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この人に、逆らえない


シリが城に戻って3日経った。


何も起きていない静けさが、逆に不気味に思える。


「そろそろ兄上に手紙が届くはず」

シリは憂いを帯びた眼差しで独り言をつぶやいた。


ワスト領とミンスタ領は遠い。

どんなに急いで馬を飛ばしても3日はかかる。


空の馬車がシュドリー城に戻ったら、ゼンシはどんな反応をするのか。

離婚に応じないと書いたシリの手紙を読んで、どう思うか。

怒ったゼンシがゴロクやキヨ、家臣、母に当たらないのか。


様々な思いが浮かんでは沈む。


ーー許してください。


生家の人々の顔を思い出し心の中で詫びた。


レーク城は、来るべき争いの準備で慌しかった。


ーー籠城の準備は進んでいるのかしら。


シリが提案した籠城の準備は進んでいない。


それよりも、武器や弾薬など差し迫ったもので忙しそうだ。


シリ達も戦の準備を独自に始めていた。


シリは熟れた小麦のような色をした輝く髪を、

豊かに編み冠のように頭に巻き付けた。


長い髪を垂らしたままだと、作業がしにくいからだ。

作業用の装いで新しい髪型をしているシリを見て、グユウの瞳は嬉しそうに輝いていた。


傷が癒えてない首には、包帯の上から短く赤いスカーフを巻いていた。


スカーフは血のように赤い色だった。

シリの白い肌と切れ長の青い瞳に不思議なほど映えた。

燃え立つような赤い色は、シリの心情を表しているようだった。



シリは、エマと侍女達と共にマサキの屋敷の裏にある森へ行き、

血止め薬草を摘むことにした。


独特の香りがする薬草は、そのままでも使用することができ、

アルコールに漬け込む事で保存をすることができる。


それを油と蜜蝋で混ぜると軟膏になる。


争いは怪我がつきもの。


傷跡が化膿して死に至ることもある。


医師と看護師だけでは追いつかないだろう。


そのために医療品を多めに準備しないといけない。


「花が終わったらエキナセアを干しましょう」

「カモマイルの花は来週ね」


どちらの花も炎症や安眠、胃腸に欠かせない薬草だ。


マサキの屋敷からオーエンが出てきた。


「オーエン!」

笑顔でシリは手を振る。


オーエンは不器用に頭を下げた。


一緒に離婚協議に行ったことで、距離が少しだけ縮まった。


ジム、ジェームズはグユウの家臣なので顔を合わせることができる。

オーエンに会う機会は少ない。


「この前はありがとう」

シリはようやくお礼を言えた。


2人は泉のほとりに立っていた。

ポプラの枝が風にサワサワと音を立てて揺れている。


「オーエン、馬車の時の・・・呼吸法は助かりました」

シリの頬に、わずかな紅が差していた。


逃げ出す馬車の中で息が吸えなくなったあの瞬間。

あのとき差し伸べられた手が、彼女を窒息の恐怖から救った。


「どうして、あの呼吸法を?」


静かな問いに、オーエンは少し視線を逸らす。


「15の時、初陣で・・・初めて人を殺めました。

その夜、息がうまく吸えなくて・・・師に教わったのです。

その・・・まさか、あんな場面で使うことになるとは思いませんでした」


語尾が震えていた。

それが、どれほど苦い記憶であったか、言葉にしなくても伝わってくる。


シリは、黙ってうなずいた。


「でも、本当に助かりました。ありがとう」


感謝の言葉が、真っ直ぐに胸に刺さった。


オーエンは、無意識に拳を握りしめる。


「呼吸ができなくなるほど追い詰められるなら・・・ここにいるのは危険です。

戦場は・・・悲惨です。今ならまだ、逃げられます」


言葉はぶっきらぼうだったが、その奥にある思いは明白だった。

守りたかった。

それが命令でなく、自分の意志だった。


けれど――


「逃げません」

シリは静かに、しかしはっきりと首を横に振った。


「私はセン家の人間です。生まれ育ったシュドリー城より、ここが好き。

レーク城に残ります」


その瞳には、揺るぎのない意志が宿っていた。

燃えるような赤いスカーフが、風に揺れている。


「でも・・・あなたがセン家に嫁いだのは、2年前じゃないですか? それなのに・・・」


オーエンは戸惑ったように眉を寄せた。


「シュドリー城では、周りが望む『女らしさ』を演じる必要がありました」

シリは遠くを見つめるように話す。


オーエンは怪訝な顔で聞いていた。

多くの女性は、決められたレールに疑問を持たずに歩むことが普通だった。

シリのような考え方をする女性は珍しい。


「でもレーク城では、ありのままの私を受け入れてくれる。

重臣会議にも出席できるし、離婚協議にも口を出せる。

自分で考えて、自分の足で立てる。

それを許してくれたセン家は・・・すごいと思う」


彼女の語る「自由」は、オーエンにとって未知の価値観だった。

その瞳は、遠くを見るようでいて、確かに未来を見据えていた。


「それは・・・セン家というより、グユウ様のお力でしょう」


思わず皮肉めいた言葉がこぼれた。


だが、シリはそれを責めず、むしろ恥ずかしそうに笑った。


「ええ。そうですね」


その微笑みに、オーエンは目を奪われた。


ーーこの人は、なぜこんなにも人を惹きつけるのか。


「ワスト領にいたいのです。他に行くなんて考えられない」


レーク城を見つめる彼女の横顔には、憧れと愛情が満ちていた。


ーーああ、もう無理だ。


オーエンは、己の心が深みに落ちていくのを感じていた。

恋なのか、憧れなのか、忠誠なのか。

それすら分からない。

だが、もう逆らえない。


ゆっくりと、片膝をつく。

それは、主君に対する忠誠の証だった。


「争いが始まったら・・・シリ様を、お守りします」


風が吹いた。

ポプラの葉が揺れ、陽が差し込む。


その瞬間、オーエンの心の旗印は、完全にシリのものになった。


そのとき、遠く離れたミンスタ領では、まさに—




「シリはどこにいる」


シュドリー城のホールに、怒りを孕んだゼンシの声が響く。

ゼンシは怒りがマグマのように噴き上がっていた。


同盟が破綻したので、ワスト領までシリと子供を迎えに行かせた。

それなのに、帰ってきた馬車にはシリは乗っていない。

城中の誰もが困惑していた。


ゴロクとキヨは床に頭をつけんばかりにひれ伏している。


「シリ様が離婚を拒否しました」

ゴロクが話す。


「離婚を拒否だと?聞いたこともない!」

ゼンシの眉毛が上に上がった。


「ええ・・・シリ様が決めたようです」

肌寒い日なのにゴロクは汗だくだ。


「ミンスタ領に帰るなら命を断つと言われ、首にナイフを突きつけたのです」

キヨが必死になって弁明する。


「ナイフ・・・嫁入り道具のものか」


「はい」


キヨの声は震えていた。


その返答を聞いたゼンシは、ゆっくりと笑みを浮かべた。


だが、その笑みには一片の感情もなかった。


「アレの嫁入り道具にナイフを持たせたのが・・・失敗だったな」


ゴロクとキヨは、床に伏したまま動けなかった。


その場にいた家臣たちも、誰一人として息を呑む音すら立てようとしなかった。


空気が変わった。

言葉にできない、冷たいものが城内を覆った。


ゼンシの口元だけが笑っている。

だが、その瞳は氷のように冷たい。


それは怒りではない。

獲物を見据える狩人の目だった。


「この私に、こんな手紙を書くとは・・・」


ゼンシはゆっくりと手紙を開いた。

中を読む間、誰も動けなかった。

紙の擦れる音すら、戦慄を呼ぶように思えた。


読み終えた瞬間、ゼンシは不意に笑い声をあげた。


「このわしに・・・こういう手紙を寄越すとはな! シリだけだ、こんな真似ができるのは!」


狂ったような笑い声が、城の広間に響き渡った。


だが誰も、顔を上げる者はいなかった。

笑っているのは主だけ。

それが、何よりも恐ろしかった。


そして笑い終えると、ゼンシはすっと声を落とした。


「・・・ゴロク、キヨ」


呼ばれた二人が顔を上げるのに、数秒かかった。


「戦だ。全軍を上げてワスト領を攻める。準備を急げ」


その声音は、狂気の笑みよりも冷酷だった。

命令ではなく――宣告だった。


「グユウを殺して、シリを取り戻す」


ゼンシの青い瞳が、燃えるような戦の光を宿していた。

それは、愛でも義でもない。

所有物を取り返すための執念だった。


次回ーー


ワスト領に届いたのは、赤い封蝋の宣戦布告。

開戦は七月中旬と決まり、静かな日々の中に不気味な影が差す。


シリはグユウと共に祈りを捧げ、そして決意する。

「私も戦場へ」と訴える彼女に、グユウは首を振った。

代わりに託されたのは――籠城の準備という大任。


明日の17時20分 この選択を後悔しないためにも

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