「妃はおしとやかに」ってうるさい、私は馬と鞭と自由があればいい!
「ついに、決まってしまったのね」
シリは自室へ戻るなり、靴を履いたままベッドに倒れ込んだ。
張り詰めた緊張がふっと解け、代わりにやるせなさが体の奥からじんわりと広がってくる。
その様子を見た乳母のエマは、眉根をきつく寄せた。
「シリ様、これから嫁がれるのですよ。少しは淑やかにしてください」
「はいはい」
シリはエマの言葉を半ば聞き流しながら、天井を見つめてつぶやく。
「グユウ様って、どんな人なのかしら」
その名の響きだけが、自分の未来にぼんやりと影を落としていた。
相手にはすでに妻がいたという。
それを別れさせて、自分がその代わりになる――
ミンスタ領の力に逆らえる者など、いないのだろう。
「お気の毒にね」
他人事のように口にしたが、胸の奥に渦巻く複雑な感情は隠せなかった。
「どんな方でしょうねえ・・・」
エマは鏡台に散らかった乗馬鞭を手に取り、まとめて片付けようとした。
「ちょっと、それはやめて!明日は馬に乗るから、鞭の手入れをしたいの」
シリはベッドから跳ね起きた。
「駄目です。明日から婚礼の準備が始まるのです。馬など、乗っている暇はありません」
きっぱりとしたエマの口調に、シリは不満げに顔をしかめ、再びベッドに身を投げ出した。
「ああ、嫌。結婚したら、着飾って淑やかにしないといけないんでしょう?」
「当然です。何度も話しています」
「何を?」
エマの真顔を見て、シリは首を傾げた。
まるで初耳のように。
「女性は疑問を持たず、口にせず、微笑んでいる方が可愛らしい。殿方に愛される秘訣です」
「・・・あぁ、それね」
何度も聞かされたフレーズに、シリは退屈そうに返す。
だが、本音は押し込めても、浮かんだ言葉はつい口から漏れてしまう。
「妃としての教養は、それなりに身につけたと思います」
エマはきっぱりと言った。
「エマは頑張ってる。私が不出来なだけ」
そう言って、シリは薄く笑った。
気が強く、思ったことを口にせずにはいられないシリを、「淑やかに」仕立て上げるのは、至難の業だった。
「それで・・・ワスト領のグユウ様って、どんな人なの?」
「私は存じません。というか、ワスト領自体・・・」
「小さな領よ。土地も痩せていて、冬は雪が深い。兄上から聞いたわ」
「はい、そうですね・・・」
豊かなミンスタ領とは比べ物にならない。
シリは靴を脱ぎ捨て、ベッドの上に貼った地図に目をやった。
「でも、立地はいい。王都に近いもの。それが結婚の決め手だったんでしょうね」
真剣な顔でワスト領を指差す。
エマはどう返せばいいのか悩みながら、脱ぎ捨てられた靴をそっと並べ直した。
「ほら、見て。大きな湖がある。ロク湖って言うのね。
領の大半が水で覆われている。港もなさそうだし、商業利益も望めない。
山に囲まれてるから、雪もひどそう」
金の髪を揺らしながら、シリは地図の上を指でなぞる。
「そうなんですか・・・」
エマも一緒に行くことになっているが、寒冷な地に行くのは気が重い。
シリはベッドから抜け出し、布に油を染み込ませて鞭の手入れを始めた。
「貧しいのは構わないの」
「そうですか?」
エマは少し驚いた。
たしかにシリは贅沢に興味がない。
宝石や香水にも目を向けず、服もエマ任せ。
「馬に乗れない方が、ずっと嫌」
シリは鞭を撫でながら、静かに言った。
「それなんですよ!」
エマは呆れたように声を上げる。
「女性が乗馬など、前代未聞です。ゼンシ様が寛容だから許されたのです!」
シリは唇を噛んで、やがてぽつりと呟いた。
「・・・こんなこと言っても仕方ないけど、やっぱり結婚なんてしたくない」
知らない相手と出会ってすぐに夫婦になる。
それが「普通」だなんて、おかしいとしか思えない。
「でも私は、姫なのよね」
エマは慎重に言葉を選んだ。
「姫には、選ぶ自由はありません。
どんな相手とも上手に付き合い、後継を産み、生家に情報を届ける。それが務めです」
「自由だったわ、今までは。兄上の娘なんて9歳で嫁いだのに、私はもう20歳。
十分のんびりしたわよね。・・・だから、頑張らないと」
シリはうつむいた。
「グユウ様が優しい方だと良いのですが・・・」
エマの優しい声が、部屋に静かに響いた。
「・・・子どもがいるって聞いたわ。でも、可愛がる気にはなれない。得体が知れないもの」
自分のせいで壊れた家族に、自分が入り込む。
その子どもにとって、どれだけ理不尽な存在だろう。
「結婚って、もっとロマンチックなものだと思ってた。・・・でも、文句言っても仕方ないわよね」
自嘲気味に笑いながら、シリは再び鞭を見つめた。
20歳の姫。
行き遅れの自覚はある。
だからこそ、今の相手が「釣り合い」なのだろう。
でも、心はまだ――自由だった少女のままだった。
次回ーー
美しき姫シリの婚礼準備。
その裏に潜むのは、兄ゼンシの異様な執着だった。
「兄の視線が気持ち悪い」




