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兄に壊され、政略に生きる

空がいぶし銀のように淡く明るくなってきた。


ーーよくもまあ、こんな朝が、何事もなかったかのように訪れるものだ。


周囲の気配が少しずつ動き出す。

日常が、音もなく戻ってくる。


床には昨夜脱いだパジャマが落ちていた。


ーーそのままではエマに不審がられる。


シリは慌てて身体を起こし、ガウンを羽織った。


何もなかったふりをしなければ。

もうすぐ他家に嫁ぐのだ。


誰にも、何も、言えるはずがない。


足音が近づいてくる。エマだ。


手には今日のための水色のドレスが抱えられている。


「シリ様、おはようございます。式の準備を始めましょう」

いつも通り、穏やかな声と笑顔。


シリは静かにうなずき、エマの手を借りて着替えを始めた。


だが、ドレスの背中のボタンをとめようとした瞬間、エマの指が止まる。


彼女は小さく息をのんだ。


シリの背には、複数の痕が残っていた。


ドレスで隠れる位置だけに、それらは在った。


ゼンシが人払いを命じた昨夜。


この痕が偶然とは、誰も思わないだろう。


エマは黙って、唇を固く結びながら、丁寧に背中のボタンをとめた。


シリは何も言わず、ただまっすぐ前を見つめていた。


今日は、お世話になった人々に別れを告げる日。


けれどシリの表情は、まるで葬送の列に並ぶ者のようだった。


おいとまの式は、モザ家の家族と親族、家臣たちのみで静かに執り行われた。


淡い水色のドレスに身を包んだシリは、まるで妖精のように儚げだった。


その顔に疲れが滲んでいても、誰も深く気には留めない。


元からシリは、あまり笑わない娘だった。


美しい顔に不機嫌そうな表情と、鋭い眼差し。


結婚前の不安であろう——周囲はそう解釈していた。


式の本義は、領主ゼンシと娘シリが杯を交わすことにある。


ゼンシは、昨夜のことなどなかったかのように、平然と上座に座っていた。


ーーどうして、そんな顔ができるの。


シリは唇を噛みしめ、逃げ出したい思いを押し殺して座る。


ゼンシは赤いワインを、金の杯に静かに注ぐ。


この杯は、家の格式を示す儀式の品。姉妹たちもここで決意を交わしてきた。


「シリ、頼むぞ」

彼の声は領主としての威厳を纏っていた。


政略結婚。


それはミンスタ領とワスト領を繋ぐため。


そして、嫁ぎ先の動向を密かに報告する“任務”でもある。


シリは、胸の奥の感情を押し殺すように、深く息を吐いた。


「行ってまいります、兄上」

そう告げ、杯を受け取った。


次々と重臣たちが挨拶に訪れる。

皆が口をそろえて「お美しい」と言う。


だが、幸せそうな笑顔を作り続けることに、シリは疲れきっていた。


そんな中、西領の領主ジュンだけが、静かにこう言った。


「・・・身体に気をつけて」


幼少期から人質として生きてきた彼の言葉は、飾り気がなかった。


その一言に、シリは少しだけ肩の力を抜いた。


こうして、おいとまの式は滞りなく終わった。


城で過ごす、最後の夜。


昼間はうまく立ち振る舞えたが、夕暮れになると心の防壁が薄れていく。


今夜も、月はやけに明るかった。


シリはその光を遮るように、カーテンをしっかり閉めた。


「エマ・・・昔みたいに、一緒に寝てくれる?」

遠慮がちに尋ねた声は、かすれていた。


エマにとって明日は忙しい一日になる。


けれど、シリはどうしても一人になりたくなかった。


兄の足音を、再び聞くのが怖かった。


エマは静かに微笑んで、うなずいた。


「ええ、もちろん。シリ様。昔のように」


知らない土地、知らない人、見えない未来——

不安は尽きない。


けれど、そばにエマがいてくれるだけで、少しだけ勇気が湧いた。


シリはそっとエマの腕に寄り添い、目を閉じた。


明日は、旅立ちの日。

次回ーー


豪奢な城、贅を尽くした宴、そして青のドレスに身を包む姫。

そのすべては、ミンスタ領の力を誇示するための演出だった。

花嫁シリは誇り高く立ち上がり、戦場へ赴く兵のように馬車へ乗り込む。

それは――別れと覚悟の旅立ちだった。


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