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拒絶に秘めし心

いつも覗いて下さっている方、本当に感謝です。

始めて来られた方、ここまでお読みいただき有難うございます。

お気に入り登録下さった方、感想下さった方、感謝です。

すごく励みになります。



年齢設定はずらす場合があります。

誤字脱字等ご指摘いただけると助かります。

 

 求めて震える手を後ろに隠し、冷たい台詞で愛する者を寄せ付けず。

 すべてを賭けたあの天使の気持ちをあの瞬間まで理解できなかった。










 警察を呼び、調べてもらったが、ランスの遺体は発見されなかった。血の多さから見て死亡が断定され、捜索より主に事件の捜査となる。だが遺留品の多さから、すぐに見つかるモノと思った犯人は捕まることはなかった。

 ユニという女は程無く遺体で発見された。

 鍵の入手と3人の状況を知らせる役割だったのだと思われる。逃げる為に纏めただろう鞄が、遺体近くにあったと聞く。本当は3人まとめているはずだったその日に、ジュリアが居なかった事からモメたのだろうと警察は言う。

 目的は三人まとめてだった、その事実はジュリアを驚愕させる。もしあの日に居たなら自分の命、つまり子供の命を持って行かれた可能性が高いという事だ。もしくはニーチェと同じ目にあっていたかもしれない。また来るのではないかと思うと、気が気ではなかった。

 シーツに残った体液なども調べられたが、犯罪歴はない者達の犯行で、データバンクに照会しても成果はなかった。



 壊れたモノを袋に詰めていく。

 幸せが脆くも崩れたのをジュリアは感じた。あれ程、眩しく清らかだった微笑が消える。

 ガラクタとなったガラスの星。砕けて欠片となり、壊れたモノは2度と元には戻らない。

 薄い紅茶もミルクの優しい香りが部屋を埋める事はなく、受け止めるカップはもうココにはない。

 だが、時間になれば腹も減り、喉も渇く。

 無理やりに止められた時計は心と共に、2度と動かないと言うのに。



 犯人達が見付からない事より、ジュリアとニーチェに圧し掛かってきたのは現実だった。

 即、引っ越しを手配したかったが、頼れる相手もいない。出来るだけ物は捨て、綺麗にした。だが身重のジュリアに出来る事は少なかった。

 少しは正気であるかと思われたニーチェだったが、日に日におかしくなる。それはそうだろう、あんな事があった現場に住んで、平気なわけがない。

「やめて、お願い。何でもするから……いや、ランス、見ないでっ」

「誰も居ません、大丈夫! 落ち着いてっ」

「死なせてっ、ランスはどこ? 行かないで。死なせてっお願いだから、もう終わりに……」

 まだこうやって台詞になっている日はまだいい。話が通じれば落ち着いてくれるから。

 しかし獣のように、何かから逃れたい一心で、唸り声を上げて騒ぐ時は、手が付けられない。ジュリアは体を小さくして、自分の腹を蹴られぬように守るだけで精一杯だった。

 ニーチェの体調悪く寝込んでいる隙を見て、買い物に行ければいい方で、叫んで騒いで、自殺しようとする彼女から目が離せなくなる。

 妊婦であり、自分の体調も悪く、食料を買いに行く事さえままならず、限界に達し、破綻するのにそう長い事はかからなかった。

 だが「一緒に、死にましょう」、何度も口に出しかかった言葉を飲み込んだ。お腹で胎動する子供の為に生きねばならなかった。



 そうしたある日、ニーチェを病院に預けると、恥も外聞もなく、ジュリアはある人物の前で両膝をつき、頭を下げた。恥ずかしいなどと言っていられなかった。

「よくこちらに来ている事が分かったな……いや、巫女ならば当たり前と言う所か」

 声をかけられたが、黒髪を床に付くほど下げたまま。お腹に子のいるジュリアには辛い体勢だったが、微動だにその姿勢を崩さない。

「椅子に座るがいい。お腹の子に触るぞ」

 その言葉でやっと顔を上げると、黒髪に黒い目に褐色、自分と同族の男が、静かに見つめていた。何処に下げる面があったのかとなじられるのを承知での訪問であったのに、その眼差しは温かい。

「神官長様」

「詳細は聞き知っている。お前に危害がないのは幸いだった。もしそうなれば天使界と一戦交える事になっただろう」

 そう言うと、彼は恭しく片膝をついて目線を合わせる。一度は堕胎薬を握ったその大きな手を差し出し、静かに、

「さあ、一緒に精霊界に帰ろう、子は産んで我が一族で育てるがいい。そのつもりでここに来たのだろう?」

 妊娠しても増えぬ体重、それどころか減っている。お腹だけ出て、細い棒に刺した果物の様にバランスの悪い妊婦。その体にやさしく触れて椅子に腰かけさせる神官長。父親の暖かさに、涙が溢れそうになった。だがジュリアは首を振る。

「私だけではなく、ニーチェ様をお連れする事をお許しいただけないのなら、このまま帰ります」

「死ぬ気か? すでにその体も心も限界だろう」

 手足を衣服で隠しても、隠しきれない顔。太った訳でもないのにその頬が、水っぽく、腫れぼったい印象を与えているのを彼は見逃さなかった。

 安心して眠れない状況は心をすり減らし、正気を奪っていく。暖かだった短い幸せの時間と、乾いた血の広がる部屋がダブり、幻覚を見るほどにまで、既に心は泥を被っていた。

 踏みとどまれたのはニーチェを支えようとする一心。

「浮腫を起こしているな。後10か月は腹に入れておかなかればならないのに」

 だが限界の今、もう気力だけしかなく、帰ったら2人でじわじわと死ぬだけ、自分達の蓄えでニーチェの為にずっとヒトが雇ったり、病院に通い詰めるほどの余裕はない。帰ると言ったのは駆け引きだと彼は見抜いた。

 それ故に顔を曇らせる。そこまで巫女に、いや娘にさせる想いに。もっと穏やかで平坦な道もあったろうにと。

 じっとジュリアの顔を見て、ゆっくりと言った。

「わかった。その金天使も連れて精霊界に戻れるよう、手配しよう。きっとお前を復讐に駆り立てなかったのは彼女の功績。そうでなければお前は魔に堕ちていただろう」



 彼は迎えに、その為だけに来たのかもしれない、後からジュリアは冷静に考え、そう思う。

 話を終えた直後から世話係の精霊が付き、短い間ではあったが幸せに過ごした家を離れた。ランスが帰ってくるから離れないと言い、混乱するニーチェを宥め、2人は数日も経たずに天使界を発つことになる。



 天使界と精霊界を隔つ、その岸にいるのは一角獣……馬の姿にその額に角を持つ清らかな生き物。

 その背に乗せる者を選ぶ。「橋」を渡る為にはそれに乗れる事が必須となる。

 少なくとも天使界と精霊界を繋ぐ橋では。



 その生き物に初めて触れたニーチェに、久しぶりに生気が戻ったような表情が浮かんだ。

 直前まで何を言っているか判明できない声で唸り、暴れていたというのに。

「ユニコーン、きれい、だわ」

 あの日から、拒絶と自殺志願以外はまともな言葉がなかった彼女がそう言った。神官長が持って来てくれた精神安定剤が効いているのもあるかもしれない。

 ずっと熱を帯びている体も幾分か楽になったように見える。ジュリアも浮腫を起こしているその体が癒され、心が無条件に満ちるのを感じた。

 一角獣は聖獣。それに触れた事による癒しは、ニーチェを助けてくれるに違いない、そうも思ってたのは間違いではなかった。

 そして何処に居てもランスを思い出し、笑って手を下した天使が何処かに住む天使界より、精霊界にいる方がニーチェの心を安定させるだろう。

 優しく撫でるニーチェの手に、目を細める一角獣の様を見て、ジュリアはホッとした。

「大丈夫ですねぇ、重いけど2人乗せて下さい。ニーチェ様、乗ったら私とこの子に身を預けて下さい」

 一角獣が台の前に立ち、2人をその背におとなしく乗せると、ジュリアは彼女の様子を見つつ、手袋を付けた手で手綱を軽く握る。

 それが合図だったように、目の前に広がる対岸の見えぬ川に足を浸す。



 ここでは彼ら自身が「橋」とも言えた。一角獣に嫌われるような者に、ここを渡る権利はないという事だ。

「行きましょう、精霊界へ」

 湖に彼らの体は沈まない。蹄を濡らす程度。

 だが、落ちればその深さは計り知れない。穏やかに見える川の流れの深き底にある、濁流に飲まれれば一溜りもない。

 5匹いた一角獣はその背に精霊人を載せて運ぶ。その中で黒き1匹には神官長、今は慈悲深き父の姿もある。



 川には霧がかかり、遠くまで見通す事は出来ない。だが確実に精霊界の懐かしい香りがジュリアを包む。

 ただその匂いに濁りを感じたのを訝しみ、神官長を見やったが、彼は気付いていながら無言のまま、ただ黒い一角獣の背に跨り、その手綱を捌いていた。

「久しぶりねぇ。無理させてごめんなさい」

 元来、一人乗りである一角獣だがニーチェが途中で暴れ出した時の事を考え、一緒に騎乗した。

 2人の乗る一角獣は、一際は白く輝く美しい角を持つ個体。ジュリアが精霊界の巫女として世界を渡る機会があると、乗っていたのはこの子だった。



「随分、長イ間、天使界二居タナ」

 返事が頭に直接響く。不機嫌そうな、そしてたどたどしい声。

 意思の疎通が出来るのは巫女であるから。神官長以外、他の者にはこの声は聞こえない。

 貫禄を持って乗っている神官長。

 それ以外は回りの精霊達は神妙な面持ちで騎乗していた。もし一角獣が連れて渡る資格なしと判断すれば容赦なく川に振り落とされる。橋を渡るのは命がけの作業。

 一角獣がニーチェの事を嫌わないかと思ったが、その心配は杞憂だった。



「ソノ天使ガ、好キナノカ」

「ニーチェ様よ。私の大切な天使なの」

 渡りの時間は1時間ほど。

 いつもなら一角獣とおしゃべりしながら楽しく渡る。余りの緊張感のなさに神官長が注意を促すほど話が弾むのだったが、今回、一角獣の口が重かった。

 その気配に気づき、無駄に喋るのを止めにする。

 背に座るニーチェの様子も気になった。彼女は黙ったまま、視界の悪い湖から、天使界がある岸を振り返っている様子だった。もう霧に隠れて見えないその世界で、恐ろしい目にあっていようと、故郷を立つのは寂しいのだろうかとジュリアは慮る。

 ランスを置いていく、そんな気持ちにジュリアも後ろ髪をひかれたが、今はお腹の子の為に誰かの手を借りなければ生きていけないのも実感していた。



 時間は平和に過ぎ、視界に島影が映る。霧が晴れる。



 川だった水が海にかわり、軽い波が立つ。

 島には緑豊かなマングローブに似た背の高い樹海が広がり、澄んだ水の中には色とりどりの魚が泳ぐ。

 それが深くまで透ける透明度を持った水。ここではたまに人魚の姿や、水に住む精霊水華の娘が薄い衣で泳いでいるのを見かける事もある。

 水華一族の白い城は水底にあるが、そこでは沢山の水精霊が働く。精霊界を支える巫女を一目見ようと、その窓辺に詰め寄りジュリアに手を振る。

 岸ではこの辺りに住む、精霊白雷という一族の男性が馬に騎乗し、矛を持って一直線に森へ飛び込み、その日に必要な分だけの獣を狩り、ありがたくその命を頂く。岸辺で大きな雄鹿を捕えて吊って祈りを捧げ、解体する姿も見た事がある。

 澄んだ空気と風がそよぎ、高い空には幾重にも雲と虹の橋がかかっていた。その中を潜る様に翼竜が舞い、陽の光が惜しげもなく降り注ぐ。

 豊かな果物が精霊と動物を満たし、楽園のような穏やかな場所。



 だが、その情景はかつてのジュリアの記憶の中だけだった。



「神官長様……」

 今、水は白濁を通り越し、岸は汚泥に塗れ、黒くさえある。空の貝殻ばかりが砕けて、浜を覆っていた。

 枯れた木々の破片が流れ、生き物の気配はまるでない。

 穏やかであるはずの波が、不自然な粗さで飛沫を巻き散らす。波が揺らすはずの空気は風にならず、淀んで重い空気が辺りを満たしていた。

 木々は精彩を欠き、僅かに緑を残すも殆どは茶や黄に変色し、立ち枯れている。

 木の実が生っている気配はなく、華麗に狩りをしたり、泳いだりする精霊の姿はなく、その森で生きていた動物たちの気配も皆無だった。

 陽光だけがただ虚しくそこに変わらずあり、虹もかからぬ空は暗い雲を浮かばせている。



「たった2年で……」

 この変化はジュリアが精霊界を、世界樹を離れた影響。たった数人で支えられた精霊界の危うい美しさ、それを露呈した形になっていた。

 美しきを好む一角獣が不機嫌だった意味が頷けた。

「ここは特にひどくやられた。昨年、大嵐と共に、水底にあった油田が突然噴き出したのだ」

 昨年、そのような状況になって、それからほぼ復旧しきれていない状況にジュリアは涙が零れた。

「巫女の中でもお前の力は大きかったのだ。早く健康を取り戻し、安全に産み、お前が復帰してくれるのを皆が望んでいる。その為の尽力を我々は惜しまない」

「巫女として、また私はこの地に根を降ろしていいと認めて下されば」

「それを切に望むのは私だけではない」

 神官長の言葉に、回りの精霊達もジュリアを見た。その救いを求める視線に頷くしかなかった。

 ニーチェは精霊界の状況が、ジュリアを我が物とした事であるのだという事実を、言葉端からやっと飲み込む。考えていたより荒れた状況を目の当たりにしたせいか、表現しきれない表情で顔を曇らせる。



 岸につき、まともに足が下せる大地に降り立つと、ジュリアはその手を地面に着く。

「帰ったわ、私よ、リフューよ。お願い、彼に伝えて。水だけでも綺麗にしなければ」

 久しく使わなかった名前を自ら名乗ると、今まで見たモノを頭の中で反復する。芝がするすると彼女の両手を優しく包む。

 そうしているうちに目の前の土が少し盛り上がる。盛り上がったそこに小さな赤い双葉が芽吹き、ゆっくりと吹き出した風にそよぐ。

「今の私ではこれくらいしかできませんが、この芽を巫女リフューの名において精霊紅輪に預け、スザヌの水にて大切に育て、分け木をし、ある程度の大きさと量が確保出来たら、全てを湖畔に植林して下さい。油を吸い上げ、綺麗にしてくれるはずです」

 本来ならその芽をたくさん芽吹かせ、大樹までに育て、一気に事を片付けるのだが、そんな力は今のジュリアにはない。たかだか一本の発芽で、息を切らせてしまう。

「無理はするな。だが、ありがたい」

 神官長はその苗を言われたとおりにするよう、他の精霊に言いつける。



「お待たせしました、ニーチェ様」

 その間にジュリアはニーチェを一角獣から降ろす。

 表情が暗い。だが気が振れた感じが消え、眼光がはっきりしたように思う。そのまま二人は抱き合った。

「ごめんなさい。私のわがままで。でも私は貴女が欲しかったの」

 自分が至宝と呼ばれる巫女を精霊人から奪ってまで、手に入れようとした幸せの形。それを逃さないようにするかのようにもう一度、抱きしめる。

 そしてそっと腕を離すと、希望の子供を思い、ジュリアの腹を触る。

「大丈夫ですよ。戻ったからには少しは手が尽くせますし、生んだらしっかり働きます」



 そうニーチェに告げて何も心配する事はないと更に言った後、ジュリアはその神聖な獣の汗ばんだ首筋に触れて、乗せてくれた事に礼を言う。

「ありがとう。2人乗り、それも私、身重だから重かったでしょう」

「体重ナド関係ナイ」

「そうなの? でもキツそうに感じたわ」

「アア、4個ハ、重イ」

「4個?」

「魂ノ数」

 短く答え、踵を返す一角獣の姿を見送りながら、その言葉の意味にジュリアは震える。

 マントについたフードを脱ぎ、天使界とは違った精霊界の森を眺めやるニーチェ。変わらず豪華な黄金髪の彼女を一族の住む家城へ連れる。



 夜飛一族は大きな1つの城を囲んで5つの古城が配置されている建物に、まとまって住んでいた。幸いな事に、この辺りはジュリアが居た頃と変わらない緑に溢れている。それでも精霊界に戻り、妊娠していても戻ってきた勘が、立ち枯れした樹を見つけさせ、反省の念を起こさせる。

 夜飛の城を上空から見ると星形要塞のようにも見える作りだった。地上部分は低いが、地下が本当の彼らの住処である。

 何時間も螺旋階段を降りてしか、たどり着けない地下神殿や王の居室などもあり、ジュリアも全容は知らないほど深く、迷宮化している。

 本来なら巫女は地下神殿に続く、北に当たる城に住む。



 だが、2人はその城壁の外にある、元は迎賓館として建てられた、2階建ての建物に住む事になった。

 四角い飾り気は少ないシンプルな建物、真ん中には搭。

 遠目に見ると四角の白いケーキに、蝋燭が立っているようにも見える。大きくはないとはいえ、部屋数だけで手足の指数は軽く超えた。

 側に立つ夜飛の城の比ではなかったが、今まで住んでいたこじんまりした家とは全く違っている。

 グリーンの屋敷が数倍の大きかったので、それには全く劣るが、個人で住むには大きすぎ、一族を、そして精霊界を裏切って出てきた者としては非常に良すぎる待遇だった。

「その天使は城には上げられぬ。お前もそうなると城には住まぬだろう」

「申し訳ありません、ニーチェ様に添いたいと思います」

「わかっている。ここにお前が使い慣れたメイド達を送った。好きに使うがいい。足りねばヒトでも物でもすぐに言え。外回りは男を配置してあるが、中には女性だけにしてある。後は、婆を呼んでおいた。2~3日内に来るだろう。お前達の専属とした。その金天使、診てもらわねばなるまい」

 一角獣との会話を聞いていたのか、感じ取って見当を付けたのかはわからなかったが、彼は重くそう言った。そして続けて、

「婆には詳細を粗方伝えたが、他の者には彼女は天使界でお前の恩人であるが、精神を病んだため療養に来たことになっている」

「細かいお気遣い感謝いたします」



 あれから極端にヒトに触れられる事を嫌がる彼女を説き伏せて、医者である婆に診せる。

 婆は他族の精霊陽華と呼ばれる部族の出。黄味がかった肌に薄茶のかかった金色の髪、太り気味に見えるがそう言う体系が一般的な一族。大らかで鷹揚だが、腕は確かだ。

 名前はシュミュアと言うが、発音が難しいので、皆は婆としか呼ばない。

 手を握っただけで、簡単に言い当てる。正確には脈診をしているらしい。

「子を宿しているさね。悪阻で気付かなかったのだね? 熱が高いようだし」

 ニーチェは精霊界に来る間に一角獣に触れたおかげか、数日、半狂乱になる事がなかった。普通の会話をし、口調もだいぶ落ち着きを取り戻していたのに。



 ここに来てこんな事を宣告しなければならないのにジュリアは唇を噛んだ。

「何、ジュリア、このヒト何を言っているの?」

 精霊界の言葉も、貴族のたしなみとして身に着けているニーチェ。それでも聞き違いかと耳を疑い、だが確実に顔色を変える。

「お腹に子供がいると、婆はおっしゃってます」

 何かが彼女の中で滑り落ちるような音を聞く。折れて繋ぎ直した精神を破壊して、尚も踏みにじり徹底に砕ける手伝いをしているような思いで、そう現実を告げた。

「あ、あんなに欲しかったのよ? 狂ったように望んでランスと出来なかったのよっ! 嘘でしょう? いえ、嘘だと言ってジュリア」

 ジュリアは目を合わせる事も出来ず、ただその肩を抱く。

「なんで? この子っ…………っ」

 ずるずると崩れ落ち、床を叩く。

「殺して、この子と一緒に私を……どうして、どうして」

「ニーチェ様、気をしっかり持って。もしかしたらランス様の子かもしれません」

「ありえないわ。ありえない、これまで出来なかったのに、そんなムシのいい事ありえないっ……まさか、そんな……」

 泣き喚くニーチェ。



 ない事ではない、彼女とランスを部屋に置いていった日、彼女は吐き気があった。アレが悪阻なら、最悪があった日の前に妊娠している。だがあの日に妊娠した可能性も、否定できない。逆にランスの子ではないとわかっていた方が堕胎に踏み切るのも簡単だと、ニーチェに言ってからジュリアは気付く。

 天使は子供の大きさだけで妊娠時期を測る事は難しく、医者でも安易にそれを口に出来ない。婆は言える事だけを告げた。

「とりあえず掻爬で堕胎できる時期は過ぎているさ。無理やり堕胎するも、出産するも命の保証はしないね。肝臓を中心にアレクトリアという天使の体に巣食う癌がひろがっているから」

「婆! 告知をそんなに簡単に本人の前で……」

「知っているのさ、本人が。妊娠中とはいえ、巫女に感じさせず隠す精神力は見上げたものだが、これだけ広がっていれば痛んだろうに。気付かんハズがないさ。吐き気はその為だと勘違いしたね? 早くて5年。うまくいけば10年。そう言われて何年経つ?」

「…………3年くらい」

 逆算すればわかる。

 生きている間にランスの子供が見たい、ジュリアに代理母を頼む為、そう言ったあの時期にほぼ重なる事に。

「言葉の綾かと思っていたのに、ニーチェ様」

「産みたくないの、この子を。どうしたらいいの?」

「そんな事……」

「貴方の子が先に生まれてくれれば、すぐにこの子と全てを終わらせて……ああ、貴女を精霊界から奪った罪なのね」

「そんなわけがないでしょう? その子は私が育てます、私の子にしますから。ですから安心して生んで下さい。病気を治して、強く生きましょう」

「い、嫌よ、イヤっ、産みたくない」



 この日からニーチェは自室に籠ってほぼ出て来る事はなかった。

 ずっと遠くを見て、叫ぶ事も、だからと言って笑う事もなく、ただ鬱陶しそうに布団に包まり、思い出したように泣き崩れる。

 アレクトリアという癌は、すでに長く彼女にとりついており、手の施しようがない状態だった。

 メイド達も部屋に入る事は許さず、産気づいた事もジュリアが何気なく居室を訪れて気付くような、隔絶された場所を彼女は作り上げた。



「ニーチェ様、こんなに、こんなにランス様にそっくりではありませんか」

 そして生まれてきたのはニーチェの子が先だった。

 生みたくないと、何度も叫ぶ声に迎えられて。癌によって出来た血腫の破裂が心配されたが、それを乗り越えての出産。

 赤ん坊は美しい豪華な黄金の産毛はサラサラ、目の青みの美しさは格別に金を帯びて引き立ち、どう見ても純血の金天使だった。

「男の子でよかったわねぇ。この子が主星から取って、マハイルね。まだ私のお腹の中の子が伴星のアレードとしましょ……」

「馬鹿な名前付けないで! その子を近寄せないで。貴女の子よ。私の子じゃない」

 生まれれば、きっと。そんな希望的観測は見事に裏切られた。



 自分の夫に手をかけた男達の子供、そんな事はないと思いたかった。

 仮にそうであってもこの子に罪はない、しかしそんなに都合よく割り切れるほど単純ではない。生んだ当人でもないジュリアでさえそう思うのであるから、ニーチェの気持ちは嵐の中で立ちすくむようであったろう。



 その日から、執拗なまでのマハイルへの徹底排除に彼女は尽くす。

 抱くどころか乳もやらず、おむつさえ替えない。

 側で泣いていても眼中にない。

 完全なる育児放棄。

 寝ている子供に枕をかぶせようとしていたとか、無理に抱かせようとしたら、床に投げつけたとか言う逸話までメイド間では囁かれるほどだった。

 もはや側に置いては置けず、乳母を用意し、出来るだけジュリアもその子を抱きしめる。宇宙の青と太陽を混ぜた金色の聡明な瞳は、彼女をじっと見つめた。

「貴方の母上はちょっと混乱しているだけなの。すぐにきっとマハイルを見てくれるわ」



 だが、そんな事はなかった。

 アレードが生まれた時は、ニーチェはその褐色の小さな指が握り返すのを可愛いと言う。ランス譲りの黄金髪を愛で、本来はマハイルの為にまだ出ていた乳を彼に与えた。

 そこに歩き出したマハイルが近付こうものなら、掌を返したように眉根を寄せ、強い口調で追い返す。

 婆に頼み、マハイルの血液鑑定をしてもらったが、100%純血であるのは間違いないと結果が出た。それを告げても、ニーチェは態度を変える事はなく、むしろ強くマハイルに当たった。

「二度と口を出すのじゃないわ。手をかけられたくなかったら、私に近付けないよう、メイド達に伝えておいて」

 その頃にはジュリアにもあまり口を開かなくなる。婆だけは医者として、自ら部屋に入れているようだった。ベッドから体を起こす事が少なくなる。ただ見舞いに来たアレードと居る時だけは表情が若干緩む。

 それでも周りの反応で自分の母ではなく、兄の母とわかるようになってからは複雑な思いでアレードもいたようであった。



 ジュリア自身もアレードを産み落とした為、巫女としての生活始まり、構えなくなる。

 それでもジュリアは神官長に頼み、子供2人に夜飛の証である黒き鳥を与え、使い方を教えた。

 マハイルにも与えたのは素質があったのと、子として差別したくなかったから。約束通り、自分の子として2人を置こうと決めたからであった。

 精霊界と天使界、いずれどちらでも選んで住めるようにと、自分が居ない時は家庭教師を付けて教育した。

 しかしマハイルは作り笑いで他人に接するようになる。他のヒトの距離感が測れない子になりつつあった。

 アレードは人懐こいが、やんちゃで、勉強よりは剣術や夜飛鳥を使った術の取得にばかり熱を上げていた。



「で、いつから居ないの?」

「そ、それが……二日、今朝で三日に、もうなると思います」

 遠出の仕事から帰ったジュリアが真っ先にニーチェの下に行った、その部屋におずおずと追ってきたメイドが信じられない事を口にした。

「三日前のお昼には居られたのです。お夕食は余り食べられないので、心配してなくて。翌日私は非番だったので、その、今日来て確認したら昨日朝から夕方も誰も見かけていないんです」

 マハイルの姿が見えない、それも夜二日もいず、やっと今朝気付くなどあるまじき事だった。空気のように生活している、それも誰も気付かないほど。

 それを聞いてもニーチェは外を眺めるだけだ。

「見張りは出て行くのを見て無いようですから、屋敷内に居ると思うのですが」

「小さい子供なのよ、どこから抜けていくかわからないでしょう」

「アレード様ならともかく、マハイル様が何も言わず、森に出かけられるような事はないかと……」

「御託はいいわ。すぐ探すから! お願い、力を貸して」

 ニーチェは腕に付けた水晶の数珠を外すと、手に握りしめ、額に置いた。森には遭遇率は低いとはいえ、魔や猛獣が居る。焦り気味にジュリアは職権乱用で世界樹に遠距離で話しかける。

 そうして巫女としての知覚に、小さく猫のように丸まった少年の姿を捕える。

「良かった、屋敷の中よ。図書搭にいるわ。鍵は?」

 図書搭。

 この屋敷の真ん中に立つ搭、外観から見るとケーキの蝋燭に当たる場所。迎賓館として整えられた建物なので、ゲストの為にいろんな本が納められていた。

 ニーチェの部屋から出ると、その扉を開こうとするが開かずに鍵を尋ねる。誰もその行方を知らない。



 叩いてみるが反応はない。静かに本を眺める空間として作られているので、完全防音されて、中外どちらからの音も通さない。

「この本の搭を使うのは、現在マハイル様だけなので、彼が管理しているはずですが」

「内鍵はないわ。じゃあ、鍵をかけた本人が、どうやって中に居るの。マハイルにそんな力はな……」

 後ろについて来ていたアレードが、服の裾を引っ張った。

「これ……」

 手にしているのは、大きなカギ。図書搭のカギだ。

「アレード、貴方……」

 物静かなマハイルとやんちゃなアレードの仲は良くない。一方的にアレードが切れている事が多かったが。誰が見てもわかる肌の以外、殆ど見分けがつかないほど似ていると言うのに。

 だが何日も狭い空間に閉じ込めておくほど、行き詰っているとは思わなかった。理由も聞かずアレードを叩こうとしたが、とにかく扉を開けた。



「マハイル!」

 二日間、何も食べず、暗闇の中で寂しかったろう。そう思い腕を広げる。きっと普通の子なら泣いて飛びついただろうに、この時のマハイルは大して面白くもなさそうに顔を上げたのをジュリアは見逃さない。待っていたのは私ではなく、と、ジュリアが気付いた時、マハイルと目があった。

 途端、彼は優しい笑いを張り付けて、

「扉が壊れたみたい。開かなかったから」

「壊れたみたい、じゃないのよ。アレードが鍵をかけたのでしょう?」

 その返事を待たずに声が響く。

「鈍いお前が悪いのよ、マハイル。アレードごめんなさいね」

 ジュリアは驚いた。

 彼女が1人で立ち尽くす姿を久しぶりに見た。

 寝ている時は布団に隠れていた肢体が晒される。

 格段に細くなった肩。折れそうな腕。頬がこけて鬼のような形相を浮かべ、誰も何も差し挟めない雰囲気を纏う。

 艶の失われた金色であるのに、鬱陶しいほど濃い黄土色っぽい髪。白い肌は美しさがなく、ただ不健康そうなだけ。金の目だけが眼光鋭く変わらない光があったが、その視線は彼を見る事さえない。

 マハイルの表情が一瞬だけ揺れたように思え、

「ごめんなさい、母う……」

 その口から謝罪の言葉が出ようとした途端、彼女の目は見開かれ、明らかに眉に敵意を乗せて、マハイルの頬を引っ叩いた。

「ゴミのクセに、ヒトに迷惑かけるんじゃないのよ!」

 彼女はくるりと背を向けただけでなく、置き捨てるように、

「貴方の母は私じゃぁない」

「ニーチェ様、そんな事、言ってはなりませんわ」

「ジュリア! 貴女があの子の母親なんだから!」

 マハイルに付き添いたかったが、ニーチェが犬歯で下唇を噛んでいるのを見て、ジュリアは彼女を追う。こんなにまだ早足で歩けたのかと思うほどのスピードで自分の部屋に飛び込む。ジュリアが覗いた時にはベッドで丸くなり、布団をかぶって拒絶の意を示している。



 溜息をついたジュリアの側で、小さい気配が金色の瞳で見上げていた。彼女は部屋には入らず、廊下で膝をつく。

「何か言う事はある? アレード」

 怒られるかと思っていたのだろう。逆に静かに問われて彼は目を見開いて小さく言った。

「居ないってなったら、凄くすごく心配すると思ったんだ」

「そりゃあ、誰もが心配するでしょう?」

「皆、気付いてなかったし! 何より金の母上が、だよ。怒るだけだった。何でかな? 兄さん何か悪いことしたの?」

 金の母上とはニーチェの事。彼は二冊、ノートを抱えていた。一冊目は何かわからなかったが、中には細かく、何かが書き込まれている。二冊目は古い小さな新聞記事が数枚貼られているだけだった。

「兄さんの部屋にあったんだ。父上……殺されたって本当?」

 二冊目のそれは、あの日の事を報じる小さな記事だった。名前もないのにどうやって探したのか、皆目見当がつかない。天使界の事で、大きな事件として報じられなかったそれの痕跡を、マハイルは探しだし、そこに張り付けていた。そして栞代わりに挟まれたニーチェの写真。

 アレードも、無い頭をこねてその結論に達したに違いない。

「俺、天使界に行く。そして警官になるよ。そして父上を見つけるんだ」

「話はまた聞くわ……このノートは元に戻しておきなさい」



 そう言ってアレードと別れるとマハイルの所に向かった。

 彼はまたどこかからランタンを調達し、搭にて本に向かっている。メイドが用意した軽食を手に、その小さな子供を見やった。

「母上……」

「育ち盛りなのだからきちんと食べなくてはダメよ。体を崩すわ。一体そんなに熱心に何を読んでいるの?」

 彼が手にしていたのは、年齢不相応な難しい書物ばかりという事しかわからなかった。

「アレクトリアってわかる?」

「ええ、それは……」

「それになるのは遺伝子に関係あって、天使でも、純血に好発する癌なんだ」

 尋ねられた事自体が嬉しかったのか、マハイルはその言葉を皮切りにして、流暢に喋り出す。

「血が濃くなる事で、遺伝子の12番が異常を起こすんだ。そうすると癌を抑制する遺伝子が作り出されないんだ。それで癌をスルーしてしまい転移を容易にして。ただ生まれてすぐに、精霊界のシキレクトリンを注射すると、どうかって考えてるんだ。シキレクトリンは異常で作られない抑制遺伝子のたんぱく質とよく似た性質があって。でも12番異常自体が治るわけではないから……」

 ジュリアが呆気にとられている事に気付いたマハイルは口を閉ざして、何でもないと首を振る。

 たぶん、アレードが持ってきた書き込みがされていたノートは、彼が紡いだそれが延々と綴られているのだろうと思った。



「貴方は……ニーチェ様が好きなのね」

ニーチェの命を削っている病気に関して頭を使っている事に、そう水を向けたが、マハイルは首を振って否定した。

「あの人は僕が嫌いなんだ。だから僕もあの人は嫌いだよ。でもあのヒト辛そうなんだ。だから血が重なっても辛くない体って出来ないかなって調べ出したら、何だか色々思いついて。楽しくて……」

「貴方が楽しいのならいいわ。でもきちんとご飯は食べるのよ。部屋に夜は戻る事。鍵は解放しておくから。それからマハイルがさっき言った事をまとめたものがある?」

「う、ん」

「よかったら貸して。私には難しいかもしれないけど、読んでみたいわ」

 そう言うとマハイルが持ってきたのは、例のノートの一冊。それを借りて、婆に見せると驚いていた。

「これは医者の範疇じゃないね。学者だね、学者」

「学者?」

「ああ、神官長に掛け合って、天使界の大学で精査してもらって。使えるモノなら彼はちゃんと向こうで教育を受けさせた方が良いかもしれないさ。それから、そろそろ覚悟しておくといい」

「何を?」

「その子の母親さ。もう尿も導尿なしじゃ出ないし、もう髪も羽根も抜け落ちて。巫女は余り気付きたくないのかも知れないけれど。本人の髪で作ってはいるけどカツラだよ、あれは」



 できるだけ、考えたくない日が差し迫っているのをジュリアは感じながら、何とかその日までにニーチェとマハイルの仲が取り持てないかと考えた。

 だが、季節は親子の溝を深めるだけで、ゆっくり、確実に過ぎて行った。

 日差しが静かに舞い落ちる、麗らかな午後、彼女の部屋の前で車椅子に乗ったニーチェ、それを押す婆、そして黒いローブの男が立っているのを見かけた。

「本当にありがとうございます」

「……今の話は了解した。これはそれまで預かっておこう。失礼する」

 すぐに立ち去る神官長の背を見送る。婆はともかく、他のヒト、それも神官長とニーチェが話しているのなど見た事がなかった。

「どうか、しましたか?」

「ああ、ジュリア。来ていたの? ねえ、今日はとても気分が良いの。暫く車椅子で過ごしたいわ」

 もう、自力で体を起こすのも辛く、意識レベルも薬で下げないと痛みに苦しむような日々が続いていた。穿刺で腹水を抜いているような話も、婆がするようになっている。

 そんな中、久しぶりに彼女の声は明るさを感じた。上手く痛み止めが効いているようだ。唇に淡く笑いを浮かべているのを何年ぶりに見ただろう。口数もとても多かった。

「巫女様、金の天使や。私は神官長様とお話しして来ますさ」

 婆は車椅子を部屋の中、暖かな光が差し込む窓辺寄りにつけると、退室する。

「で、良い話でもある? ジュリア。新しい巫女を増やす計画はどう?」

「ええ、いつまでも少ない人数で支えられる世界など破滅が見えてますから何とかしたいと……」

「天使界も、同じようなモノよ。純血とか貴族とか飽き飽きするわ」

 そう言って笑った彼女の様子をみて、ジュリアは前からしなければならないと思っていた事柄を口にする。

「マハイルの事なんですけど……」

 その話題をすると表情を変えて拒絶するのだが、その日は彼女の対応が緩かった。

「天使界の大学から、優秀だから付属幼少から中級に入って、大学までの費用も負担するって言われているんです。神官長様も見受け人を探して下さるそうですし、才能を伸ばすには良いかと思ってます」

「まあ、頭だけは良いモノね」

「優しくて、良い子ですよ。アレードも天使界に行きたいって言いだしているので、その辺は考え中なのですが」

 そう、とニーチェは言って指を眺めた。

「ネックレスを外して、指輪を磨いて来て欲しいの。もう私には必要ないから」

 彼女はもう指に金の指輪をしていなかった。首飾りを外す事も出来ないほどむくんで、見る影もない。鎖で下げられた金の指輪を2つ、ジュリアは受け取った。

「やはり手入れしないとくすんでしまうわ。メイド達が言っていたけど、台所で使うジュクロっていう葉っぱを使うとすごく綺麗になるんですって」

「それは確かにそうですが。急に何故?」

「最後のテスト。それを磨いたら、子供達を呼んで欲しいの」

「達?」

「ええ、子供達にそのリングを譲ろうと思って。ランスのをアレード、私のはマハイルに……でも受け取らなかったら、貴女が預かってくれると嬉しいわ」

「き、きっと受け取ってくれます」

「ジュリア。受け取らないが正解なのよ」

「またそんな事を。急いで磨いて、2人を呼びますから待っていて下さい」

「あの子だけは自由に生きてもらいたいの。だから、ねえ、マハイルの母は貴女よ。覚えていて。絶対に」

「わかりましたから。行ってきますから」

 急いで一階のキッチンに向かうと、側の部屋から神官長と婆の声が聞こえた。



「……で、墓も要らないと言ったが、それはこちらも困ると言ったら、空っぽの墓にして欲しいと。それも天使の浄化に使う火で一片残らず焼いて欲しいそうだ、これと一緒に」

「癌でやられてるから、簡単に燃えるでしょうが。確か隣の精霊族に天使の神父か神官が来ているはず。もしもの時は彼に頼めばいいでしょう。おや、巫女様」

 神官長がニーチェから預かってきたのは小さな金の入れ物。中にはランスが残した左の手から取った骨が入っていた。

「ニーチェ様が、そんな事を?」

「聞いておったのか。そうだ、そう言って私にコレを預けた」

「その骨とニーチェ様の髪でも天使界に送れば、マハイルがお二人の子だと確定できるかもしれないのに」

 その言葉を聞いて、神官長は目を眇めた。

「嫌なのかもしれんな。それが。理由はわからんが」

「それにしても見上げた精神力と忍耐をお持ちだね、あの金色の天使は」

「どう言う事なの? 婆」

「言ってなかったかね? 妊娠が発覚する以前から、生んで、乳を飲ませる間も、一切痛み止めも抗がん剤も飲んでおらんかったのだよ」

「え?」

「妊娠中、また授乳中の薬剤は子供に悪いから。立ち上がれないほどの痛みだったようさ、それに耐えて……それなのに、生んだ子に優しくできず、あんな風なのは何故なんだろうか。ただ、今はもう麻薬すらも効かないようだし、もっと強い薬を用意するかね」

「本当にあの天使には悪い事をした。私がこんなものを渡さなければ、マハイルは出来ず、苦痛は減ったやも知れぬのに」

 更に彼が出したのはニーチェに施しと付けて渡した解毒剤が入った袋だった。婆の筆跡で生理が始まり5日間服用などと書かれている紙も入っている。

「これは解毒剤じゃなかったのですか?」

「シキレクトリン、不妊改善、体質改善に有効と言われている薬だよ。妊婦には強すぎて害になる。あの時の薬瓶の方は堕胎薬として私が調薬したのだけど。ついでに不妊改善用の薬も作って欲しいと神官長に言われた時は何に使うかと思ったさ……」

「アレードをこの世から奪い、お前も連れ去る気だったからな……まさか堕胎用のそれまでも口にするとは思っていなかったが。もともとあの夫婦にせめてもの罪滅ぼしにと薬を置いていくつもりで用意していた。それがあの母子をこうまで対立させるなら……」

「でもお父様、アレードも一度は要らないと仰っていました。それでも今は、もう掛け替えのない子でしょう? マハイルもそうなるべくして生まれたのです。今は厳しく、そう思えても、時が解決するでしょう。きっと……」



 あの時まで妊娠できずに、更に癌で苦しんでいた彼女に、子が宿ったのはこの薬のおかげだったのかとジュリアは不思議な気持ちで見る。これでマハイルがランスの子とわかればいいのに、それを調べる事を避けているのは、そうでなかった時の恐れだろうかと思う。

 だが、純血である事は証明されているし、あの頭の回転や容姿はランスの血を無くして、他にないとジュリアは直感していた。

「子供達を連れて行けば、何か聞けるかも知れないわねぇ」

 そう呟きながら台所で洗剤代わりに使うジュクロの葉で綺麗にリングを磨いた。



 大きなリングはランスのリング。小さなリングはニーチェの。自分のリングもきちんと磨いて、作ったばかりの輝きを取り戻した指輪を手に、子供達を呼んだ。

 外で大きな鳥を肩に乗せたままマハイルは読書。構って欲しいのか、アレードは術の練習の合間に、しきりとマハイルに生意気な声を飛ばしている。マハイルは言葉少なに微笑むだけで、余り反応しない。

 そんな二人を連れて廊下を歩く。

「本当に、僕も呼んだの? あの人が……」

「ええ、だからそんなに緊張しなくて大丈夫よ」

 だが、扉を叩くが返事がない。

「やっぱり嫌だよ」

 その間が待てずにマハイルが逃げ出す。

「俺、兄さんを連れてくる」

 アレードなら程無く連れて来るだろう、そう思い、後を追わせる。

 疲れて寝てしまったのかもしれない、そう思いジュリアは返事を待たずに扉を開けた。

「ニーチェ、様?」

 車椅子が空っぽだった。ベッドに姿はないし、一人で戻れる体力はもうないはずだ。



 部屋に入ると彼女の姿は窓辺のカーテンに包まれ、寄りかかる様に膝をついていた。窓が開いているのは自分で開けたのだろうか。微かな風、そして沢山の光が彼女に降り、少女の時を思わせる髪の煌めきを放っていた。

「ニー……チェ様」

 だがそこにはもう生気がなく、魂が遠い所に旅立ってしまったのをジュリアは感じて頬に涙が伝う。

「どうして、どうしてお独りで逝ってしまわれたのですか? 子供達を呼んで、すぐ来ると言っておいたではありませんか……何も心配する事はないと精霊界までお連れしたのに、私は貴女を苦しめるばかりでしたか?」

 窓の外には大きな木があり、ちょうどそこには先程までマハイルが読書をし、アレードが遊んでいた。2人を見守りながら、開けた窓からの子供の声に送られて、安らかに逝っただろう事がせめてもの救いだった。



 そしてカラの墓が精霊界に建った。墓標に奪われた貴族の名を入れたのは、彼女が気高くあったから。後から考えるとそれはどうだったかと思うが、ジュリアにとってはいつでも眩しい金天使の少女であったから、それがふさわしいと思った。




 近くの木々の幹は黒く、葉は紅葉したのとはまた違う赤さをもっているが、生き生きとして柔らかな太陽を受けている。浜の白き砂粒は美しい星を形取り、波は優しく打ち寄せ、エメラルドグリーンの海には珊瑚礁が広がっていた。小魚を追って、イルカに似た動物がさわさわと泳ぎ、捕まえた魚を近くに住む精霊希夕の子供に渡している。

 空には再び虹がかかり、雲は白く七色を映し、輝いている。

 天使界から戻った時には汚泥に塗れていたあの浜とも、ジュリアの記憶にある浜ともまた思えない色合いだったが、着実に生き物の気配は戻りつつある。

 激しい自然の流れに身を任せつつ、強くしなやかに生きる精霊界を支える巫女は、愛息2人を一角獣の背に乗せた。手綱はアレードに、後ろにマハイルが乗る。

 黒い一角獣に神官長が、角の美しい一角獣にジュリアが跨ると、方向を示す。

「行きましょう」

 蹄が星砂を蹴りながら、波に乗り、渡って行く。子供二人が騎乗した後ろに、夜飛鳥が二羽、ゆっくりと旋回しつつ、仲良さそうに付いて飛ぶ。霧が深くなって、精霊界の岸が遠くなる。波が消え、微かに水を蹴る音をヒタヒタとさせながら進む。

「怖い……」

「珍しいね、そんな事言うのは。大丈夫だよ、アレードは馬が上手だから」

「兄さん、ただの馬じゃないし、水の上だよ、普通じゃないって」

「うん、そうだね」

 どうして兄さんはそう呑気なんだよと喧嘩でも始めそうな勢いの孫達を、神官長は宥めようと声をかけている。

「2人とも、仮にも精霊界の神官長の孫、巫女の子として預かってもらうのだ、行儀よく……」

「またジイジイの小言だよ」

「そんな事言っていて、きっと懐かしくなると思うよ、アレード」

「お前達っ! 兄弟そろって全く。2人とも全寮制学校だが、入学する場所はバラバラ。ちゃんとお互いを思いやり……聞かんかっ!」

 ジュリアはその様子を見ながら、笑う。最終的にニーチェを気に入ったらしい神官長は、マハイルの事も孫として接するようになり、その姿は本当にジュリアにとってうれしいものだった。



「オ前ノ天使ハ、死ンダカ」

 突然かけられた一角獣の声にジュリアは頷いた。今日もあの日と同じく口が重い一角獣は、彼女が頷いたのを見て、思い出すように言葉を続けた。

「ソウカ。渡リナガラ、アレ程哀シゲニ別レヲ告ゲテイタ者ハ少ナイ」

 あの時、背側に乗ったニーチェが天使界を振り返っていたのを思い出す。自らの病気を知っていた彼女はただ寂しいだけでなく、もう帰る事はないと覚悟してランスの消えた大地に別れを告げたのだろう。

「でも、彼女が抱えていた命が戻って行きますからねぇ。きっとニーチェ様も嬉しいと思います」

「アレ、デモカ?」

 鼻面で指し示す先に、天使界側の岸が見えた。そこには数人の天使が立っている。だがその姿を見た神官長が眉を寄せる。

「彼らを任せる財団の迎えではないな」

 そこに立っていたのは皆、一様に金の美しい髪と金の瞳を持った、金天使。それもその輝きから貴族のそれだとジュリアは見当をつける。

「貴族の方々が何故?」

「ようこそおいで下さいました。精霊界の巫女様、セリバー神官長様。我々の星を連れ帰りいただき、誠に恐縮です」

 ジュリアには金天使の男が吐き出す言葉の意味が解らなかった。

「我が一族のソウエル、ニーチェが宴と儀式により身籠り、無事出産したと聞いております」

 理解する前に沸々と湧き上がる怒りに、ジュリアは自分の目の色までもが変わるのを感じた。

 彼が発した宴と儀式が、2人の金色の天使と黒き精霊の3人で作り上げる予定だった夢の家を、あの凄惨な現場に変える事だったと気付く。ニーチェが「見せしめ」と称したのは、現場にて彼女を犯したのは誰でもない同族の男達であったから。

 黒き瞳が血の赤に変化し、その場を席巻する。それに屈した様子もなく、金色の天使は穏やかに笑うだけだ。

「それでランス様を殺め、ニーチェ様を穢したと言うの?」

「何か勘違いしてるようですが、2人に手を下した事実はありませんよ。我々は迷える同族の2人にささやかな宴を行っただけ。こちらも犠牲を払いましたが素晴らしい収穫があって何よりです」

「な、何ですって」

 一触即発。怒りが呼んだ雲を散らすように、黒き一角獣と共に神官長が間に立った。

「何のお話でしょう。どうやら我が孫に用事があるようですが」

 話を穏便に進めようとする彼の言葉すら聞かない。他の金天使達が子供2人が乗る一角獣に詰め寄る。

 その気配に興奮した一角獣は、2人を乗せたまま後足で蹴り上げ、前足を上げて嘶く。

 2人の側に付いていた夜飛鳥が慌てて飛び退いた。

「わっ、だっ、兄さん」

「…………っ」

 マハイルは転落しかけているアレードの抱き付き、弟の頭を守りつつ、翼を広げて空を舞う。その豪華すぎる金色の眩しい翼に同族の彼らは目を細めた。

「そのまま飛びなさい!」

「逃がしません」

 そこにいた金天使全員が、複雑な指の動きを同時に切る。すると彼らから金色の鎖が編み上がり、マハイルの脚を絡め、地面に引き落とした。

 見るからに褐色に肌をしたアレードには目もくれず、マハイルの右腕を掴み、

「さあ、ニーチェの息子よ、ソウトエルの称号と共に、我が一族の繁栄と富に生きるがいい」

「ああ、熱いっ!」

 その白き少年の腕に黒っぽい文字が走る。その掴んだ男の腕にも描かれたそれに、ジュリアは見覚えがあった。ランスの右腕に刻まれた刻印。

「ソウトエル、継承長子に送られる紋章……」

 焼印か刺青なのかと思っていたそれが、ミシミシと痛みを伴ってマハイルの腕に楔として打ち込まれるのが分かった。

 一角獣から飛び降り、近寄ろうとするが、怪しげな魔方陣のようなモノが地面に描かれ、ジュリアも神官長も入れない。

「か、返せよっ」

いつもマハイルに反発しているアレードだが、本気で嫌っているわけではない彼は、兄の腕を必死に引っ張る。

「精霊の血を受けた半端なものなど必要ないわっ! どけっ」

アレードは他の金天使に突き飛ばされ、はじき出される。

「弟に手を出すなっぁぁぁ」

「ほう、ニーチェだけでなく、ランスの血が感じられるぞ。あの儀式の前に身籠っておったとは、それはそれで運のいい……」

 それを聞いたマハイルが、痛みを堪えて咆えた。

「ぼ、く、の母は、あのヒトじゃない……」

「何だと?」

「僕の母は…………精霊界の巫女リフュー……」

 そう口にしたマハイルの瞳から、金の涙が零れた。本人も気付かず流すその涙が地面に落ちると、浮かび上がっていた陣が水蒸気を上げながら消える。

「何?????」

「離せよっ。僕の母上はジュリア・グリーン、ただ一人だっ」

 途端に腕に走っていた紋章はマハイルから離れていく。



「どう言う事だ……血は、血は間違いなくあの二人のモノ。何故に刻印が付かぬ。お前達、何をした」

 ぐったりと意識を失い倒れるマハイル。頭を打ったのか気を失っているアレード。

 ジュリアは2人掻き抱いて、叫ぶ。

「何かしたのは貴方達よ。血を断ち切るほどの憎しみを、息子に植え付ける母親の気持ちが貴方達にわかって?」

 ニーチェが執拗に、マハイルに母と呼ばせず、切り捨てていた理由。

 金天使の介入、「あの子だけは自由に生きてもらいたい」と言った意味がやっと分かった。ランスの血でも他の男の金天使の血でも、生まれてくる子は必ず純血。貴族と判定されれば、こうやって無理やりにでも血の守り人にされる。

 もはや自分の一族に反発と不信感しかない彼女は、マハイルに同じ道を歩ませたくなかった。

 ただこの一瞬を避ける為に、マハイルにかけるべき言葉をのみこんだニーチェ。

 赤ん坊を生んでお腹がすいたと泣く横で、張る乳を飲ませず、無為に絞り捨てる時の虚しさは母親にしかわからない。信頼の眼差し、愛情を欲する息子に暴言を吐き、一切を拒絶する。

 それでも懸命に笑おうとする幼い子に、何度も、何度も、繰り返し、その芽を摘み取る作業の何と哀しい事か。

 その愛情をアレードにかける事で、より強くマハイルを同じように抱きしめたいと彼女は何度願っただろう。



「この子達は私の息子よ。金天使の血の守り人にはさせない。それが私達「母」の願い」

 マハイルの閉じた目から流れる涙が金から、透明に変わる。その変化を見ながら神官長は重く言った。

「何かを守る為には、それを守ろうとする意志がいる。だがマハイルにはその金色の血に恨みこそあれ、守ろうなどと思っていない。印が付かぬのがその証、諦めろ」

 その言葉に金天使達は頭を垂れ、力なく膝をついた。












「ねえ、ジュリアばあちゃん」

 孫のレイルに、握った手から癒しの力を送る。

 そうしながらジュリアはポツリポツリと言葉を選びながら、ニーチェがマハイルに、ソウトエルの名を継がしたくなかったが故の態度だったのを説明した。

 流石に金天使達のニーチェに施した儀式と称した惨劇など、口に出来ようはずもない。その為、何故父親がランスではないかもしれない可能性が出たのかなど、話が飛んでいる感が拭え様もないが、レイルは首を傾げながらも、

「父さんは知っているの?」

「ニーチェ様が指輪をマハイルに渡そうとしていた事、妊娠中に薬を服用していなかった事、ソウトエルを継がせたくなかった事、それは貴方への愛情だと言ったけどねぇ。信じてはもらえなかったよ。アレードも兄さんが受け取らないなら自分も要らないと、この指輪は宙に浮いたままになっているの」

「簡単に信じてもらえるようだと、血を断ち切るなんて出来ないんだろうね」

「まあ、ニーチェ様に似て、マハイルは頑固だからねぇ。もう何故、遺伝子に興味を持ったかなんてマハイルは忘れているのかもしれないけれど、ニーチェ様に愛されたい、認められたい、どうにかして病気に苦しむ彼女に手を差し伸べたいって気持ちが根底にあって、天使遺伝子学に進んだのだと思うわ」



 金天使の血の守り人ではなくなったものの、彼が選んだ道は皮肉にもその遺伝子をより効率よく、次世代に伝える理論を作る事だった。ニーチェが生きていたらそんな息子を見て何と言うだろうか? ジュリアは考えてみるが、あの天使の気持ち全て考え至るには一生を費やしても無理だと思う。

 レイルはゆっくり体を起こした。彼の長く伸ばした髪をジュリアは手で梳いた。

 メアリは純血でも青天使であり、レイルはもう純血ではない。だが着実に受け継がれている金天使の血が輝かせる髪に触れる。

 青天使貴族は意外と風紀が緩く、金天使のような重苦しい空気の薄い一族。それでもメアリは閉口していたから、貴族と言うのは相当重責があるのだろうとジュリアは思う。



「レイル、具合はどう?」

「うん、だいぶいいよ。ねえ、ばあちゃん。この力は精霊術?」

「いや、この癒しは世界樹から預かったものだよ。世界樹は精霊界を守る大樹。その片鱗を持って来ていたからそれを使っただけ。薬のようなモノで、永遠に効くわけでも使えるわけでもないねぇ」

「ふうん。ねえ、ばあちゃん。コーヒー飲んでいく?」

 頭痛が薄らいだレイルはまだ熱っぽい体だったが、立ち上がってスリッパを今度はちゃんと履いた。黒表紙の本は、枕元に置いた。

「ずっと効くわけではないと言ったでしょう」

「だって、ばあちゃんに出来る事なんて少ないし、好きだよね」

 レイルはここに来ると、メアリがジュリアにコーヒーを出す。巫女なので……本当は飲んではいけないらしいが、ちょっとした彼女の息抜きだと知っていた。

「インスタントだけど、ねえ、俺、用意するから」

 そう笑顔で言われては、ジュリアは頷くしかなく、2人は下階に降りた。



 台所のテーブルには、いつレイルが起きて来ても良いように、簡単な軽食と飲み物が埃を被らない様に布をかけて置いてあった。

 いつもの綺麗な台所。

 だがシンクの中にいつもなら使ったコップなど入れず、洗ってしまってから出かける母なのだが、今日は急いでいたのか、食器が放り込まれていた。やはり洗っていないコーヒーカップ二つが、まな板などを広げるスペースにあったのを避けて、食器棚から新しいカップを出す。

 そしてヤカンに水を入れて沸かす。

 棚にはコーヒーの黒い粉が入った、ラベルのない瓶が二つ。

「どちらも同じかな?」

 何気なく瓶を取り、蓋を開けて……中に入っていたスプーンで粉を掬おうとして、レイルは瓶を見て匂いを嗅いだ。

 それは何か、変な臭いがした。間違ってもコーヒーの香りではなかった。カビているのでもなく、腐っているのでもない、全く別の成分。

「どうかしたの?」

「う、ううん」

 もう一つの瓶を出して、同じように嗅ぐと、こちらは安くてもコーヒーの匂いがした。沸いたお湯でコーヒーを入れた。

 お湯を与えられ、部屋に漂うコーヒーの香気。



「濃かったらごめん。砂糖は?」

「要らないわ、ありがとう。久しぶりだわ、美味しそう。貴方も座って少しは食べたら?」

「今は良いよ」

 レイルはそう言って、洗っていなかったコーヒーカップを見た。

 一つは母のカップ。もう一つは居ない父の為に淹れるコーヒー。口を付けていない父のカップには、間違いなく、今、祖母に出したのと同じ液体が冷たくなって入っていた。

 だが、母のカップに残った残渣物は、コーヒーではない瓶に入っていたモノと、同じ記号を描く液体が入っていた跡を残していた。

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年始の一週は更新停止予定ですが、

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