愛を詰めて逃げる夜
グユウに命じられて、エマは産室から出た。
おそるおそるドアの外で、耳をそばだてていたエマは
2人の悲しげな声を聞くと廊下へ逃げ込んだ。
シリの気持ちを考えると胸が張り裂けそうになった。
ーーウイ様が産まれて、幸せな日々を過ごせると思っていたのに!!
・・・神様はむごいことをする。
乱れに乱れていたエマに声をかけた人がいた。
グユウの重臣 ジムだった。
「エマ、お話があります」
ジムに案内された部屋にエマは通された。
ジムは神経質に何度も隠し小部屋の確認をしていた。
その部屋には、隠し小部屋が3つある。
隠し小部屋から、1番遠い場所でエマと話すことにした。
極秘の話があるようだ。
「明日の朝、我々がゼンシ様を攻撃するのはご存知ですか」
「存じています」
エマはうなづいた。
産室にこもっていなければ、聡いシリならすぐに気づいていただろう。
城中には、戦の匂いが満ちていた。
「グユウ様は、最後まで悩んでおられました。
ご自身がシズル領を擁護すれば、シリ様の立場が悪くなると」
「だったら・・・止めてくだされば」
エマの声は、自然と震えた。
「どうにもなりませんでした」
ジムは頭を振ってうつむいた。
「家臣たちの怒りは限界でした。
無断で街道を使い、約束を破ったゼンシ様を擁護することは、
ワスト領の民を見捨てるに等しい、と」
エマは黙ってうつむいた。
正論だった。
ミンスタ領出身の自分でさえ、反論できなかった。
「グユウ様が支持を続ければ、家臣たちが背きます。
そして、それは――領が割れるということです」
ジムは言葉を切り、再び扉のほうを見やった。
ここからが本題なのだと、エマにもわかった。
「今夜のうちに、シリ様とユウ様、ウイ様の荷物をおまとめください。
明日の朝、北門からゼンシ様の元へ向けて出発していただきます」
「逃げる・・・ということですか」
「はい。馬車と馭者をひとり、北門に残しておきます。
そこから領境の宿へ。ミンスタの家臣が必ず滞在しています」
エマはその場所を知っていた。
シリが嫁入りの朝、あの宿でドレスを着替えたのだ。
「そこで、謀反の報せを。
シリ様から報告があれば、ゼンシ様も、すぐには刃を向けないでしょう」
「・・・そんなことをして、ワスト領はどうなるのです?」
「わかりません。ただ、グユウ様は、シリ様と子どもたちを生かす道を選びました」
エマは何も言えなかった。
「そのままミンスタ領にお逃げください」
ジムは静かに伝えた。
「ジム、あなたはミンスタ領の味方なのですか」
エマは声を震わせながら聞いた。
「違います」
ジムは微笑んだ。
「エマがシリ様を想うのと同じように、私もグユウ様を大事に想っているだけです。
だから・・・命じることではなく、願いとしてお願いしたい。どうか、シリ様をお守りください」」
エマは、強くうなずいた。
「わかりました。私にできる限りのことを」
二人は短く礼を交わし、エマは寝室へと駆けた。
そこは、グユウとシリの、穏やかな暮らしの象徴だった。
黄色のプラムの砂糖漬けは瓶に半分残っている。
ワスト領の旗印が刻まれたティーカップが2つ置いてあった。
ソファーとローテーブル。
そこで、あの2人は愛と夢を語っていた。
初夜にシリが泣いた夜も、グユウが優しく寄り添っていたことも、昨日のことのように思い出された。
荷造りを始める。嫁入り道具の箱に、必要最低限を。
鞍と鎧は馬場にある。
それは逃げる前に持っていけるだろう。
衣類は嵩張るから全ては持っていけない。
エマは乗馬服を詰め込んだ。
これは嫁ぐ前に、シリが一番先に荷物に入れていた。
大事なものだろう。
そして最後に、ピンクのドレスと髪飾り。
グユウが贈ったもの。
服に興味のないシリが、大切にしていた唯一の衣装。
手を触れた瞬間、こみあげるものを堪えるのに精いっぱいだった。
「辛い任務だわ・・・」
それでも、エマは手を止めなかった。
やるべきことは、たくさんある
夜明けが、近づいていた。
次回ーー
春の光が差し込む産室で、シリとグユウは最後の口づけを交わした。
「どこにいても、シリの幸せを願っている」
彼の言葉を胸に刻みながらも、涙は止まらない。
やがてホールに響く雄叫びと共に、兵たちは城を発つ。
足音が遠ざかるたび、シリの嗚咽は強くなる――別れの時は、もう来てしまったのだ。
明日の17時20分 政略結婚から2年 別れの朝
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