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取り戻せなかった姫

「オーエン、剣を納めて」

シリの澄んだ声が、張りつめた空気に響いた。


オーエンは命じられるまま、手の震えを抑えつつ、剣を鞘に戻した。

その背後に立つジムとジェームズも、動揺を隠しきれない様子でシリを見つめていた。


予定にないはずの展開だった。


――ナイフを、出すなどとは。


その瞬間、場の空気がさらに凍りつく。


シリが静かに、自らの首筋にナイフを当てて微笑んでいたのだ。


その細い刃は、陽光を受けて煌めき、まるで銀の光が肌に吸い込まれるように見えた。


オーエンはシリの指示に従い、震える手で剣を納めて後ろに下がった。


「シリ様・・・それは」

ゴロクが声を絞り出す。

冷静を装ってはいるが、喉の奥が震えていた。


「このナイフ・・・嫁入り道具に兄上から頂いたものです」

ナイフのグリップを2人に見せた。

そこにはミンスタ領の旗印が刻まれている。


「無理やり連れ戻すつもりなら・・・この場で、自ら命を絶ちます」


その声は、低く、落ち着いていた。

だからこそ、誰よりも重く、響いた。


「やめてください・・・! そんなことをしても、何も――」


キヨが叫ぶように訴えるが、シリは応えない。

かわりに、スッとナイフを引いた。


細い首筋に、ひとすじの傷が刻まれた。


滲む赤が、まるで絹のドレスに咲いた花のように静かに広がっていく。


その場にいた家臣達は凍りつく。


オーエンは口を開いた。


ワスト領の家臣達も予想外のシリの行動に足が震えていた。


「この顔に傷がついて困るのは、兄上でしょう」


血を流しながらも、シリは静かに、しかし凄みを帯びた瞳でふたりを見つめた。


「私が戻らなかったら、ミンスタ領の家臣に脅されて命を絶ったと、兄上に伝えてください」


その一言に、キヨもゴロクも動けなくなった。


ゼンシ――彼の怒りが、どれほど恐ろしいかは、誰よりもふたりがよく知っている。

シリの死が、自分たちの死をも呼ぶと、本能が告げていた。


今までの経験から、家臣達、兵達は骨身に染みるほど知っている。


「離婚しません。ミンスタ領には戻りません」

シリはゴロクとキヨを睨みながら、ゆっくりと馬車にむかって後ずさる。


「必要な事は手紙に書いています。兄上に渡してください」

シリが横目でジムを見る。


ジムは懐に入っていた手紙を取り出して、ゴロクに手渡す。


オーエンがゆっくりと馬車の扉を開け、自らも乗り込んだ。


シリは馬車の真後ろに立つ。


「私が戻らなくても家臣達に怒らないように。その手紙に書いてあります」

少しだけシリの声が柔らかくなった。


「待ってください!」


ゴロクの声が裏返る。


「シリ様。何でですか?我々が戦ったら・・・、ワスト領は・・・」

ゴロクは全てを言えなかった。


しかし、その場にいた皆はその言葉の続きを知っていた。


『ワスト領は負ける』


圧倒的な領力の差があった。


聡いシリなら気づいているだろうに。


「我々はあなたがいる城に砲弾を打ち込みたくない」

キヨも必死だった。


「お母様も、家臣も侍女も皆がシリ様を待っています」

少し涙目になったゴロクが訴える。


その叫びに、シリの目が揺れる。


母の笑顔。弟の笑い声。侍女たちの手のぬくもり。


たしかに、そこには愛があった。


だが。


「・・・ごめんなさい」


その声は、かすかに震えていた。


「行かないでください」

ゴロクが必死な形相で叫ぶ。


シリの記憶がある時からゴロクはそばにいた。


祖父のように、父のようにシリの成長を見守ってくれていた。


シリは優しく首をふった。


「なぜですか!!」


ゴロクが吠えるように叫ぶ。

鬼のように怖かったはずの彼の顔が、今は泣きそうに歪んでいた。


オーエンは、馭者の1人に自分の馬に乗るように指示をした。


ジム、ジェームズも馬に乗り込んだ。


シリはナイフを銀の帯にしまった。


「頭を下げて」

オーエンは低い声でシリにささやいた。


「シュドリー城にはグユウさんがいない」

愛しむような眼でシリは呟いた。


次の瞬間、オーエンはシリのウエストを掴み馬車に引きこんだ。


2人はそのまま狭い馬車の床に転がり込んだ。


「行けっっ!!」


オーエンの怒号に、馭者が鞭を振るった。


扉が開いたまま、ものすごい勢いで馬車が走り出した。


併せてワスト領の家臣達も矢のように馬を走らせた。


シリは行ってしまった。



ゴロクとキヨは、立ちすくんだまま遠ざかる馬車を見つめていた。


「・・・取り戻せなかった」

ゴロクは落胆した声で話す。


「まさか、離婚に応じないとは夢にも思わなかった」

キヨも力なく呟く。


「それにしても・・・ゼンシ様にそっくりだった」

ゴロクは疲れたように椅子に座った。


多くは語らなかったけれど、

キヨは怒ったシリの顔のことを言っていると察した。


「あの目で見つめられると、自分が小さな者のように感じる」


2人は、星のような目から強い感情が湧き出ていたシリの顔を思い出した。

主君同様、負けず、曲げず、諦めない瞳をしていた。


「我々に迷惑をかけないようにシリ様は配慮してくれた」

ゴロクは手紙を見つめながら呟く。


「グユウのどこが良いんだ。あいつは暗い」


「キヨ、少なくとも顔はお前より良い」

ゴロクは呆れたように呟く。


「悔しい。一度で良いからシリ様のお相手をしたい」

キヨは忌々しそうに甲高い声で叫んだ。


「お前、正気か」


「正気だ。お前だって、同じことを思ってるくせに」


返事はなかった。


風が吹いた。


去っていく馬車の轍だけが、草を分けてまっすぐに続いていた。



次回ーー


扉を開けたまま、馬車は疾走していた。

オーエンの腕の中で震えるシリ――その首には浅い傷跡。

止血を終えると、二人の間に妙な沈黙が落ちた。


やがて馬車は止まり、湖畔で笑い声が弾ける。

アップルパイを頬張るシリの笑顔に、誰もが一瞬だけ戦を忘れた。



明日の17時20分

嫌いという感情は…好きへの小さな一歩

ブックマークをつけてくれた方ありがとうございます。

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