子が生まれた夜に、戦の許しが下りた
冬の日々はあっという間に過ぎ去った。
シリが気がつかないうちに、
春は再びレーク城にめぐってきて、モノトーンの世界から世はまたも緑に包まれた。
土の下でひっそりと脈打つ春の息吹を感じていた。
「今年は、りんごの花がみれないわ・・・」
残念そうに呟いた。
りんごの花は馬でしか行けない険しい場所に咲いていた。
出産を控えていたシリは、乗馬ができるようになるのは早くても夏頃になるだろう。
「来年は見れるだろう」
背後からグユウがそっと抱きしめ、穏やかにささやいた。
穏やかな金色の夕日が差す頃、
シリはお腹をおさえて床にしゃがみ込んだ。
「あぁ、グユウさん、この痛みだった。忘れていたわ」
陣痛の波の合間に、苦しげな吐息が漏れた。
すぐに医師と看護師が城に呼ばれた。
「痛みを忘れるって・・・そんな事あるのか?」
思わずグユウは独り言を呟いた。
前回のお産のように長丁場になるのだろうか。
お産で命を落とすことは、決して珍しいことではなかった。
グユウは心配でじっとしていられなかった。
1時間後、エマは広間を駆けて行き、書斎のドアを叩いた。
ドアの後ろから、グユウの青ざめ怯えた顔がのぞいた。
「グユウ様、おめでとうございます!元気な女の子です」
「もう産まれたのか!」
グユウは呆然として言った。
「ええ。今回は安産でした」
エマはニコニコ顔だった。
「あの声を聞いてください。お元気ですよ」
産室から響き渡るうぶ声の元へグユウは駆け出した。
「私の夢が実現したのよ」
シリは青白い顔をしながらも有頂天になっていた。
「シリ・・・頑張ったな」
グユウはそっとその手を取り、指を絡めた。
赤ん坊は湯につかり、乳母が乳を与えていた。
「グユウさん、この子が産まれる前は男の子が欲しいと思っていたの。
産んでしまったら、あの子以外、誰にもなってほしくないの!」
興奮のため、シリは饒舌だった。
「あぁ」
グユウはうなづいた。
乳を与えられた赤ん坊が、シリとグユウの元に戻ってきた。
産まれたての赤ん坊の顔を2人はジッと見つめた。
顔全体を包むようなやわらかな産毛は、淡い茶色。
角度によっては、金褐色にも見えた。
「金髪・・・ではないのね。黒髪でもないわ」
シリは愛おしげに赤ん坊の手を握った。
「グユウさん、見て。こんな小さな手なのに小さな爪まで出来上がっているの」
シリは恍惚としながら、赤ん坊の指をさわった。
糸のような目をした赤ん坊が、ゆっくりと瞼を開けた。
瞳の色はー
「何色だろう?」
グユウは赤ん坊の瞳を覗き込む。
「黒・・・違うわね」
シリもうなづく。
深く、けれど澄んでいて。
青よりも深く、紫がかっているようにも見える。
「紫がかった・・・深い青。群青色ね」
シリがぽつりとつぶやいた。
「群青色・・・オレとシリの瞳を混ぜた色だ」
グユウはそう言って、満ち足りた笑みを浮かべた。
――また見られた。この人の、完全な微笑み。
それを見た瞬間、シリの頬はふっと赤らんだ。
つわりに耐え抜いた日々のすべてが、この一瞬のためだったと思えた。
「シリ、この子の名前はシリが決めてほしい」
再び瞼を閉じた赤ん坊は、静かに眠っていた。
「・・・私が?」
名付けは、父親の役目とされている。
だが、グユウは迷いなくうなずいた。
「当然だ。シリが命をかけて産んだ子なんだから」
しばらく黙って、シリはグユウが抱く赤ん坊を見つめていた。
そして、静かに口をひらく。
「それでは・・・ウイと名付けたいです」
「ウイ?」
聞き慣れぬ名前にグユウの眉毛が上がった。
「はい・・・。遠い国の言葉で・・・初めてという意味があるそうです」
この子は、シリにとっては二人目の子。
だが――夫グユウとともに迎えた、初めての命だった。
理由を語らずとも、二人は分かり合っていた。
「ウイ・・・良い名前だ」
「はい・・・」
「ようやく・・・グユウさんと本物の夫婦になった気がします」
シリは細い手をグユウに差し出した。
グユウは黙ってうなづいて、その手を強く握り返した。
春の夜風はやわらかく、レーク城の高窓をそっと撫でていった。
ベッドの上では、シリがすやすやと眠っている。
小さな命をこの世に迎えたばかりのその頬には、かすかな熱が残っていた。
赤子の寝息と、微かに揺れる蝋燭の灯。
その静けさの中、グユウは眠る妻の手を取っていた。
――こんな夜が、ずっと続けばいい。
だが、胸の奥にはどこか拭えないざわめきがあった。
戦に向かおうとしている友の顔、父の怒声、重臣の冷ややかな眼差し。
それらが不意に、春の闇の底から呼び起こされる。
グユウはそっと立ち上がり、窓辺に向かった。
窓の外には、満ちかけの月。
春の光はあたたかいはずなのに、ふとした瞬間にその色が冷たく見えた
◇
そのころ。遠くミヤビの王都――
ゼンシは国王に謁見し、ある申し出をしていた。
「シズル領が、国王陛下への挨拶を怠っています。
これは明確な反逆の兆し。征伐の許可を、いただけますか」
常にゼンシの意に従ってきた国王は、深く考えることもなく了承した。
正式な許しを得たゼンシは、大量の兵を従え、
シズル領への侵攻の準備を着々と進めていた。
レーク城に芽吹く春のよろこびの陰で、
静かに、だが確かに、暗い影が忍び寄っていた。
次回ーー
出産から三週間。
幸福に包まれていたレーク城に、ついに嵐の気配が忍び寄る。
ゼンシの裏切り、そしてワスト領の決断。
「明日、ゼンシ様を撃つ」――グユウの言葉に、シリは震えた。
夫としての想いと、領主としての義務。
交わした約束が、いま二人を引き裂こうとしていた。
明日の17時20分 幸せの絶頂 直後に夫から別れの宣告
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