三連の指輪
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彼を置いて逃げ切れなくて、許しを乞う。
でも残ったのは金の指輪が輝く、
彼の片腕と罪の証だけ。
「爆破のタイミングが成功しなかったからと言って、私に当たられても困りますよ」
「貴様……偽物がいる事も知っていたのだろうがっ」
その台詞にウェーブのかかったオレンジの髪を、長く伸ばした男が軽やかに笑った。
「そんな事ぐらいは事前に知らせてあるだろうと思っていたのですよ」
彼は右手に琴を抱えていた。
それは飾り気がなくシンプルであったが、限りなく磨きこまれ、張られた弦までもが研ぎ澄まされた銀に輝いている。その指は細く、顔立ちは中性的であったが、神経質そうで酷薄な雰囲気を漂わせる唇の印象が強い男だった。そして乳白色のかかった翡翠瞳は、視力がなく、どこを見ているのかわからない。
左手で一音だけポンと弾くと、今まで外で鳴き喚いていた番犬達が急におとなしくなった。だが犬と違って、まだ飼い主は噛み付かんばかりの顔をしている。
見えていないが、それを感じられる彼は笑みを消さなかった。
「まあ、フェイクがいる事まで私から聞きたいなら、前納する宝石に偽物を使うような真似をされないで下さいね」
「なっ」
「ああ!! 無論、貴方様がされたのではないとわかってますよ。きっと届けた手下のせいでしょう。きちんと教育なさった方が良いですよ」
大げさな口調で付け加えた一言に、雇い主であった男はその顔を赤くし、言葉に詰まった。
情報に精通した『吟遊詩人』と聞いて、雇ったオレンジ色の優男。
緑の瞳はミルクを混ぜたような盲目であった事で、ナメた真似をしたのは手下ではない。だが雇い主に、彼は形ばかりの敬意を払った。
そして先程、琴を弾いた時は持ってなかったはずだが、彼の左手には大きな宝石が付いた首飾りが握られていた。
「ですが私も商売ですから。偽物を渡されて、ハイそうですかとは言えないのですよ。では、これはお返しさせていただきます」
偽物とはいえ、よくできている。
透明度の高い青の石をフロントに据え、それをピンクがかった金の花が美しく囲み、身に付けるとデコルテに星が降ったように涙型の宝石が細い鎖で揺れるようになっていた。
イミテーションとはいえ相当な価値がある。一手下が気軽に用意できるようなものでもないのは明白でもあった。普通ならバレない程度に素晴らしい。
だが彼は惜しげもなく突き返す。
「それから警察の方にリークさせていただきました」
「な、なんだと」
「というより、されてますよ。もうすぐ踏み込まれるので逃げた方が身の為です。最後に助言させていただけるなら、組織の方からはもう貴方は切り捨てられてますよ」
「ほ、本当なのか。マーヤ様が……」
「私が嘘を言って何か得がありますか? しかしやはり……イヤにあっさりしていると思いました。確実に詠って差し上げればよかった。でも何故今更、紫水晶などに。火の霊王に興味があるかと思っていましたが。金色の彼の趣味でしょうか?」
彼はもう心ここに在らずといったように、独り言を口にしながら、部屋を後にしようとした。
「まっ、待て!」
「待って下さいでしょう? お代はお返ししましたし、もう貴方とは何の関係もありませんよ」
見えるはずのない彼の目に、喉元に刃物を突き付けられたような狂気をやっと男は感じた。噂に聞いた彼を上面で判断した過ちにやっと気づき、恥も外聞もなく、
「待って下さい! これの本物もちゃんと宝物庫にある……こんなモノより3倍、いや5倍の金を払う。ここから逃がしてくれ、いや、下さい!」
それに感銘する事はなく、彼なりにではあったが丁重に、
「お断りいたします。基本的に私、お金に興味はないんです。何かの足しになるくらいは貯め込みまして、お陰様で運用も順調です」
「なら、宝石でも……」
「いえ、それも辞退させて下さい。貴方の手持ちにもう興味ありません。彼女の胸を飾るにふさわしい物か、いい細工師を探しているのですが、これも期待外れでした。ああ、そう、窓の外を見るといいですよ、その暇はなさそうなので、貴方の犬には私がちゃんと首輪を付けて、教育しておきましたから」
男が窓に駆け寄ると、広い芝庭に数匹いる黒い番犬の背中が見えた。背中に馬のタテガミの様な長い毛を持つそれは、獰猛だが主人には忠実な「犬」。
犬達は何かを囲んで右往左往している。庭の真ん中にはどこから運んだのか長い杭が打たれており、そこには自分が手に握っている宝石と同じ、いや宝物庫にあるはずの本物を首に巻かれ、口を塞がれた天使が座る様に結び付けられていた。
その首の動脈を浅く時間をかけて失血するように、そして手足の腱はざっくり無残に切られ、タラタラと血を流していた。苦しんで蹴ったのか辺りの芝が剥げ、血をばら撒いていた。もう失血死してしまったのかと思われる血の量だったが、まだ体が痙攣している。
首輪と称して飾られた宝石は赤い雫を伝わらせ、その繊細な金の花も赤い露に濡れていた。
「番犬のしつけは行き届いてますよ、さあ……」
琴が一つ、また音を奏でた。
途端、犬達は生きたままの天使に飛び掛かり、その肉を咀嚼、いや臓物を引きずり出し、引っ張り合い、遊び始めた。
「や、やめんか!」
窓を開けて叫んだが、犬達は遊びを止めない。それどころか唸り声を上げ、威嚇した。杭に括りつけられた手下の声は次第に霞んで、消えていく。
その様に驚いて窓から離れた男が振り返ると、部屋の扉がオレンジ髪の男により開け放たれており、そこには庭にいるはずの番犬達が多数上がって来ている。
「もう貴方は主人ではないし、食物にすらならないようです。さあ、相応の罰を」
そう言った途端、犬達は堰を切ったように宝石を持った男に飛び掛かる。
「い、犬など私にけしかけても無駄……うっ!」
彼は魔法を使って撃退しようとした。水を含むモノを爆発させるその魔力が、犬の体を捕えようとしたが、その力が握っているイミテーションに吸い込まれる。途端、彼自身に魔法が返り、肺を爆発させ苦悶し、そこを犬達に噛み付かれ阿鼻叫喚に変わる。
彼の助け声に答える手下達はもういない。
「ちょっと細工させていただきました」
そう呟く側で一匹だけ、目の見えない男を見上げている犬がいた。目をやるわけでもなく、
「利害が一致しただけです、お気になさらず」
にっこりと彼は笑うと、沢山の遺体が転がった廊下を、見えないとは思えない軽い足取りで後にした。
レイルは布団の中からゴソゴソと頭を出すと、手に握っていた白い紙を眺める。
夜間は消えていた頭痛と下がっていた熱も、ソネットの治療と薬の効力が切れた途端、上がってしまった。根本的に治す為の薬ではないので当然の結果だった。
あれから学校を休んで寝ていたが、熱が下がらず、往診してもらった。だが、その医者に貰った薬で熱は下がる事もなく、もう丸3日、学校も休んだままだ。
「よく効く薬だったんだな。B-2だったっけ」
彼が握っていたのはソネットが調合した薬の入っていた紙。一見カラになった紙切れに微細に残った薬の図形。一般市場には出回らない薬の図形はもう何度も見て、完全に頭に焼き付いていた。
くしゃり、握りしめると軽い音がする。
その音がレイルの耳に入る事はない。だが一度は失くした右掌の触覚を伝わり、その軽さは心を千切ろうとする。
「俺は、誰に生かされてるんだろう?」
巻き添えで死んでしまったユリナル、身を挺して以降は目を覚まさない父。いつも魔道士に守られている身。
それは承知していたがソネットの姉であるバイオレットも警護中に亡くなったと聞いた時、頭を殴られたような、しばし忘れていた鈍痛がした。
自分の知らない所で、死んだ天使達が何人いるのだろう。
守ってくれた天使、自分の正義を振りかざす天使、双方とも含めて如何ほどの価値も自分に見出せず、考えただけで気分が悪くなった。
ソネットが色々と口を開いてくれたが、殆ど上の空だった。その様子に彼女は埒があかないと搬送用の水晶玉を使ってくれようとしたが、断って自分の足で帰宅した。
握りつぶした紙を開いてのばそうとしたが、一度、皺になったそれが完全に元へと戻る事はない。だが出来るだけ綺麗にしてから小さく折りたたみ、幼い頃に母から習った鳥の形に折る。その翼を見ていると少しだけ気持ちが和む。
だが沈んだ心を浮かせるには程遠かった。
「俺の瞳を抉ったら解決するかな?」
物心ついた時から、今まで何度か言葉通りに手をかけようとした事はある。これが無くなれば良いのではないかと。これがなければ会えなかった天使が居るだろうが、それによって奪われなくなる命を思うとそれも良いと思う時がある。
しかし、聴力のおかしい彼にとって、視覚を失くす事はどうしても選択出来なかった。
だからと言って、守られた命を捨てる事も出来ず、誰かに役に立てればと歩み出した医者の道。同じその道に佇む彼女から、自分がここに存在する為に失われた命を突き付けられ、呆然とする。
「バイオレット、か」
奇しくも自分の瞳と同じ紫色の花名を与えられた天使は、白黒の写真で見てもソネットによく似ていた。彼女を想うと心臓を掴むような痛みがして、眉を寄せる。
彼女が体に触れると、指先から慈悲深い青光が溢れる。
とても尊く、崇高な意思によって育まれている事にレイルは魅かれた。触角の様な髪が放つ何かが文字となり、優しく癒されたあの時間が逆に心へと深い深い傷をつける。
彼女の姉を奪い、血液によって蘇る恐怖を植え付け、その彼女の目で血飛沫をあげる銀の天使を見せたのは、故意でなくてもレイルだった。それによってこの美しい癒しの力が世に出る事なく、医者になるという彼女の夢が壊れかけている。
ヒトの夢まで崩すなど、どれだけ胸を痛めても足りなかった。
掌に載せた紙の鳥がふわふわと宙に舞う。
いつも側に居てくれている妖霊カデンツァがやっているようだ。
近頃は彼女が積極的に姿を現さないと目に映す事もレイルには難しくなり、声もよく聞こえない時がある。それでも彼女は側に居て、励まそうとしてくれていた。
「ありがとう」
出来るだけ苦痛を見せない表情でそう言うと、高々と天井まで舞い上がる紙の鳥。嬉しいのだろう、くるくると舞うのを見ていると、窓からの光と共に、さわさわと文字が降り始めた。
「この文字は……」
たまにこうやって文字や記号、図形が降って来る事がある。
それが何かはわからなかったが、気持ちいい時もあれば、見ていて気分が悪くなる事もある。誰かが使った魔法の片鱗とはまた違った形。
レイルが知る限り、ただ一人正確に文字や図形が読めるシラーにそれを話すと、そこに「何かが居るんだろう」と教えてくれた。
窓から降り注ぐ光と文字は、粉雪のように細かく綺麗だった。気分が良くなる、しかし悲しさを帯びた気持ちがする図形と文字達。
結晶の様なそれは窓際あるデスクに置いた、黒い表紙の本に降り注ぐ。
ソネットから半ば強引に借りてきた父が書いた装丁本。
その本には銀天使の神的劣性遺伝子と遺伝子的優位相性、それを助ける理論に、いろんな道具や薬に追言して書かれていた。
掻い摘んでソネットが教えてくれた内容を思い出す。
─────神的劣性遺伝子、要は銀天使と他天使種族間では銀色の特性を持った子供が生まれない。
その上、同族間でも出生率が低いけど、銀天使の中でも遺伝子的に相性のいい者がある。
それまでの経緯と、理論や開発された試薬や道具について書いてあるの。
貴方のお父様は天使遺伝子学の権威だったのよ─────そう彼女は結んだ。
「で、この写真は?」
「銀天使の妊娠率を上げるエンゲージドラッグを開発したチームよ。でもまだこの薬には欠陥があって完成には至らなかった。教授は薬の使用凍結訴えたけど聞き入れられなかった事、その頃、身内に色々あったのも重なって、この計画の一線を退いたらしいわ」
「それ、俺が生まれたって事か、な」
「たぶん。それから程無くして銀天使自体が全員消えてしまったのよ。1人の子を残して」
「ん、ああ、それがレーヴェ?」
「そう、ルナよ。今の方法で体外受精では銀天使は産まれない事はもう実証積みだったから、繁殖を諦めたこのチームは遺伝子保存を軸に、姉が引き継いでいたの」
「そう……なんだ」
「その姉も死んでからは、この端に映っているシフォルゼが情報を管理しているけど、彼は余り積極的ではないからすべて頓挫してた……って、ちょっと聞いてる? こちらがいろいろ聞きたいのにっ」
天使遺伝子学の権威。
レイルは今まで父親の仕事について余り考えた事がない。そこまで偉い人物には見えなかった。
自分の生きてきた10年で後少しすれば、半分はベッドで眠っているだけの存在になる。そうなったのは自分の「玉」を狙う者の為だと考えるといたたまれない。
忙しい職種で家に不在は多かったが、優しく笑う父親だった。母には逆らえない様子で、たまに怒鳴られてもいたが、中の良い両親。
2人の繋いだ手を解かせたのは自分で、母が「異変」に気付けば、きっと大騒ぎになる。
「いや、密かにおろすとか……」
レイルには見えてしまっていた。母のメアリに宿る命がある事を。
5年は寝ている父の子である筈はない。怖くて聞けはしない。もうお腹の中に居るのに気付いて2年以上は経つ。そんなに長く在胎するのは精霊など他の世界からの血と交わった子供に多い。
そして叔父は精霊夜飛のハーフ。
もう嫌な予感は的中どころではないだろう。
それが誰との子であろうが、弟妹である事は変わりがない。無残に堕胎されてしまえと思えるほど鬼でもなかった。だが、許せるかと言われれば、それも難しい。
今、父が目覚めれば自分以上に、苦悩させる事になる。
きらきらと文字が降る。
黒い表紙を覆い尽くすほど。気付けば砂糖のように降り積もっている。
そのままにしていても害はなく消えるハズだが、借り物であるし、布団に持ち込んで読んでしまおうかとも思い、体を起こす。
素足に板張りの床が氷のように冷たいが、スリッパを履けば無様にコケそうな気がしてそのまま立ち上がる。
そしてレイルはフラフラしながらも、本から文字を振り払おうと触れた。
それに積もった文字が毛糸玉を転がしたように、真っ直ぐ、一線に並ぶ。無秩序だと思われたそれに配列がある事に気付いたレイルは、その頭の4文字を読み拾った。
「マ、ハイル……ご、と、いわな? 言えない、かな? またマハイル、だ」
はじめて父と手を取り、幼い頃に書いた文字と図形。
光り輝く、悲しい、どれ一つとして取り落としてはならない、今を逃してはいけないと幼児だったレイルの心を叩き、瞬時にそう判断した結晶の形。
まさにその文字が今また降り注ぎ、レイルの気持ちを同じように揺さぶった。
その頭の4文字はシラーに読んでもらって覚えていた。文字の羅列の折にその4文字の配列があるのが気になる。
シラーに習って少しは読めるようになったとはいえ、その文字や図形の意味は様々で、齧ったくらいでスラスラ解読できる物ではなかった。
それでも必死に拾ってみると、何かが見えた気がした。
「父さんに話しかけているの?」
レイルは頭痛を堪えながら机に座り、近くのペンを握り、紙を広げた。
布団の暖かさから抜け出た体に、室温が冷たい。
だがすぐにでも溶けそうなこの文字を書き写す事に必死になった。書き写しておけばシラーに読んでもらえるはずだ。
「う、腕が……」
紙作りの鳥がふわりと机に着地する。きっと彼女が顔色をうかがっているのだろうと思い、
「大丈夫、カデンツァ」
そう言って、もう消えつつある文字を書き写す作業に集中する。
レイルは筆を走らせ出すと、すぐに変化が起きた。腕がすさまじい勢いで持って行かれる。だが嫌な気持ちはしなかった。
輝く文字はレイルの視界を少しずつ狭めていく。白く、白く降りしきる雪のように。
その煌めき一つ一つが、雪の結晶のように美しく舞う。滑りこんできた光と悲しい気持ちが蘇る。
耳を塞いでいるのに、悲鳴がした。
「やめて、お願い。何でもするから……」
真っ白な雪、真っ白な結晶、それは汚れのない黄金色の祈り。
声は届く事なく、気高き想いは地に堕ちる。
這いずり、泥と血で穢され、涙は乾き、もう吐く息さえも腐臭が漂う。
「殺して、この子と一緒に私を……どうして、どうして」
冷たい、誰かの記憶の扉に触れた気がしたが、調子が悪いせいか、酷い耳鳴りがしてレイルの意識までもが、結晶の煌めきに白く奪われた。
レイルは部屋の扉が開く気配に目を覚まし、身を凍らせた。
「誰だよっ!」
明るい。
太陽はそんなに動いておらず、変わらず光が麗らかに差し込む。だが文字の結晶はもう一欠もない。
レイルは書いているうちに、机に突っ伏したまま気を失っていたのだった。
母親は父の入院する病院へ、同居人のファーラも学校から帰る時間ではなかった。叔父がやって来る時間でもない。家には鍵がかけられ、回りは魔道士が固めているはず。
こんな時間に開いた扉、命を狙うなにがしかの存在を恐れ、叫んだが、そこには見知った、だが来るとは思っていなかったヒトが立っていた。
「ジュリアばあちゃん! どうしてここへ?」
そこに立っていたのは褐色の肌に長い黒髪、そして黒瞳をした初老の小柄な女性だった。
優しい面立ちで、レイルを見つめる。
緩くウエーブがかかった黒髪の艶が若々しく彼女を輝かせ、纏った薄手のローブは体の線を隠していたが、充分女性としての美しさを保っているのがわかる。
背にした黒蜻蛉のような四枚羽が、透けて光を透過して床に淡い影を作っている。
「ビックリさせたわねぇ。ごめんなさいね。でも何故、机で寝ているの? さあ」
気が抜けたレイルの体にそっと触れ、ベッドへと移動し、横になるよう促してくれた。
二の腕まで剥き出しになっている両腕には、たくさんの石玉を繋げた腕輪が飾られており、淡く紅色に輝いているのがレイルには見える。
頭から被る漆黒のベールにその両肩が緩く包まれ、鹿皮のサンダルの先さえ見えないほど長いローブが彼女の歩みに合わせてゆっくり付いてくる。威厳のある存在感は隠せていなかったが、久しぶりの孫との再会に彼女の表情は緩く綻んでいる。
「布団をかけてあげるから、ほら」
そう言われながら机の上をみると、紙にはたった数行の文字と記号しか描いていなかった。文字は溶けて消えて、淡く残光を残しているだけだった。記憶力が良いハズのレイルなのにどうも漠然として、もう一度記憶を思い起こしても描けるかは微妙だった。
黒い本を掴んで、胸に抱いたままベッドに倒れ込んだ。
「いつ天使界に?」
「巫女としてやっと来れる用事ができてね。やっと時間が空いたからマハイルの病院に行ったら、貴方が学校休んでいると言うから。鍵を借りて来て見たのよ。5年ぶり、かしらねぇ」
愛の溢れた黒い眼差しの彼女は天使ではなく、精霊夜飛一族の巫女リフュー。彼女とマハイルの父の間に生まれたのが、叔父のアレードである。ジュリアは天使としてここで過ごす時の彼女の名。
今は殆どを精霊界に身を置き、最後に会ったのは倒れたマハイルを見舞いに来た時だった。
「あの時はありがとう。ファーラもおかげで元気だよ」
「火の霊を連れたお友達ね。よかったわ」
炎を放ったファーラが、ほぼお咎め無しに、グリーン家に迎えられたのはレイルの願いを聞き、彼女が尽力してくれたのが大きい。
叔父と同じ色をした、けれど柔らかい女性の手が額に触れる。
今は母に対して叔父の行動に抵抗はある。だからと言って義理の祖母はとても暖かく、叔父のソレと結び付けて拒否する事はレイルにはなかった。
たくさんの時間を共にしてないが、母メアリ方の祖母も早くに亡くなり会った事がないレイルにとって、祖母は彼女ただ一人である。
そして精霊であるが故に天使の誰もが持つ紫水晶を恐れる気持ちが皆無であり、その大きな黒い瞳は穏やかでレイルをとても安心させてくれるヒトであったからだ。
ファーラの事にも素早く対応してくれたのも、一因だった。いつも側に居てくれればいいのにと思うが、彼女は精霊界の巫女として大きな役割を持っているらしくそれは叶わない。
「熱がすごいわねぇ、余り食べていないと聞いたわ」
物が喉を通らない。
水も薬を飲み下す時、気持ち程度に入れるだけ。それ以上は吐きそうだが、母もファーラも心配そうにするので、食べたフリをしてはコッソリ捨てている。これではいけないと思うのだが、何が悪いかわからない。
「メアリも何だかあったようだし。心配だわねぇ」
「……大丈夫だよ」
叔父の事を、そして母の事を相談してみようと思ったが、火の中に油を入れるような気がして言葉にならなかった。
レイルの逡巡に気付かず、彼女は目をやった。
「本が好きなのねぇ。でも熱がある時はダメよ」
「いや、これは……」
布団をかけてくれながら、レイルの手にしていた本を彼女は取り上げる。見るともなしに目に入ったそれを、ジュリアはパラパラと捲った。
「あら、マハイルの字……仕事の本は余り家に置かない子だったけど」
「別のヒトから借りたんだ。ねえ、何で父さん、天使遺伝子学なんて難しい事やっていたんだろう」
「そうねぇ。貴方のお祖父様と、本当のお祖母様の為かしら」
夢か幻か、幼いマハイルに向かってゴミ呼ばわりした険の強そうな天使。病的なそれに愛情の欠片もないのに、それはないと思った。
「ニーチェ・グリーン・ソウエル?」
写真も無く、墓参りもした事がないその人の名を口にした。途端にジュリアの顔色が変わる。
「な、何故ソウエルが付いていると知っているの? メアリが? いや、マハイルが言うはずもないし。アレードから聞いたのかしらねぇ」
「え?」
何か不味い事を口にしたのだろうか?
そう思い取り繕うように、
「うん、噂は叔父さんに聞いていたし、ちょっとお墓見たんだ」
そう言えば納得してくれるかと思ったが、尚更ジュリアは言葉を濁した。
「墓、って、精霊界にあるのよ。貴方が行けるはずがないのに」
行った事もない墓、だが流石にそれが精霊界に置かれているとは思わなかった。
天使界と精霊界は友好関係が築かれ、縁の深さと長さはある。だが、普通の天使が理由もなしに「橋」を渡り行き来するのは現実ではない。リフューも巫女という立場の為に行き来するが、回数は制限されており、気安く渡っているわけではなかった。
レイルは詰まる。どうも言葉の選択肢を間違ったらしい。そう気付き、信じてくれるかわからなかったが、素直に話した方が納得してくれると思い、言葉を紡いだ。
「……夢みたいに、見たんだよ。小さな、一抱えくらいの小さなお墓で、緑の綺麗な所にあったよ」
レイルはあの時、見たモノを話す。
「何だか折れそうで不機嫌そうな天使だった。俺と父さんと同じ濃い金髪に金の目で。不健康そうな色の肌をしてたよ。肝臓の病かな? お墓に何も入ってないとか、早くに亡くなったのとかは叔父さんが言っていたよ」
写真も焼き払い、墓に骨も何も残さず、徹底的に自分を消して亡くなった彼女。レイルの台詞は在りし日のマハイルの実母ニーチェ、その亡くなる少し前をジュリアに思い出させた。
「気が強そう、って言うか強かったよ。本が置いてある螺旋の部屋に籠っていた父さんに、ゴミとか平気で言ってたし。父さん、写真破いてた。そんなヒトの為に難しい勉強するかな?」
そこまで聞いて、ジュリアはレイルが嘘のみでそれを語っていないと判断した。
螺旋の本がある部屋は、精霊界にある彼女の屋敷の一角で、マハイルに酷い言葉を投げつけた日の事は忘れてはいなかった。
「そうねぇ、マハイルは名前も口にするのもイヤみたいだったけど。でもお互い、愛していたし、愛されたかったのだと思うのよ」
「あんな酷い事、愛してるなら言わないと思うよ」
「愛の形はそれぞれなのよ」
ジュリアはローブの下に隠していた首飾りを外す。鎖には金色をした三つの指輪、そして指先でつまめるほどの小さな水晶玉が一粒。鎖から外した指輪を薬指に、水晶を掌に置くと、淡い紅色を放つ。
「これ、は」
ホログラフ、彼女の掌と同じくらいの大きさで三人の子供がレイルには見えた。
手前の少女は褐色の肌に黒き瞳、おさげに編んだ長い髪を巻きあげ、メイドの様な黒いかっちりとした服装にエプロンをしていた。
左右の二人はレイルと同じ濃い黄金髪、青みがかった金の瞳をしている。
右に居るのは男の子、逆は女の子。白っぽい上品な服を着こなしており、平素から良い暮らしをしているのだと思わせる身なりだった。
「貴方のお祖母様であるニーチェ様と、お祖父様のランス様、そして私よ」
「ランス?」
「ランス・グリーン・ソウトエル。お二人とも名の最後はもう剥奪されているけど。次いつ会えるかわからないから話すけど、余り良い話ではないわ」
叔父の口から祖母ニーチェの話を聞いた事はあるが、祖父の話は聞いた事がない。とても父に、そして自分にも似ていた。右手の甲に変わった紋様の入れ墨がある。いろんな図形を憶えているレイルには、それが貴族の後継長男、ソウトエルを名乗る者に印される特殊な物だと知っていた。
そしてそこに映った幼さが残る祖母はか弱そうではあったが、あの神経質そうな気配がなく、信じられないほど幸せな優しい気配が感じられた。
2人の白い左薬指には黄金の指輪が輝いている。
それが今、ジュリアの指に輝くそれと同じ事に気付く。
「2人とも貴族で、産まれた時には婚約していたそうよ、金天使、それはそれは2人とも美しい天使だったわ。彼女と彼の間には子供が出来なくて、アレードをお腹に宿す事になったの。ランス様はニーチェ様を愛していたし、私の事も愛しんで下さったのよ。私は2人が大好きだったから、お役に立てて嬉しかったわねぇ」
そう言って自分の薬指にはめた三連の指輪を触りながら語り出した精霊の祖母は、少し遠い所を見ている気がした。
天使と精霊の混血の子は在胎が長い。宿った子供が生まれて来るのを金天使の2人が心待ちにしていた様をジュリアは思い出す。張ったお腹を撫でつつ、顔を見合わせて笑っていた。
「私達と違って強い子に生まれます様にって、貴族は血を守る為に無理を強いているから。その流れを断ち切る決心は相当反発があったけど、3人で幸せにその子を育てるつもりだったわ」
「でも父さんが先に生まれたんだよね? 叔父さんより」
「そう、ね。アレードを宿してから、2年くらいたった頃かしら。私は張りが酷くて、病院に入院して。帰ったらランス様が死んでいたの」
「え? どういうこと」
「その後、ニーチェ様が妊娠されているのがわかって、先に生まれたからアレードよりマハイルの方がお兄さんなの」
言葉を濁すと言うより、話が飛んでいる気がする。
ニーチェから言葉少なに伝えられたあの日、家で起こった事についてどこまで触れるか、ジュリアは迷っていた。
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