血に濡れた帰還
「父上・・・本当に来るのですか?」
オリバーはカツイに声をかけた。
「来るはずだ。シリ様が話すのだから」
カツイはじっと対岸を見つめている。
2人はシリに命じられ、森の奥に待機していた。
崖のむこうにはブラックベリーが生えており、ムクドリがその実に群がっている。
「あぁ、ムクドリを打ちたいな」
オリバーがため息をつく。
この崖の向こうで、ムクドリを打ち落とし、シリに褒められたことが遠い昔に感じた。
崖をつなぐ橋は壊され、今では行けない場所になっていた。
森の奥で何かが動く気配を感じた。
カツイがオリバーに黙るように目配せをする。
ーー敵兵か・・・獣か・・・。
息を殺して木々が揺れるのを見つめると、
揺めきながらオーエンが木々の間から出てきた。
「オーエン!!」
カツイが声を出した。
オーエンはカツイを見たあとに、崖の端にヨロヨロと歩き、その後ガックリと地面に膝をついた。
「オーエン聞こえるか?」
カツイが声をかけた。
オーエンは肩で息をしているので返事ができない。
「オリバー弓を放て」
カツイは細い紐がついた矢を手渡した。
この長い紐の先にロープが結び付けられている。
オリバーは慎重に矢を放ち、矢は対岸の地面に突き刺さった。
「オーエン、お前ならやり方を知っているだろう?」
カツイが声をかける。
吊り橋の作り方は、シリとオーエンが考えたものだ。
ゆっくりと起き上がったオーエンは、矢についていた紐を杭にくくりつけた。
「父上・・・オーエン様の様子が」
オリバーは小声でカツイに話しかけた。
「・・・怪我をしているのだろう。ここでは・・・どうにもできない」
カツイが切なさそうに眉を顰める。
オーエンは荒い息をしながら紐を引っ張った。
紐の先はロープが繋がっている。
「オーエン、大丈夫か?」
カツイが声をかけると、
「大丈夫だ」
息苦しそうに返答が返ってきた。
震える手が、習い覚えた動きをかろうじて繰り返す。
何度も息が途切れながら、それでも橋は繋がった。
結び終えた瞬間、オーエンは糸の切れた人形のように倒れ込んだ。
「オーエンを迎えに行く」
カツイは武具を脱ぎ捨て身軽な格好になった。
「父上が・・・ですか?」
オリバーが目を見開いた。
カツイは高いところが苦手だった。
数年前、吊り橋が渡れないと半泣きしたことは記憶に新しい。
設置された吊り橋は、風に揺めき儚げな雰囲気が漂っている。
簡易的とはいえ、見るからに頼りない。
しかも、怪我をしたオーエンが紐を結んだのだ。
耐久性はどうだろうか。
不安材料ばかりが浮かぶが、とにかく渡るしかないのだ。
「オリバー、もし橋が落下したらレーク城に知らせるように」
カツイの指示にオリバーは瞳を揺らした。
カツイは素早く吊り橋を渡り、オーエンの元に辿り着いた。
「オーエン」
カツイが無我夢中でオーエンの身体を抱き寄せる。
その瞬間、手に生暖かい感触が走り、目にしたのは真っ赤に染まった掌だった。
胸が締めつけられ、息が止まる。
怖い。
――これほどの血を前にして、何をすれば助けられるのか。
それでも逃げてはいけない、と己を叱りつけ、カツイの手は震えをおさめようとした。
オーエンの衣類は血で染まり、その血がじっとりと衣類を重くした。
衣類を上に上げると、脇腹からお腹にかけて大きな切り傷があり、
止血した布が血に染まって、真っ赤になっている。
カツイは息を呑んだ。
ーーこんな傷で歩いてきたのか。
出血がすごい。
「止血・・・止血だ」
カツイは震える声で周囲を見渡すと布はどこにもない。
自分のシャツを脱ぎ、それで止血をする。
戦力、闘争心がないカツイは、戦場では戦うことよりも、傷の手当てをすることが多かった。
オーエンの傷を見て、絶望的な気持ちになった。
「城に戻ったら手当てをしましょう」
カツイはオーエンに声をかけた。
「オーエン、立てるか」
カツイの問いかけにオーエンは黙ってうなづいた。
カツイの手を借りて立ち上がるが、失血のため今にも倒れそうな雰囲気だ。
ーーこの状態で橋を渡るのは危険すぎる。
次の瞬間、カツイはオーエンの膝の裏に手を添え、
オーエンを背負った。
普段のオーエンなら絶対に従わないであろうが、
今ではカツイの背中に身を委ねた。
カツイは慎重に無我夢中で吊り橋を渡り、崖に足をついた瞬間、
ヘナヘナと力が抜けた。
「父上!!」
オリバーが駆け寄る。
「今の方が怖い」
カツイは力なくフニャリと笑った。
「オリバー 吊り橋の杭を抜いてくれ」
オーエンが弱々しく頼んだ。
オリバーは血だらけのオーエンの姿に息を呑んだ後に、
無言で杭を抜いて崖の下に落とした。
これをすることで敵兵は、レーク城に行けなくなるのだ。
「オーエン、馬に乗れるか?」
カツイは声をかけた。
カツイの背中はオーエンの血で赤く濡れていた。
「もちろんだ」
オーエンは言ったが、その足は震え、
乗馬はカツイとオリバーの手を借りる必要があった。
オーエンの後ろに座ったカツイは、素早く紐を取り出し、
オーエンと自分を結んだ。
この紐は落下防止のためだった。
青白い顔をしたオーエンは、カツイの背中にもたれ、
小さな掠れた声で話した。
「感謝する」
「オリバー、先にレーク城に行って看護できるように準備してくれ」
カツイが命じた。
「はい」
オリバーは力強く返事をして馬を走らせた。
「オーエン行くぞ」
カツイが手綱を持ち、馬をゆっくりと走らせる。
「カツイ・・・」
オーエンは掠れた声で話す。
「話すと疲れる。喋らない方が良い」
カツイが話す。
「俺が力尽きたら・・・この話をグユウ様に伝えてくれ」
オーエンは途切れ途切れ話す言葉に、カツイは真剣な顔で聞いた。
ゆっくりと馬を走らせ、レーク城に辿り着いた。
城門前にシリとグユウ、重臣達が不安げな顔で待機していた。
グッタリとカツイにもたれたオーエンの顔を見て、
シリは胸の奥を引き裂かれるように叫んだ。
「オーエン!!」
その声は鋭く空気を裂き、城門前の人々の息を奪った。
シリの声にオーエンは、ゆっくりと瞳を開いた。
ぼんやりとした意識の中で、自分は馬から降ろされたことを知る。
「グユウ様・・・グユウ様!!」
オーエンがその名を呼ぶ。
「オーエン、ここにいる」
しっかりとした声が上から降ってきた。
馴染みの黒い瞳が見える。
オーエンは目を見開き、息を吸い、気力を振り絞って起き上がった。
グユウの顔をしっかりと見つめ、震える声で伝えた。
「マサキ様は・・・襲撃され亡くなりました」
そう伝えた後、オーエンは意識を手放した。
その言葉は、雷のように場を打ち抜いた。
誰も声を出せず、ただ風の音だけが耳に残った。
次回ーー
瀕死のオーエンが運び込まれ、
シリの前で、最後の想いを告げて息を引き取った。
若き騎士の死――
それはワスト領に、静かで深い“喪失”の始まりを告げる出来事となる。
「ずっと、あなたが好きでした」




