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少女としての最後の呼吸


「見たことのない景色だわ」


馬車の窓に顔を寄せ、シリは飢えるように外の景色を見つめた。

嫁ぎ先であるワスト領までは、馬車で5日の道のり。


その移動の間、シリは子どものように目を輝かせていた。


窓の外に広がるのは、これまで地図でしか見たことのなかった風景ばかり。

生まれてこのかた、シュドリー城の中で育ち、

外に出るといっても、城の周辺を弟や家臣と共に馬で巡る程度だった。


「外の世界は、こんなにも広くて、美しいのね……」


誰に語るでもなく、シリはつぶやいた。

家臣たちの噂話に耳を傾け、地図をなぞりながら思い描いていた景色は、

こんなにも色鮮やかではなかった。


ミンスタ領を離れたことで、どこか心が軽く、自由になった気がした。

――ほんの5日間だけの、儚い自由。


この旅が終われば、顔も知らぬ男の妻となり、

政略の名のもと、ミンスタ領の影として生きていかねばならない。


5日間はあっという間に過ぎた。

夕刻には、ついに目的地――ワスト領のレーク城へ到着する。


「シリ様、ロク湖が見えてまいりました」


エマの声に、シリは再び窓に目を向けた。

そこには、視界いっぱいに広がる、果てしない湖――ロク湖があった。


「・・・これは湖なの?」


初めて見るその広さに、シリは息を呑んだ。

海を知らぬ彼女には、それがまるで海原に見えた。

さざ波の音が風に乗って耳をかすめる。

湖の中央には、ぽつんと島が浮かんでいた。


「あの島の名前は?」


「・・・わかりません」

エマは申し訳なさそうに首を振った。


地図の上で見ていた湖と、目の前に広がる現実は、あまりにも違っていた。


昼食を終えた後、宿に立ち寄り、ドレスの着付けが始まった。


ワスト領に入ると同時に、ミンスタ領からの家臣や馬たちは引き返す。

代わりに、これから先はワスト領の人々に任せることになる。


その準備が進む中、シリの心にじわりと不安が広がっていった。


――あと数時間で、この見知らぬ土地で暮らすことになる。


顔も名も知らぬ男と、夫婦として過ごしていかねばならない。


「エマ・・・どうしよう。なんだか、怖くなってきたわ・・・」


これまで気丈にふるまってきたのに。

いざ現実が近づいてくると、足がすくんでしまう。


「大丈夫です、シリ様」

エマはシリの肩に手を添えた。


「ゼンシ様がお選びになったお相手です。きっと間違いはありません」

優しく、けれど力強く語りかけるエマ。


だが実際のところ、誰ひとりとしてグユウの人柄を知る者はいなかった。


ワスト領は小さな領土で、領主の話題などほとんど上らなかったのだ。


「・・・このドレス、とてもお似合いですよ」

エマは明るい声でそう言い、シリを鏡の前に導いた。


薄く白い布に、淡い紫色の花が散りばめられたドレス。


胸元から裾へと流れるような飾りが、華やかでありながら儚さを感じさせた。


背中のボタンを留めながら、エマは無意識にシリの背を見つめた。


つい先日まで残っていた鬱血の痕――それはもう、どこにもなかった。


ーーよかった。


エマは静かに、心の中で安堵の息を吐いた。


明日は初夜。


「優しい人だと、いいな・・・」

鏡越しに、シリがぽつりとつぶやいた。


エマに向けた言葉ではない。


まるで、自分自身に言い聞かせるような小さな声だった。


やがて、馬車がワスト領内へ入る。


ミンスタ領の家臣たちは、荷物を降ろし、花嫁の護送を終えた。


これで、キヨとも、涙目のゴロクとも別れだ。


これからは、知らぬ者ばかりに囲まれて暮らしていく。


代わって現れたワスト領の家臣たちが、馬車を引き継ぐ。

その先頭には、迎え役のジムの姿があった。


レーク城は、山の上に築かれた堅牢な山城だった。

長い山道を登り、やがて馬車は城門へとたどり着いた。


城門前には、松明がずらりと焚かれ、

その炎に照らされながら、大勢の家臣が頭を垂れて待っていた。


「シリ様のご到着!」


ジムの声が響くと、列をなしていた者たちが一斉に頭を下げる。


その様子を、馬車の中から見ていたシリの肩が、小刻みに震えた。


「シリ様・・・」


隣に座るエマが、そっと背中を撫でる。


ーー今までは、ゼンシの命令に従うだけだった。


だがこれからは、自ら妃として振る舞い、

この地で新たな人生を歩んでいかなければならない。


シリは顔を両手で覆い、目を閉じた。


――扉を開けたら、もう戻れない。


誰のことも知らない。

どんな暮らしが待っているのかも、見当がつかない。


「帰りたい・・・シュドリー城に帰りたい・・・」


恐怖が喉元までこみ上げてくる。

それでも、逃げ出すことは許されない。


静かに、扉の前でシリは深く息を吸った。


それが、少女としての最後の呼吸になることを、

彼女自身、薄々感じていた。

次回ーー

政略の花嫁として、ワスト領へ嫁いだシリ。

迎えたのは、鉄仮面のように無表情な若き領主・グユウだった。

冷たい眼差しに戸惑いながらも、翌日には婚儀、そして初夜が迫っていた――。


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