表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/227

あの頃のあなたは、もういないの?

「・・・笑ったわ!」


シリの声が思わず弾んだ。


出産から四十五日が経ち、体調はかなり回復してきた。


ユウも日ごとに可愛らしさを増している。


とくに寝顔がたまらなかった。


まぶたがふわりと引き上がり、夢でも見ているのか、口元がにっこり緩む。


厚ぼったいまぶたの奥にあるのは、まるで空を切り取ったような青。


その青を見つめるたび、胸の奥がきゅっと熱を帯びる。


愛しさ――それは、ゆっくりと、しかし確実にシリの心に芽吹いていた。


 


グユウは、それよりもずっと前から、明確に愛情を注いでいた。


「シリとの子どもだったら、無条件で可愛い」


出産前にそう口にしたときの、照れたような顔をシリは思い出す。


あの言葉に、嘘はひとつもなかった。


グユウは日に何度も子ども部屋を訪れ、ユウの顔を見に来た。


ユウの頬に触れ、まぶたに口づけし、眠る姿をいつまでも眺めていた。


その姿が嬉しくて、同時に胸が痛んだ。


ーーなぜなら、ユウの父はグユウではないから。


グユウは、それを知っている。


何も言わず、何も責めず、すべてを呑み込んでくれている。


ユウの瞳は青く、顔立ちはシリに瓜二つだった。


だが、人々は何の疑念も抱かず、「父親似ですね」「将来は美人になりますね」と微笑んだ。


「母親にそっくりな子が生まれても、誰も疑問に思わないものです」


以前、エマがそう言っていた。


今になって、それがようやく実感としてわかった。


父親の真実を知る者は、シリとグユウ、そしてエマの三人だけ。


この秘密は、墓まで持っていくとシリは決めている。


けれど・・・これほど恵まれた日々のなかで、シリの心には、消えないもやが渦巻いていた。


 


ーーグユウは変わらず優しい。


けれど、産後一度もシリを抱こうとしなかった。


口づけも、手のひとつも伸ばさない。


目が合えば、ふいと視線を逸らす。


出産前は、あんなにも求めてくれたのに。


「・・・いいか?」


恥ずかしそうに問いかけるグユウの声が、懐かしく思い出される。


彼に触れられるたび、シリは幸せを感じていた。


第2夫人をとられるくらいならと、夜毎にグユウを求め、エマに呆れられたこともあった。


それほどに、彼の愛がほしかった。


産後の今も、グユウはとてもやさしい。


思いやりに満ちていて、以前よりも確かな絆を感じる。


でも、それだけでは足りなかった。


昔のように、自分を女として見てほしかった。


髪を撫でて、唇を寄せて、熱を込めて名を呼んでほしかった。


ーーもう、自分には魅力がないのだろうか。


出産を経て体型が変わったことも、自覚している。


もしかしてこのまま、二人のあいだに肌を重ねる夜は戻ってこないのか。


そのうち、もっと若くて美しい第2夫人が現れて――。


想像すればするほど、心が沈んでいく。


こんなふうに悲観的になるのは、産後だから?


そう思いたかった。


けれど、気休めでしかなかった。


「シリを、温泉に連れて行きたい」


昼食の途中、唐突にグユウが言った。


「温泉・・・ですか?」


フォークを置いたシリが首をかしげると、グユウはあっさりと頷いた。


「ああ。城のすぐそばにある。産後の身体に良いらしい」


「確かに、湯治は回復に効果があると聞きます」

ジムが膝を揃えて補足した。


「馬車をご用意しましょう」


「・・・温泉に入ったことがありません」


そう告げるシリに、グユウが少しだけ驚いたように眉を動かした。


「行けばわかる。準備しておけ」


それだけを言い残し、彼は席を立った。


* * *


着替えや布を持参して、初めての温泉へ向かう馬車は揺れも少なく快適だった。


城からほんの五分の距離にあるというが、シリにとっては産後初めての遠出だった。


「カツイの屋敷の裏手にある。小さいが、いい湯だ」


馬車の中、グユウがぽつりと説明した。


「オレは馬車で待っているから、シリだけで入ってこい」


「えっ、グユウさんは入らないのですか?」


「・・・オレは温泉には入らない」


なぜか彼はシリの目を見ようとしなかった。


「温泉の入り方もわからないんですが・・・エマも知らないって・・・」


シリが不安げに言うと、ジムが控えめに進言した。


「グユウ様、案内して差し上げては? 私には少々・・・」


「・・・わかった」


観念したように、グユウは顔を赤らめながら頷いた。


* * *


温泉は、山肌を切り拓いたような簡素な湯場だった。


周囲には木の板と布で目隠しが施されている。


赤茶色のお湯が自然の岩間から湧き出し、独特の鉱物の匂いが立ち込めていた。


「このお湯に・・・入るんですか?」


湯気の中でシリの声が震える。


「そうだ。服を脱いで、この湯に浸かる」


「・・・えっ、裸になるんですか?」


「服のままじゃ入れないだろう」


グユウは明らかに照れており、視線を泳がせた。


「髪が濡れると後が大変だ。縛っておけ」


脱衣所でそう言い残し、グユウは先に湯に入った。


* * *


シリは手早く布を身体に巻きつけた。


明るい場所で裸になるなど初めてのことで、産後の体型の変化が余計に気になった。


そっとのぞくと、湯の中にグユウの背中が見えた。


彼はちらりとこちらを見たかと思うと、慌てて背を向けた。


「・・・グユウさん、どうやって入ればいいんですか?」


「布を外して、裸で入る。お湯の色が濃いから、見えない」


その背中がどこか心細くも頼もしかった。


シリはおずおずと爪先を湯に差し入れた。温かさが皮膚に沁みる。


思い切って布を外し、肩まで浸かる。


「ああぁ・・・」


思わずため息がこぼれた。


温泉に入るのは、生まれて初めてだった。心も身体も、湯にほぐされていくのがわかった。


「・・・気持ちが、良いです」


「・・・そうか」


背を向けたままのグユウが、ぽつりと答えた。


空を見上げれば、春の光が淡く漂っていた。


「ユウを産んだあと、季節が一つ過ぎてしまったんですね・・・」


シリの呟きに、グユウは何も返さなかった。


「・・・オレは、もう上がる」


短くそう言うと、彼は足音も静かに立ち上がり、湯から出ていった。


* * *


湯にひとり残されたシリは、静かに目を伏せた。


温泉に連れて来てくれたことは嬉しい。気遣ってくれているのも分かっている。


だけど――

目も合わさず、言葉少なに距離を取る彼に、どこか避けられているような気がして、寂しさが胸に落ちた。


せめて、顔を見て微笑んでくれてもよかったのに。



湯の温かさとは裏腹に、胸の奥に冷たい孤独が残っていた。


シリは、出産前の日々をふと思い出した。


あの頃のグユウは、シリだけに向ける穏やかな微笑みを、たびたびその瞳に湛えていた。


名を呼ぶ声も、日ごとに変えていた。


「シリ」

「シリ・・・」


気恥ずかしいほど甘く、誠実で、時には照れ隠しのようにぶっきらぼうに。


毎日が、新しい呼ばれ方だった。


シリを眺めるその視線には、あたたかさと、確かな想いが宿っていた。


――けれど、今は。


そのぬくもりは遠い記憶のようだった。


帰りの馬車の中、二人のあいだに言葉はなかった。


無言。


馬のひづめの音だけが、乾いた地面を刻んでいる。


グユウはずっと外を見たまま、シリと視線を合わせなかった。


気もそぞろで、まるでここにいない誰かを想っているような、そんな横顔だった。


シリは、唇をきゅっと噛みしめた。


心の奥に、どうしようもない不安と、冷たい波が満ちていく。


「子育てに甘んじよう」


シリは自分に言い聞かせた。


恋よりも、愛よりも、まずは母としての務めを果たすべきなのだと。


けれど、気づけばため息が漏れる。


グユウの寝室の枕元で、あたたかいぬくもりに触れられずにいるたびにーー


女としての自分が、そっと、泣いていた。



「おやすみ」


その夜も、グユウは静かにそう言って、ベッドの端に腰を下ろした。


声はやさしい。


けれど、そのやさしさの奥に、心が感じられない。


ベッドに入ったシリの姿を、ちらと一瞥して、彼はすぐに背を向けた。


その背中は、何かを拒むように遠かった。


たまらず、シリは声を発した。


「・・・グユウさん、私のこと…嫌いになったのですか?」


言った瞬間、空気が凍った。


自分でも、なぜ口にしたのかわからなかった。


でも、言わずにはいられなかった。


その背中が、あまりにも遠すぎて。

次回ーー



「私のこと嫌いになったのですか」

涙するシリに、グユウは抱きしめて答えた。

「ユウは、オレとシリの子だ」

幸せの宣言の裏で、黒い影が忍び寄っていた――。


明日の17時20分に更新します。産後 私のこと嫌いになったのですか?

評価をしてくれた方がいます。ありがとうございます。

お陰様で頑張れます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
, ,

,

,

,

,
,
,
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ