私は美しいという牢獄で生きている
「カーテンはそのままにして。月が綺麗だから…」
シリはエマにそう頼んだ。
いよいよ明日は“いとまの式”。
この城で過ごす夜も、あとわずか二晩となった。
雲一つない夜空に、丸い月が浮かんでいる。
銀の光は部屋に差し込み、静かにシリの寝室を照らしていた。
その光に包まれて、シリは眠りにつく。
エマは静かに布団をかけ、部屋を後にした。
『シリの部屋には近づくな』
ゼンシの指示があったことを、誰もが守っていた。
夜が更ける。
冷たい石畳の廊下を、ひとりの男が歩いていた。
ゼンシだった。
誰もいない廊下を抜け、彼は迷いもせずシリの部屋の扉を開いた。
寝室にはカーテンが開かれ、月光が白く差し込んでいた。
眠るシリの姿は、まるで夢の中の幻のように静かで美しかった。
ゼンシはそっとベッドに近づいた。
名前を呼び、彼女の顔に触れようとしたその瞬間——
ふと、目を覚ましたシリが、重くのしかかる空気に気づいた。
「・・・兄上? 何を・・・」
ーー動けない。
声がうまく出ない。
視線の先には、信じたくない姿があった。
兄の瞳が、熱を帯びたまま自分を見下ろしている。
近すぎる距離。
理解が追いつかない。
なぜここにいるのか。
なぜ、自分の部屋に、夜中に。
なぜこんなにも近くに——。
シリは必死に首を振り、身体を動かそうとしたが、強い腕がそれを止めた。
震える声も、胸に溜まった涙も、誰にも届かない。
ーー、エマ・・・どうして来てくれないの・・・!
不安と恐怖と混乱が渦巻き、ただ必死に時が過ぎるのを待った。
どれほど時間が経ったのだろう。
ようやくゼンシの身体が離れたとき、シリは疲弊しきって動けなかった。
「シリ・・・許してくれ」
彼は耳元でそうつぶやいた。
「謝るなら、なぜ・・・こんなことを」
震える声が月明かりの中にかすれた。
ゼンシはなおも言葉を続ける。
「お前が愛おしかった。誰にも渡したくなかった・・・。相応しい相手を探していたが、気がつけば二十歳になっていた。
グユウは良い青年だ。だが・・・彼とお前が結ばれると思うと、理性を失いそうだった」
その言葉は、シリの心をさらに冷たく凍らせた。
ーー兄上に、そんな風に見られていたなんて・・・。
ゼンシは言葉を重ねながら、距離を縮めた。
ーー気持ち悪い。1人になりたい。
「兄上、明日はおいとまの式ですよ。早くお休みになってください」
背中をむけたまま震える声で伝えた。
支度をして立ち去る時は、いつものゼンシになっていた。
「シリ。明日はしっかりと励むように」
そう言い残して部屋から出ていった。
部屋に残されたシリは、動けなかった。
ただ、月光の下で天井を見つめていた。
ーー私は美しいらしい。
それが何のためになるのだろか。
小さい頃から「美しい」「きれい」と言われてた。
その褒め言葉はシリにとって挨拶のようなものだった。
ミンスタ領の姫なのだから、社交辞令の1つとして受け止めていた。
年頃になると、男たちだけではなく同性からも羨望の眼で見られることに気づいた。
男たちの視線は色情が見え隠れする。
ゼンシやキヨの視線に何度もゾッとした。
女たちの視線は嫉妬が潜んでいる。
ーー美しくなくていい。
普通の幸せが欲しかっただけなのに・・・。
今はただ、胸の奥に広がる痛みと悲しみを、誰にも打ち明けられずにいた。
その夜は、果てしなく長かった。
次回ーー
明日はワスト領へ嫁ぐ日。
淡い水色のドレスに身を包み、シリは人々に別れを告げる。
誰もが「美しい」と称える中、彼女の心には昨夜の影が残っていた。
その微笑みは、花嫁のものではなく――葬送の列に並ぶ者のようだった。
「兄に壊され戦略に生きる」




