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思考の相違

いつも覗いて下さっている方、本当に感謝です。

始めて来られた方、ここまでお読みいただき有難うございます。

お気に入り登録下さった方、感想下さった方、感謝です。

すごく励みになります。

 

 

 もしこの瞳を誕生させる為だけのカラクリなら……要らない。

 でも必死に生きてきた証として俺達が確かにここに居るなら。

 俺達は歩まなければいけない、その義務がある。

 















 残り少ないコーヒーカップの底を眺めながら、ジュリアは暫く黙っていた。椅子には座ったものの、レイルも考え事をしていて、暫く2人の間に会話はない。でも気まずい感じはなかった。お互いしたい事が出来る間柄なのがその空間にあって、見た目和やかな空気に包まれていた。

 ただ、心の中はお互い複雑を抱えている。

 渋もなく綺麗に磨き上げられている白陶器のカップが、カシャン、とソーサーに戻され、その音を響かせた。ジュリアはカップを置いてみたものの、忙しなくすぐにソレを手にする。穏やかにしていてもどうにも落ち着かない、そんな感じの仕草だった。

「この指輪なのだけど……ねえ、レイル」

 最後の一口を惜しそうに手元で弄びながら、レイルを呼ぶ。目線を低くしていたが、顎が動いた事で喋り出した事に気付き、彼は一旦、棚の中にあったコーヒーに似た何かについて考えるのをやめ、

「何? あ、もう少し入れようか?」

 そう答えると、優しい眼差しをした黒き祖母を笑って見つめた。



 虐げられた育ったマハイルと似た笑いを浮かべる事が心配だったレイルが、随分普通の微笑を浮かべられるようになっていた事にジュリアは安心していた。

 だが、レイルの父でありニーチェから預かった息子マハイルは5年も目覚めず、付き添う母メアリもソワソワとし、彼にまだサイファという兄が居る話が出来ていないと聞いた。

 現在、精霊界の巫女の数は昔に比べてかなり増えている。積極的に教育を施し、重要性を訴え、各部族に素質ありという精霊を見つけては擁護した。とはいえ、育成できたのは両手に少し余る人数。まだ質的にどうかと言う子も数人紛れている。

 それをうまく纏めるのはジュリア、巫女リフューの役目、余り長く精霊界を外し、天使界に居て孫や大切な息子達にいろいろな事は出来ないのが実情。

「残念ながら沢山は飲めないのよ、気持ちだけいただくわ。ありがとう、レイル」

「大変だね、好きな物を好きなだけ口に出来ないって」

 それぐらいの制約は何にでもあるし、目の色だけで差別される、貴方ほどではないわ……溜息を吐くような細い精霊語で呟く。レイルは精霊語を読唇だけでは意味が取れずに怪訝な顔をした。



 ジュリアは全てを言い直す事はせず、3人分の誓いの指輪を眺める。

 大きさがバラバラなそれは図ったかのように組み合わさり、ジュリアの指から抜け落ちない微妙なバランスで輝く。

 それを一度、ぎゅっと握り、心で呟く。



『死が三つの魂を別った今も、

 いばらの道に残し行く子達と孫を守りたい。

 そう思う気持ちに偽りはありません。

 その灯になるように。

 この指輪をここに残していきます』



 ジュリアは指から2つを外した。残った指輪は2つの支えを失くして落ちそうだったので、また鎖に通して首に下げた。

「こちらのニーチェ様のを、マハイルに貴方から渡してほしいの」

「え? 俺が?」

「いつ目覚めるかわからないけど、貴方からなら受け取ってくれるでしょう」

「それはどうかな?」

「大丈夫、マハイルは貴方を愛してるから。さあ、こっちは私のよ。レイルに譲るわ。今から精霊界に戻る前に、アレードにランス様の指輪を渡していくつもりなの」

「大切なモノなのに、俺にまで? いいの?」

「お守りよ。これくらいしか出来なくてごめんなさい……」

 マハイルによく似たレイル。

 瞳の色は紫であったが、聡明で頭の良さには恵まれている。祖父ランスも父マハイルも一部を除き魔術などは闊達とは言えなかったが、やはり頭脳は明晰だった。

「マハイルに酷い事を言ったあの時、ニーチェ様が立つのなんて久しぶりに見たのよ。何日も食べずに閉じ込められたのを知ったら、勝手に体が動いて……でも愛してると抱いてあげられない事に気付いて、あんな酷い事を言ったのでしょう」

「あの時、父さん、心配してたのよ、愛してるって……言って欲しかったんだって思うよ」

 そう言っていたら。

 マハイルは金天使として貴族の名を継ぎ、教授にもならず、メアリとは結婚せず、レイルはここに居なかっただろう。

「ええ……あれはマハイルにとって決定打だったと思うわ」

 そう言いながら彼女は思う。

 孫のレイルを見たらニーチェはマハイルが天使界の上級学校に誘われた時、当たり前と言わんばかりに口にしたように「頭だけは良い」などと軽く評するのだろうか? と。

 今にして思えば、あれはマハイルに送れるギリギリ最大の賛辞だったのだろう。



「俺は……やっぱりもう1人のばあちゃんは意地悪だと思う」

レイルは小さく呟いた。

「あの時、父さんが欲しかった言葉を言ってもらっていたら、もし貴族になったとしても何も後悔しなかったと思うよ。なりたくなかったら自分で嫌だって拒否して道を作ればいい」

「そうかもしれないわね。でも親は自分が歩んだ泥道に橋がないのを知っていたら、ここは通ってはいけないと教えたり、指示したりするのよ。一度歩き出せば引き返せない道だと特に……私は彼女の側に居たけど、きっとニーチェ様の思いの全ては理解できないままよ」



 ジュリアの頭の中では過去、知る限るの事が走馬灯のように過ぎっていたが、レイルに語れた情報は穴だらけだった。

 それでも「ゴミ」呼ばわりする暴言を吐いていたのは、貴族にさせたくない一心から、マハイルに母親を否定させる事でそれを可能にしたのだとは分かった。

 そして何故ジュリアが居て、アレードと言う叔父が生まれたのか、マハイルが実母の話をせず、ジュリアを母と慕っていたのか、それも理解できた。

 だが金天使の複数に酷い目に合されたとは聞いても、具体的な内容が語られなかったため、あんな事まで子供に言って継がせたくない貴族ってなんだろう? その辺りはそう思うだけにとどまった。



 ジュリアは優しい目つきでレイルを見ながら、

「酷い言葉に愛を見つけるのも、難しい学問に取り組む姿に愛を見つけるのも、他者には難しいわ。貴方はお医者様になるのだそうね、全てを壊す魔王色を持ちながらその道を歩むのも、他のヒトにはなかなか理解されないかもしれない。でも自分の信念と愛を貫くのは他人に理解される事ではなく、自分の望んだ結果を得る為よ」

「そうだね」

 とりあえずあの暴言が、何らかの愛の証明に吐かれた言葉だったのはレイルを少し安心させた。それをどこかで感じ取っているから、父が天使遺伝子などという難しい学問に入り込んだのも知って良かったと思った。

 布をかけて置いてあった食事は、お粥に小さく刻んだ緑色の野菜がふりかけてあった。少しだけお椀にとってレイルは口にする。保温容器に入っていたせいか仄かに暖かい。

 きっとこの食事にも愛情が入ってるんだろうな、そう思ったらやっと食べ物が喉を通過した。

「おいしい」

そう呟いたレイルの言葉を聞きながら、ねえ、ニーチェ様……と、ジュリアは語りかけてみる。



 まだマハイルを抱きしめて、偉いねと言うのを、我慢しているのですか?

 もう子供どころか、ランス様の孫まで居るのですよ、見えてますか?

 孫ならアレードにそうしたように抱きしめられますか?

 そうそうマハイルったら寝たままなのですよ。

 そっちに近い所に居るなら、起こしてくれないですか。

 ねえ、ニーチェ様……



 返事のない声掛けに、滲んできた涙が溢れない様に目を伏せた。


















 祖母から貰った指輪と父にと預かった指輪は、2つとも耳栓を繋ぎ合わせる鎖に通し、真ん中辺りで結んで固定する。仲良く並んだニーチェとジュリアの指輪が輝く。

 表を見ると違いは分からないが、2つのリングの裏には何かが刻んであって、その模様の違いで見分けることが出来た。

「この模様、どういう意味?」

「ランス様が書いたのをそのまま作ってもらったとニーチェ様からは聞いているけど。意味は知らないの。貴族の時は証明士というお仕事をしていたから、その関係じゃないかと思うけれど」

「証明士? 鑑定士じゃないの?」

「鑑定はその体に眠る力や「玉」を見る天使ね。証明士は貴族の体にその血の証を刻むの、紋章士とも言うらしいけれど。写真に写っていたランス様の手にもあったでしょう?」

「紋章士……」

 ジュリアはマハイルの腕にも走り、刻まれそうになったそれを思い出す。

「貴族だって事を証明するお仕事だから普通は必要ないし、あまり知られてないのではないかしら? では、行くわね。貴方に豊かな未来があります様に」

 レイルの頬にそっと触れ、そう言って家を出て行った。



 レイルは急いで2階に戻り、自室の窓から見下ろすと、黒い髪を揺らしながら家を去るジュリアの後ろ姿が見えた。数人の精霊が彼女の後ろに付く。特徴的な肌の色から、彼女と同族とすぐ分かった。

 どこからともなく現れた魔道士長とレイルと同じ格好をした少年ファリアが、彼女の前に傅く。

 その時、大きな鳥が2羽、空から舞い降りる。カラスに似た、しかしそれより大きな鳥。

 1羽はジュリアの肩に止まった。残りの1羽は可愛らしい鳴き声を残してまた高度を上げ、飛び去った。

「あれって、学校の近くにいたやつかな? て、事はあれは……あ」

 それをレイルが見ているのに気付いたジュリアが振り返ってにっこり笑い、「早く寝なさい」と口の形だけで告げ、何かを追いやる様な手つきをする。少しつまらなさそうな顔をしてしまったレイルに彼女は更に綺麗な微笑を向けて、手を振った。



 レイルは仕方なくベッドに戻り、ソネットから借りた本を読み始めた。

「父さんって、結構いろいろやってたんだな……神的劣性遺伝子と遺伝子的優位相性に。え、抗精子抗体ができる? どこか載ってたかな」

 この本で触れられているのは銀天使一族の妊娠率を上げる薬に関しての遺伝子理論と、補うための試薬を治験した結果について書かれていた。教科書や医学辞書なども引っ張り出しながら照らし合わせる。



 エンゲージドラッグと名付けられた試薬は効果は高く、その薬を使用した時に性交した天使との結びつきを強くする。

 中は殆ど手書きを印刷したモノ、それもマハイル1人で書いたわけではない。共同で付けた日誌、またはカルテと言った感じにレイルは取れた。

 文章の後に記述者の名が明記されている。

 マハイルはその場で思いついた理論や言葉を、散文的に流れる様な文字で書き記している。

 被験者への処遇やバイタル─────心拍数・呼吸数・血圧・体温・体調など─────を細かな文字で良く記述しているのはバイオレット、ソネットの姉だった。

 他にも数人書いているのだが、レイルの目を引いたのは、その日その場で行われた会話や情景をシナリオのように書き綴っている研究者の文字だった。ブロック体で記され、まるで印字したかのように、乱れがない。

 記述者はシフォルゼ・リトアーとなっていた。

「これ、記憶して後書きなのかな?」



 そんな事を思いながらシフォルゼと言う人物が書いた部分を読み進むと、薬を服用した少女の朝食がバイオレットの文字で記載されて、大きく〇が付いていた。



 パン、牛乳、コールスローとハム。そしてリンゴ。



 何ら特記する事もない食べ物。

 朝のバイタルは彼女の平均。血圧が若干低いくらいで、ほぼ正常値だった。



 その下に会話が書かれていた。それを読むとその日の光景が目に浮かぶようだった。



「おはよう、ソナちゃん。セレナ君も」

 マハイルは2人の銀天使に声をかけた。

「おはようございます、教授」

 そう答えたのは青年セレナの方で、もう一人のまだ少女と思える女の子ソナは、無言のままフォークでハムを突きまわしていた。

 被験者になった若い銀天使の夫婦。遺伝子的優位相性、つまり子供ができやすい組み合わせの男女。

 これを飲んで、昨晩は仲良くしてねと言ったのだから、気恥ずかしいのだろうかと思ったら、少女の銀天使は食事に苦戦している様子だった。

「リンゴ以外食べてない?」

「ハム嫌い、パン嫌い、マヨネーズ嫌い、牛乳嫌い……」

 念仏のようにソナはそう言う。食べたと言うリンゴすら一欠片の半分しか減ってない。

「ダメなんですよ、ソナは少食、偏食すぎて」

「うーん。これからは少しずつでも食べないと。妊娠してもそんなじゃ子供が育たないよ。セレ君の可愛い子供を産むって決めたんだろう?」

「うー……本当に食べないとダメ? マハイル教授?」

 涙目で突きまわしたハムの穴数にマハイルは苦笑する。

「何なら食べられるの?」

「……何だろう?」

「マハイル教授、ソナの、聖唱使い(スペルメイジ)の感覚は変なんですよ。他人から隔離して異常な育てられ方をしますし」

「セレナが……私をヘンって……異常って言った……昨夜は……えっちだったし……銅、重いの、頑張ったのに、次は食べろって虐める……二人とも酷いし」

「っ! そこで朝っぱらから急にその話題は……」

「まあまあ……ソナちゃん、虐めてるんじゃないんだよ。野菜はマヨネーズあえない様に調理してもらって。出来るだけ食べれるモノを出してもらうようにはするから」

「パンぐらいは食べようよ、ソナ。マハイル教授も困っていらっしゃるから」

 そう言ってセレナに差し出された小さな丸いパンを、彼女は前歯で少しだけ齧り、牛乳を嘗める。鼠が食べた方がまだ減るだろう、そう思うほどの量だった。



 それを口にして数秒、ソナの顔色が変わる。

「そんなに嫌いなのかい?」

 仕方ない子だと思いながらそう言って声をかけたマハイルは、立ち上がって彼女の側に寄る。

 マハイルを見上げた少女の顔に生気がなく、唇が青ざめ、体がガタガタと震えだしていた。

「……セレナ君、ソナちゃんはアレルギーなかったよね?」

「今まで無いと思いま……ソナ!」

異常に見開かれる青い青い瞳。歯がかみ合わず、音を立て、半端ではなく苦しみ出す。

「ば、バイオレット君を。セレ君! バイオレット君を呼んで来て! リトアー君もこっち来て」



 この時、少女を襲ったのは抗精子抗体によるタンパク質に対する過度の拒絶反応、アナフィラキシーショックだった。抗精子抗体は普通なら男子の精子を受け入れにくくし、妊娠を妨げる代物。

 だがエンゲージドラックは固定の精子、たんぱく質を受け入れる力を見せる反面、他のタンパク質を拒絶する作用が激しすぎた。

 以降ソナは食品として卵や肉、小麦などの経口摂取はもちろん、更には肌、鼻腔で嗅いだだけで同症状を起こし、末期には最初は反応しなかったリンゴなどの果物に入っている微量な成分にまで反応した。

 悪寒から始まって、心拍低下、痙攣、呼吸停止……胃洗浄に心肺蘇生など、この後の処置の早さで何とか命を取りとめた様がバイオレットの文字で刻々と記されていた。



「適切な処置、感謝するよ、バイオレット君。ソナちゃんを殺してしまうかと思ったよ」

 理論を捏ねるのは学者マハイルの得意とする所だったが、実際、生身に注射したり被験者を管理するのはバイオレット達、医者の仕事だった。

「ええ、でもこれは酷い反応ですね」

「彼女の聖唱使いである体質も影響している気もするが」

「それにしても抗精子抗体で妊娠できなくなる程度ならあっても、経口摂取のタンパクまで拒否、呼吸停止って……セレナーデ以外の男はソナタと交わすと危険ですよ」

「元々、一妻多夫が基本だったよね?」

「それが嫌で彼も彼女を連れて被験者になりに来たんでしょう?」

「最初の服薬時に多数と関係を持たせるなんて言い出さないといいが。だいたい心の安寧がない状態だと妊娠率下がるのだし。ああ、これ、プロラクチン値を上げればエンゲージドラッグの効力解除できるんじゃないかな?」

「人工的に妊娠と出産を装うって事ですか? ホルモンバランスをいじるって事ですよね……エストロゲンとプロゲステロン、女性ホルモン全般を扱う事になりますよね?」

「やっぱり難しい? 君の薬を扱う力や医療なら……」

 無茶言わないで下さいとバイオレットが首を振った。

「そうだね。一度妊娠、出産してくれるのが一番いいけど。妊娠期間の食物管理も厳しい。ソナちゃんがいくら偏食って言っても食べないわけにはいかない。それもタンパクの完全に入っていない食べ物なんて、油か寒天ぐらいしか思いつかないよ。妊娠できない場合の解除薬がない今、この薬は危険だ。改善するまで使わないよう進言するよ」



 その件でマハイルは改善するまで試薬の使用凍結を訴えて抗議した。試薬は改良が施されてタンパク質への過剰なアレルギー反応は緩くなったようだが、完全凍結は受け入れられなかったらしい。

 それも一度服用した薬の効果は永続的で、女性ホルモンの適切な変化のみが解除方法だった。

「ソナちゃんがこのまま妊娠できない様なら、人工授精でも出産させないと薬の効力が切れないよ。あのまま無菌室って訳に行かないだろう?」

「人工授精だと純白の魔導師(ピュアホワイト)しか生まれませんからね、お偉方が納得してくれないかもしれません」

「彼女の生命維持が最優先だ。バイオレット君、もしもの時は私の名を使ってくれていいし、呼んでくれてもいい」

 抗議の為に身を引くのだからね、と、マハイルは付け加えた。

「そういえば黒天使と青天使の貴族ハーフの子に、青天使貴族をかけて、遺伝子的に純血と認められる子供が生まれたとか。紋章士公認だそうで。おめでとうございます」

「まあ、おめでたいかは本人達次第だと思うけど」

「でもそちらは研究は実ったって事でしょう?」

「前々から仮説はあったけど、なかなか実証が出来なかったからね。貴族相手だし。ソナちゃんとセレナ君だって、本人達がどうしてもって言わなければ実現しなかったよ。銀天使は人数少なすぎるからね」

「教授の奥さん妊娠中でしたよね、サイファ君はもうそろそろ?」

「お腹の子には会わせたいから、ギリギリまで粘るよ」

「お子さんが青天使か金天使の……」



 会話文がブチ切れていた。書き忘れたのか、今回の件に関係ないので端折ったのかはわからない。

 これ以降、マハイルの文字が見当たらなくなる。抗議の為に一線から退いたのだろう。

 この後すぐに妊娠した旨がバイオレットによって簡単に書かれ、マハイルは呼び戻される事のないまま本は完結する。



「これっ……サイファ君て、誰だろう?」



 聞き慣れない少年の名も気になったが、レイルはバイオレットが言いかけた最後の言葉が一番引っかかった。



 マハイル自身は認めていないようだが、金天使貴族の血を引く。そして母メアリが青天使貴族である事は前々からレイルも知っている。この婚姻は彼らの意思によるものだと、聞いているが。

 もし理論が正しければ、レイルが青天使か金天使の妻を娶り、子供が出来ればそれは純血の子となる。新しい血が入る事で、奇形児などの出生確率を減らし、血を新たに出来る事は貴族達の存続に光明となるのがレイルにもわかった。

 だが、彼が気にしたのは、両親がその為だけにパートナーを選んだとすれば、自分は実験動物のようなモノだと……そんな気分になった。

「本当に愛し合って……たのかな」

 母が誰かの子を宿しているのを知っている今、マハイルが研究の為、理論の実証に結婚したなどと考えたら、もう自分の居場所が見付けられなかった。

「か、考えすぎだよね。父さんは金天使嫌いだって拒否したらしいし、母さんだって今は貴族の名前を捨ててるぐらいだし」



 レイルは笑いが乾いて来るのに気付く。

 口にした粥が戻ってきそうな気分になる。

 熱が上がったからか、気持ちのせいかはよくわからない。

 もう本を開く気にはなれず、枕元に置くと布団に包まった。



 熱はありそうだが、頭痛はしなかった。眠りもできず、起き上がると窓の外を見る。もう祖母達の姿はない。

 居たなら飛び出してみっともなくそのスカートに縋って、「マハイルは貴方を愛してるから」ともう一度祖母に言ってもらいたかった。

 だがそれは叶わない。

 直接父に言ってもらおうにも、5年も寝込んだ男が急に起き上がるなどないだろう。

 母が帰ったら、聞いてみようかと思ったが、そのお腹には秘密が眠っている。そこでレイルは先程台所で見た瓶詰の薬を思い出す。

「……中身、気になる」

 彼は勉強道具の一つである薬包紙がたくさん入った箱を握りしめ、台所に持って行った。誰もいない家の中で、階段の音がやけに響く気がする。

 そして改めてコーヒーに似せたモノが入った瓶を取り出した。

 スプーンで4回、綺麗な白の薬包紙に掬う。赤い紙もあったが、遮光の必要は瓶が透明なので、そこまで徹底しなくても大丈夫だと考えながら。

「もう少し取ってもバレないかな?」

 後2回、別の紙にとって、どちらも薬包の折をしてポケットに入れ、瓶に蓋をして元に戻す。

 忘れないように紙の入った箱を掴んで、他に何か痕跡が残ってないか確かめるように一度振り返ってから、2階に上がった。



「何か悪い事してるみたいだ」

 後ろ手で扉を閉めた。

 こんな事せずに母親に「これ何?」と、聞けば良いのに、今のレイルにはそうする勇気が出なかった。

 多めに入れてきた方の薬包を開いて、記号で薬を仕分けていく。

 中身は3種類、1つはクリューンと呼ばれる子宮収縮抑制剤。

 妊娠してまだ子供が産める状態に無いのに、子宮の筋肉が収縮する時、それを抑制する薬。張り止めと言われ、天使界では妊婦に必要に応じて処方される。

 だが後2つは全くレイルの知らない薬だった。

「一応4学年やってるのにな……」

 ある程度、基本的に使われる薬剤に関しては穴なく覚えた筈なのに、それに入らない薬が2つもある事に気落ちする。

 こないだソネットに貰った物にも知らない薬剤が入っていた。何でも覚えて吸収しなければ、魔法も使えないのに知識もない者には経験も積めない。まだまだ、だ、自分の知識の薄さに、レイルは自分で発破をかける。



 わからない薬剤はいずれも黒く、クリューンに形が似ているので、効能は近いものだろうなどと考えながら、

「こんな物を口にしているって事は、もう母さん、自分が妊婦だって知ってるのか」

 何だか信じられない気分で呟く。気付いていないのかと予想していたのに、気付いていた。それなのに何も言ってくれない事に不信感が増した。

「気付くよな、生理も止まってるはずだし。俺に言えるわけないか、父さんの子じゃないわけだし」

 こんなモノを密かに飲んで、余り体の調子が良くないのだろうかなどと言う当たり前の心配以上に、もう父の目覚めは待っていないのだろうかという考えが心を締め付ける。

 今の状況だと目覚めない方が良いとも思うが、本当は目覚めて欲しい、母には父を待っていてほしい。レイルはそう思い直す。

 まだ見た目には腹は出ていないが、目立って来たら隠しきれない。その頃にはこの生活は終わりを告げるのだろうか、と。不安が過ぎる。



 新しい紙に分けて、何も扱っていないのを足すと、全部で薬は4包になった。

「なあ、レイル。何、やってるんだ」

  ぽん、っと肩に手を置かれてやっとレイルは気付いた。ビックリして振り返るとファーラがいた。寝ているのでなければ、普通なら耳栓していても入室には気付く。

 簡単な作業ではあったが、自分で思うより集中していたようだ。

 もう帰宅する時間になっていたのかと時計を見た。生徒会活動するようになってからは、もう少し遅い帰宅だと思ったが、とりあえず差障らない言葉で聞いてみる。



「お、おかえり。今日は早かったね」

「ああ、まあ。驚かせたか? でも気付かないなんて珍しいな」

 そう言いながらレイルの額に手を当てる。

「お前、まだ熱あるだろう?」

「もう、だいぶ良いんだよ。ずっと布団に居たら根っこが生えるよ」

「根っこじゃなくて、羽根でももっと生えてくりゃ、嬉しいのにな」

「それ、嫌味?」

「あ、それより、お客だぞ」

「シラー!」

 薬の袋を引き出しにさりげなくしまって、扉の向こうから現れた男の仏頂面に出会う。



 警察である叔父の幼馴染、ジョージ・シラー。渋い緑の制服に紫のリボンを腕に巻いた、その姿は威圧感に満ちている。その純白の髪にレイルに似た目色をしているが、紅赤が強いので天使界ではラベンダーと呼ばれる瞳の持ち主だ。

「ちょうどよかった、これ読んで欲しかったんだ」

 祖母が来る前見た、不思議な図形の山。

 それを記した紙切れを渡そうとした途端、レイルは床に崩れた。

「おい、お前、大丈夫か? ベッドに寝れよ」

「うえー、もう大丈夫だよ」

「医者の不養生」

「まだ医者じゃない、し……誰だ?」

 ファーラと言い合っていたレイルの鼓膜に別の誰かの叫びが貫いた。



『……やめて』



「な、誰……」

「どうした? レイル!?」

 顔色を変え、汗を垂らしだした事に気付き、ファーラはその体を揺らす。焦点の合わぬ紫の目、瞳孔が小さくなり、ファーラが映っているのに見ている感じがしない。

「揺らすな、ベッドにでも寝せておけ」

 シラーはいつもながら表情も変えず、ファーラを見やる。

「これを放っとけって? 普通じゃないだろう?」

「……じきに戻る」

「なんだって、そう冷静なんだよ」

「焦ったらどうにかなるか?」

 どうにもならないけれど、焦る時ではないのかとファーラは言いかけたが止めた。レイルはガタガタと震えた後、気を失ったのか、ファーラの腕の中でぐったりとしてしまう。

「おい、いいのかよ、これ」

「憑り付かれた様だが」

「はぁ? ちょっと、憑り付かれたって……」

 シラーの口調は単調で、よもすれば聞き逃しそうなほど普通に言い放つ。だが内容は聞き流せない物だった。しかし若輩者のファーラにこれ以上聞き返させる間は与えず、レイルの取り落とした紙切れを拾うと、シラーは床にどっかりと座り、それを黙々と眺め始めた。

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