戦の気配と揺らぐ幸福
「子供部屋が賑やかになりましたね」
乳母のヨシノが、隣に立つエマに微笑みかけた。
初夏の光が差し込むレーク城。
その一角にある子供部屋には、三人の赤ん坊がいた。
セン家の長男――一歳半のシン。
長女――生後四ヶ月のユウ。
そして、ヨシノの長男で八ヶ月のシュリ。
三人は同じ部屋で、同じ乳を分け合いながら育てられていた。
乳兄弟――それは、血よりも濃い絆を育てると言われる。
城を支える将来の家臣として、すでにこの時から、シュリには運命が刻まれていた。
産後、シリがもっとも驚いたのは、グユウが毎日のように子供部屋に足を運んでくることだった。
かつて自分が育ったミンスタ領では、父の顔を見るのは年に数回。
母でさえ、週に一度ほどしか会えなかった。
育ててくれたのは、乳母のエマと数人の侍女たち。
それが“姫”の育てられ方として、当然だった。
だが――
グユウは違った。
ふとした瞬間に現れては、子供たちの顔をのぞき込む。
眠るシンの頬を撫で、ユウの指をそっと握る。
その優しい眼差しを見るたび、シリの胸は、言いようのない温もりに満たされた。
シンが、ついに数歩を歩いた。
「そろそろ・・・幼児服にしませんか?」
乳母が控えめに問いかけると、シリは苦笑いを浮かべた。
「・・・わかってる。けど・・・」
そう言って、シリは視線を落とす。
赤子から子どもへ――
その成長が嬉しい反面、少しだけ寂しくもあった。
「シンが幼児服を着たら、赤ちゃんじゃなくなってしまうわ」
シリの小さな呟きに、乳母たちはやわらかく笑った。
けれど、幼児服に着替えたシンは、驚くほど愛らしかった。
その姿を膝に乗せ、あやすシリを見て、グユウはふいに後ろから彼女を抱き寄せた。
周囲の視線に気づいた彼は、すぐに手を離したが――
その一瞬に込められた思いは、伝わってきた。
ユウの瞳は、日々の中でいっそう深く、澄んでいった。
じっと見つめられると、大人ですら言葉をなくす。
その姿を見るたびに、シリは嬉しいと同時に焦りを感じていた。
グユウとシリの子供はいない。
シンはグユウと前妻の子供。
ユウの父親はゼンシだ。
シリは、なるべく早くグユウの子供を欲しいと思った。
ーーできれば、男の子が欲しい。
義父のマサキは露骨に口にしていた。
口には出さずとも、グユウも望んでいるはずだ。
シリの顔が陰るたびに、グユウが肩に手をまわしつぶやいた。
「焦るな」
領務の間に2人で乗馬をしたり、月を眺めながらお茶をすることもあった。
何度か一緒に温泉に入ることもあった。
温泉の中でグユウは背中をむけなかった。
むしろ・・・
悲喜交々あるけれど、シリは穏やかな暮らしを楽しんでいた。
6月の半ばに2人の友人トナカがレーク城に訪問し、ユウの顔を見にきてくれた。
ユウは人の顔をジッと見つめることが多い。
その瞳を見て、トナカはため息をついた。
「この子は、将来美人になる。多くの男を泣かすな」
トナカらしい賛辞だった。
お祝いの品々と、シリが好きな魚の燻製をたくさん持ってきた。
昼食後、ロク湖のほとり。
二人の男は、水面を眺めながら言葉を交わした。
城内では話せないことが増えてきた。
特にゼンシの妹 シリの前では話せない。
「赤ん坊を美しいと思ったのは初めてだ」
トナカがユウのことを褒めた。
「あぁ。オレもそう思っている」
「シリにそっくりだな。グユウの面影はどこにもない」
事情を知らないトナカは、悪気もなくグユウに伝える。
グユウはコクリとうなずいた。
「知っているか?ゼンシが国王に無茶苦茶な要求を出したのを」
「・・・知らない」
「全ての要求がゼンシの思うままになっていた。これを元に法令が変わるだろう」
「そうか」
「そのうち国王も気づくだろう。自分がゼンシに操られていることを」
「・・・気づくだろうな」
ゼンシは自分に反抗する領主達に、
“国王に対する反逆罪“と大義名分を立て戦を始めていた。
そして、ゼンシは破竹の勢いで戦に勝っていた。
「あいつ、死んでくれないかな」
トナカは足元にある石を蹴った。
「・・・強運に恵まれている人だ。今まで怪我をした話は聞かない」
今も東領で争いを繰り広げているが、戦いはゼンシが勝ちそうな気配だ。
「グユウ、ワスト領はゼンシ派に行くのか?」
トナカがワスト領に訪問にきたのは、この質問をするためだった。
「・・・まだ、定まってない」
ワスト領の会議では、毎回その件について揉めていた。
「・・・決めなくてはいけないな」
グユウがつぶやいた言葉にトナカは深くうなづく。
グユウも、トナカも、そしてシリも、
争いが自分達に迫ることを予感していた。
それに対して、対策を立てないと小さな領地は危機的状況に陥る。
グユウとトナカが話しあっている間、
シリはトナカの妻にお礼状を書いていた。
帰る間際にトナカに礼状を渡すように頼んだ。
「俺の妻もシリに会いたいと話していたぞ」
「いつか・・・お会いしたいわ」
この時代、女性が簡単に領地外を行き来することはできなかった。
「グユウ、シリ、8月になったら3日ほど遊びにきてもいいか」
「もちろんだ」
「また会おう」
トナカは、そう言って旅立った。
幸福な夏。
しかし、風の向きは変わりつつあった。
戦の気配はすでに足元に迫り、
その中でシリは――
ただ、幼い我が子の寝顔を見つめながら、静かに誓っていた。
「この子だけは、誰にも奪わせない」
どんな争いが訪れようとも。
誰に否といわれようとも。
それが、母としての自分の「戦」なのだと。
次回ーー
7月、シリとグユウは舟に乗り、チク島を訪れた。
木像への出産報告を終え、湖畔でサンドイッチとアップルパイを分け合う。
だが、湖の静けさを破るように告げられたのは――
ゼンシが東領を討ち、伯母ルビーをも処刑したという報せだった。
怒りと恐れのはざまで揺れるシリ。
膝に頭を預けるグユウの温もりに触れながら、彼女は祈る。
――乱世でも、この人と共に生き抜きたい。
明日の17時20分に更新します。
政略結婚 裏切りと恐怖に打ち勝つために
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