冬の約束、春の戦
12月になり、シリは体調が落ち着くようになった。
「鏡は嘘をつかないわ」
ため息をつきながら、シリは鏡から目を離した。
今日は家臣を集めての会議の日。
冒頭、シリ自身も出席して、妊娠を報告する予定だった。
久しぶりに袖を通したドレスは、どれも身体に合わなかった。
どれほど痩せてしまったのか、鏡に映る輪郭が心細かった。
「お子のためにも、もっと食べないといけません」
エマは注意した。
それでも、美しい雲のような裾を引きながら、階段を降りるシリを見てグユウの瞳は揺らめいた。
その瞳を見て、シリは頬を染めた。
家臣達に妊娠を発表すると、会場は静かなざわめきが起きた。
オーエンは目を見開き動かなくなった。
無理もなかった。
今年の2月にユウが生まれ、来年の春には第2子が生まれることになるのだ。
一拍置いて、口々に「おめでとうございます」と祝福の言葉が上がった。
今回は、第2夫人の提案をする家臣はいなかった。
今や、グユウがいかにシリに心を寄せているか、家臣たちは皆、知っていた。
そして、壇上にいるグユウとシリが幸せそうに笑っている姿を見ると、何も言えなくなってしまうのだ。
この冬、ワスト領では過去にないほどのりんごが実った。
厨房では、いつもの何倍もの砂糖漬けが作られ、城中には甘い香りが満ちていた。
りんごの砂糖漬けはシリの好物でもあり、いずれは特産品として広める予定だった。
その第一歩が、ようやく踏み出された。
寒くなるにつれ、シリの体調が戻ってきた。
歩みは早くなり弾むようになってきた。
シリはグユウの性格を把握していたので、身体の回復を言葉にするようになった。
「もう、体調は大丈夫ですよ」
頬をそめながらグユウの瞳を覗きこんだ。
グユウの瞳は、困惑と嬉しさが同居して迷いがあった。
シリは背伸びをして、
戸惑うグユウの襟元をつかみ、その薄い唇に自ら唇を寄せた。
グユウは、そっとシリの背中に手をまわした。
「シリ、元気になって嬉しい」
耳元でつぶやいた。
だが、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。
グユウの元に、一通の手紙が届いたのだ。
差出人は、シズル領のトナカ。
あの夏以来、顔を合わせてはいないが、手紙のやり取りは続いていた。
ーー今回も、妊娠を祝う便りだろうか。
そう思った矢先、グユウの表情が急速に陰っていった。
「どうしましたか・・・」
質問するシリの声はこわばった。
シリが尋ねると、グユウはゆっくりと手紙を置いた。
「ゼンシ様がトナカに手紙を出したようだ」
「兄上が?」
「あぁ。国王に挨拶をするようにと」
「・・・でも、トナカさんは?」
「断ると言っている。ゼンシ様の言うことには従わないと」
シリはゆっくりと立ち上がった。
「・・・すぐに国王に挨拶すべきです。兄上は、反逆の名目を得たときだけ戦を仕掛ける」
「シリ、冷静に。挨拶をしない領主は、他にもいるんだ」
「でも、その領主たちは・・・皆、兄上に敗れました」
ゼンシは勝利を重ねるたびに主要な港を手中に収め、輸入で潤った財で武器を増やしてきた。
「トナカに対する通告は、2度目だ」
「3度目は、ないわ」
シリの声が、静かに落ちた。
グユウは何も言わずに頷いた。
「兄上は、冬には動かない。シズル領は雪が深い。兵を疲弊させることはしないわ」
「だから、春だな」
その言葉に、二人の間に冷たい沈黙が落ちた。
「グユウさん、お願い。トナカさんに、国王に挨拶するよう手紙を書いて」
シリの声には焦りがにじんでいた。
「・・・人は、変えられない」
グユウの答えは静かだった。
「トナカが悩み抜いて出した結論だ。オレがそれを曲げさせるのは、きっと間違っている」
「でも、グユウさんは変わった。結婚してから、変わってくれた」
無表情で、人を寄せつけなかったあの人が、今こうして言葉を交わしてくれる。
「それは、オレが変わりたいと思ったからだ。・・・シリのために、変わりたかった」
その言葉に、シリは思わず目を伏せた。
人は、自分の意志でしか変われない。わかっている。それでも――
「トナカさんに、書いてください」
シリの瞳は、揺るがなかった。
「わかった」
グユウは微笑み、そっと彼女の頭を撫でた。
「・・・実は、シズル領には手を出さないと、ゼンシ様と約束していた」
「兄上と約束ですか?」
シリは怪訝な顔をした。
「シズル領を攻めない。戦を始める場合は、必ずワスト領に連絡すると書面に書いた」
「兄上は目標のためならば約束を破ります」
シリは用心深く言った。
その瞳は信用してはならないと言いたげだった。
「オレはゼンシ様を信じたい」
グユウは静かに答えた。
シリは納得できない表情でうなづいた。
「オレは、あの時、確かに誓文を交わした。
シズル領に刃を向けぬと。それが・・・シリを迎える条件だった」
グユウは静かに話す。
「その約束が結婚の決め手だった」
グユウの視線が宙をさまよう。
「そうなの?」
シリは驚いた。
「あぁ。それで天が全てオレに開かれた」
グユウは微笑み、シリの娘らしい手をかたく握った。
シリは頬が赤くなった。
ーーグユウさんは無自覚に、こういうセリフを言う。
シリはグユウの胸に頭を預けた。
けれど、胸の奥に広がる不安は消えなかった。
春が来れば、世界は変わる。
その変化が、光なのか、影なのか――まだ誰にもわからなかった。
次回ーー
凍てつく湖に吹きすさぶ二月の風。
けれど城の中には、暖かな灯と笑いが満ちていた。
シリは母からの贈り物に懐かしさを覚え、
グユウとの夜には「謝るのはやめて」と頬を染める。
一歳を迎えたユウは天使のように愛らしく、
領内は雪解けを待つ穏やかな時を過ごしていた。
――だからこそ、シリは胸の奥で怯えていた。
この幸福が永遠に続くものではないことを。
明日の17時20分に更新します 冬の日々
平和な2章は明日が最後です。明後日から3章突入です。
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