なぜ、逃げなかった?
「勝利おめでとうございます」
シリの微笑みを見て、
グユウは根が生えたように、そこから一歩も動けなくなってしまった。
逃したはず・・・。
命に変えてでも守りたかったシリ、安全な故郷に戻るように指示をしたはず。
「シリ・・・なぜ」
掠れた声が、グユウの喉をかすめた。
シリは答えなかった。
ただ、穏やかな笑みをたたえたまま、後ろに控える家臣たちに声をかけた。
「勝利おめでとうございます。皆さんの食事を準備しています」
ざわめきが広がった。
彼らが戦ったのは、彼女の故郷――ミンスタ領。
それでもシリは、あたたかな笑顔で迎えてくれた。
焼きたてのパンの香ばしさと、ハーブの効いたチキンスープの香りがホールに満ちていく。
戦の後に温かい食事など、今まで経験したこともなかった。
戸惑う家臣達にシリは、声をかける。
「人数分の椅子はありません。床に座って召し上がってください」
料理人と女中達が器にチキンスープを注いだ。
美味しそうな香りだ。
シリは一歩進み、まず領主であるグユウに、両手で器を差し出した。
受け取ったグユウが口にしようとした瞬間、
「グユウ様!!口にしてはいけません!!」
オーエンが血相を変えて駆け込んだ。
「毒かもしれません! 全員が食べれば、ワスト領は――」
「毒など入れてません」
シリが勝気な目でオーエンを睨む。
その強い目線にオーエンはひるんだ。
「それでも不安なら、私が証明します」
シリはグユウから器を取り戻し、その場でスープを啜り、パンをちぎって食べた。
一瞬、静まり返った空間に、スープを飲む音が響いた。
「皆で作りました。安心して召し上がってください」
キッパリと言い放った。
毅然とした声がホールに響くと、兵たちは次第に安堵の空気に包まれていった。
一人、また一人と、器を手に取り、床に座って食べ始める。
美味しそうな香り、兵たちの笑い声、談笑。
戦の直後とは思えぬほど、和やかな雰囲気が生まれていく。
オーエンは恥ずかしそうにうつむいた。
「オーエン」
シリが声をかける。
「あなたは良い家臣です」
シリは静かに話した。
「出過ぎた真似をしました」
オーエンは悔しげに頭を下げる。
「あなたがいればグユウさんは安心です」
見上げると、シリの瞳は先ほどと違って優しく輝きオーエンを見つめていた。
その瞬間、オーエンは気づいた。
ミンスタ領から来た姫――警戒すべき異邦人だったはずの女を、いつの間にか見つめてしまっていたことを。
ジムがそっとエマに声をかけた。
「エマ・・・。何があったのですか」
「私たちは馬車で逃げようとしたんです」
エマはつぶやく。
ジムは黙ってうなずく。
「直前でシリ様が逃げることを拒否しました」
「なんと・・・」
「シリ様のお命を守るために説得をしました。
けれど・・・揺るぎませんでした」
花が綻ぶように笑うシリを愛おしげにエマは見つめた。
「そうですか」
「シリ様がどんな想いでその決断をしたか・・・私にはわかりません。
でも・・・少なくとも今は幸せそうです」
エマは諦めたように呟いた。
ジムはホールを見渡した。
満ち足りた笑顔で食事をする兵士たちの姿に、どこか心が洗われるようだった。
「この食事は・・・シリ様の提案ですか」
「ええ。ミンスタ領では戦に勝っても負けても兵士に料理を振る舞っていました。
皆で美味しいものを食べれば、結束力が高まり兵が強化される。これはシリ様の父上の考えです」
「そうですか。ワスト領ではそのような習慣がありませんでした」
ジムは、周りの兵士たちの楽しそうな様子を見て微笑む。
「良いことですね。今後、取り入れたいです」
「シリ様が指揮をとりました。料理人、侍女、馬丁まで総動員して。あれだけ人を巻き込んで準備を進める方は、そうそういません」
ジムは、その光景が目に浮かぶようで思わず笑みをこぼした。
きっと城内の人々は困惑しただろう。
エマはシリの様子を注意深く眺めた。
「シリ様を休ませます。お子を産んで日も浅いのに・・・」
そう言い残して、エマは猛烈な勢いでシリの元に歩んで行った。
◇
城に戻ってから、グユウは落ち着かない気持ちで過ごしていた。
なぜ、シリがレーク城に残っているのだろうか。
今すぐシリの肩を掴んで問い詰めたかった。
けれど、その時間はなかった。
領主はやるべき仕事が山積みだ。
全ての仕事が終わり、グユウは緊張した面持ちで寝室へむかった。
扉を開けると、寝室にシリはいた。
背筋をピンと伸ばして、強く美しい瞳でグユウを見つめていた。
星のような目から強い感情が湧き出ている。
負けず、曲げず、諦めない瞳。
グユウは、いつもこの瞳に心を奪われていた。
シリは疑問に思うことを口にして、前に向かい、行動で示していた。
けれど、シリの幸せを考えればグユウは流されてはいけない。
「シリ、どうして逃げなかったんだ」
グユウは静かに聞いた。
次回ーー
「シリ、どうして逃げなかったんだ」
泣き声にも似た懇願に、彼女は静かに答える。
「幸せは他人が決めることではありません。私が決めます」
抱きしめても、手放しても、揺らぎ続ける想い。
二人の選んだ道は、愛か、それとも破滅か。
そして届いたのは――離婚を告げる冷酷な文だった。
明日の17時20分 幸せは私が決める
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