あの頃のあなたは、もういないの?
「・・・笑ったわ!」
シリの声が思わず弾んだ。
出産から四十五日が経ち、体調はかなり回復してきた。
ユウも日ごとに可愛らしさを増している。
とくに寝顔がたまらなかった。
まぶたがふわりと引き上がり、夢でも見ているのか、口元がにっこり緩む。
厚ぼったいまぶたの奥にあるのは、まるで空を切り取ったような青。
その青を見つめるたび、胸の奥がきゅっと熱を帯びる。
愛しさ――それは、ゆっくりと、しかし確実にシリの心に芽吹いていた。
グユウは、それよりもずっと前から、明確に愛情を注いでいた。
「シリとの子どもだったら、無条件で可愛い」
出産前にそう口にしたときの、照れたような顔をシリは思い出す。
あの言葉に、嘘はひとつもなかった。
グユウは日に何度も子ども部屋を訪れ、ユウの顔を見に来た。
ユウの頬に触れ、まぶたに口づけし、眠る姿をいつまでも眺めていた。
その姿が嬉しくて、同時に胸が痛んだ。
ーーなぜなら、ユウの父はグユウではないから。
グユウは、それを知っている。
何も言わず、何も責めず、すべてを呑み込んでくれている。
ユウの瞳は青く、顔立ちはシリに瓜二つだった。
だが、人々は何の疑念も抱かず、「父親似ですね」「将来は美人になりますね」と微笑んだ。
「母親にそっくりな子が生まれても、誰も疑問に思わないものです」
以前、エマがそう言っていた。
今になって、それがようやく実感としてわかった。
父親の真実を知る者は、シリとグユウ、そしてエマの三人だけ。
この秘密は、墓まで持っていくとシリは決めている。
けれど・・・これほど恵まれた日々のなかで、シリの心には、消えないもやが渦巻いていた。
ーーグユウは変わらず優しい。
けれど、産後一度もシリを抱こうとしなかった。
口づけも、手のひとつも伸ばさない。
目が合えば、ふいと視線を逸らす。
出産前は、あんなにも求めてくれたのに。
「・・・いいか?」
恥ずかしそうに問いかけるグユウの声が、懐かしく思い出される。
彼に触れられるたび、シリは幸せを感じていた。
第2夫人をとられるくらいならと、夜毎にグユウを求め、エマに呆れられたこともあった。
それほどに、彼の愛がほしかった。
産後の今も、グユウはとてもやさしい。
思いやりに満ちていて、以前よりも確かな絆を感じる。
でも、それだけでは足りなかった。
昔のように、自分を女として見てほしかった。
髪を撫でて、唇を寄せて、熱を込めて名を呼んでほしかった。
ーーもう、自分には魅力がないのだろうか。
出産を経て体型が変わったことも、自覚している。
もしかしてこのまま、二人のあいだに肌を重ねる夜は戻ってこないのか。
そのうち、もっと若くて美しい第2夫人が現れて――。
想像すればするほど、心が沈んでいく。
こんなふうに悲観的になるのは、産後だから?
そう思いたかった。
けれど、気休めでしかなかった。
「シリを、温泉に連れて行きたい」
昼食の途中、唐突にグユウが言った。
「温泉・・・ですか?」
フォークを置いたシリが首をかしげると、グユウはあっさりと頷いた。
「ああ。城のすぐそばにある。産後の身体に良いらしい」
「確かに、湯治は回復に効果があると聞きます」
ジムが膝を揃えて補足した。
「馬車をご用意しましょう」
「・・・温泉に入ったことがありません」
そう告げるシリに、グユウが少しだけ驚いたように眉を動かした。
「行けばわかる。準備しておけ」
それだけを言い残し、彼は席を立った。
* * *
着替えや布を持参して、初めての温泉へ向かう馬車は揺れも少なく快適だった。
城からほんの五分の距離にあるというが、シリにとっては産後初めての遠出だった。
「カツイの屋敷の裏手にある。小さいが、いい湯だ」
馬車の中、グユウがぽつりと説明した。
「オレは馬車で待っているから、シリだけで入ってこい」
「えっ、グユウさんは入らないのですか?」
「・・・オレは温泉には入らない」
なぜか彼はシリの目を見ようとしなかった。
「温泉の入り方もわからないんですが・・・エマも知らないって・・・」
シリが不安げに言うと、ジムが控えめに進言した。
「グユウ様、案内して差し上げては? 私には少々・・・」
「・・・わかった」
観念したように、グユウは顔を赤らめながら頷いた。
* * *
温泉は、山肌を切り拓いたような簡素な湯場だった。
周囲には木の板と布で目隠しが施されている。
赤茶色のお湯が自然の岩間から湧き出し、独特の鉱物の匂いが立ち込めていた。
「このお湯に・・・入るんですか?」
湯気の中でシリの声が震える。
「そうだ。服を脱いで、この湯に浸かる」
「・・・えっ、裸になるんですか?」
「服のままじゃ入れないだろう」
グユウは明らかに照れており、視線を泳がせた。
「髪が濡れると後が大変だ。縛っておけ」
脱衣所でそう言い残し、グユウは先に湯に入った。
* * *
シリは手早く布を身体に巻きつけた。
明るい場所で裸になるなど初めてのことで、産後の体型の変化が余計に気になった。
そっとのぞくと、湯の中にグユウの背中が見えた。
彼はちらりとこちらを見たかと思うと、慌てて背を向けた。
「・・・グユウさん、どうやって入ればいいんですか?」
「布を外して、裸で入る。お湯の色が濃いから、見えない」
その背中がどこか心細くも頼もしかった。
シリはおずおずと爪先を湯に差し入れた。温かさが皮膚に沁みる。
思い切って布を外し、肩まで浸かる。
「ああぁ・・・」
思わずため息がこぼれた。
温泉に入るのは、生まれて初めてだった。心も身体も、湯にほぐされていくのがわかった。
「・・・気持ちが、良いです」
「・・・そうか」
背を向けたままのグユウが、ぽつりと答えた。
空を見上げれば、春の光が淡く漂っていた。
「ユウを産んだあと、季節が一つ過ぎてしまったんですね・・・」
シリの呟きに、グユウは何も返さなかった。
「・・・オレは、もう上がる」
短くそう言うと、彼は足音も静かに立ち上がり、湯から出ていった。
* * *
湯にひとり残されたシリは、静かに目を伏せた。
温泉に連れて来てくれたことは嬉しい。気遣ってくれているのも分かっている。
だけど――
目も合わさず、言葉少なに距離を取る彼に、どこか避けられているような気がして、寂しさが胸に落ちた。
せめて、顔を見て微笑んでくれてもよかったのに。
湯の温かさとは裏腹に、胸の奥に冷たい孤独が残っていた。
シリは、出産前の日々をふと思い出した。
あの頃のグユウは、シリだけに向ける穏やかな微笑みを、たびたびその瞳に湛えていた。
名を呼ぶ声も、日ごとに変えていた。
「シリ」
「シリ・・・」
気恥ずかしいほど甘く、誠実で、時には照れ隠しのようにぶっきらぼうに。
毎日が、新しい呼ばれ方だった。
シリを眺めるその視線には、あたたかさと、確かな想いが宿っていた。
――けれど、今は。
そのぬくもりは遠い記憶のようだった。
帰りの馬車の中、二人のあいだに言葉はなかった。
無言。
馬のひづめの音だけが、乾いた地面を刻んでいる。
グユウはずっと外を見たまま、シリと視線を合わせなかった。
気もそぞろで、まるでここにいない誰かを想っているような、そんな横顔だった。
シリは、唇をきゅっと噛みしめた。
心の奥に、どうしようもない不安と、冷たい波が満ちていく。
「子育てに甘んじよう」
シリは自分に言い聞かせた。
恋よりも、愛よりも、まずは母としての務めを果たすべきなのだと。
けれど、気づけばため息が漏れる。
グユウの寝室の枕元で、あたたかいぬくもりに触れられずにいるたびにーー
女としての自分が、そっと、泣いていた。
「おやすみ」
その夜も、グユウは静かにそう言って、ベッドの端に腰を下ろした。
声はやさしい。
けれど、そのやさしさの奥に、心が感じられない。
ベッドに入ったシリの姿を、ちらと一瞥して、彼はすぐに背を向けた。
その背中は、何かを拒むように遠かった。
たまらず、シリは声を発した。
「・・・グユウさん、私のこと…嫌いになったのですか?」
言った瞬間、空気が凍った。
自分でも、なぜ口にしたのかわからなかった。
でも、言わずにはいられなかった。
その背中が、あまりにも遠すぎて。
次回ーー
「私のこと嫌いになったのですか」
涙するシリに、グユウは抱きしめて答えた。
「ユウは、オレとシリの子だ」
幸せの宣言の裏で、黒い影が忍び寄っていた――。
明日の17時20分に更新します。産後 私のこと嫌いになったのですか?
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