この夜に、すべてを許す
開け放たれた寝室の窓から、美しい夏のさざめきの空気が漂っていた。
遠くでは宴の余韻が残り、時折、笑い声や話し声が風に乗って届く。
窓辺に立つシリの前には、月明かりに揺れるロク湖が広がっていた。
その背後から、グユウがそっと近づく。
「シリ・・・」
ためらうような声。
シリには、もう分かっていた。
この口調のとき、グユウは必ずゼンシの話をする。
しかも、今朝のことがあった後だ。
なおさら、言いにくいのだろう。
振り返ると、グユウの顔には夫というより、領主としての硬さがにじんでいた。
「いろいろあると思うがワスト領はゼンシ様に協力する」
「ありがとうございます」
シリは力強く頷く。
「ミンスタ領とワスト領の架け橋になる。それが、私の役目です」
グユウは無言でうなずくと、続けた。
「秋にはゼンシ様とともにミヤビへ行く。国王への挨拶に同行する」
「わかりました」
「昨夜はその件についてゼンシ様と話し合った」
シリは俯いて話を聞く。
「ゼンシ様は素晴らしい領主だ」
「領主としては素晴らしい人です」
でも、ひとりの男としては――。
政の話である以上、無視することはできない。
それでも、グユウの前でゼンシの名を口にするたび、胸がきしむ。
今朝の出来事を思い出し、シリは思わず唇に指を当てた。
そんな彼女の背後から、グユウがそっと抱き寄せてきた。
「グユウさん・・・?」
回された腕の力が強くなる。
「どうして、こんなふうに・・・?」
「シリが、あのまま命を絶っていたらと思うと・・・」
頭上から落ちてきたグユウの声は、痛みと悲しみに濡れていた。
「・・・それが怖かった」
シリは言葉を失った。
「オレは、シリが生きていてくれるだけでいい。何もいらない」
その声が、心に沁みる。
「過去のことは、気にしない」
グユウはそう呟く。
「・・・私は、気にします」
「兄は衝動的に私に手を出しただけです。家臣の妹や、乳母にも・・・私も同じように見られていたんでしょう」
「それはない。結婚の話を聞いた時から・・・ゼンシ様はシリのことを大切にしていると感じていた」
シリは思わずグユウの腕を振り払った。
「グユウさんは何でそんなに落ち着いているのですか?」
一度、口にした疑問は止まらない。
「私のことが好きなら・・・兄上のこと憎くないのですか?腹を立てないのですか?」
冷静であればあるほど、シリの混乱は深まった。
「一緒にミヤビへ同行することも平気なんですか?」
グユウが過去のことを気にしないのは有難い。
むしろ、グユウが怒りミンスタ領と戦が始まる方が問題だ。
けれど、全てを知った上でどうして平気な顔をしているのだろうか。
「もちろん、面白くはない」
グユウの声に、初めて感情のざらつきが混じる。
「嫁入り前にゼンシ様が行なったことは・・・憤りを感じている」
それでも、彼の瞳は静かに揺れるだけだった。
「だったら・・・なぜ?」
グユウはズボンのポケットから羊皮紙を取り出した。
「ジムの記録だ」
シリは頷く。
「この記録は・・・衝撃的なものだった」
「・・・そうだと思います」
「そして、オレはこれが・・・シリからの恋文のようにも感じた」
「えっっ」
シリは絶句した。
ーー兄との会話の内容がグユウへの恋文?
グユウは少し照れながら話す。
「この記録を読む限り、オレはシリに相当好かれているらしい」
慌てて、シリは記録を読んでみた。
確かに、ゼンシとのやりとりのなかで、自分がグユウをどう思っているかを何度も語っていた。
ーー恥ずかしい・・・。
思わず顔を覆いそうになる。
「シリが今、オレを好いているのなら何も問題はない」
グユウが背中を丸めてシリの顔を覗き込もうとしてくる。
ーー見ないでほしい。
シリは赤くなった顔を背けた。
「シリ」
優しく呼ばれた名に、彼女はそっと顔を向けた。
ーー照れている場合ではない。
口下手なグユウさんが頑張って話をしてくれた・・・。
優しいこの人に気持ちを伝えなくては。
シリは潤んだ瞳でグユウを見つめながら、震える低い声で何かを言った。
2人の手と唇は出会った。
シリとグユウの思い出の貯えの中に、もう一つ鮮やかな忘れがたい瞬間が加わった。
◇
同じ頃、レーク城内ではゼンシに不信感を抱く家臣たちが密かに集まっていた。
その中心には、グユウの父・マサキの姿があった。
「グユウ様は、あの妃に骨抜きにされておられる」
「確かに、あの美しさなら・・・」
うなずく家臣たちに、重臣オーエンが語気を強めた。
「シリ様はミンスタと通じている。ミヤビ行きも、彼女が仕向けたに違いない」
「魔女だ。グユウ様を惑わす女だ!」
オーエンの暗灰色の瞳には、強い嫌悪が宿っていた。
「もう少し、様子を見よう」
マサキはそう言って家臣たちを制した。
ゼンシが国王に挨拶に行く。
大きく時代が変わり始めた時だった。
◇
ホールを後にしたジムは、廊下の角を曲がったところでエマと鉢合わせた。
「エマ、ちょうど良かった」
ジムは声を潜めながら、意味深に呟いた。
「・・・妊娠、されたそうで」
エマは頷いた。
「それなら、そろそろ“第二夫人”の件が本格的に持ち上がるでしょうね」
エマはため息をついた後に話す。
「ワスト領の重臣たちは、そう簡単に引き下がりません。後継ぎが確定するまで、次の候補を用意するはずです」
ジムが静かに答えた。
「・・・ですが」
ジムは窓の外を見ながら、かすかな笑みを浮かべた。
「“オレにはシリがいればいい”――グユウ様は、そう仰いました」
エマもまた、かすかに微笑む。
「ええ。けれど、現実は理想ばかりじゃない・・・」
静かに、重く、そして確かに。
“明日の会議”が、すべての始まりに
次回ーー
妊娠四ヶ月。シリを悩ませるのは「第二夫人」の存在だった。
「シリがいればいい」と告げるグユウ――だが、家臣たちは承認を迫る。
揺れる想いの中、シリは一つの策を胸に秘めていた。
「第二夫人のススメ」
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