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明日があるという希望

「これを1人で書いていたのですか?」

書斎でシリの声が響いた。


チク島から戻ると、陽はだいぶ傾いていた。


あっという間に時間が流れる。


「350名ほど書いた」

グユウは淡々と答える。


机の端には羊皮紙が山のように積み重なり、わずかに傾いて今にも崩れ落ちそうだった。


封蝋の赤が一つ、また一つと増えていき、机の上に点々と咲いた花のように並んでいる。


その一枚一枚に、家臣の名と感謝の言葉が刻まれていた。


この量を、多忙な領務の合間にグユウが書いていたと思うと驚く。


「いつから・・・?」


「シズル領が攻撃されてからだ」

グユウは静かに答えた。


その時から、グユウは覚悟を決めていたのだろう。


夜遅くまで、グユウが書斎に引きこもっていた理由がわかった。


レーク城に残っていた家臣の数は500名程。


「あと150通ほど残っている」

これを残り3日間で書き上げないといけない。


「やりましょうか」

シリは微笑み、着替えもせずペンを取った。


「お手伝いをします」

ジムが封蝋の準備を始めるために火を起こす。


「紙を折る事なら、私でもできます」

エマはそう言い、インクが早くに乾くように厚紙を取り出した。


「・・・感謝する」

グユウの瞳は揺らめいた。


シリはグユウの書いた文面を読んだ。


キレイな文字で、家臣の名前を書き、

これまで仕えてくれた感謝の言葉が綴られていた。


ーーなんて優しい領主なんだろう。


何度も思った事がある。


争いがなく、平和な時代だったら、

グユウは素晴らしい人格が備わった立派な領主になっていただろう。


家臣だけではなく、領民にも優しかった。


城下町で暮らす人々は、グユウに尊敬の念を抱いていた。


こんなに優しく、思いやりが溢れるグユウが争いに敗れ、残酷で利己的なゼンシが勝つ。


争いの勝敗と人柄は関係ないと頭ではわかっていながらも、天はゼンシを選んだのだろうか。


行き場のない想いは書面を書くことで紛れた。


ーーこれを書くことで、家臣の仕え先が得られるのなら。


そう思うだけで救われた気持ちになる。


死が間近に迫っている今、他人のためにする事は自分の心を救うことになる。


書斎はペンを走らせる音、インクを乾かす静かな音、

羊皮紙を折りたたむ音、ジムが封蝋を押す音が響いた。


「羊皮紙が・・・」

書き続けるうちに羊皮紙がなくなってしまった。


「取りに行きます」

ジムが動こうとするのをグユウが制した。


「少し身体を動かしたい」

グユウが羊皮紙を持ってくるために書斎から出たので、ジムも後に続いた。


廊下を歩くグユウに、ジムは後ろから声をかけた。


「私の感状はいらないです」


机に積まれた紙の山が、ジムにはもう自分に無縁なものに思えた。


怪訝な顔でグユウは振り返る。


「この年齢です。新しい仕官先に行かなくても良いです」


それは日常の報告をするような穏やかな声だった。

けれど、その穏やかさがかえって重く、死を覚悟した者の静けさだと、グユウは直感した。


「ジム!!」

グユウは目を見開く。


それは、ジムがグユウと共に命を散らすことを意味した。


戸惑うグユウにジムは諭すように話した。


「私には家族がおりません。孫のマナトはシン様のそばにいますし・・・悲しむものは少ないです。

最後までグユウ様のそばにいさせてください」


「ジム。オレは1人で逝くつもりだ」

グユウは静かに話す。


「私があの世へ行ったら、先に逝った妻が待っているはずです」

ジムは微笑んだ。


ジムには、出産と引き換えにこの世を去った妻がいた。


「ジム・・・」

グユウは言葉に詰まる。


「私が介錯をします」

ジムは、いつもの領務に取りかかるような口ぶりで話す。


ヒトは腹を切っても死なない。

腹部を切開しても太い血管が通ってないため、すぐに失血死をしないのだ。


その間、もがき苦しむことになるので介錯が必要となる。


介錯は、切腹に際し、本人を即死させて、

その負担と苦痛を軽減するため、背後から首を剣で切る行為だった。


死した後、遺体の世話をすることも含まれる。


残酷な任務だ。


それを長年、連れ添ったジムにさせることが、どれほど辛いことか。


グユウは何かを言おうとしたが、ジムの瞳が揺るがない事を見て唇を閉じた。


沈黙の後、


「・・・感謝する」

グユウは声を詰まらせながら、幼い頃から自分を見つめ続けていた灰色の瞳を見下ろした。


その瞳は、最後の時まで揺らがない覚悟を湛えていた。


「光栄です」

ジムは一礼をした。


その静かな声が、かえってグユウの胸を抉った。




「シリ様、少し休憩をしましょう」

グユウとジムが部屋から出た後に、エマがお茶を淹れはじめた。


「そうね」

シリは返事をしたまま、作業に没頭していた。


「休みましょう」

エマは頃合いを見て羊皮紙を奪った。


そうでもしないと、シリは休まない。


「グユウさんは着々と準備をしているのね」

シリは書きすぎて強張った指をカップで温めるように包んだ。


「強いお心がないと・・・できないことです」

エマはつぶやいた後に、シリの顔を見つめた。


若く健康なのに、愛するもの達と別れ、

「生きたい」と思いながら、間近に迫る死の準備をする。


考えただけでも恐ろしいことに思えた。


シリは黙ってうなずいた。


「様々な苦しみを経験されるから・・・心が強くなれるのでしょうか」

エマはポツリと言葉をこぼした。


「私は苦しまないで幸せを手に入れたいのよ」

シリは思わずつぶやいた。


その後、慌てて口にした。


「そんな事を言っても仕方がないことだわ」


領主や妃は弱音を口にしないように教育されていた。


グユウとジムが書斎に戻ったので、再び感状を書く作業に没頭した。


ろうそくの灯りでも手元が見えなくなった時に、ジムが切り出した。


「遅い時間です。休みましょう」


「かなり作業が捗った」

グユウが積み上がった感状を指でなぞった。


「これだけ進めば、明日の午前中には作業が終わるでしょう」

ジムが受け持った。


シリは手を上にあげ背筋を伸ばした。


作業に集中しすぎて、首や肩がガチガチだ。



夜が更け、月が高い所で冴えた光を放っている。


静まり返った城内の廊下を、グユウと2人でゆっくりと歩く。


「今日は助かった」

月明かりの下でグユウがシリに伝えた。


「ええ。明日で終わりそうなので・・・良かったです」

シリがグユウを見上げた。


日付が変われば・・・あと2日で争いが・・・最後の争いが始まってしまう。


寝室の窓の外では夏の虫が鳴いていた。

いつもの音のはずなのに、シリにはどこか遠い世界のもののように聞こえた。


寝室の片隅に置かれた衣服が、月明かりに白く浮かんでいた。


その日の夜は、2人は何度も抱き合った。


寝室のベットの中では領主と妃ではなく、ただの男と女だった。


今、重ねられる時間を無駄にはしなくない。


腕の中でシリが、妃としての凛とした姿から、とろけたように甘えねだり、グユウを受け入れる女性になる。


そんなシリを、グユウはただただ好きだった。


結婚して5年経つけれど、妾の必要がないほどシリに夢中だった。


ーー本当は四六時中抱いて、隣にずっといたい。


「好いている。好きだ、シリ・・・好いている。シリ・・・」


シリを掻き抱き、譫言のように同じ言葉を行ったり来たりつぶやく。


続きをねだると、

「明日も感状書きがありますから・・・」

呆れたように、けれど、その音色は柔らかく止まられる。


仕方がないと諦めたグユウの顔が、露骨だったのだろう。


「明日もありますから・・・」

シリが言い聞かすように微笑む。


共に過ごす日々が残りわずかになってしまう。


それでも「明日がある」という言葉だけが、確かな救いだった。



次回ーー


500通の感状が終わり、

「終わったわ」と微笑むシリの横で、

グユウは静かに未来への覚悟を固めていた。


明日は家臣に別れを告げ、

その翌日は――最後の争いが始まる。


夕焼けの中で、

「最期まで一緒にいるわ」と手を重ねた二人の影だけが、

ひとつに寄り添って揺れていた。


今日の17時20分 終わりにむけての準備

エピソード78 夫にお願い 兄を殺してください を大幅に加筆修正しました。


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