1つの灯
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始めて来られた方、ここまでお読みいただき有難うございます。
お気に入り登録下さった方、感想下さった方、感謝です。
すごく励みになります。
もし、もう一度、この手に光が宿るなら。
砕かないように抱き寄せよう。
でもその時が永遠に訪れる事は、ない。
液体の中に浮かべられた銀の髪をした娘達。目を開ける事はないが息はしているのか、時々細かい泡を吐き出し、手足が不随意運動でたまに動く。
巨大な水槽の水は澄んでいて、薄青い光に照らされ衣服も身に付けず、思い思いの形で漂う。
「こんなふうに飼っているわけですね……」
生きていると言うのは余りに不確かな人形達。天使界の技術の粋を集めた作られた銀天使の複製人形。だがこの水の中でしか、生を成さない生き物。胸がなく、くびれも少ない幼い形。その生命、いや呼吸しているのは長くて3年。
放っておけばそのまま泡のように消える、命とも呼べるか定かではない人形。
「魂がないから「玉」は取れないが、状態のいいモノを潰して精製するとこれになる」
「何体分ですか? リトアー様」
「これで20体分。シフォルゼでいい、敬意もない敬称は要らない」
「マハイル教授を継ぐ研究者は貴方しかいないのですから、敬意を払ってないわけではありませんが。お付き合いも長くなると思いますので、苗字ではなくシフォルゼ様と呼ばせていただきますね」
勝手にすればいい、そう言いながら机に置かれた小さな銀の粉が入った小瓶を示す黒天使の男。振り返りもせずオレンジ色の髪をした男は、神経質そうで酷薄な雰囲気を漂わせる唇に微笑を湛えながら水槽の少女達に見入っている。
「その一瓶でどのくらいの威力になるのですか?」
「エネルギー的には天使界を2、3回くらいは吹き飛ばして、元に戻せるくらいか。平和利用すれば軽く300年は電力の心配が要らない」
「本物の銀天使に比べると面白みに欠ける力ですね」
その台詞にポリポリと黒い髪をかいた。水晶質の赤い角が2本、美しく輝く。
そうでないなら俺は研究などしない、そう言い放つシフォルゼの様子に、手にした銀琴を愛しそうに撫でながら振り返った男の目は乳白色のかかった翡翠瞳だった。
「ここに呼んで下さったと言う事は私が差し上げた情報が役に立ったという事ですか」
「ああ、お蔭でマハイル教授が使っていた極秘ファイルの筆跡認証コードが解けた」
「これのおかげです。腕のいい細工師でもあったのですね、教授は」
「教授は実験に使う用具の試作品作りをたまにしていたから、器用だとは思っていたが」
「趣味で護符などを作っていたようですよ」
今、銀色の琴を撫でていた時には手に持っていなかった、金のリングを彼は見せた。
それは何の変哲もない額飾り。面取りが丁寧にされていて、細かい文字は読めないほど小さい。これが幼い時にレイルの額を飾っていた事を知る者はもう少ない。
更に追言するなら、これは彼の兄の誕生を祝い、父マハイルが心を込めて作った作品。その兄が自分の代わりに置いて行った事も、兄の存在自体を今もレイルは知らないまま。
「細工の腕はともかく、おかげで人工授精による面白い培養法に行きついた。検体は後1年、持つかわからないが今は順調だ」
「それは良かったですね。それで……」
彼の手元にリングはもうなかった。
「オリジナルの銀天使、レーヴェはどこに?」
「レーヴェ? ああ、俺らは彼女を銀、またはルナと呼称している。最後に使わせていた名がそれで……」
「ルナ、銀の月、狂いの姫ですか。それも彼女にふさわしい美しい名ですね」
シフォルゼが手元のコンソールを叩き、カードを滑らせると隣の部屋の扉が重く開いた。
中は暗い、円柱状の部屋。壁は魔法も武力も通さない特殊な金属で加工してあって、鈍色。飾り気はない実用的な壁で出来た、その真ん中。淡い光に照らされた天使が1人、縦長の水槽の中に立った姿で浮いている。
「まだ入るな、セキュリティーを解……おい」
シフォルゼが止めるのも聞かず、オレンジの髪の男は待ちきれずにその暗い部屋に入り込む。
侵入者に対して警報が鳴り、侵入者に対し自動で銃声が響くだろう事をシフォルゼは確信した。だが男は小さく歌を口ずさみながら、琴を奏でると難無く部屋の真ん中に設置された水槽に近付いた。
「うそだろう? 歌で機械まで攪乱、制したと言うのか……」
「独学ですが腐っても聖唱使いなもので。天使や魔を操るのも、機械を操るのも殆ど同じですよ」
シフォルゼにそう言い放ちながら液体に浮かぶ少女を見上げる。液体は淡い紅色。
「正確に彼女は幾つですか?」
「11年になる。容姿は3年で成人14歳程度までになるが、以後は殆ど変わらない。胎児も2~3か月で産み月になるくらい体の成長だけは早く、黒天使でも比にならないほど丈夫で守りが固い。銀天使の体が神の血を引くと言われる由縁だ」
セキュリティーを解き、シフォルゼは近づいてそう言った。
その言葉を受けるように、オレンジの髪の男は呟く。
「人間が冬を嫌い、冬を司る銀天使の始祖を殺してしまい、悲しんだ神がその血を分け与えたと言われていますね」
「そう。逆に神的劣性遺伝子の為に、繁殖能力に問題がある」
「銀天使の子は、神の力を分散させぬよう、他の一族と交わる事では増えなくなった……でしたか」
「伝承ではそうなっている」
彼は水槽に浮かんだ少女を眺めた。
「神はこの美しさを手に入れたいがために、禁忌を犯したのだという見解もありますけどね」
実際、彼の目は彼女を映さない。だが盲目である彼には目で見る以上に、そこに浮かぶ銀色の天使がハッキリと見えた。
他の人形達の髪は長くても腰ほどまでしかないのに、彼女の髪は水槽内をうねり、長く長く縺れそうになりながらも解れ、揺れる。口からふわりと泡を吐き、それに細い血が混じり水を薄紅に汚す。辛そうに閉じた目が薄く開くと青い矢車の青を湛えた瞳が、僅かに覗く。
その可愛らしい唇から漏れ出る血を感じながら、ほうっっと溜息をついた。
「触れられないのがもどかしい……彼女を出す事は出来ないのですか?」
「5年前、イクスアルペイで火事に巻きこまれて、その騒ぎで戻って来てから、使用していない。見た目は傷がないが、口腔の壁から、食道、胃、肺を中心に内臓が7割方、ごっそり消えていた。自己修復もしているようだが、全ては元に戻らない。生命活動しているのが、このポットに中にあっても危ういぐらいだ」
「7割……」
男は見えない目でアクリルの水槽越しに、有り余るほど柔らかな胸がひっそり息づいているのを確認し、安心しているようにシフォルゼには見えた。女神にでも出会い、離れられないかのように彼は水槽に張り付いている。
実際、先程の部屋にあった水槽の娘達も美しくはあったが、本物の銀天使には敵わない。艶と輝き、誰もが触れて、その手に入れたいと切望してしまう美しさの中にある、あどけない可愛らしさ。
神が自分が作った中でも特に気に入って、己が物にしてしまおうと考えたとしても何ら不思議はないと思える銀色。伝承通り、神の血を受けているなら本当に女神とも呼べる天使族。
そして今、研究と繁栄の名の元に、彼女を弄んでいる彼らは神なのか、それとも愚者なのか。
御執心だな、キスでもしそうな勢いだ、シフォルゼがそんな事を思った時、
「壊れたまま受け取っても良いですが、完全に壊す可能性があります。紅様はそれでもいいと言われましたが、研究対象が壊れるのはシフォルゼ様的にはどうでしょう?」
「まあ、壊さない方がありがたいな。精神崩壊ならいいが、肉体は残してもらいたいのが本音だ」
「では報酬としていただく前に修理はしていただけますか?」
「ルナはソネットと言う主治医でないと触らせないと。一度無理に引き上げて手を施そうとしたら、半狂乱で暴走されて施設が全壊した」
苦笑いをしながらシフォルゼはそう言い、壊れたままでソレなので、扱いは大変だと付け加える。
「プレゼントでその辺は押さえるつもりです。で、その主治医殿は?」
「今はリィ財団から放出されている。魔道士だが、今はその仕事も請け負わず、聖天使を名乗り、北の上級学校で学生をしているはずだ。彼女はレイザ製薬の娘で腕は確かだが、少々困った病気があってな。だがじき戻ると紅は言っている。エンゲージドラッグも彼女なら作れる、というより、医師バイオレットの残したデータを使えるのは彼女しかいない」
それを喜んだかのように、ぽろんと琴を奏でる。その音に反応したように、銀色の天使が大きく目を開く。
「ああ。やはり美しい、作り物とは別格ですね」
「性格もそのくらい美しいといいが、ただのお子様だ。そのようになるように育てたのだが」
「ふふ、女として目覚めさせる時が楽しみですよ」
誰かに呼ばれた気がしてルナが開いた青い瞳に、2人の男が映る。
何か面白い物でもある? ああ、私を見ているの?
赤い角のシフォルゼの事は、幼い頃から自分を管理している天使の1人として認識している。
恥ずかしさなど皆無の彼女は、内から痛む体を隠そうとは思わなかったし、声は聞こえていなかった。
後もう一人、乳白色をした緑色の瞳がこちらを見ている。手には銀色の琴。その男が誰かは知らないが、唇を読んでまでルナは目の前のモノを理解しようとしていなかった。
彼女が夢に見るのは緑が艶やかな黒髪の少年と森を歩く光景。
冷たい空気、握る掌。
優しい黒天使の少年ファーラ。
何故か、泣いてくれた。誰でもない自分の為に。
5年前、あの夜……沢山の魔と共に、街の弱った天使がバタバタと死んだだろうと彼女は思う。
だが彼女が気にかけるのは緑玉瞳の少年。
紫水晶の少年を通じて、身を削ってみたが、最後にその心臓に杭を打ち込む歌を詠った。あの紫色の少年はファーラをとても大切にしているのが、一緒に力を行使した時に伝わって来て、とても安心できた。消したはずの魔が居座っているのにも臆しなかった。
ルナは思う。
街を覆うような歌が、あの至近距離で届かないわけがない。
強制的であったとはいえ、紫の少年は歌を謳ってしまった事を怒っているだろうか?
彼も疲弊していたので、大丈夫だっただろうかと付け加えて思う。
あの時、レイルがファーラの聴覚を既の所で塞ぎ、難を逃れた事を彼女は知らない。
銅の鎖で麻痺した感覚で、彼女は少年達の生死を捉える事ができなかった。
殺した、私が殺した……そう思うと、呼吸をしている事が嫌になる。
悲鳴を上げる僅かに残った肺の動きを止めるのに、何の苦労もなかった。
複数の天使が彼と紫の子を連れ帰るかで争っているのを聞いて、反射的に連れ帰らず放置するよう言った事だけは記憶している。ここに連れて来てもロクな事にはならない、そう思ったからだ。
死体と言えど、誰かに彼をいじられるのは我慢ならなかった。
ソネットならきっとあれからどうなったかを知っている、彼女と話したい。そう思い彼女だけを呼べど、ずっと来てくれない。捨てられたのだなと思う。それか言う事を聞かなかったから、怒っているのかもしれない。と。
泡が出来て割れる、その瞬間さえも長く、コマ割りされたような感覚で生きている聖唱使いにとっては、長い長い5年という時間を、彼に歌の刃を叩きつけた後悔で過ごしていた。
後悔。
暗闇で過ごしていた日々には抱かなかった思い。
目的も夢も希望も無かった彼女に、ただ一つだけ灯る。
彼に会いたい。でも会えないのなら、もう……
生まれて初めて抱いたその思いは、強く彼女を締め付け、この場から消えてなくなる事を望む。
バチっと電流が体を走る。
襲った痛みに、クンっと顎が上がった。口から大量の呼気が泡となり漏れ、血が口から吐き出る。
髪がそれに合わせて揺れ、ルナは重なる苦しさに瞳を閉じ、呼吸を再開させて、意識を手放す。
「何ですか? 今のは」
「ルナは精神が安定していない。自傷行為を機械が察知すると電流が今みたいに流れる。この中に居る限り、自分では死ねない」
「何を、誰を想っているのでしょうね」
「人形の気持ちは、わからない」
シフォルゼは黒い髪をガシガシと掻く。男はそれを薄笑いを浮かべながら見やり、データチップを彼に手渡す。
「まだ彼女への贈り物も用意できていませんし、主治医殿を待ちましょう。これは挨拶代わりです。この口座は自由に使って下さい。まだまだ修理費が必要なら出しますよ、彼女が壊した施設の再建費用や他の研究費に使っていただいても構いません。これでエンゲージドラックも回していただけますよね?」
「財団の後ろ盾があるとはいえ、研究はいくら金があっても足りない。これは助かる。薬を使用となると、検体になるがいいか?」
「ええ、喜んで。私はこれから待つ間、彼女の代わりに聖唱使いとしてでも働かせていただきます。と、すると、シフォルゼ様の配下となりますね、お世話になります」
「名は?」
「ティクエル、ティクとお呼びください」
幸の薄そうな唇に名を乗せると、彼はゆっくり微笑んで思う。
彼を追い込んで手に入れた宝石の輝きが救えたのは、体だけ。
輝ける銀色の器に入った、海よりも宇宙よりも青い紺碧のそれを手に入れたら、何かが変わるだろうか、と。
自分が欲しいモノは必ず彼の手の中にある。
それならば、それでいい。
彼女を掴むその指を、一本一本引きはがして奪い取ってやろう。
目の前の彼女を見ながら、その手で傷つけ、手に落とす時を考え、彼の頭は満たされた。
「憑りつくって……」
ファーラは意識を失っているレイルを抱きかかえてシラーを見るが、もう何も言い返してこない。いつも側に居る豹の使い魔は外で待っているのか側には居なかった。
何度も会った事はあるが、もともとあまり喋らない男、ジョージ・シラー。
レイルの叔父アレードの幼馴染と聞いている。
アレードはファーラの剣の腕を見込んで、警察へ誘ってくれている。
それをどうするかは別として、剣ならシラーに習えと言われて、レイルとは別口でお世話になっていた。剣の腕は負けないつもりだが、実戦で鍛え抜かれたシラーにはまだ追いつかない。
叩き上げて鍛えたと言う父とは違う、洗練されたシラーの動きはファーラにとって新しい勉強になっていた。
シラーはレイルの描き記す文字の様な図形を読み取ることが出来る。彼の邪魔するとどうなるか……ファーラは身をもって知っている。会話はタメ口を許されているが、気に食わないと容赦ないシラー。今は邪魔をしてはいけない時だ、ファーラはそう判断すると、仕方なく、言われた通りレイルの体をベッドに横たわらせた。
男にしてはレイルの体は華奢だ。だからと言って女の子の柔らかさはない。
ファーラはちゃんと動いている彼の父親とは一度しか会った事がないが、容姿は彼を大きくしたような感じだったので、筋肉もつかないが贅肉もあまり付かない家系なのだろう。アレードも見た目はやはり彼らに近く、ただ性格の違いからか鍛えて剣技などに耐え得る肉体に仕上げている。
レイルの長い睫、瞼は閉じたまま。
何かを追っているように眼球が動いているが、開く気配はない。輝く金髪が乱れて顔にかかっていたのをそっと直してやる。随分長く伸ばしている髪、整った顔立ち。その辺の女子よりよっぽど可愛らしくさえある。
それを見ながら、ファーラは昔を思い出す。
父を説き伏せ、手続きの為に必要事項が書かれた紙を兄に渡された。
「行っておいで。気を付けるんだよ、アリエル」
あの優しい声が作り物だと考えた事はなかった。幼いあの日。自由をくれた兄に感謝した。
紙と筆記用具、軽い剣を1人携え、初めて幼小学校に行く。
30人ほどいた集団で、簡単なクラス分けがされた。その前に試験があったがその結果ではなく、受け付け順か、名前順か、適当だったと思う。ペーパー試験で、レイルと同じほどの点数はなかったはずだ。
その中で2人1組になれと言われて、年齢も少し上で体格も良く、金の角をそのままにしていた事で怖いと思われたのか、ファーラは相手がすぐに決まらなかった。
残っていたのが白い長衣に黄金の髪、陶磁器のような白い手をした華奢な子。後ろから見た時、見えなかったその双眸が、葡萄色に近い深いアメジスト、紫の宝石色だった事に驚く。端正にヒトの手で作られたかと思うほど、決められた位置に顔のパーツがあって出来過ぎていた。
「よろしくね、俺、レイル・グリーン」
表情が硬い。
だが品のある、小さいくせに重さを感じさせる男の子だった。
それと同時に、あ、こいつ絶対嫌われると思った。瞳の色が魔王色だから、そんな事だけではない。余りに醸し出す雰囲気が気高すぎて、冷気を帯びた紫と混じるととんでもない相乗効果を生む。普通の天使にはない雰囲気は、用事がなければ近寄りがたい。目立つともなく際立ってしまう存在は、普通の者にとって目障りでしかない。いじめの標的になるのは目に見えていた。
一時、そうなる事はあったが、彼は逃げなかった。小さい時は逃げていたけど、耳栓があるから歌われても倒れる事はないから怖くない、そうファーラに言った。
耳が使えないからか、いろんな物事をよく見て、誰よりも気を使って他人に接する。それでいて嫌な事は嫌とハッキリいう強さ。紫水晶瞳によって嫌われても、信念に近い歩みは魅力的だった。
頭は良かったが、剣は絶望的に弱い。
かと思えば、真似をさせればほぼ同じ動きをしてみせる。それでも基礎がなっていない為、筋肉が足りず、急な動きについていく機転もないので結局付いて行けない。その為、本人は才能がないと諦めてやらないまま。軽い模擬刀を使った剣技舞、型の美しさだけ競うならレイルの方が上手い、本人の前で認めてなどやらないファーラだったが。
「見た目は変わらないけどな」
気になっていたレイルの右の掌を広げてみる。
剣の授業の時、遠目に見て、握りが甘いのは知っていた。
鉛筆を使ったり、食事をしたりするなどは支障がないようだが、重い物は一度左で持ったり、咄嗟に右側を庇ったりするような動きがある。自然に自分の弱い所を庇う仕草は、剣の道を歩んでいて彼を家族として暮らすようになったファーラだから気付いた。レイル本人も気付いてないだろう。
将来の目標を医者に定めた彼の障害にならないといいがと思いながら、自分の一番深かった傷を癒してくれた、掌をそっと撫でる。
「やめてくれ、父さん。ごめんなさい、ごめんなさい」
5年もたつのに、たまに思い出す気持ちの悪い地下牢の床。焼けて消えた筈の大きな屋敷で叫び狂っている自分が蘇る。
脇腹の傷に歯を突き立て、血を啜られた。内臓近くのその場所が一番うまいのかもしれない。
思い出したくもないのに、年が経つにつれ嫌な方向で記憶がはっきりする。魔の毒が染みるのか、直後は痛みが消えて快感さえ覚えた。後から反動のように痛むのだが。
為されるがまま、体を奪われる。
ある程度大きくなると対抗手段である剣も身のこなしも身に着けていた。それなのに、父には抵抗できない。
反抗してその刃が兄に向う事だけは避けたい、その為に命じられた服従を、父の支配を、幼い頃に受け入れてしまった。受け入れてしまったものを振りほどくのはとても難しかった。
そして未だに抜け出せない。父が今、目の前に現れて体を欲されたら、剣を向けて切りつけられるか正直自信がないほどに。
そんな時、未だに残る白い手形を思い出すと、襲い来る父の幻影が消える。触れると優しい波動が伝わってきた。
何度も救ってくれた。
「惚れたか?」
「は?」
唐突にシラーが訳の分からない突っ込みを入れて来て、ファーラはハッとする。随分食い入るようにレイルの顔と手を見つめていた事にソレで気付く。
「ば、馬鹿な事を」
「あ、違ったか、惚れられているのか」
言われて解こうとしたファーラの手を、逃さないようにするかのように、レイルが両手で縋るように追って来てしっかりと繋いでくる。起きているのかと思ったが、意識は戻っていない。
レイルの左手首には白い布切れ。
レーヴェの残した服の切れ端を、たまに眺めているレイル。
何を思っているのだろうか、ファーラは聞けない。が、いつかレーヴェとの間にあった何かを教えてくれるだろうかと考える。
背中の酷い火傷がほぼ治っているのに気付いた時、「紫の子と銀の子の「英断」だよ。愛されてるね、お前は」と人魚のリュリアーネに言われたが、愛されるほどの事を返せない自分に苛立つ。
数日前にレイルがタイムターゲットで狙われた時、助けたのは魔道士のファリア。自分ではなかった。
いや、救うのが……俺でなくてもいい、彼が危険がなく生きていられるなら、何も俺でなくていい。
今、彼が望むなら手を握っておこう、落ち着くのならそれで良い。
シラーは自分の言いたいことだけ言うと、紙上の世界に戻っていた。
ファーラは照れながらも、誰に話すわけにもいかず、手を振りほどく理由もなく、そのままレイルの手を預けたままに側にいてやる。
「これは……誰かの残留思念だな」
「え?」
シラーの表情は変わらないが、そう言うと、読み上げずに下の余白に訳文を天使の文字で書き上げる。
『マハイル。
告げる事のない愛を。
ここに彷徨う。
死なない体、彼は堕ちた。
それでも。
死してなお。
マハイル。
もうないと思った。
でも。
あいつは彼に死を与えなかった。
貴方を探しに来る。
彼は貴方を知らない。
マハイル。
早く逃げなさい。
死した時。
貴方の血で証明しても。
それは辛すぎる。
恨んでいるから、罪の子と。
違うと誰か、誰か。誰か。
彼に……』
「なんじゃこりゃ」
「霊に近いが、魂はもう無い……」
「マハイルって……」
「教授とレイルを間違えているな」
シラーは簡単にそう言う。
「強い思い。レイルはそれを文字の形で見ているんだろう」
「誰の?」
「知らん。これは……」
そう言い切ると、ふとシラーはレイルの側にあった黒い装丁本を開く。
「なんだよ、それ」
「銀天使の遺伝子研究の書物だな……」
「銀天使?!」
ファーラはその本を奪い取りたかったが、レイルに手を預けていたし、シラーに目で制されて横から見る。
「ソナタにセレナーデ……」
「あ、マハイル父さんにレーヴェ? あれ、これ女史に似てる」
彼が眺めていた白黒写真。そこにはマハイル、そして銀天使が2人が、研究者と共に写っている。白黒であるのに、どうして銀色とわかるのか不思議だった。
「この銀天使セレナーデは兄弟子だ。共に剣を学んだ」
「え?」
「隣はソナ。彼女の剣も美しかった」
「シラー、銀天使と知り合い?」
「血液上は銀天使」
「誰が?」
「俺だ」
ははははは……ファーラは笑ってみた。銀天使とは他の天使と交わる事では生まれない貴重種。ルナは自分が最後の1人だと言った。シラーは髪も翼も真白。銀色の要素は全くない。
だが冗談には聞こえなかった。いや、たまに冗談を言っても、シラーの口調では本気かどうかを判別する事は難しいのだが。今のは嘘ではないようだ。
「人工受精で生まれるのは純白」
シラーはゆっくりと翼を広げた。室内で、それも座ったまま出すには大きめの翼。その頭上に白く輝く輪。更に透明な水晶の角、そしてもう一対、白色の翼を見せた。
「翼が四枚……」
「純白の魔導師、銀が出ない」
本を横に置くと紙切れを見て、
「が、レイルの描く文字が読める」
「じゃあ、レイルのこの文字を描く力ってなんなんだ?」
「描くだけなら紋章士の力。だが……」
彼は多すぎる翼と、角に輪を消すと、ゆっくり首を振ってわからないと言う。
「なあ、シラー。レーヴェ、最後の銀天使を知っている?」
そう尋ねると、いつもより少し喋ってくれていた彼の口に錠がかかった。
そしてそのままレイルの描いた紙をまた眺め始めた。
「誰? 何?」
レイルはファーラとシラーの気配が遠くなるのを感じ、暗闇に吸い込まれていく。
暗闇にオレンジ色の細い光を感じる。
「何を……俺達が何をしたと言うんだ……」
「まだ喋れるのか。ランス・グリーン。まあ、最強と言われる「紋章士」の力も、両手を括られれば何の威力もないがな」
嘲笑交じりの返事が響く暗い室内、耳を塞いでいるはずのレイルに聞こえる、聞きたくもない生々しい水音。
理解不能。いや、理解したくなかった。
ファーラとシラーと二人のいる部屋にどうやってでも帰りたいとレイルは願う。だがその願いは聞き届けられる事なく、吸い込まれた意識は暗い部屋に縛り付けられた。
全身にミミズが這ったかのような、悪寒をレイルは感じた。本能的にそこが普通の場所ではない、おぞましい事が起こっているのだと察する。
自分に体があるなら真下、足元辺りで誰かが強制的に結ばれ、動かされ、声にならない声の拒否が湧き上がる。そして拒否を無視した所業が繰り返されている。もう力なく、だが動物のように反射で喘ぎ呻く女の声に男達の息遣いが響く。
まだキスしか体験のない少年にとって、刺激があり過ぎる、残酷な何かがそこに蠢いている。
真下は怖くて見れない、眇めるように斜め向こうの部屋を見ると、そちらの部屋は細いオレンジの光があった。そこに両手を縄にとられ、耳も塞げずに膝をついた、ランスと呼ばれている男の姿が見えた。
右腕に甲から肘まで綺麗とも思える紋章が、そしてそれを縦に割く傷が深く入っている。左手の薬指には金の指輪。
酷く痛めつけられたその顔が、レイルには父マハイルが自分を庇って殴られたり、骨を折られたりしていた光景と重なり叫ぶ。
やめて、やめろ……
だが、その声は誰にも届いていない。
腕を取られた男はたぶん自分の祖父。レイルがそう判断した時、側で語る男に彼は殴られた。
「生意気な奴だ」
では、真下で喘いでいるのは……
「そんな顔をするな、お前は優秀だったからこんな汚い仕事は関わった事はないだろうが、俺達のような末端貴族からすれば、そんなに珍しい儀式ではない。見せしめや粛清も兼ねてる。だいたいお前達自体も似たような産物らしいぞ、でなければ母親が姉妹で同じ父親など有り得んだろう。種が育てばグリーン家には事後承諾、お前達も称号が回復し元通りだ」
「頼んだ覚えは、無い……」
「子供が出来ない上に、精霊の女になんかに手を出したのが間違いなんだ。そもそも優秀な紋章士を輩出するグリーン家に生まれなければ良かったかもな。ああ、称号が回復した後、変な言い掛かりは止めてくれよ。妻の痴態が晒されたり、名目上お前の子になるその子がどんな扱いを受けたり……その辺を冷静に考えるんだ」
男は食卓に喰い散らかされた食事の中から、何かをつまんだ後、面白くもなさそうに酒を瓶から煽る。側にあった写真入れを床に叩きつけ、
「精霊が居なかったのは誤算だが、その方が外交的に良かった。本当はもう少し、おままごとの時間をやっても良かったが、ニーチェが病気でやられる前に儀式で実らせ、収穫まで行うなら、早い方が良いという話になってな」
「病気……」
「アレクトリア、ニーチェは癌でもう10年は生きない。あれは進度が遅いが、貴族の俺達にはほぼ不治の病だ。不妊で通っていた医者に排卵周期を確認する際に聞いたがな」
知らなかったのか、そう言わんばかりに嘲りの発音で言い放った後、
「おい、俺は召使のユニを処分しに行く。約束が違っているからな。俺はもうガキは要らない。こないだビンゴした子がまだ5歳だ。まあ、俺の子じゃない事になってるがな、お前達はせいぜい楽しめ」
笑い声と返事の中、そう最後に言い捨てて、狭い家を出ていく。
夢だよ、夢だ、そうレイルは思おうとする。
俺はきっとオカシイ。
こんな酷い事をされるのを想像したり、声を聴いたりするなんて。紫水晶を持って生まれたから、きっと気狂いなんだ。
だが、前に見た祖母の暴言は間違いなく過去にあった出来事だった。
金色の髪をした男達が執拗に白い足を押さえつけ、そこに腰を落とす度に嫌な音がする。顔は見えない、左の大腿に赤い紋章が輝くのが暗闇の中でも見える。
レイルは思う。
母メアリとまだ一緒にお風呂に入っていた頃に見覚えのある白薔薇のような刺青は、貴族の後継長女に入れられる紋章。
体温が上がると赤くなる薔薇模様は綺麗だった。彼女のそれも真紅に輝いているのに、虚しいまでに穢されて見えた。
一時、誰がマハイルの父親かわからなくなった理由。
そして……父に血を断ち切るだけの恨みを植え付けた理由……
誰も自分の子供をこんな目に合わせたくない。
ジュリアはレイルにはただ「貴族となればいろいろ制約があるから自由にできない」と説明した。ニーチェが遭わされた処遇を伝えなかったし、伝えられなかった。同族に傷つけられた、その具体的な内容は述べなかったし、それがランスが死んだ事に繋がるのも曖昧にした。
こんな事をされたなんて……知らなかったレイルは簡単に「継ぎたくなければ、拒否すればいい」などとジュリアに言ったのだ。生意気だったと思った。想像もしなかった。
こんな事、平気で行われていいはずがない。やる方も感覚が狂っているのだろう。
何故、祖母ニーチェが金天使の血の守り人にマハイルをさせたくなかったか、正しいやり方であったかは別として、レイルにはここでようやく納得、理解した。
嘲笑と繰り返される暴行、ランスの額が割れて血が床に落ちた。
「ランスに何もしないでっ…………ああっ」
足元から細く、擦れた女の声がした。どれだけ声を上げたらこんなに擦り切れるのか、考えたらとてもではないが見る事などレイルには不可能だった。
こうまでして守らなければいけないモノは何なのか、レイルにはわからない。
この時のランスも同じだった。
貴族として生まれ、その血に誇りと名誉があり、それを守る事こそ正しく素晴らしい事だと教えられて育ったランス。
彼は「紋章士」という特殊な能力を持ち合わせており、純血の者に刻印を与える事が出来る。血の混じりの許されない銀天使以外は、その紋章を持つ者だけが貴族であり、尊ばれ、血の守り人として擁護される。
グリーン家では血が濃いほど証明、および紋章を記する力を持っている者が多い。ニーチェはこの力には恵まれなかったが、血を濃くして確実にその力の継承者を作り出すために兄妹、従姉妹同士の結婚など生まれた時から仕組まれた。
そこまでは納得していた。
でも子供が出来ないからと、選んだ代理母が精霊だった。自分達の思惑と違ったからと言って、まさかこんな仕打ちを……守って生きると決めた妻を奪われる辛さは、温厚な男を追い詰める。
そして寝込む事が多いと思っていたが、生活を変えた慌ただしさで、重い病に妻が取りつかれている事に気付けなかった事が、その行為に拍車をかける。
やめろ、やめろ……
レイルはランスの体から黒い文字が滲みだしているのに気付いた。その場にいる誰も、当人さえも気づいていない。
妻を、開放してやりたい。
一瞬でも早く。
どうしてこんな事になったのか、そう思う間にもぽたぽたと額から落ちる血。
その血が何かを描く。恨み、禍々しいまでの思いが床に落ち、そこに渦巻く。
やめろ、それは……
レイルはそれが父マハイルと描いた闇文字に類する模様だと気付く。
それも絶対に描いてはいけない、警鐘どころか、生命の危機を感じる形。
描く気もないのだろう、男の気持ちだけが普段は眠っている力を呼び起こす。
レイルの願いも虚しく、模様が起動する。
ゆっくりと、蛇のように動き出す形が、床を這い、薄汚れたシーツを登り、レイルの真下にいた男の背を這い上る。
誰も気付かない。
ゆっくり、ゆっくり首に絡み、口元の方に移動する。
「あぁ……ダメ、ランス、耐え…………」
気付いたのはランスの守りたかった妻ニーチェだった。
今までと違う台詞に、男達は女が耐えきれない快感でも感じたかと思ったのか、より激しく動き、押さえつけ拘束する者の淡い笑いがその場を埋めた。
だが彼女が夫に語りかけたのは、上に圧し掛かった男のだらしなく開いた唇から、這いよる文字がスルスルと体内に入るのが見えたから。
夫が何かの力を動かしたのを感じて、それが普通でないがわかった。
すぐに動かせる力なら、拘束される前に使って逃げ出せたはず。
だがこんな、もう取り返しも付かない時間が経過した、この場になって動かせる力は恨みによるものだけ。
「やめてぇっ」
図形を飲み込まされた男が、ニーチェの上で仰け反り、貯め込んでいた白い血を排出する。
回りの男は異様なイキ方をしたのにまだ気付かない。ただ女を明け渡すために動いたのかと思った。だが、苦しみながら喉押さえ、呻き出したので異変に気付く。
「お前ッ、何をしたっ」
苦しみながらも何とかランスの前に立ち、腹を抱え、もがく男。その胸が突然、熟した柘榴のように内から弾ける。
カツン……
虚しい軽い音を立てて、血と共に小さな青い石が落ちた。
美しい小さな小さな「玉」を排出し、崩れ落ちる天使の体。
その血を浴び、下を向いたままのランスの爪が伸び、今までどうあがいても引き千切れなかった縄が、紙切れのように脆く割け、髪が不自然に黒く黒く染まって行く。
立ち上がった彼の目の色は輝きのない鈍い緑。腕を振り上げ、気付いた同族の背中に傷跡を付け、伸びた牙で肉を引きちぎろうとする。
「ら。ランスが……」
「逃げろ、気が狂ったぞ」
「違う、これは魔化だっっ! ランスが魔に堕ちたっ」
残った男達は恐怖で震えながら、家から飛び出す。それでも羞恥はあったのか、コートや何かは引き掴んで行く者もいた。
レイルは変わり果てた金色の天使を見る。
ジュリアばあちゃんは言わなかった、こんな事、言わなかった。
そう思いながらレイルは頭を巡らせる。
この日、ジュリアは家に居なかった。
帰って来た時には腕一本とニーチェしか残っていなかった。
知らないのか、語らなかったのか、彼には判断が付かない。
レイルは動悸が早くなるのに気付きながら、目の前の光景を否定的に眺めた。
こんな事が過去にでもあって欲しくないと、願う。
だが妻を襲っていた男達に尖った爪を振るい、何かの文字の様なものを描き飛ばす。その姿は悪鬼のようで、ファーラが魔化して自分を失い、緑の火玉を投げつけていた姿と酷似した。
外へと逃げた奴らを追おうとしたが、誰かが最後に扉を閉めたため、一瞬ランスの足が止まった。
ちょうど足元にあった「玉」を抜かれ、死んだ同族の男の体に気付いて、魔化したランスは「食事」を始める。
天使を喰うその姿はもう同じ血を持つ天使ではなく、魔物そのモノだった。
レイルはもう何も、何も考えられず、ただその姿をぼんやりと見ていた。
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