その備えは、未来を信じていた ―崖の向こうに、生きていると信じて―
扉を叩く音で、グユウは目を覚ました。
胸の奥に嫌な予感が湧き、ガウンを羽織りながら扉へと歩み寄る。
扉を開けた先には、早朝には似つかわしくない表情のジムが立っていた。
「どうした」
グユウの声に緊張が滲む。
「早い時間にすみません。マサキ様の館が襲撃されたようです」
珍しくジムが早口で話す声が聞こえた。
「すぐ行く」
グユウの声が硬くなった。
一連の声をベッドで聞いていたシリは、暗い気持ちで起き上がった。
雨はいつの間にか止み、夜明け前の青い空がカーテンの隙間から見えた。
「私も一緒に行く」
シリは叫び、急いで身支度をした。
雨が止んだばかりの草を踏みしめながら、シリは足を速めた。
まどやかで心地良い色と音に満ちた素晴らしい朝だった。
何も不安がなければ、この早朝の景色にシリは喜んでいただろう。
しかし、シリとグユウは不安を抱いて静かに歩いて行った。
レーク城からマサキの館まで歩いて15分ほどの距離だ。
城と館の間には深い谷があり、橋を渡らないと通れない。
近づくにつれ、マサキの館の方から男達の騒ぐ声が嵐のように聞こえてきた。
「あぁ・・・」
シリは悲痛な声を上げた。
橋が壊されている。
鬱蒼とした木々の間に見え隠れする館は、数筋の煙が上がっているが健在だ。
けれど、マサキとその家臣達が無事なのかはわからない。
駆けつけた重臣や家臣達が続々と、橋のそばに集まってきた。
サムもチャールズも顔色を失って立ちすくんでいる。
「夜中に襲撃された」
グユウがつぶやく。
「あの雨の中・・・崖を登ったのか」
サムは信じられないと言わんばかりに呆然と話した。
「マサキ様は・・・」
カツイが心配そうに声をかけた。
「安否不明です」
ジムが答えた。
橋が壊され、連絡が途絶えた。
マサキが生きているのか、死んでいるのか、それすらわからない。
「館にはオーエンがいた。無事だと信じたい」
グユウが青ざめた顔でつぶやいた。
ーーどうしようもなかった。
グユウと重臣達は深刻な顔で打ち合わせをしていた。
「シリ様・・・城に戻りましょう」
じっとマサキの館を見つめているシリに、遠慮がちにカツイは声をかける。
オーエンがいたら、シリを連れ戻していただろう。
そのオーエンがいないのでカツイが声をかけた。
「カツイ、お願いがあるの」
シリは声をかけた。
「何でしょうか」
カツイの瞳は不思議そうな色を浮かべた。
「カツイ、覚えている?この崖の辺りにロープを5箇所配置したの」
湖風に髪をなびかせながら、シリは館の横を走る崖を指差した。
あの時、崖の上でロープを張るよう命じたときのカツイの顔は、今でも忘れられない。
半泣きで腰を引き、足元を見ては「死ぬかと思った」とぶつぶつ文句を言っていた。
それでもシリが真剣な顔で「今ここを越えられる仕組みを作るしかない」と諭すと、
しぶしぶ命令に従ってくれた。
今では笑い話のようだが、当時は誰もがこの備えが使われる日が来ないことを願っていた。
カツイは目を見開いた。
ーーそういえば・・・用意をしていた。
以前からシリは、レーク城とマサキの館をつなぐものが橋しかないことを危惧していた。
争いが始まる3年前に、オーエンと話し合い、備えとして簡易的な橋を考えた。
「オーエンに話したの。何かあればその橋を使って欲しい・・・と。
オーエンなら・・・きっと覚えているはず」
シリは希望を込めて館を見つめた。
「きっと・・・そうだと思います」
カツイの声に力が宿った。
「カツイ、オリバーと一緒に崖のそばで待機してくれる?」
カツイはシリの願いに素早く首を縦にふった。
オリバーはカツイの息子だ。
その橋は対岸に人がいないと作れない仕組みだった。
誰かが待機しないと橋は渡れない。
「ブラックベリーが生えている茂み・・・あそこが一番館から遠いわ。
・・・あそこなら、誰かが来られる。もし無事なら、きっとそこに現れる」
シリはつぶやく。
「そこには何度も行っています。息子と一緒に待機しています」
カツイが真剣な顔で話した。
「馬を二頭使って。グユウさんには私の方から話しておく」
次回ーー
降伏という“救い”が差し出されたその日、
シリとグユウの胸に、一瞬だけ希望の灯が宿った。
だが――キヨが持ち込んだ条件の裏で、まだ誰も知らない“罠”が静かに動き始めていた。
登場人物
シリ
ワスト領の妃。聡明で勇敢。敗戦を覚悟しながらも、領民と家族を守ろうとする。
オーエンに厚い信頼を寄せ、最期まで城に残る決意を固めている。
グユウ
ワスト領主。寡黙だが誠実。
義父マサキを救うため、壊された橋を前に苦悩する。
オーエン
重臣。冷静で忠義に厚いが、シリへの想いを胸に秘めている。
マサキの館に滞在中、敵襲に巻き込まれる。
マサキ
グユウの父。老いてなお領の誇りを守ろうとするが、襲撃を受ける。
ジム
重臣。グユウに一番近い老臣。
カツイ
重臣。慎重で臆病な性格だが、グユウとシリに忠誠を誓う。
息子オリバーとともに、崖際で「もうひとつの橋」の再建を試みる。
オリバー
カツイの息子。父の意志を継ぐ若き兵。




