろうとしたので、必死に追い縋ると、何とか逃さず捕まえておくことが出来た。
その間にも首を絞められ、苦しげ、だが蕩ける様な笑みを、ニーチェは涙を流しながら浮かべて見せた。彼の手で死ねるのを喜んでいるかのようだ。
穢された女が全てを忘れられる死は唯一の救い。
これから彼女は罪に苛まれながら、マハイルを生み、辛い言葉を吐き、その絆を絶つための苦行を強いられる。このまま極上の笑みを浮かべたまま死んだ方が……レイルの一瞬の躊躇。
魔の爪が食い込んで、喉を掻き破りそうになる。
「愛してる……」
彼女から漏れた言葉にレイルは躊躇を捨てる。
マハイルに対する態度に、一度は何と冷たく愛を知らない祖母だったのかと思った事を詫びた。
犯され穢れ、病気に支配され、夫が魔に堕ちて。こんな状況で笑える、深すぎる愛情は誰にも理解できない。彼女はこの後、笑わなくなる。冷たい刃を息子に叩きつける。
レイルの見た、そしてジュリアが語った道を選ぶのは彼女自身、未来は変わるかもしれないし、そのままなのかもしれない。
どちらにしてもレイルにはここで使える力を使わず放置する事は出来なかった。
慌てながらも正確に、彼の指輪から守りの文字を紡ぎ出し、手から伝わる魔力を込める。
やめてよ、その天使は守るべき愛しい者。壊してはダメだ……
レイルの紡いだ文字が、守りの譜の記号になり、とても頼りない細い光をランスの指輪に灯す。
ふわりと彼の黒くなった髪が揺れた。牙を突き立てそうになっていた胸の膨らみから口を離し、その正体を確かめようと顔を上げる。
細い光は集約され、針先程の、小さい、小さい金色の粒になっていた。
学校での爆発を包んで一瞬とはいえ止めた、あの大きさを作り、彼の体を包み上げたかったが、出来たのは砂粒のような大きさ。小ささと反比例して、まだ薄暗い部屋にあっては至極の輝きを見せた。
「な、に?」
その光の粒はランスの左目に飛び込んだ。
光を受け、瞬間、鈍い緑を湛えていたはずの瞳に、金色が戻る。だが指輪が放った光は余りに脆弱ですぐに消え失せた。
「ニ……ニーチェ……」
それでも僅かな正気を取り戻した彼は、左手を彼女から外そうとした。
しかし魔の力に飲み込まれ、上手く動かないようだ。必死の形相になりつつ、今にも折れそうになっている妻の首から手を離そうともがく。だがそれが叶わないと判断するや、縦に切られた紋章が残る右手で左の腕を掴む。そして自分の腕を伸びた爪を使って、自らの腕を引き千切った。
「ああああああっ!」
痛みに仰け反り、そのままベッドから転げ落ちる。痛みを堪える為に立ち上がって、右手で何かを掴む。
それは窓辺に飾ったガラスのモビール。それが何を意味するか、正気を取り戻したランスにはわかっていた、だが上手く動かぬ体はそれを引き千切り、床に叩きつけた。
砕け散るガラスの星は、もはや自分が元に戻れない事を彼に暗示させる。
切り離された腕は何かを求めた形で、ニーチェの開かれた両足の間にボトリと落ち、金色の指輪を付けた天使の細い腕に戻った。
「もう、後戻りできない、か。それでも、よかった、奴らは去った……」
痛みを堪えるように荒い息を整え、そう言った彼はふらりと立ち上がる。
残った右手で、近くにあった壊れた写真立てから飛んだ、大き目の破片で体を切りつけようとした。だがあっけなくガラスは砕け散る。
「ランス、やめて……」
吐息のように細い声がニーチェから上がったが、長い時間、男を受け入れさせられ、病気にも犯されていた彼女は身動きも取れず、悲しく彼を眺めるしかできない。消耗しきった体は開かれた脚を閉じる事さえ出来ないほどだった。
今のランスはそんな妻の為に、布一枚かけてやることができなかった。目が合えば、襲い、喰えと囁く魔の声に応じてしまいそうで怖かったのだ。
この時の彼女にはもう生きている者の気配がないほど憔悴し、狂いかけていた。
だがランスは妻の声も聞かず、台所に行き、包丁を体に突き立てた。刃物は体を傷つけず、飴のようにねじ曲がる。右手で心臓を抉ろうとしたが、肉体の方が危険を感知し、筋肉を寄せて勝手に急所を守った。天使から魔に堕ちた体は、自害も安易にさせないのをランスは悟る。
彼は首を振りながら、血まみれの体を隠せるコートを羽織る。そして自分が狩って殺し、喰らった天使の体を掴む。粗略な扱いをするのは魔に堕ちているからではなく、ニーチェに施した儀式を担った憎き相手の1人だから。
「そこにいるのはジュリア? いや、誰か……けど、助かった……大切な天使を危うく殺す所だった……」
その言葉、姿だけは少しずつ天使に戻って行くランス。
彼はレイルのいる辺りを確実に見ていた。
見えている?
レイルがそう聞くも、返事はなく、自分の意識がその場から揺らぐのを感じた。
「待って、ランス行かないで……私を殺して! 殺して……」
「少しでも早く開放してやりたかった。あいつらにこれ以上、好きにさせたくなかったんだ。今まで耐えさせた、そして耐えられなかった、無力で考慮のない僕を許してくれ」
「待って、お願い……」
「今はまだ君やジュリアへの気持ちが残っている。姿もこうして元に戻る。だが天使で居られる時間は、そう長くはない。幻聴が聞こえ、幻視が起こり、確実に魔に飲まれ、天使を喰らわないと意識を保持できなくなる。それさえそう長い事、維持できないと書物で読んだ」
「やめて、いわないで」
「さっきまでのように狂って、君達を傷つけてまでここには居られない。病気の君に済まないが、ジュリアを、生まれて来る子を頼む……正気のうちに聖唱使いか軍に依頼して、体を滅してもらう」
「……ラン、す、愛して、るから」
彼は振り返らなかった。だが左の目に僅かに上った陽を受けて、金色の涙が頬を伝ったのがレイルには辛うじて見える。
ランスは殺してしまった天使の体を引きずり、扉の外に消えた。
この部屋に差し込むのは朝日ではなく絶望。放置され増長する孤独。満たされる狂気。
涙も枯れて、腐臭に塗れ、痛んでボロボロになったまま。
黒き救い手が現れる夕方まで、ニーチェには誰の助けも来ない。
ランスの体から離れた事で、魔化から解けた腕を抱きしめ、狂って鳴く鳥の様なか細い声が、遠くレイルに聞こえた。
側に居て、何かしてやりたいと思えど、視野が狭くなる。視界の端から中心に向けて閉ざされる感覚を持って、レイルは部屋から閉め出された。
彼を、ランスを愚かと呼ぶ者が居るだろう。
後数時間、妻が穢されているのも、自分が屑扱いされるのも、我慢していれば、命まで取る気はなかった……奴らには。
後者はともかく、彼は妻がいたぶられるのは我慢できなかった。もう一人の妻が不意に戻り、同じように手籠めにされて、子供を掻き出される危険もあった。
それでも身動き出来ない妻を残し、もう一人の妻と子を置いて、未来を寄り添う事ができないくらいなら、それをも耐えればよかったのにと言う者もいるだろう。
だが、彼は一瞬でもあの時間を短くしたかった、ただ、ただ、それだけに未来を捨てた。
彼を愚かと笑うなら、彼はその誹りを甘んじて受けるだろう。
彼は迷わない、選択したのだ、あの時を短くする事が彼に出来た最大の妻達への防御。
「……なんて、考えていたような気がする」
レイルはぞっっとした。
ランスが、突然、目の前にいた。
その距離、僅か数センチ。
彼は笑う。鼻唇溝が深くなっている事から、だいぶ年は重ねているように見えた。
金色の髪はジュリアに似た漆黒に、中に僅かな金のメッシュを残すのみ、皮膚は鱗を帯びた黒いグレーに染まり、右腕の切られた紋章はそれでも読み取れた。目の色は右目は充血した泥を含んだ黒、左目だけ異常に明るい金。左手がない、痩せた隻腕の魔物。
「どうしたんだい? 急に」
彼との間には1人、女がいた。
テーブルの様な台の上に乗せて、彼が抱きしめた緑の髪をした女。彼女の髪色はファーラによく似ていた、振り返った目の色も。色だけではない、見た目の雰囲気はよく似ていた。
だがファーラと同じ色合いなのに気味が悪い、それは生気のない、標本の蛇を思わせる魂のない目。
2人は裸で、溶け合っている最中……
女の肌は天使と同じだが、目を見る限り、彼女も魔。
何処かわからない、洞窟の様な狭い圧迫感のある空間で女を立ったまま裸で抱く男の金目は、レイルが見えているかのようだった。
見えてる?
「怖いのか? お前は誰だ? 懐かしい女の、ニーチェの匂いがする……おもしろい、ジュリアが気付いてくれたのか……」
「霊でもいるのかい? 私と交渉中に他の女の名を出すなんて、殺してほしいの?」
「笑わせるな。マーヤ。お前と睦むのは好き嫌いではなく、腹が減っているからだ」
「ふふ、今夜辺り食事に行ってくるがいいよ。「玉」を狩ってきておくれ、ランス」
「そうだな……あいつら皆殺しだ。その筆頭だな、お前は。お前を喰いにいく、必ず、必ず……」
彼は一拍おいて、
「紫水晶瞳の天使よ」
見えてる!
「わあああああああああっ!!!!!!」
「ど、どうしたんだ、レイル」
泥の黒い瞳と金の瞳、そのコントラストに恐怖し、強い力で弾かれた衝撃があって目覚める。
レイルが叫んだ事で、何となく手を握っていたのを慌てて外したファーラ。それを見て、シラーが鼻先で笑ったのに、2人は気付かない。
両耳の耳栓を繋ぐ鎖に下げた2つの指輪が僅かに青く輝いているのがレイルには見えて、きゅっと右手で握る。その手が熱のせいでなく、仄かに温かいのはファーラが握っていてくれたからと気付き、
「あり、が、とう」
「お! おう」
レイルの詰まり気味の言葉に、ファーラはおかしな発音で答えてしまう。
自分の部屋に戻る事ができ、綺麗な緑玉の瞳に見つめられて、レイルは僅かに安堵した。とはいえ、長い事、潜水していたかのように息が弾む。
「だ、大丈夫か?」
「亡霊に会ったか、レイル」
心配げなファーラの言葉も、意味深なシラーの言葉も、きちんと目で読み取れていたが、まともに返せない。だがその様子に慮る事もなく、シラーは訳付の紙切れを渡した。
レイルは動悸が収まらなかった。汗をかいていて紙を持った手が情けないほど震える。
「このタイミングでこんなモノを出してくるとは」
シラーは小さくそう言った。
レイルはそれに気づかず、息を整えると、黙読で訳文を読んだ。
『マハイル。
告げる事のない愛を。
ここに彷徨う。
死なない体、彼は堕ちた。
それでも。
死してなお。
マハイル。
もうないと思った。
でも。
あいつは彼に死を与えなかった。
貴方を探しに来る。
彼は貴方を知らない。
マハイル。
早く逃げなさい。
死した時。
貴方の血で証明しても。
それは辛すぎる。
恨んでいるから、罪の子と。
違うと誰か、誰か。誰か。
彼に……』
「誰か思い当たるか?」
シラーの言葉にレイルはすぐに台詞を紡げない。
「シラーはお前をマハイル父さんと間違えているのじゃないかって言ってるんだけど。霊みたいな、でも魂のないものだって……」
ファーラが付け加えてそう言う。
与えられた文章は散文すぎた。だが今のレイルにはこんな事を言うのは彼女だけだとわかる。
告げる事のない愛をマハイルに捧げるのはただ1人だ。
「たぶん、祖母。ニーチェばあちゃん」
「ばあちゃんって、死んでないだろう? さっき来たって……」
「ファーラの言ってるのは、ジュリアばあちゃん。叔父さんの母親で、俺とは本当の血のつながりはないんだ」
レイルには意味が解らない部分がある、だが、死んでも残した意識が、マハイルに危険を告げているのがわかった。この空から降り落ちてくる悲しげな美しい文字を見たのは幼い子供の時からであるけど、内容が今のと同じなのかはレイルにはわからない。
「祖母、か。祖父の亡霊に会っているのかと思ったが」
「祖父? ああ、夢かもしれないけど、ランスじいちゃんが魔に堕ちている所を見たよ。本当に夢だといいけど……それも俺に喰いに来るって」
吐息がかかりそうな距離で言われた言葉を思い出し、レイルは身を震わせた。言ってしまった後に、口にしなければよかったと思った。
かつて魔と化した父親と知らぬままに暮らしていたファーラが顔色を変えていたからだ。聖唱使いの兄に操られ続けた父からされた所業、手を下した時に割れた何も映さぬ黒い「玉」。
5年経った今も、彼の心傷は完全には癒えてないのをレイルは感じていた。ファーラは額を隠す長い布の切れ端を握りしめ、目線を落としている。
レイルの言葉にシラーもピクリと反応していた。
「貴方、まさかと思うけれど、メアリさんと何かあったのではないでしょうね?」
「母上、急に何を言い出すかと思えば……」
「彼女……お腹の中に子が居るわ」
「え、冗談だろう?」
「マハイルは寝たまま。貴方でなければ誰の子なの?」
「……着いたよ」
アレードは母ジュリアから告げられた言葉に動揺しつつ、車を降りる。アレードの部下が運転していた車は、近くで控えていますのでと言って、2人を置いて消えた。
降り立つと同時に、その肩に黒い鳥が2羽、寄ってきて各自の肩に着地する。
その嘴を撫でてやるアレードの手のぎこちなさに、彼の動揺が浮かび上がっていた。
ジュリアはその様子に兄弟で1人の女を求めなくとも、世の中広いのに……ニーチェと1人の男の愛を受けた自分には言えた義理ではないか……そう思いながら、溜息ともつかない息を吐いた。
他人のモノを愛してしまう性癖でもあるのだろうかなどと下らない発想に行きつく。
アレードは兄の嫁であるメアリを愛してる。
それは事実だ、結婚前に何度も何度もアタックはした。逃してしまったタイミングは元に戻らなかったけれど。結婚してからも折につけて構ってほしくて、男として見てもらいたくて、義弟の特権で甘えたり、手を出したりした。
だが、どんなに顔立ちが似ていても、兄にはなれない。今も唯一、アレードが心惹かれる相手。
40を目の前に変わらぬ思い。それではいけないと恋人を数多に作っても、その度に一番には愛していない事に気付き、気付かれ、結局、結婚はしなかった。子供でも出来れば違ったろうが、そんなヘマをやらかす機会もなかった。
兄嫁に常識ではなかなかできないような手出しはしながらも、一線を越えた事は……マハイルが倒れて、修復不可能なほど滅入った彼女に、一度だけ深く入り込んだ事がある……その時だけだ。
「……俺じゃないなら、あいつか」
メアリが親しげにしている異性と言えば、1人しか思い出せない。
もう1人いると言えばいるが、レイルを守る魔道士長で、あの御仁がそんな真似をするとは思えないし、年齢から言って流石にメアリの守備範囲ではないだろう。
好きな者を他者に攫われるのは何度味わっても良い気持ちはしない。それが優しい兄であってもそうだったのだから、更に感情を揺さぶられる。
「忙しいでしょうけど、気を使ってあげて。酷く疲れているようだったからねぇ。マハイルのお見舞いも毎日毎日、判を押したように行ってるみたいだし。貴族の時の関わりは結婚と同時に絶って、友達もレイルが生まれた時に清算してしまっているはず。話す相手もなく、何もできず、無為に過ごす事ほど徒労を感じる事はないの。それも……」
「それも、何?」
「レイル、彼女の妊娠に気付いているのじゃないかしらねぇ……勘と頭は良さそうだけど、普通の子に育って、少しびっくりしたわ。でもさっき触れたら天使なら湧き出ているはずの魔力が感じられなかったわねぇ。回路がヒートして焼き切れているようだったわ」
「回路の焼き切れ?」
「たぶん許容を越えた魔法を受け入れたのではないかしらねぇ。でも急にあれが治ったら、内蔵して発散されてない魔法が溢れて大変な事になるのではないかしら? 元々あまり魔力のない子だから貯まると言ってもさほどないと良いけれど。魔道士長には話しておいたわ」
2人が訪れたのは、イクスアルペイでも高級住宅街と言われる区域だ。手入れの行き届いた美しい庭があちこちにあって、建物も無駄なくらい大きい。壁や柵は長く伸びているも、入り口はなかなか見つけられないのは、一軒ずつの敷地が半端ないからだ。
アレードはその中の一軒、門扉の前に立った。
多分に漏れる事なく、大きな黒い鉄柵の向こうには広い庭。奥に建つ白い建物は下品なくらい仰々しい装飾が施されており、何度か訪れているアレードだったが好きになれなかった。
他の建物と違うのは、黒塗りの鉄柵には黄色と黒のテープがグルグルと巻きつけてあり、誰も入れないようになっていたことだ。
「侵入規制一部解除要請……氏名アレード・セリバー・グリーン、現所属ブルー……」
その後、数式の様な言葉を小さくアレードがそう言うと、テープは自らの意思を持ったかのように空を舞う。テープを揺らすのは風ではない、風ならばアレードの腕に巻かれたリボンも揺らぐはずだがそれは彼の動きに付いて行くだけ。
風でもなく、舞い上がるテープは封鎖を解いていく。そしてクルクルと巻き上がる。
扉は大きさにしては重くなく簡単に開く。2人で入ると、扉は勝手にしまり、テープはまた元通りに封鎖の形を作り上げようとしていた。
「母上、こちらに」
「それにしても珍しいわねぇ、何かの事件の現場、お仕事の場所に私を連れて来るなんて」
ジュリアが2人の息子を天使界に行かせてからは、そんなに回数は会えていない。そんな中、こうやって仕事の場所に息子が彼女を連れて行くなどなかった事だ。
本当は指輪を渡したら、すぐに帰還せねばならなかったが、話を重ねたい事もあって、その後についてきた。それも指輪を受け取る前に、付いて来て欲しい所があるとアレードが言ったのだから断れない。
「こっちこそ驚くよ。今まで何年も放っていた指輪を渡しておきたいって」
「そろそろとは思っていたのよ。何だかこの頃、ずっとそんな気分だったのよねぇ、年を取ったせいかしら?」
アレードはちらりと金の瞳で、苦笑交じりの母親を見やる。何か、気付いているのかもしれない、このタイミングは……彼はそう思った。
今日、彼女が指輪を渡す話を切り出す前から、連れて行こうとしていた場所。指輪が過去に繋がる品物ならば、今から行く場所は自分達の過去に繋がる場所だったからだ。
ジュリアはアレードの窺う様な目つきに気付かず、空を眺めながら歩いている。
「それにレイルがね、何故、父さんは難しい学問に足を踏み入れたかを聞くのよねぇ。あの子、何故かニーチェ様の墓にソウエルと書いている事や、図書搭や、マハイルに酷い言葉を投げたのも夢みたいに見たっていうのよ」
「俺が少しは話したけど」
「いや、あの子の話し方は本当に見た感じだったわ。あの子のお兄ちゃんも気になる子だったけど、紫水晶瞳は良きに付け、悪きに付け、目立つから。あの指輪にはランス様が思いを籠めて下さっているし、何かになればと思って。私のを譲ったの。だから貴方達2人にも渡しておきたくて。マハイルには強制的になるかもしれないけれど」
彼女は肩に休めた夜飛鳥をそっと撫でながら、また上空を見やる。そこには黄色と黒のテープが張り巡らされている。何らかの力でドーム状を模ったテープは落ちてこない。
興味深そうに見ているので、アレードは話を切り替えて、
「上空からの侵入を防ぐためのモノだよ。今は電気を流してないから、警察が監視しているぞと言う警戒程度の意味しかないけど」
「精霊界ではこういうのは妖霊に頼むわねぇ」
「天使界で妖霊を使えるのは、その存在に好かれた者だけ。精霊ほど何代も時間をかけて、妖霊と友好を築いたり、精霊術のような使役したりする力はないから」
「でも面白い封鎖方法ねぇ」
余り上品とは言えないが、豪華な装飾柱が目につく建物。
噴水があるが水はなく、庭木はそれなりに手入れされているものの荒れが目立つ。盛りを過ぎた花が摘み取られる事なく、茶色に変色し、その隣で新たな蕾が開く。芝も踏むと柔らかすぎる長さになっており、落ち葉が風で掃き寄せられていた。その混在具合からここが無人になって、さして時間が経ってない事をジュリアに示してくれた。
「ここは何者かが侵入し、皆殺しになった。研究員……いや使用人も含めてかなりの人数が殺されたんだが……全ての天使から「玉」が抜かれていた」
ジュリアは何故、そんな現場に自分が招かれるのかわからなかった。ただ、建物に近付くにつれ嫌な予感が走り始め、胸から鎖で下げたランスの指輪を褐色の手でいつの間にか握っている。
屋敷の扉は2人が近づくと勝手に開く。やはり封鎖されていたらしく、近くをテープがしゃらしゃらと舞っている。アレードの解除要請が働いていた。
「これをつけて」
アレードは建物に入ると、ジュリアに手袋を差し出す。
だが彼女はそれを受け取ったものの、呆然と立ちつくしていた。
「ここはあいつの家なの?」
上品に生きているジュリアが、他人を指してあいつと呼称する事はほぼ皆無。そんな彼女にそう呼ばせた天使は、階段に飾られた肖像画にあった。
豪華な金色の髪に、それ用に身に着けたのか、画家の想像なのかわからないが、勇ましい鎧姿で剣を手にかけた姿で実に堂々としている。右腕の手甲は腕を覆っていなかったので、そこに刻まれた紋章を晒し出した形で描かれていた。
白い壁や階段に血痕はもう残されていなかったが、油絵に薬品をかけて拭き取るのは避けたと見え、そのまま茶色に変色した血飛沫がその痕を残していた。良く見れば何かが倒れていた痕を示したテープや拭き取り損ねた血痕などが床や壁にまだ残っている。
「兄さんに紋章を描こうとした紋章士、この男で間違いないよな、名前は……」
「聞きたくもないわっ!」
ジュリアは眉を吊り上げて声を発した。
いつも絶やす事のない優しい眼差しが欠片ほども感じられない。
ジュリアは男の名前を知らない、知ろうとも思わない。過去に一度だけ会い、衝撃的な事を言ってのけた男。絵画として脚色されていたが、見間違う事のないその顔。その男は3人の家であった悲惨な夜を儀式と言い、宴とも呼ばわったあの金天使だった。
アレードは母の怒りの形相を目の当たりにして、自分が調べ上げた事が間違いないのを確信した。
「この男が指揮して、金の母上を傷つけ、父上を殺した……父上の遺体は見つかってない。俺はずっと、ずっとそれを追っていた。でも殆ど何もできず、わからないままだった、この屋敷で事件が起こるまで」
ジュリアは父親に似た息子の、青みがかった金の瞳を見返す。
もう忘れているかと思っていた。
確かにアレードは父上を探すから警官になると言って、天使界に入った。
本当はセリバーの名を継がせているので、神官にと望まれているのを放置して、警官になった時も彼はそれを口にしていない。
時効の壁、資料の閲覧不可や、金天使の事件買収、大人になって絡む色々な柵。通常業務を熟しながら、それらを越えて、じわりじわりと真相を掴むのに費やした年月。
それが不意に手に落ちてきた答え。目を付けてはいたが、正攻法では乗りこめなかったこの屋敷が襲われた事で。そして得た回答はあの夜の真実と共に、今からに続く最悪を示していた。
肩に乗せた黒い鳥がバランスを取るのに苦労するようなスピードで、彼は玄関から足早に幾つかの部屋を抜ける。
ジュリアは息子を思い、煮え立つような理不尽さを詰めた箱に再び怒りを封印し、与えられた手袋をその手に付け、後を追う。
「さっきの男も殺されたが、奴の日記が残っていた。その現場には居なかったらしいが……」
ゴテゴテと剥製などが飾られた、やはりアレードには馴染めない部屋に置いてある机の引き出しを開ける。日記はそこにあったのだが、今は警察の保管庫だ。
内容は読み切っているし、ジュリアに見せたらとてもではないが、アレードに止められるかわからない。
「父上は……あの夜、完全に死んではなかったんだ」
ランスの死体が見つからないのは、金天使が情報操作したからだと思い込んでいた。それは正解であり、不正解でもあった。
「何ですって?」
「紋章士の力を暴走させ、「玉」を狩った。そのまま金の母上と2人であの家に残された、と」
「貴方、何を言って……「玉」を狩ったなんて、魔に堕ちるのよ? 魔に……魔に、堕ちたと言うの? ランス様が? ニーチェ様の前で? そんな事、聞いていないわ、聞いていない……」
争い事が嫌いな、本を読む事が好きだった男が、自分の持った力を振り上げ行使したのは怒り。
ジュリアも怒りに捕らわれ呪詛を唱えようとした瞬間を思い出す。
彼女はニーチェの言葉と腹の子にその思いを留めたが、目の前でそれを見せつけられ、無力を感じた男を止める術はなかったのだろう。
魔に堕ちるのを唯一止められる聖唱使いなど居ようはずもないその場で、2人の間で何があったかはジュリアには皆目見当がつかなかった。
最初こそ「探さなければ」と言ったニーチェが、それ以上告げずにいたのは、当時身重のジュリアには、ただ死んだ事にしておいた方が良いと思ったからかもしれない。
天使としての心は、遅かれ早かれ喰いつくされて死んでしまうのだから。
アレードは机に付いた引き出しを決められた手順で開けると、壁に継ぎ目が現れ、隠し部屋が開く。
「まだ1人しか狩っていなかった父上は、正気を取り戻し、グリーン家に行ったが彼らに門前払いを食らい、この家に来て、「聖唱使いか軍に依頼して、体を滅してほしい」と頼み……母上、大丈夫?」
「え、ええ……」
じわり、まだ暑い時期でもなく、屋敷は無人でひと気もないのに、汗がにじむのをジュリアは感じる。
殺されたと思っていたランスが魔化していたという事実を受け入れるのも、彼女には難しかった。
自分の妻を穢され、怒りに囚われ魔化した後、そのケジメをつける為に、原因であり仇ともいえる男に頭を下げたのか。
それだけでどれだけ屈辱を上塗りしたか考えて余りあった。
「本当は頼みなどせず、そのまま軍に駈け込めばよかったんだ」
アレードの呟き。それを聞いてジュリアは更に嫌な予感を募らせる。
自分自身の足で出頭しなかったのは、ランスはこの件を密かに闇に葬った方が良いと考えたから。
「父上なりの配慮だったと思うんだ、金天使の一族や、グリーン家の名誉や……でも軍に依頼をかければ、密かとはいえ金色の母上に施した罪がばれてしまう、それに類似した案件も、全て。困った奴は父上を……」
2つほど扉を抜けた先、見た目より重い扉をアレードは開き、電気を付けた。
「ここに監禁していた。もう、父上だった記憶も失った魔を、ここに長きにわたって閉じ込めていたんだ」
ジュリアはフラフラと部屋に入ると、冷たい銀色の床に手を付いた。
「ちょっと待って。頭が付いて行かないわ。ここに、本当に少し前まで、ランス様が居たって言うの?」
「正確には父上の体と記憶を歪に変えて所持した魔だ」
「それでもっ! ……ランス様」
彼女の夜飛鳥がふわりと翼を広げると、その姿が揺らいで消える。
魔に堕ちた者への怖さは、何もその圧倒的な腕力や生命力だけではない。
歪に変形してしまうが愛した者の体を、そして記憶を抱えている事だ。
愛して、愛された記憶を忘れられない方にいる側は地獄を見る。魔に堕ちた者に、過去の姿を見て、抵抗できなくなる。
「ランス様」
魔の力も魔法も通さぬ壁に囲まれたそこには、天井や壁に拘束用の鎖があった。
机の上に並べられた棒やハサミのようなものは、どう考えても飾り物ではない。反抗すれば締め上げ、積み重ねられたボロの皿に一体何を乗せて食わしていたのか。
洗浄され、消毒の匂いがするその部屋には数か月前にはあったその情景を再現は出来ない。だが巫女として夜飛鳥を使う彼女には何かが見えたようだった。
黒い瞳に涙が浮かび、零れる。
「ただ閉じ込めるだけではなく、酷い目に、遭わされたのね。彼は」
ここに閉じ込められていた魔は、全員殺処分された、全ては終わったと告げるつもりだったが、その様子に嘘はつけない事をアレードは悟る。
「賊の目的は屋敷の天使から「玉」を取り出す事、そしてこの牢に閉じ込められた魔を開放、戦力とする為だったと見られている」
「「玉」を取り出せるという事は、その賊は魔という事なの?」
「全員が魔かは不明だけど。死体の食い荒らし方から見て、相当数が魔。それもかなり自我と意志を持つようになった上級魔……」
今まで完全に魔になってしまえば、ただ暴れ狂うだけだった。彼らが少しずつ進化し、上級魔の存在が確認され始め、更に組織立った動きをしている事が判明したのはつい最近。
そして、その対抗研究はこの屋敷で、政府主導の下、秘密裏に行われていた。魔を操れる聖唱使いが数人配置されていたが、彼らを的確に死に追いやってから、行われた今回の犯行。
嘘はつけないが父親の体がその研究材料だった事までは、さすがにアレードは口に出来ない。それを知った時の衝撃を味わうのは自分1人で良いとアレードは思った。
だがもうジュリアにはいろいろとわかってしまったかもしれないとも考え至る。ここが天使界であり、精霊界ほど幅が効かせられないとはいえ、一世界最高の巫女。かつてのように、妊娠しているわけでもない。その血を持って本気なら、いろんなモノが見えるだろう。
「ランス様、彼の残した体は彼らと合流してしまったのね」
ジュリアがそう言った途端、ギュンっとアレードは体を締め付けられるような圧迫感を感じた。
彼女の座った床に円形が浮かび、光が乙女の姿を取って消える。対魔法の壁だが、扉が開いている今、彼女の精霊術には障壁にならないようだった。
「彼らは……」
鳥が飛ぶようにこの場から滑空し、ジュリアの意識が二つに分かれる。
空に舞い上がり、警察の張った黄色と黒のテープのドームを高く抜け、遠くの山や街を見ながら、湖や新緑に輝く草原などを凄い勢いで走って行く光景。
「ああ」
知らねばよかったと思う事もある。
だが、このまま夫の体が好き勝手、天使を犯して行くのは放置はできなかった。
「ランス様は北に居られるようよ、私の様な黒髪はかなり長く、肩ほどまで。額を上げて、僅かに金が残っている。黒鱗の肌に紋章は傷入りのまま。何故かしら? 目の色が左だけ金色。再生能力はないのね、左手はないままよ」
「みえる、の?」
「私を誰だと思っているの? 死んだ者を探すのは無理だけど、深くつながったあのヒトを障壁もない今、間違えるわけないでしょう? 緑の髪をした魔が近くにいるわ」
彼が、緑の髪をした魔を抱き寄せている。こんな姿を見なければいけないなら、あの時終わっていてほしかった。そう思いながら眉を寄せる。
「洞窟の様な細い路地を抜けて行くの。私が見えてるみたいね、いや、私じゃない何かが居る?」
ジュリアにはランスの体は確認できても、全てがハッキリと見えているわけではない。
「今夜、動くみ……え、なんですって? きゃあっ」
突風がジュリアの座りつくした場所から舞い上がる。長い髪が解け、逆巻き、腕に付けた玉達が一斉に解け、砕け飛ぶ。右腕が赤く焼けただれ、痛みに顔を歪ませる。
消えていた夜飛鳥が床に叩きつけられるように現れる。
「は、母上!」
「結界を張られたみたい、何てことないわ。精霊界ではないから、力負けしてしまっただけ。大丈夫ね、翼は折れていないわ。無理させてごめんなさい」
一瞬、動揺した様子を見せたが、夜飛鳥に怪我がないのを確かめて、すぐに凛と言い放つ。
「それよりランスを早く探し出して。早く……殺しなさい」
彼女はもう、彼の名の後に敬称を付けなかった。首から鎖を外し、指輪を手に取ると、有無を言わさずアレードに右手を差し出させる。左の薬指は彼が本当に繋がるべき者の為に空けておく。
「私は長くここに居られない。だから精霊界の巫女リフュ-の名の元に、精霊夜飛アレード・セリバー。貴方に命令するわ。天使からの変異魔・ランスを討伐しなさい」
「はい」
口を挟ませない強い命令に、母ではなく1つの世界を任された巫女の強さを見て、彼は膝をついて目線を合わせると敬意を含めた一言でそれに答える。
「彼にレイルを殺させないで」
「レイルを?」
「魔になって時間が経ち、ニーチェ様を愛していた事は覚えていないはず。けれど、金天使に与えられた苦しみや記憶はあって、彼女を犯した男達を憎んでいる。当然、その時に育まれた命があるならば、きっと狩りに来る。マハイルには気付いているかわからないけれど、彼はレイルが見えているのか「アメジスト」と口にしたわ」
アレードの指に嵌めた金の指輪を見て、ジュリアは硬い表情を崩し、鮮やかに笑う。
「ランス様はやはりあの夜に死んだのよ。貴方と、マハイル、そしてレイルに、お兄ちゃんのサイファ。血は受け継がれ流れている。彼が残したのは左手の約束、それは確かにここ在るわ」
「母上」
「忘れないで。彼は本が好きな優しい天使だった。本当に優しい天使だったの」
彼女の浮かべた笑いとは裏腹に、頬には涙が止めどなく伝った。
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