ほんとうの夫婦になれたと思ったのに
出産してから3週間。
「惹きつける瞳だわ」
産まれたばかりのウイの瞳は、光線によって色が違うように見えた。
シリの身体の回復は早く楽しかった。
グユウは大きな手で小さなウイを抱え、愛おしげな目つきで眺めた。
「お前たちの妹だ」
グユウは嬉しそうに輝く瞳で、子供達にウイを紹介していた。
「おめでとう」
2歳のシンはたどたどしく、乳母に教わった言葉を懸命に話していた。
ユウは真っ直ぐにウイの顔を見つめていた。
まだ1歳なので、状況がわからないのも当然だ。
天気も素晴らしかった。
シリはあまりにも幸福なため、レーク城内がいつもと違う雰囲気になっていることに気が付かなかった。
やがて、陸地へしのびよる湖の霧のように、情け容赦なく不安がシリの心を充満した。
ーー城内が騒がしい。
ホールから遠く離れた産室にいてもわかる。
多くの人が城に集まっている。
昨日の朝からグユウが部屋に来てくれない。
頻繁にシリの元を訪れていたグユウ、
そのグユウが来ないということは何かあったのだろうか。
エマが妙な目つきでシリの方を見ているのに、一度ならず気がついたことを思い出した。
この時になって、ようやくシリは気がついた。
ーー何かがおかしい。
「エマ、城内で何が起きているの?」
シリに背中をむけたまま、エマは振り向いてくれなかった。
「エマ・・・」
シリはもう一度声をかけた。
エマの背中は震えていた。
もう一度、声をかけようとした時に産室の扉が開いた。
グユウだった。
少し疲れた顔をしていた。
「グユウさん」
グユウの顔を見て、シリはほっとした。
思わず微笑んだ。
グユウは黙って、シリのベットの隣にある椅子に腰掛けた。
今日のグユウはウイを抱かない。
いつもなら、真っ先に抱くのに。
「身体の調子はどうだ?」
グユウはいつも同じ質問をする。
けれど、毎回違う口調だった。
「今回は回復が早いです。明日には・・・もう産室を離れて寝室に戻ることができます」
ーー早くグユウさんの隣で寝たい。
眠る前に髪を撫でて、口づけをしてほしい。
シリはそんな事を思いながら、頬を赤らめた。
「・・・それは良かった」
グユウは心底ホッとしたような口調だった。
「エマ、ウイを連れて外に出てくれないか」
グユウは静かに頼んだ。
「承知しました」
エマは無機質な声で、ウイを乳母に頼み産室から出て行った。
出産して以来、初めてグユウと2人っきりになった。
グユウはシリの顔をジッと見つめた。
その眼差しが恥ずかしくて、シリは思わずうつむく。
結婚をして2年が経とうとしている。
グユウはシリが、本当に自分のものだという事をまだ信じきれなかった。
美しく聡明なシリが自分を好いてくれる。
それは、夢のような出来事だと思っていた。
夢が消え失せないようにと、グユウの心はいまだにシリの前では爪先立つ思いだった。
「シリ、話したいことがある」
グユウは気が進まない様子で言った。
シリは顔をあげた。
グユウはシリの上に屈み、シリの瞳をジッと見た。
「ワスト領はゼンシ様を撃つことにした」
グユウがつぶやいた。
「えっ」
驚きのあまり、シリは声が出なくなった。
「ゼンシ様は約束を破った。ワスト領に連絡もなく、シズル領の攻撃をはじめた」
「兄上が・・・」
シリは布団をギュッと握りしめた。
ーーいつか、こうなると予想はしていた。
でも、本当にその日が来てしまうなんて。
「攻撃にむかう時に、許可なくワスト領の街道を使った。それで家臣たちが気づいた」
「兄上は、グユウさんなら怒らないと思っていたと思います・・・」
シリは震える声で呟いた。
「昨夜の緊急会議において、多数決で決まった。明日ゼンシ様を撃つ」
グユウは淡々と話した。
「決断は、グユウさんがされたのですね」
シリは静かな声でグユウに聞いた。
「あぁ」
グユウは凪いだ瞳で答えた。
ワスト領は、ゼンシ派につくか、反ゼンシ派につくか決断ができずにいた。
家臣達の多くは反ゼンシ派だった。
グユウがゼンシに憧れを抱いていたことをシリは知っていた。
そのグユウがゼンシに刃をむける。
「今でもゼンシ様を尊敬している」
「なら・・・」
シリの言葉は宙で途切れた。
「けれど、シズル領を攻撃されるのなら争う。
シズル領とワスト領は長年、協力して領地を守っていた。ゼンシ様は約束を破った。家臣達は憤っている」
「兄上はグユウさんに甘えていたと思います・・・
約束を破っても、領力が弱いシズル領を見捨て、自分についてきてくれるだろうと思っていたはず」
「シリ・・・苦しませてすまない」
グユウの瞳の奥が一瞬揺らいだ。
ーーグユウさんは相当悩んだのだろう。
シリはその瞳を見て悟った。
グユウはまぶたを閉じ、感情を抑えた。
そして、産室にある隠し小部屋を確認した。
誰もいない。
「ここだけの話だ。オレがゼンシ様を攻撃したらシリは困るだろう」
突然の知らせに青ざめたシリの顔を見つめた。
「シリ・・・。ワスト領が攻撃することをゼンシ様に報告しろ。そして、そのままミンスタ領に帰れ」
「どうしてですか?」
シリは驚きのあまり声を大きくした。
「報告はシリの任務だ。シリは・・・自分の任務を遂行するべきだ」
ーーそうだった。
嫁ぐ前にゼンシに誓わされていた。
ワスト領がミンスタ領に刃向かう事があれば、ゼンシに知らせると。
「グユウさん・・・どうして? 争う事を私に言わなくてもいいのに」
「オレ達は政略結婚だ。領のためにお互いを騙し合うのは普通かもしれない」
グユウの発言にシリはうなづく。
実際、ゼンシと義姉はそんな関係だった。
「でも、オレは約束した。シリに嘘をつかない・・・と」
それは結婚して、わずか3週間の時にチク島でグユウがシリに伝えた言葉だった。
こんな状況なのに、あの言葉を覚えて守ってくれた。
グユウの優しさに胸が響く。
「グユウさん・・・」
シリの瞳は涙で揺らいだ。
「領主としてのオレは未熟だ」
グユウは愛おしげにシリを見つめ、ベットに座っているシリを軽く抱きしめた。
「シリ・・・好いているという言葉では足りない。
オレのところに嫁いで・・・子を産んでくれてありがとう」
その声は震えていた。
名残惜しそうにシリの身体を引き離した。
「必要な手続きはジムを通してエマに伝える。明日は忙しい。ゆっくり休め」
その言い方は淡々としているけれど、グユウの瞳を見てシリはわかった。
ーーグユウさんは心の中で泣いている。
突然の別れの宣言にシリは混乱した。
やるべき任務がある。
明日の朝、ユウとウイを連れ出してレーク城を離れ、
ミンスタ領にワスト領について報告をしなければいけない。
ーーそして、そのまま・・・戻らない。
その可能性があることを、シリも、グユウも、言葉にしなくても理解していた。
今のワスト領とシズル領が手を取り合ったとしても、
ミンスタ領の軍には敵わない。
子供達のためにレーク城を離れた方が得策だ。
でも・・・。
世の中は、利得だけではなく感情が伴う。
それは、グユウと出会って、初めて知った感情だった。
愛おしさも、寂しさも、ぬくもりも――一度知ってしまえば、失うのが怖くなる。
シリの心は、どうしようもなく揺れた。
けれど最後に、グユウはそっと耳元でつぶやいた。
「・・・シリ。どんな形でもいい。
お前が無事に生きてくれたら、オレはそれでいい」
その声は震えていた。
涙が零れそうになって、シリはまぶたをきつく閉じた。
だが、夢の中では――
ピンクのドレスを着たまま、グユウの隣で静かに笑っていた。
それは、もう戻れないと思っていた春の続きだった。
次回ーー
夜明け前――エマは泣きそうな胸を押さえながら、必死に荷をまとめていた。
ジムから託された願い。
「どうか、シリ様をお守りください」
それは命令ではなく、ただの祈りだった。
砂糖漬けの瓶、二つ並んだティーカップ、そしてピンクのドレス。
穏やかな日々の名残に触れるたび、胸が張り裂けそうになる。
けれど、守らねばならない命がある。
夜が明ければ、すべてが変わる。
――シリと幼い子らを連れて、レーク城を去る時が迫っていた。
明日の17時20分 産後3週間 子供を連れて城から抜け出す 続きが気になった人はブックマークお願いします。
毎日更新頑張れます。




