壊れたガラスの星
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守り抜く、そう決めた誓いを果たそう。
愛する者を奪われようと、それは生きている者の務め。
「お願い、ランスの子を産んでほしいの」
真剣な顔で真っ直ぐに言われて完全にジュリアは戸惑う。
目の前には黄金色の豪華な髪をした貴族の夫婦。
それは神々しいまで、黄土色に近いほど濃い黄金色の髪、それを際立たせる白い肌。
彫りの深い顔立ちに、青を帯びた金色の瞳。
幼い頃ジュリアは修行にと出されて天使界に来た、その身請け先が金天使貴族の流れを組むグリーン家。
当初は屋敷でお客様扱いされていたが、天使の生活に触れたいと仕事を欲した。
仕事と言っても下働きさせるにはいかず、彼女を預かった方として扱いに困り、そこで与えられたのが侍女という役割。正式な物ではなく、忙しい大人に代わって2人の簡単な世話と遊び相手を務める事が主な仕事だった。
大人の前だけで上下関係は生じたが、数年でグリーン家を後にしてからは親友、幼馴染3人、そう言う括りだったとジュリアは今も感じている。
ニーチェは病気がちだが、性格は明るく、良く笑う子で、ジュリアには眩しい存在だった。熱に浮かされても、回りを気遣い、微笑を絶やさない芯の強さ。黄金の髪をキラキラとさせる様は、自分の漆黒を宿した髪とは正反対で、憧れの少女。
ランスは健康には問題がなかったが、とてもおとなしい男の子だった。
争い事が苦手で、本を愛する少年。頭の中が難しい事で一杯の天使で、本が頭に詰まっているのではないかと言う知識量、だがそれをひけらかし、自慢したりしない。知らない事を知らないと聞いて、相手に恥ずかしさを感じさせない答え方は、いつでも品を感じさせた。
二人は表面上、従姉妹だという事だったが、兄妹でもあると誰かからコッソリ教えられる。父親が同じだと。
血を濃くしないため同じ天使族でも血縁を離すのが習わしだが、年々貴族の数、またその出生率は下がっていた。比較的人数の多いと言われる金天使でもそれは深刻だったからだろう。
2人の両親の姿は同じ屋敷にいると言うのに、食事の時ですら一緒に摂るのを見たことがない。生活時間帯がずれているのもあっただろうが、わざとそうしている感じもあった。
─────最初に作られし神の愛し子が欠けた時、この世界の全てが壊れる。
最初に作られた天使とは金、黒、紅、緑、青、そして銀の6色。貴族は言い伝えに従い、血を守るのが仕事であり、それぞれの方法と戒律、そして手段で血を守っていた。
幼少の貴重な時期を彼らと過ごしたジュリアは、2人が複雑な事情と環境にある事はよく知っていた。
そして……密かにランスへ淡い恋していた。
叶わぬ恋。
2人が生まれた時には結婚が定められた夫婦である事もあったが、ジュリアにも自由はなかった。
巫女であっても結婚は許されるが、精霊界を支える世界樹には、始終巫女が張り付いていなければならない。巫女になれるのはごく少数、神聖かつ貴重な存在。他界の生き物と結婚し、それも不義理な立場などありえなかった。
妊娠している期間は、巫女で居られず仕事が果たせない。
金天使の血を守る貴族と精霊界を支える巫女、勝手に出来ないと大人になった彼女はわかっていた。
何より彼と彼女が、親に定められたからではなく、従姉妹であり兄妹というのを知っても尚、深い愛情で結びついている事。親友達の愛に土足で踏み込む真似はせず、恋心を押さえてきた。
それなのにニーチェが、既に自分の夫となったランスと子を作れとは。正気と思えない。
「お願いよ、リフュー」
「お2人はまだ若いですからねぇ、そう悲観されなくて大丈夫ですよ」
妊娠してなければ流れる、毎月の血潮に彼女は何度涙したのだろう。
皆に期待されても、努力して励んでも、出来ないものは出来ず、不妊の辛さは当人達にしかわからない。
当時、純潔であったジュリアはわからないなりに思いやりを込める。
ありきたりな台詞だったろう、でもやんわりとそう言うと、ニーチェの隣で黙っていたランスも口を添える。
「ねえ、何を言っているのかわかってる? ニーチェ。君の突飛な言葉には慣れたつもりだったけど。リフューはもう立派な巫女様なのだよ。仮にも、もしそんな事になれば、彼女は巫女をやめて、妾なんて言われるんだよ」
ランスにしては珍しい呆れたような声音。明らかにニーチェのフライング行為だったのは彼の台詞から分かった。
「妾にするにも、私では無理でしょう。金天使でなければですよ、ニーチェ様」
更に言い含めるように言ったが、その台詞が逆鱗に触れた。
キッっと音がするかと思われるほどきつい視線で、ジュリアを見る。
「いやよ、他の女なんて。回りは金天使の貴族だからなんて言うけどそんなの一体、私達に何の役に立つの? ランスの事が好き。それは彼が金天使だからじゃないの」
子孫繁栄の結婚。貴族である事、それを守る為に重なる血の濃さによって、流産、奇形児の出産率は上がり、ニーチェのように驚くほど体の脆い天使も多い。
いつもどこか体が重く、すぐに貧血で倒れたりする。そんな体を抱えて、好きな男の子供も産めなくて、それでも笑ってきた彼女には一つだけ希望があった。
「私。子供が欲しい、生きている間にランスの子が見たいの」
「生きてるって縁起でもない事をまた……」
言って聞かせようとしたが、ニーチェはテーブルを平手で叩いた。
か弱い手では大きな音が立たない、そう思ったのか目の前にあったティーカップも含めて。ガシャンと派手な音がして、スプーンは床に転げ、カップの中のお茶が辺りを汚し、側にあった華美なポットも含めて高価な陶器が欠けた。
「私、ランスが好きだし、手放そうって思わない。けど子供が産めないのなら、誰かに代わってもらうなら、私も愛してるリフューが良いの」
目を丸くして固まるジュリアとランス。
「私にはない落ち着いた漆黒のしなやかな髪。他者の悲しみを受け入れても染まる事のない褐色の肌。慈悲深いその黒い瞳は安らぎの夜のよう。穏やかで優しくて、でも意志が強くて。私の大好きで大切な精霊の親友……私と、そしてランスと結婚して」
「私の事をそんなに想って下さって嬉しいです。貴女からプロポーズ受けるなんて思いませんでしたけどねぇ」
「本気なのっ。お願いよ」
冗談めかして流そうとしているジュリアの意図に気付いたのだろう、もう一度割れたカップを叩く暴挙に出た彼女は、細く血が流れるのを見ながら、
「私は運が良いと思うの。だって……二人とも好きでしょう? お互い愛し合ってるじゃない!? 知らないと思ってる?」
その台詞で顔を見合わせる。
妻に言われたとんでもない言葉に、かあーっとランスが赤くなったのを覚えている。そしてその言葉が的を得ている事に彼は戸惑っていた。
自分はどうだっただろうか? ジュリアは振り返って思う。
肌は褐色だったがそれでも分かるほど上気し、目が潤んでいたのではないだろうか? と。
天使界に身を置いた修行の成果もあり、精霊界で地位を確立していたジュリアが、全てを捨てようと決めた瞬間だった。
ジュリアとランスは相性が良かったのか、天使界にいた短い間で程無くお腹に子を宿した。
「枷になるかもと思って渡しにくかったけど、私達は3人で夫婦だから」
ニーチェがそう言って、自分達と揃いの結婚指輪を渡してくれた。ランスが左の薬指に飾ってくれて、3人で誓いをたてる。
『私達が往くはいばらの道。
其に在りながら、生涯変わる事無く、
死が三つの魂を別つまで、
お互いを助け、生まれ来る命を守りて、
愛し続けることをここに誓います』
それぞれの手に金の指輪が煌めき、覚悟を示す。
だが、回りの反応は想像以上、いや想像しておくべきだっただろう。
3人は異端裁判さながらに殺気立った部屋に呼び集められる事になる。
「世界樹は荒れる精霊界の気候を押さえることが出来る。それを支える巫女が何人かわかっているか?」
「私を除くと、2人です」
「そうたった2人だぞ! 2人で24時間を交代。見れると思うのか?」
「酷い事だとわかっています」
「わかっているだとっ! わかっていないからそれほど思慮のない行動が取れるのだろう。何十億もの命がその双肩にはかかっているのだぞ」
巫女である仲間達には本当に悪い事をしたと、謝り倒してきた。頭を下げてどうにかなる事ではなかったが、残った巫女2人はたおやかに笑ってジュリアを送り出してくれたのである。
そう言う心根の女性でなければ巫女にはなれない、それがわかっていて、それに胡坐をかくような事をしてしまったのには涙が出た。
「もう巫女には戻れません。その資格は心に嘘をつかず、素直に従った時、とうに失われているのです」
「お前の心なぞ、どうでもいい。お前が子を産むまで3年、いや3年半は腹に宿すのだ。悪い事は言わない、おろすのだ。精霊界の全てに関わる事なのだ、巫女よ」
「いやです、神官長様。いえ、お父様」
「わからんようだな。はっきり言おう。その子は殺せ、不要だ」
これほど怒り狂う神官長、いや父を見たのはジュリアは初めてだった。
孔雀にも匹敵する、夜飛鳥でも最大級の黒い鳥を肩に乗せ、漆黒の瞳は怒りに満ちた黒炎が揺れている。側にある籠に閉じ込められたジュリアの夜飛鳥が真っ直ぐこちらを見ている。
セリバー神官長……慈愛に満ちた穏やかな精霊だと思っていた、だがそれは娘にだけだったのだと。回りの者がいつも畏れるように従っている意味をここでやっと知った。
だが、2人から預かった命を、言われるままに捨てるわけにはいかなかった。いつものノンビリした口調は封印し、キッパリと言い放つ。
「巫女である前に、私はこの子の母となります。お許しが欲しいわけではありません」
「お前と言う娘は!」
震える拳、握った小瓶は堕胎薬。それもあえて苦しみを与えて2度と同じ間違いをさせぬために使われる薬。その瓶を煽れと目で示し、差し出す。
「その子を殺せ。お前がやらないなら、その口に捻じ込んでやろう」
横で聞いていたニーチェはすっと神官長の方を向き、
「私が彼女に生んでほしいと頼んだのです。この子はジュリアの子であっても、私達の子でもあります。私はソウエルの名を捨ててでも、彼女とこの子を守ります」
「ジュリアだと? 精霊界の至宝である巫女を傷つけた上に、勝手に名前まで……天使の貴族様だか知らないが、娘に……」
「でもその罰に……彼女がこの薬を飲まねばと言うなら……」
その瓶の中身を知りつつ掴むと、ニーチェはそれを煽る。
「何をするっ!」
「ニーチェ様っ」
「……っ」
「大丈夫よっ、いつも毒を飲んでるように重い体だもの。言い出したのは私」
ジュリアとランスが取り乱さないよう睨み、神官長を牽制しつつ毅然と言い放つ。
「何を詭弁ばかり言いおって」
飛び掛かろうとする神官長─────ジュリアの父─────に、ランスは割って入り、静かに深く頭を下げ、視線を合わせた。一言も発しない青年に、神官長は金色の重い影を見て止まる。
「ほう、そうか。その娘といい、うちの巫女が全てを投げ打とうと言うだけはあるという事か。しかし……」
神官長としての力にランスの何かが反応したのか、彼は渋く唸りながら考え込む。
かわって、その場にいた数人の金天使が揃ってランスを罵る。
「ランス、その掌の刻印は何の為に刻まれていると思っているのだ。お前のような賢い男が……外交問題にまで発展するのもわかっての狼藉だろうな」
「我々の使命を忘れて、他界の、それも巫女様を……同族として恥ずかしいぞ」
「申し訳ありません、と。ランス、頭を下げろ。もっと深くだ」
ランスはなじられても、彼女達を守って、頭を下げ続けた。
争いの嫌いな彼が、静かに戦っている。
もともと体調がすぐれないニーチェも発汗がすごいが、それに耐え、薬が効かないかのようにジッと付き従う。
長い時間、緊迫した状況が続いた中で、ランスは頭を上げると、約束の指輪が嵌った手で、刻印の入った右腕を捲り上げる。
白い腕に入れられたその図形。複雑な紋様は金天使、それも後継長子に与えられるそれは、神から与えられし血族としての誇りでもあり、鎖でもあった。
「半端な気持ちでジュリアを愛したわけでも、妻のニーチェを蔑ろにしたわけではありません。2人の妻を愛すと言うのは不義理だと言われるかもしれませんが、私は彼女達とお腹の子を守る為に必要なら……」
ランスは腰に挿していた短剣を自分の腕に、何の躊躇いもなく走らせた。
「やっ、やめてっ」
「ら、ランス様っ!」
2人の妻が声を上げ、回りの金天使が動揺した。流れる血を見ながら、神官長の黒い瞳が3人を鋭く眺めやる。
「くっ……大丈夫だよ。2人とも。これは当然の行いなのだよ」
「それが金色の天使、お前の覚悟か」
「はい。神官長様」
「いずれ巫女は返してもらおう。そして神官として予言するなら、お前達の幸せは思うように訪れないだろう。そしてその渦は世代を超えて、苦汁を生むかもしれぬ。それでも連れて行くか」
「はい、自分の、家族の幸せを追求せずして、光のある未来などありましょうか? 私は私に、そして2人の妻に恥じぬよう、生まれ来る子を大切にしたいと思います」
ジュリアは父親が立てた予言に漠然とした不安が沸いた。巫女として、神官長がたてる予言の的中率は高く、ソレを避けるのは難しい事を熟知していたからだ。
だが、歩みを止める事は出来なかった。
「ニーチェ、君の覚悟を受け止めるよ。リフュー、いや、ジュリアありがとう、私達の願いを受けてくれて」
夫の言葉に2人は笑った。
痛みを堪え、傷を入れたランス、そして差し出された薬を煽り、付き従ったニーチェ。
2人はその名に付いた貴族の称号を剥奪される。
巫女リフューの名を捨て、天使ジュリア・グリーンと名乗るのは辛くなかった。むしろ嬉しかったが、生まれた時より側に置く夜飛鳥を奪われたのが悲しかった。
ただ最後に「施しだ」と言い、神官長はニーチェに解毒剤を与えてくれた。
強制送還や引き剥がしから逃れるように、3人はグリーンの屋敷を出た。
赤い瓦が美しいイクスアルペイの街に借りた、小さな家を住まいにする。
ヒトの目を気にして中心街からは離れていて少し不便だったが、ままごとのような小さな幸せに似つかわしい家だったとジュリアは思う。
部屋は3つしかなかったが、一部屋ずつが少し広くて使いよかった。
1階の玄関を入ってすぐがキッチン、狭いが風呂もある。キッチンとはパーテーションで仕切った奥の部屋が3人の寝室。2階の部屋は物置。そこは綺麗にしていずれ子供部屋になる場所。
壁は石壁で床は薄い板だったが、寝室に敷いた優しいクリーム色の絨毯が温かさを演出し、置き去りにされていた大きめなベッド2つを引っ付けると、3人が寝るには充分だった。
蔦で手作りしたリースをキッチンの暖炉の上に飾ったり、小物にリボンを付けて置いたりして雰囲気作りには多少なりと気を付ける。
「私みたいにならず、強い子に生まれます様に」
お腹に触れては念じるようにそう言ったニーチェ。
本人は体を崩し、完全に寝室の住人となりながらも笑みを絶やさなかった。寂しくないように、パーテーションは昼間は閉めず、台所やテーブルからすぐに見えるようにしたので、2人はいつも一緒。
ランスは仕事を探して走り回り、初めは大変そうだった。
安い茶葉、色気もないマグカップに淹れた薄い紅茶2つはニーチェとランスが。
もう一つ、同じマグカップにはカフェインは子供に良くないと温めたミルクがニーチェに渡されて。
大学で研究助手の職にありついたランスが帰ると、3人でそれを片手に話をする。
「で、名前は決めてくれたの?」
「まだ2年もあるよ、気が早くないかい? ニーチェ」
「だって男の子だってわかったんだから、早くこの子に名前で呼びたいじゃない、ねえジュリア」
「まあまあ、生まれる頃には気が変わっているかもしれませんし。でも聞いておきたいですねぇ」
そうジュリアも言うと、ランスはそっとおなかに手を置いて、
「そうだね、マハイル、か、アレードと言う名前にしようと思うよ」
「この前に見つかった、連星の名前ですねぇ」
「連星?」
ニーチェが首を傾げたので、簡単に説明する。占星術も司る巫女としては難しい話ではない。
「双子星とも言われるのですけどねぇ。重心……同じ点を中心に回る二つの星。離れる事なく、ぶつかる事なく結びついた星です。でも、この子は双子ではないのに何故わざわざ連星から名を?」
ランスは笑って、その問いに答える。
「もしかしたら、ニーチェも子供を持つかもしれないからね。その時に困らない様にもう1人分、決めておこうと思って。そうだね、初めに生まれた子には主星のマハイル、次の子に伴星のアレードにしようかと……って、なんで泣いてるの」
「だって……出来るかわからないのに、だからこそジュリアに無理強いして……それでも、それでも、そこまで考えてくれた事が、嬉しくて。でも……」
「何?」
「本当に出来て、女の子でもアレードって、ちょっと可哀想な気がするわ」
「あ、そこまでは考えてなかった……」
他愛ない話で笑いが絶えない家庭だった。
豪華な料理も、美しい調度品も、何もないけれど、他人には理解されない愛がそこにあった。
暫しすると、流石に可哀想だと思ったのか、グリーン家から冴えない感じの召使が1人、遣わされて毎日来るようになった。寡黙で、打ち解けないユニと言う名の女性だったが、仕事はきっちりこなしてくれる。
ジュリアは身重だったし、病気がちなニーチェにランスが付き添えない時はとても助かった。
ただ、あの、思い出したくないその日はニーチェではなく、ジュリアの方が苦しんでいた。
「ね、大丈夫なの? まだ生むまでは1年以上、あるでしょう?」
「そ、そうですねぇ。まだ2年ですから。昨日からいやにお腹が張りやすくて」
「子供は大きくならない時期なのに、オカシイかも知れないね。僕は心配だよ」
2人の声にお腹を撫でながら、少しだけ笑った。横になって安静にしてかなり経つが、痛みが強く、ずっと引き攣って治らない。
「天使のお医者様では、やはり私の体を診るのは難しいようなので。でも大丈夫です」
「昨日からなら何で、早く言わないの?」
今日はランスの仕事が休みだったので、3人で子供の為に買い物をしようと言っていた。帰ったら3人で食事をし、買ってくる産着を広げてまたゆっくり時間を過ごすのだと楽しみにしていたのだ。
目を合わせられずに、下を向く。
そんな気持ちを察したのか、ニーチェは責めるのをやめ、
「さあ、病院に行きましょう。私達付いていくから。調子が良くなったら買い物に行けばい……」
ベッドから威勢よく立ち上がって、ジュリアを連れようとしたニーチェの方が床に膝をつく。吐き気もしたのか、口を押えている。
「ちょ、大丈夫? ニーチェも良くないようだね、貧血なのかい? 馬車……では揺れるから、車を呼んで、2人とも病院に行こう」
「私はいつもの事よ。さっき薬を飲んだから。少し寝てればいいわ。車に乗ったら吐きそうで乗りたくないし。ランス、ジュリアを連れて行って……」
ジュリアはその表情を見て、ランスに首を振った。
ランスは微笑みながらも吐きそうな顔をしたニーチェに洗面器やタオルを渡し、その背を撫でる。彼女の看病には慣れていた。
「車を呼んでくれれば1人で行けますから、ニーチェ様をお願いします」
この所、微熱が続き、どことなく不安そうなニーチェの様子が気になっていた所でもあった。いずれ病院に連れて行くにしても、今日はランスと二人で過ごす方が精神的に良いと思ったのだ。
どちらにしても買い物は今日はなさそうだと言って、ランスは少し離れた隣の家に行く。電話がないので、借りに行って、程無く彼は戻ってくる。
「車は呼んだよ。今度の給料で電話は付けよう。でも今日は買い物だからって、ユニに休みを取らせなければ良かった。ああ、彼女に来てもらうよう一緒に電話すれば良かったよ」
冷静にしている様に見えて、慌てていたらしいランスに、女性2人は顔を見合わせて笑う。
「大丈夫ですか、ランス様。本当にこの子が生まれる時が思いやられますよねぇ」
「知識だけはいっぱいだけど、意外と実用に欠けるわよ、ランスは」
2人の可愛い妻にそう言われて、ランスは苦笑する。大きく目立つ傷の入った右手でジュリアの張ったお腹を撫で、
「出てきたら、2人の母さんに苦労するんだね、息子よ」
などとワザとに言っていた。あの瞬間が懐かしい。
ニーチェが「ランスと一緒に行きなさい」と言う言葉に、珍しく逆らった。
呼んでくれた車に乗り込んで1人、病院に着く。診察まで時間が掛かり、調子は尚更悪くなってくる。だが、他のヒトも待っているのだと思うと声がかけられない。
待合で目を瞑り、ぐったりしているが、褐色の肌は表情を隠す。
やっと順番が回って来て、医者が「何故早く回さないか」と看護婦に言っているのを聞き、普通ではなかったのだと感じ取った。
「今日は一晩、入院した方が良いね」
「え?」
「クリューンという張り止めの薬を出しておくよ」
「薬……ですか?」
「子宮収縮抑制剤といって、子宮の筋肉の収縮を抑制するのですよ。子供は大丈夫。ただクリューンには血管を広げる作用もあるから、まれに動悸や吐き気が起こるし、貴女は精霊だから大事を取って、様子が見たいんですよ。当たり前ですが、これを飲んでいる時は飛行も控えて下さいね」
入院という運びになった事を告げようとして、ジュリアは困る。電話を隣の家にかけて取り次いでもらおうかと思ったが、先程ここに来る時に迷惑をかけてしまっていた。精霊術で作り物の鳥を作り飛ばそうと思ったが、術は自ら使わぬよう封印している。
「そうだわ、ユニに伝言してもらおうかしらねぇ」
グリーン家から遣わされてきているので、普段はジュリアがモノを頼む事はなかったが、夕暮れになり、2人も心配する時刻になっていた。
電話は魔法具であり、魔法がなければかけられない。ジュリアが持つ力とはまた違っているので、看護婦に頼んでかけてもらう。車椅子に腰掛けたまま、
「すみません」
「安静なのだから、短めにね。ほら、繋がったわよ」
看護婦がその受話器を持ったまま、ジュリアの少し尖った耳にあてがってくれる。
「もしもし、ユニ? 私よ。ジュリア。頼みたい事があって……」
そう告げた時、息をのむような間があって、
「なぜ?」
「ああ、ごめんなさい。私が貴女に言うのは珍しいですものねぇ」
「どうして? 今日は……」
「調子が悪くてお買い物は止めたの。それで1人で病院に来たのだけど、入院する事になって。大した事ないけれど、帰らないと二人に心配かけるから、そう伝えてくれないかしら?」
「わ、わかりました」
お願いね、と念押しする前に、電話は切れていた。
少し、受け答えが不自然だったのが気になったが、もう一度かけ直してもらうには気がひけて、その夜は病院で過ごした。
この後、薬のせいだろうか、動悸がして、お腹の張りが一層強くなった気がする。夜明けまで脂汗に塗れながら、眠れず時を過ごした。
自慢の黒い髪を汗で頬に張り付けながら、気を失うように眠りに落ちたのは空が白む頃。起きて気付いたら昼を回っていた。
「お手数かけてすみませんねぇ」
帰宅前、看護婦にまた電話をかけて貰った。目が覚めたら張りがひいていたので、今夜は帰っていいと言われたのだが、すれ違いでランスが見舞いに来る事を考えた為だ。
だが伝言を頼んだユニに繋がらなかった、普段なら、あの家に来ているハズなので、ニーチェとも連絡が付くかもしれないと思ったのに。
「繋がらないわねぇ。すみません、もう一件かけていいですか?」
「大丈夫よ、貴女も別世界で大変でしょう?」
優しい看護婦の言葉に勇気を出してかけたのは、2人の実家だった。
嫌な予感がしたのだ。それは昨日ユニと会話した時に、巫女としての琴線に触れた勘。
そして、当たってしまう。
電話で聞いたのは怒りの含んだ声で、
「ユニ? 誰だそれは……貴族を捨てた馬鹿者共に何故、こちらが人手を割くのか! お前の声など聞きたくもない、精霊界の巫女だからと可愛がってもやったのに、謀りおって……」
最後の方はもう聞いていなかった。
グリーン家は全く二人を許していなかった、それならば毎日もう1年は通っていたあの女は何をしに来たのか?
ニーチェもランスも知らない顔の召使だったが、グリーン家の事は良く知っている感じで、実家に照会するには2人も気まずく、遠回しに避けていた。それが狙い目だったのだろう。
本当は3人が確実に家にいる予定だった昨晩。
合い鍵を持った誰かの存在が、恐ろしい事を招く気がして急いた。
飛ぶ事も出来ずに、車を呼んでもらい、戻った小さい小さい家。
夢のお家。
おんぼろだけど、3人の親と生まれる子供のお城。
薄い紅茶と温かいミルクの匂いがする、少しずつ飾って可愛くした部屋。
この前、窓ガラスの側にはモビールを飾った。大きな星が2つ、3つの小さな星が輝くガラスの玩具。
大きな星は産まれる子供と、もしかしたら授かるかもしれない新しい命を想って。後の3つは見守る親の数。きらきらと窓の光に揺れ、金天使の2人が見詰めてほほ笑む。
「ジュリア、ありがとう」
生んだらずっとは天使界には居られないだろう。だがいつでもここに帰って来ていいのだ、そう思いながら眺めた光あふれる狭い空間。
そして今。
暖炉の火は消えているのか、煙突に煙はない。
辺りは薄暗くなっている、灯りがぽつりとついていた。
ただ、それはオレンジの小さな補助灯で、いつもなら部屋の中央の灯りを付けているはずの時間。何かが違う、いつも触れているはずのドアノブの冷たさに心までも凍える気がした。
軽く、音もなく、開く扉。
「ただいま……」
おかえり、の、声はない。
返ってくるのは腐臭、吐き気が来るほどの噎せ返る匂い。
小さな暗いオレンジの光でわかる乱れた台所。3人では出すはずもない量の食べ物が食い荒らされた状態でテーブルに並び、普段は飲むモノも居ない酒の瓶がラックから出され、カラになって転がっていた。
薄い板の床には白いマグカップが粉々に割れている。その白さと対照的な黒い床のシミが乾いた血だとわかった時、ジュリアは足元に付いたシミが自分の影ではなく、今入ってきた扉の向こう、外まで長く伸びているのに気付く。何かが引きずられた跡。人目を気にして借りたこの家の玄関は死角で、誰も気付かなかったのだろう。
それを追おうとした時、ベッドがある続きの部屋で物音がした。
びくっとして振り返る。
暗い明りではベッドまでは見えなかったが、キッチンとベッドルームを仕切るパーテーションが押し倒されていた。窓辺のモビールも、リボンで飾った3人の写真立ても無残に床で砕け散っている。
壊れた家の中に大きく陣取ったベッドの上で何かの気配がした。
野獣の巣の方がまだマシだろうというすえた臭い。だが直接、脳を掻き乱す不可思議な残り香。
「…………ああ、そんな」
ゆっくり近寄って、それしか言葉が出なかった。
暗い中でもわかった、かき乱され、血のにじむ布団。そして剥がされたシーツにくるまった女性の脚だけが見えた。
白い足の指から滲む血や、赤青い痣。足首に浮かぶ鬱血は拘束された跡。しどけなく開かれた脚を直す力もなく、壁を背に座りつくした形で全裸のままベッドに放置されていた彼女はまだ生きていた。
皮膚の所々に爪痕らしい朱の散った豊かな胸がごく僅かに動いていた。だが息をする事も密やかに。何故、自分の心臓が止まってくれなかったのかと嘆くように。
彼女は何かを抱きかかえていた。声を出す事もなく、愛しそうに抱き、撫でる様は気が狂っているとしか思えなかった。
彼女が抱えていたのは腕。指に金の指輪が嵌った左腕。まぎれもなく2人で愛した夫ランスの一部。
「みせしめ……」
それ以外、ニーチェは語らなかった。
内股以外にも髪や顔にこびり付いたそれに憎悪が走る。何時間にも渡って辱められたのだろう、何人もの男に。それもきっとランスの目の前で。
彼以外は知らぬ体に与えられた本能的な快楽と苦しみ。
男達は食卓で飲み食いしながら、それを眺め、参加したのだろう。見世物のように喘がされ、崩壊した心は癒える事のない爪痕をニーチェに残す。
「私にもランス様を抱かせて、お願い、ニーチェ様」
なかなか離してくれないそれを奪う事も出来ず、そう言うとやっと彼女が動いた。
綺麗なタオルを探して、かつて夫の一部だったその腕を受け取る。重く、血の固まったそれに、変わらず輝く誓いの指輪。何かを求めるように差し出された形で開かれたまま、時を止めた指。
大好きな本を2度とめくる事はない繊細な指から、それを抜き取り、ニーチェの指にはめた。
その後、彼女を引きずるように風呂場に連れて行き、ぬるいお湯で彼女を洗おうとした。
「け、けいさつ、よば、なきゃ、らんすをさがして、もらわない、と」
酷く腫れた顔、声も出せず1人で静かに脳内は確実に狂っているだろうに。
混濁した意識の中で、遅ばせながらも口走るその言葉に彼女の強さを見る。
警察に届けねばならない、だが証拠を押さえる為にとニーチェをこの姿のままに差し出すなど出来なかった。ランスもそれは望むまい。
皮膚や髪に乾き、こびり付いた汚れに、何時間もこの部屋に放置されていたのがわかった。いまさら急いでも、この事態は覆せない。
「ニーチェ様、まずは体を綺麗にしましょう」
自分の体調も万全ではないが、それ以上は無言のまま、自分も全裸になった。お湯を何度も替えて、痛みを与えぬように石鹸を滑らせ、彼女を綺麗にする。
彼女の内腿には薔薇に似た形をした白い刺青の様なものがある。
貴族の後継長女に入れられる紋章。
場所が場所なだけに普段は人目に晒されることがない。風呂などで体温が上がると、赤い薔薇に見える、美しく気高くあるべき者に刻まれる紋章。幼い頃に侍女として風呂の世話の時に見て、心が動くほど美しいと思った。
それなのに……今まで男はランスしか触った事のない柔肌に複数が触れ、無理やり赤く輝かされた事を思うとジュリアは酷く悲しくなった。
最後に清潔なお湯をたっぷりと湯船に張り、長風呂は良くないが自分も一緒に浸かった。
気が狂わないで行動できるのは実感が沸いていない事。
今、自分までも狂ったらニーチェがどうなるか、そして昨日ここを1人で出て、2人を残した後悔からだった。
狭いのもあって、2人は湯船でぴったりと体を添わせる。
白い肌と、褐色の肌。
金の髪と漆黒の髪。
指に嵌った金の指輪。
『私達が往くはいばらの道。
それに在りながら、生涯変わる事無く、
死が三つの魂を別つまで、
お互いを助け、生まれ来る命を守りて、
愛し続けることをここに誓います』
かつて三人で交わした誓い。
ジュリアの気は狂わなかった。
だが、冷静だった頭が彼女の汚れを落としながら考えていくうちに、怒りでいっぱいになった。奥歯を噛みしめ、己の手に爪痕が付くほど握りしめる。
─────自分の巫女としての力、その在らん限りを尽くし、2人にした行為の報復を。
ベッドに残った体液は恰好の素材だ。
更に床を這い回れば髪の1本や2本、必ず見つけられるだろう。
まず祭壇を作る。
符を張り巡らせ、蝋燭を用意し、魔方陣を描く。
自分の腕を切り、その血で陣に生命を与えよう。
躍動したら、呪文を唱える。
口にした事もない低い声で、時に大きく、次は囁くように。
声が音に変化し、風に乗り、時間をかけて、形となる。
そして奴らに必ずや死よりも強い制裁を─────
頭の中で総ての作業手順を終わらせるほど、思い詰めて考えていたジュリアの前で、ニーチェの指が動く。ふんわりとお湯の中で、膨らんで臍の伸びたジュリアのお腹をなでる。
「このこが、ぶじでよかった」
切れた唇から漏れた言葉。
唇に微笑が浮かぶ事はなかったが、それはジュリアの暴走を止めた。
守らなければならないのは、この命。
そしてこんな状況でもそんな台詞が吐ける事に涙が零れた。
ジュリアは三つの金の指輪を見ながら、ランスを失ったあの日を思い出しながら、血の繋がらない孫を見た。
自分が愛した金天使の2人によく似た、しかし紫水晶、魔王の証と言われる瞳に生まれついたレイル。
次いつ会えるかわからないから話す、そうは言ってみたものの口から紡ぎ出るのは差し障りのない言葉ばかりだった。
─────お前達の幸せは思うように訪れないだろう。そしてその渦は世代を超えて、苦汁を生むかもしれぬ。
元神官長、父セリバーの言葉を思い出さずにはいられなかった。
だが、祖母であるニーチェの、父マハイルに対する仕打ちをどうやって知り得た少年には、物足りない返事しか返せていない。布団の中から、熱で潤んだ紫の瞳がこちらを見る。
ジュリアの闇色の瞳よりも、冷たい温度の暗闇がそこには住む。
この闇を生む為に羅針盤はその方向を指し示したのだろうか。
「もし、貴女のお祖母様がマハイルにああして冷たく言わなかったら、貴方はここに居なかったでしょうね」
「俺?」
「マハイルは聞いてもくれなかった。いつか聞いてくれると思ったけど、5年も寝込んで、もう2度と目を開かないかもしれないなら、もっと早く伝えればよかったと思うの。ニーチェ様は確かに貴方を愛していたと」
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今回は長くなったので、区切りました。
次の更新は来週できそうです。6000字ほど仕上がってますので。
年始の一週は更新停止予定ですが、
出来上がればその時点で更新、
新年二週目辺りから週一更新に復帰予定です。
13.01.17……貴族の後継長女・ニーチェの紋章について追記




