戸惑う視線の着地点
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壊れた時間、失った大切な天使。穢れた涙。
取り戻す事は無理でも、きっとその心さえそこにあれば、
必ず、必ず光は戻ると信じている。
頭痛のせいだろうか、触れ合った手が氷のように冷たく感じたからだろうか。
レイルの心臓が跳ねた。
彼女が抱き上げようとしてくれたが、その肩も体も服の厚みを含めても細く、華奢だった。
柔らかな香りが髪からほのかに漂っていて、校内を歩き回ってかいた汗のにおいと混じっていると言うのに、いやそれだからなのだろうか、先程より良い匂いがするようにレイルは感じた。
きっちり着ている丸襟のブラウスの隙間から、体を寄せると言う至近距離でなければ、絶対に見えない僅かな隙間に覗いた下着を飾るレースの白さにドキリとする。
警告を発するために抱き付かれた時も感じた女性の柔らかさが、何気に腕に当たったので、レイルは気付かれる前にずらす。
頭痛で何も考えたくないはずなのに。おかしな方に思考が行ってしまう。
レモン色をした髪の長い部分が、細い鎖骨の側を通り、膨らんだ胸の上を流れている。艶やかなその動きを目で辿る事で、体のラインをも追っている事に気付き、失礼過ぎる事をしていると思いレイルは目を逸らした。
体温が上がっているからか、血液の流れが速くなり、眩暈が増す。
「俺、おかしい……」
「それだけ熱があるのだもの、おかしくないわけないじゃない、いつからこんなに……」
レイルが考えて言った事からすると、的外れな返事をしながら彼の体を移動させようとする。細い街灯が、ポツリポツリとついていく。辺りは朱を飲み込んで紺に近くなり、一層暗くなり始めた。
肩を貸して手を引っ張ったり、軽く腰を支える程度ではとても立ち上がれない様子に、彼女は彼の後ろに回り、背後を取る。
レイルの両手を両脇から掴んで、半ばストレッチャーからベッドに移す時の要領で、低い姿勢から彼を持ち上げて、膝に乗せるようにしてベンチに戻す事に成功する。短いスカートが捲れて上がってしまったが、さっと降ろして隠し、後ろから回していた腕を彼女は抜こうとした。
その動きに、少し横を向いたレイルの耳たぶに、意図せずソネットの唇が浅くであったが掠る。吐息がかかり、産毛が揺れた。それだけの事にぞくりと何かが反応しそうになる。
「ごめ、ん」
彼女はレイルの不審さに気付いておらず、側に立つと腰に付けていたポーチを漁り始める。
「ゴメンと言うなら、自己管理はちゃんと……と、言っても、半分くらいは無理させた私にあるのかしら」
「いえ、お客様にすみません……」
「急にここでそれ?」
そのままズルズルとレイルは古びたベンチに横になると、座面の冷たさに頬を当てる。錆びた鉄の匂いが現実に彼を引き戻そうとしてくれた。できるだけ大きく息を吸って、頭をはっきりさせようとする。
「苦しいの?」
「頭痛がするだけ」
レイルの足もベンチに持ち上げて、横向きに寝そべらせた。仰向けになるように言われたが、目を伏せ気味にして口を読んでいないフリをした。へんな所が反応しそうなのを見られたくなどない。言い訳のように、この方が楽など、小さく呟く。それが聞こえたのか、ソネットは無理にとは言わなかった。
彼女のベルトに付けられたポーチにはたくさんの薬が入っていた。
ごちゃごちゃしていても、何がどれかわかっているようだ。他にも注射器やら包帯やらもちらっと見えた。見た目の大きさよりモノが出て来るのと、薄く輝くのを見て魔法具の類で、たくさんのモノを収納できるのだろうと無駄な観察をする。
「長衣だと診察しにくいわ」
そう言いながら膝をつき、服の上から、レイルの胸に手を当てた。
ただそれだけで、彼の心拍は確実に上がる。心臓をそのまま掴まれたかと思うような収縮。
街灯の灯りで彼女の薄い空色の瞳が、海のように広がるのが見えた。感じた事がない、鮮烈な透明感。ダイヤモンドさえ凌ぐその強い輝きが、レイルの紫色を捕えて放さない。
「何でこうなるんだ……」
「無理しすぎたのよ」
そう言う意味じゃない、そう言う事も出来ずにいる彼の目前で、ソネットの髪で長く伸ばした部分が不自然に宙に舞う。淡い青の光が彼女の手から放たれる。その手で額に触れると、痛みが和らぐのを感じた。触角の様に動き出した髪の房がさわさわと首のあたりを撫でる。ぱっっと強い青の光がその先で散った。
医学の道に駆けだしたばかりのレイルから見ると、それは立派すぎる治癒魔法で、確実に痛みが四散するのが分かる。
「何も考えたくないけど、姉って、何の話?」
「……黙りなさい、一思いに殺されたい?」
物騒な言葉が彼女から溢れるが、今は本心から出ているのではないとわかる、優しい癒しの青い光が言葉にも纏われていた。
かつてレイルが行った意味不明な治癒もどきと違い、彼女の癒しは系統だった魔法の診察と治療だった。
初めて彼女に会った夜。赤く煌々と揺らめく熱い炎の中、空に浮かんだ少女を思い出す。
爽やかなレモンを思い出させる柔らかい色はオレンジ色に、瞳もその色に染まっていた。何度か話しかけて来ていたのか、「貴方! 口、利けるんじゃない!」と怒っていた。
ルナを連れ帰るのだと炎の中に飛び込もうとした彼女を慌てて止めた。尋常ではない魔法の陣が敷かれているのは見えなくとも、普通の天使があれに突っ込むのは非常識だと思う。
気丈な娘だ、そう思ったが、ファーラにやった痛みを止める技術も、今自分にしてくれている施術も相当レベルの高い物だった。
言葉はキツいし、色々と裏表がある様だったが、その指先から伝わるガラスのような繊細さと透明感が彼女本来の姿ではないかとレイルは直感で感じた。
「来年には卒業? 魔法療法医として開業するの?」
黙れと言われて黙るなら、さっき引き留めた意味がない。レイルは差し障りの無さそうな質問に切り替える。
ソネットは少し睨んでいたが、指先に集中して不機嫌そうな声ながら答える。
「もう免許はあるけど、私は今のままだと医者にはなれないわ。後数年でダメなら学校は出て、医薬品の研究員になると思う。貴方、魔法が使えないって言っていたけど、実習どうやってるの?」
「魔法や魔法具を使わない治療ができるように頑張ってるよ」
彼に出来るのは触診や聴診器を使った診察、手術や薬物を使った地道な治療だけ。基本ではあるが、それだけで天使界の医者になるのは難しいとも感じ出していた。
例えば手術用のメスも、魔法具は使えないから、全て自分の腕だけでやってのけなければならない。
「もういいよ、随分楽になった」
「嘘をついてもわかるの、どこがいいのよ。全く」
「あんまり触ると余計に悪い……」
「あ、貴方、失礼ね、下手って言いたいの? これでも未来を嘱望されているのよ」
彼女の医者として云々ではなく、男としての都合が悪いのだが。体が言う事を聞かないのに、思考回路も壊れかけているレイルは自分を嘲笑して笑う。
「何よ、気味悪いわ。本当に放り出していくわよ」
そう言ったもののココで止めるのは矜持が傷つけられるのか、手は止まらず淡い光はレイルを包む。
「ねえ、ファーラの事だって、最初は助けようとしてくれてたし、今だって俺の事、診てくれてる。良い医者だよね? それなのに何故、医者になれないなんて言うんだよ? それにルナの事、診れなかっ……」
「飲みなさい」
台詞を遮って、ポーチから取り出した小さな紙包を手渡してきた。
「大丈夫、毒じゃないから」
きつく言葉を口にした事を取り消すように、次は優しく言ってくれたが、飲むには勇気が要った。彼女が今は医者として癒してくれていても、敵意がある事は充分過ぎるほど感じている。
闇の黒と淡い青光を映して、彼女本来の水色は見えなかったが、瞳には石を投げた湖面の様な波紋が広がっているのがレイルには感じられた。彼女はその薬を取り上げて握りしめると、爪をかちりと鳴らして、
「薬でだけは貴方を殺したりしない。私は薬屋の娘だから。殺すならとっくにやってるわよ。それに貴方に恨みはあっても、貴方のせいじゃないってわかっているから」
薬、そう聞いてレイルは回らない頭を巡らせる。
レイザ、その名前に薬屋と言うのをかけあわせ、ハッと気づく。
「ソネット・レイザ……そうか、レイザ製薬の関係者なんだ?」
「レイザ製薬を開いたのは祖々父。今は叔母が社長していて、父は研究所の所長よ。一族は医者か研究員やってる家なの」
天使界の医薬品業界で一位のシェアを占めるレイザ製薬。
財団「リィ」に庇護されたその名に納得したわけではなかったが、薬を殺しの道具とするのだけは彼女のタブーだとは理解する。
だが自分がつい向けてしまう悪意に対するレイルの気持ちを察してか、もう薬は差し出さなかった。
着ていたブレザーを脱いでかけようとしたのをレイルは断ろうとしたが、今も薬を受け付けなかったばかりなので「今度は何が気に入らないの」と言われて、彼女の好意を受け取る。
上着を脱ぐと更に体の線が綺麗に見えて、胸の膨らみやブラウスから僅かに透ける下着の線などに目が行く。逸らそうとした視界に、短いスカート下から覗く健康的な太ももに、僅かにズレた白いニーハイのゴム痕が残っているのなど見つけてしまい、目が離せなくなる。
これはいけないと、もう何処も見ないように目を閉じる。
出会った時から強い敵意を放つ彼女。
傷ついたファーラに優しく接しているのを見て、あの半分でも……と思っていたが、いざそれを手向けられた時に、男としてドキドキしてしまうなど考えていなかった。きっと熱に浮かされているか、昼間に普段は聞かない音の大量流入に感覚がずれているのだろう。
レイルはそう分析した。
今までいろんな天使に会ってきたが、最初からあんな強い敵意を投げてくるのは、本気で命を狙ってくる者だけだ。命、と言うか自分の中に眠る「玉」が目当てなのだろうが。
そう言えば昼間、巻きこまれそうになったタイムターゲットに見せかけた爆発、本当に側で破裂していたら、命はなかっただろう。「玉」は死んだ体からは取り出せないハズ。それなら今回は「玉」ではなく、本当に命を……
そこまで考えた時、顔の近くで気配がして目を開ける。
「わああああっ!」
「ほ、本当に失礼な子ねっ!」
ソネットはレイルの叫びで身を引いたが、かなり側まで寄って顔を眺められていた。彼女の額にかかった髪が汗ばんで肌に張り付いているのも、術の行使で疲れたのか頬が赤らみ、潤んでいる水色の瞳も、しっかり捉えられるぐらいに。
「び、びっくりしただけ」
「こっちが驚いたわよ。急に静かになった上、呼吸数が不自然に落ちたから」
ソネットの体から発していた青い光はなく、辺りは街灯の光と空には細かい星が瞬き始めていた。まだ熱は下がっていなかったが、頭痛がだいぶ治まり、何とか体を起こせる。
レイルは目を瞑っただけのつもりだったが、一時間ほど寝ていたようだ。
その間、見守ってくれていたのをありがたく思う。
「このままってわけにはいかないから搬送用の水晶玉に入れて、魔道士に渡しましょうか?」
「その前に薬を、くれる?」
「え?」
「飲むから……女史の腕に間違いはないよ。それに薬は見れば何が入っているか、たぶんわかるし」
「見ればって……私が調合した物よ」
飲んでくれるなら越したことはないと、渡された薬を掛けてくれていたブレザーと交換で受け取る。レイルは白い紙を開いて粉を指で触り、その成分を文字や図形として見た。
レイルに見えてきたのは4種類の図形。
「鎮痛・解熱効果……三分の二は鎮痛剤の成分ロキソ、残りは三種類、混ぜてる?」
「え? ええ、基本はロキソ系よ。後は確かに三種……何故わかるの? 薬なんて混ぜてしまえば見た目だけでは判断……貴方、選り分け……られるの?」
「これはコビの実とエキシキリン、後一つ余り見ないけどトビノA?」
「し、新薬のトビノBー2よ。即効性が高いけど精製が難しくて、希少だから市場には出回らないのよ」
「Bー2なんてもうあるんだ。Aより確かに効きやすそうかな? 効力時間が短いのをコビとエキシキリンで補う感じかな、この配合は」
医師を目指し出してから、薬を図形として見れば覚えやすい事があって身に着けた方法。こんな所で役に立つとは思わなかった。
一方ソネットはその作業に目を見張った。
粉々に砕き混ぜた筈の4種類の薬品が、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、レイルの指先で1種類ずつ集まっていく。1番少ないトビノBー2に至っては、耳かき一杯に満たない微量、それだけが集まった時には混乱の中で興奮していた。
顕微鏡も使わず、素手で微細な薬をより分けるなど見た事がない。
「あ!」
「ん?」
レイルが見事に4つに分けたそれらを、惜しむ事無く紙の真ん中に寄せて集めたので、ソネットは小さく驚いた。自分が何を見せられていたか、完全には理解できない。
でも彼にとっては取り立てて言う程の事でもないのは態度でわかる。
ソネットはぼんやりしながらビニールでパウチされた水をレイルに手渡すと、
「ありがとう」
そう言ってそれを受け取って飲み下す彼をじっっと見る。
「魔法、使えるんじゃない」
「え? これは魔法じゃないよ?」
レイルは残った水を全部飲み干した。不可解そうにしている彼女に、
「例えば混ざったお菓子をチョコ、キャンディー、クッキーって分けただけで魔法とは言わないと思うけど。小さいからそう見えるかな?」
「簡単に言ってるけど、貴方とんでもない事をやっていない?」
「役に立たないけどね」
そう言ったが、ソネットにはそう思えなかった。
「誰かに見せた事ある?」
「叔父さんの知り合いの天使が、俺が見てるのが読めるし」
「見てる?」
「図形が見えるんだよ、俺。魔法とか見るとそれが図形で見えるんだ。薬も同じで。レーヴェもわかってるみたいだった。全部が図形で構成されてるって思えみたいな事、言っていたから」
そこまで言って、ソネットがぽかんとしていたので、レイルは苦笑いしながら、
「こいつ頭オカシイって思ってる?」
そう聞いたが、ソネットは別の事を考えていた。
それはあの夜を迎える前の夕方、紫水晶の少年が描いたと言う図形や術を見て──────不思議な魔法線だった、魔の毒があったみたいだけども、取り除かれて、書き換えられていた─────など、魔道士長とルナがしていた会話を思い出していたのだった。
目の前でその図形を使った薬の仕分けを見せられたソネットは、うまく使えば患部だけに薬を投入したり、病巣自体を取り除くことが出来るだろうと感じた。だが余りにも特殊能力すぎて、どうやって指導したらいいか困るだろうなと思った。
その前にこんな能力を認める事がまず難しい。
役に立たない、そう自分で言っている事がそれを示していた。
ソネットは軽く目を瞑り、フウっと息を吐き出した。
「貴方が真面目に医学に向き合ってるのはわかったわ」
「自分なりには、真面目だよ」
ファーラのあの火傷を治してやりたいと思ったのが、医者になりたいと思ったきっかけだった。火傷の痕はあの夜にだいぶ良くなっている。だがファーラがその腕を生かして仕事をするなら、今は怪我をした時に対応できる医者になりたいと考えていた。
「誰かの役に立ちたいって思うんだ」
そして道を歩むにつれて、いつも回りに迷惑をかけている分を、ファーラだけでなく何かで誰かに返せるならばと思う気持ちが生まれていた。
その思いで道を歩む。
短い、とても短いその言葉に込められた気持ち。
それがソネットの気持ちを動かす。
彼女は意を決したように、次はゆっくりと、はっきりと彼に伝わるように口を動かした。
「あの夜、魔だけじゃなくて結構な数の天使が死んだのよ、ルナの歌で。私は街の命運なんてどうでもよくて詠わせたから、後悔はしてもそこは振り返る気はないの」
彼女の行動でこの街は救われた、街の者は知る事のない事実だ。
だが弱っていた天使も含め、心筋梗塞や呼吸困難など急に起こして死んだ天使が急増した時間と魔が倒れた時間が重なっていた事から、色々な憶測は残っている。精査すれば基礎疾患のあった天使が、死の歌によって死亡したのがわかるだろう。これらは多くを街を守ると言う大義によって封印され、外部に漏れる事は一切なかった。
少ない犠牲で沢山の命を救った、それはとても聞こえはいい。そして彼女自身も迷わないと言ったが、本当にそうだとはレイルには思えなかった。彼女の瞳には淡いながらも後悔の色が見えた。
だが一番の後悔がそこにないのも明白だった。彼女はもう爪を鳴らさなかった。
「私……あの時までは大丈夫だって、乗り越えたんだって思っていたわ」
「乗り越えた?」
「だって……ルナの肩から血が流れてるのを見たって、大丈夫だったもの。解剖の授業だってちゃんと受けてた。でも、あの夜、ルナが……大量に血を吐き出したのを見たら、もう何もわからなくなって……私、……血が怖いの」
「ヘマトフォビア……血液恐怖症?」
ソネットは自分で認めるように頷いた。
彼女にとっては受け入れがたい自分の弱点、それをさらけ出したくなかった。口もききたくない、恨みだけしか抱いてなかった少年の前などは特に。
だがレイルが自分と同じ医学の道を歩んでいる事を認め、やっと口にしても良いと思えた。
「それで、ルナに触れられず、逃げたの。でも今はとても後悔している。だから貴方がルナと何をしたのか聞きたくて来たの」
「何をって、本当によくわからないんだ」
「そんな事ないハズ。ねえ、私はあの夜を乗り越えたいの。ずっと医者になりたいと思ってきた。姉を救えなかったあの日から」
「姉?」
「姉はね、優秀な医者であり研究者で、私と同じ魔道士だった」
ソネットはベンチの近くに置いていた本を手渡す。背表紙には何も書かれていない、小さめの装丁本。
擦り切れた古い本。それは大切に、何度も何回も読み返された痕。
普通の印刷ではなく、銅版画で印刷されたもので、字は手書きそのままだった。誰かのノートを思わせるそれの筆跡にレイルは目を見開く。
「私の姉は、ある教授の研究チームの一員だったの。それはその教授の研究ノートをそのまま写したもので、極秘内容だから版数も少ないし、普通には出回らない本よ」
文字数も多く、ページ数的には辞書くらいはある。ざっと見ると、すぐに内容を飲み込めないようにするためか、古語で書かれていた。
最後の方で研究者らしき者達が並んで写った白黒写真が目に入る。
中心に男性が座り、二人ほど挟んだ右横にソネットと同じ髪型をした女性が写っている。
「姉よ、それ」
ほぼ全員が白衣をまとっているのだが、間の二人は黒の長衣を着用していた。二人はルナにとてもよく似ており、色のない写真でも銀天使とわかる。
そしてレイルが見つめていたのは真ん中に座った男性だった。
─────最初に作られし神の愛し子が欠けた時、この世界の全てが壊れる。
それを防ぐためにこの学問が始まったとされている。
どうかこの成果が誰かの光になる事を祈って─────
「これ、父さんだよ、真ん中に居るこの天使」
空白の一枚目の後に、祈りとして書かれたその字で始まるその本は、ずっとねむり続けている父の筆跡で綴られていた。
「マハイル・グリーン教授。私は直であった事がないのだけど。姉は魔道士だからかと思ってたけど、恩師の息子だから命を賭したのかもしれないわね」
「命を……」
「紫水晶の少年を守って、姉は死んだの」
「行けないな、まだ熱が下がらないじゃないか」
「いくよ、大丈夫……」
「止めとけ、バスで吐きそうな顔してるぞ。俺、掃除なんか嫌だからな」
そう言われて、レイルは布団に潜った。ファーラは水の入ったボトルを側に置く。
「ごめん。じゃあ、その机に乗ってる資料渡して、校長に話を通して……」
「わかったよ。俺、飯食って行くけど、今日は寝てろよ」
「うん。母さんには昼間は1人で大丈夫だから。寝たいから来なくていいって言っておいて」
「ああ、わかった」
ファーラは荷物を持ってサッと下に降りていく。
昨夜、歩いて帰って来たレイルの顔色は尋常ではなく、何かに取り憑かれているのではないかと思うほど、覇気がなかった。
それでも研究生に対して急遽行う事になった見学用の資料を夜中までかけて作っていた。手伝いをしようかと言うのに、頑なに断り、一人でゲストルームに籠って、今朝そのまま床で寝てるのを母親が発見して今に至る。
「メアリ母さん。レイルには熱下がってないから休むように言っておいた。水も置いたし」
「ありがとう、ベッドまで運んでくれて」
階段を下りてキッチンに行くと、青天使の女性がのんびりとコーヒーを飲んでいた。ファーラの手から体温計を受け取ると、その高さにため息をついた。
「行くって言ったでしょう? 私が言っても無理しそうだったから、任せてごめんなさいね」
「あんなフラフラで行っても仕方ないと思うけどな」
「自分の体の事もちゃんとして欲しいわね。医者になりたいなら、まず自分からよね」
テーブルの上には人数分には多いサラダにパン。目玉焼きもやはり数が多い。
降りてこない具合の悪い息子には粥、飲むわけもないのに必ず病院で寝ている夫の席にもコーヒーを置いてある。そしてメアリは自分の分とそして居候のファーラの分を用意する。
それ以外に必ずもう一人分。
たまに来る警察官の叔父の為かとファーラは思ったが、彼が朝にやって来る事はまずない。来ても彼がそこに座る事はない。
以前、レイルに聞いてみたが、誰の分かわからないと言っていた。
「レイルから、昼間は1人で大丈夫だから。寝たいから来なくていいって」
「そう、じゃあお粥はここに置いて、病院に行こうかしら。さあ、食べてね」
光が溢れるキッチン。
彼女の城なのだろう、いつもきれいに掃除され、沢山の料理が作られる。だけどそれが全部消化される事はない。どう考えても人数分より多いからだ。
頃合いを見て叔父が食べに来たり、手を入れて他の料理に作り変えたりして無駄は出していなかったが、何故こうも計画的に作らないかとファーラは思う。彼女の料理の腕ならそれは簡単な計算であろうに。
今日も作り過ぎている目玉焼きをつぶしてマヨネーズとあえて、塩コショウで味を調える。ハムやレタス、トマトなどをサラダから抜いて、お昼用のサンドイッチを手早く作って行くのをファーラは眺めながら朝食を口にする。
「オレンジジュースは?」
「飲む、のむ」
ファーラが来る前から、ここには6脚の椅子がある。
3つはわかる、両親とレイルの分だ。
残った3つのうちの2つがゲスト用でその1つをもらったのだが、レイルも良くわからない謎の椅子には必ず食事が供されている。
「ねえ、メアリ母さん。前から聞きたかったけどそこは誰の席?」
息子に話していない事を聞いても教えてくれるわけもないと思っていたのに、彼女はにっこり笑うと、
「そこはね、レイルのお兄ちゃんの席なの」
「レイルに兄さん?」
「そうよ。サイファって言うの。あの子が天使界を去ったのはレイルが生まれてそんなに経たない頃でね。あの子、9つだったから、レイルがその年になったら話そうって、マハイルと決めていたのに、あのヒトったら全然起きなくて」
オレンジジュースをファーラの目の前に置くと、メアリは座って夫の為に淹れたコーヒーのカップを眺めた。
5年は長い、学校の仕事で家を空ける事は多かったが、帰ってこない事はなかった。優しい夫が戻って来なくなり、もうレイルは10になってしまって、約束は果たされないままになっている。
「そろそろ話をしないといけないのだけど」
「メアリ母さんは、マハイル父さんが好きなんだね」
「愛しているわよ」
乾いた言葉にファーラはドキリとした。愛情の深い彼女が長らく主を失った席に向ける瞳が、酷く空虚だった。
「何でそんなに悲しい顔をするんだよ、メアリ母さんは」
「私は自分に負けたのよ。寂しくて苦しくて一度だけ。たった一度でも私は逃げてしまったから。それがすごく悲しいの」
負けたと言う彼女の言葉の意味はファーラにはわからなかった。そして潔い言葉にどれだけの後悔と涙が滲んでいるかも想像がつかない。
「誰を愛すには優しさと同じくらい、強さが要るのよ」
彼の額を隠す長い切れ端を見やってメアリが言うと、ファーラが緑の瞳を上げた。
「サイファの事、レイルに言うより先に教えてあげたのだから、ファーラ君には好きな娘の事でも話してもらおうかしら?」
「えっ」
作ったサンドイッチをお昼の分としてファーラにも包んで渡した。
「どんな天使なの? かわいい?」
ファーラはその質問で真っ先に思い浮かんだ銀天使の姿に、自分が本当に彼女が好きなのだと確信した。
一言では形容しがたい極上の青玉瞳に、たった一人の銀色を湛えた少女。唇には悲しい歌を口ずさみ、それでも一点の曇りもない眼差しだった。
ふんわりとしたレースを這わせたスカートに、たっぷりと取ったドレープの袖が風を含んでゆったりと揺れる。流れる銀色の髪、掴み所のない無邪気さが痛いくらいに眩しかった。
「彼女、銀天使なんだ」
「ぎ、ぎんてんし?」
メアリはその一族の名をなぞるように口にした。
「探しているんだ、俺、彼女に会いたい」
「きっと会えるわよ。想いは伝わるわ」
ファーラは自分で言ってから、はっきりと自分の気持ちに気付いた。
その真っ直ぐな瞳に、メアリはそっと、そしてできるだけ穏やかに微笑んだ。
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