雨にかき消された最後の笑い声
「これから義父上の館に行くの?」
リネン室を後にしたシリは、オーエンに尋ねた。
「はい。口にはしませんがマコ様がいなくなってから、マサキ様は寂しそうなので。
今夜は館に滞在する予定です」
ホールへと続く階段を登りながら、オーエンは答える。
「義父上はオーエンが側にいて嬉しいはずよ。絶対に口にはしないけれど」
親しいものだけに話す軽口をシリは叩いた。
明るいホールに辿り着くと、お互いひどい格好になっており笑ってしまった。
ボロ布の中に飛び込んだので、髪や服に無数の糸屑がついている。
「オーエン、すごい糸屑よ」
シリは笑いながら、オーエンの前髪についた糸をとる。
「シリ様もひどい格好です」
髪の長いシリの方が被害は大きかった。
オーエンは包帯に使用する布をシリに手渡した。
「気をつけて」
土砂降りの雨の中、城から出るオーエンを見送る。
「ありがとうございます」
見送るシリの姿にオーエンは思わず微笑んだ。
髪に無数の糸屑がついている。
その様子は美しいと言うより、面白さがあった。
結局、オーエンはどんなシリでも好ましいと思ってしまうのだ。
ーーこの愛おしい女性が望むことなら・・・何でもする。
扉を閉めると滝のような雨が降り注いでいた。
「糸屑を落とすには・・・ちょうど良い」
そう言いながら雨で煙るマサキの館へ足を進めた。
「どうして、リネン室に行くだけで、こんな髪になるのですか」
エマは呆れ果てたように話す。
「ボロ布の中に突っ込んだの」
シリは言葉を濁しながら話す。
ーー不本意とはいえ、家臣と抱き合ったことなど口に出してはいけない。
エマはため息をつきながら、洗髪の準備を始めた。
「今日が雨で良かったわ」
争いがある時は、のんびりと洗髪などしてられない。
「ええ。髪の毛を洗うには相応しい天気です」
エマは皮肉まじりで答えた。
「誰かが城から出たわ」
ユウの澄んだ声が部屋に響く。
「オーエン様でしょうか」
落ち着いた声でシュリが答えた。
セン家の長女ユウと、乳母の子供シュリは窓から、
雨の中を歩くオーエンの姿を眺めていた。
2階の西側の部屋は、眺めが良く2人のお気に入りの場所だった。
ここで父と母が語り、抱き合い、口づけをしていた所を見たことがある。
目の前にある丘は、敵である兵が右往左往しており、
その奥には、母が好きだと話していたロク湖が見える。
今日も椅子を引っ張り出し、2人は窓の外を偵察していた。
シュリの母はユウの乳母 ヨシノだ。
血のつながりはないけれど、同じ女性の乳で育てられたので、
2人の関係性は乳兄姉になる。
兄姉同様に養育されるので、乳兄妹は身内以上に信頼できる家臣になる。
仲が良かったシンがいなくなり、一番落ち込んだのはユウだった。
ユウは窓辺に肘をつき、爪で木枠をかりかりと削っていた。
外を見ているようで、何も見ていない。
声をかけようとしても、視線は雨粒を追うばかりで、こちらを見ようとはしない。
『ユウ様をお支えするように』
乳母である母 ヨシノに命じられ、シュリは黙って頷いた。
生まれた時から一緒にいたので、ユウの考えていることは何となくわかる。
けれど、落ち込んでいるユウを、どうやって慰めていいのか。
その方法がわからなかった。
「ここにいましたか」
振り返ると、乳母ヨシノが佇んでいた。
「窓の外を見ていたの」
ユウが振り返らず答えた。
「お父上とお母上が子供部屋で待っていますよ」
ヨシノが声をかけた。
「本当?」
ユウは嬉しそうに椅子から飛び降りた。
「はい。今日は雨ですから」
雨が降っている時は、争いは中断される事が多い。
父と母が子供部屋に来てくれる。
嬉しそうに走るシリの後を、無言でシュリは追いかけた。
シリとグユウは、子供部屋のソファーに座っていた。
籠の中にいるレイはグッスリと眠っている。
洗い立てのシリの艶やかな髪が、ろうそくの光を受けて鏡のように輝いていた。
シリの膝の上に座ったウイは、心底羨ましそうにシリの髪を見つめる。
「父上、これ何色だと思う?」
ウイはグユウの目の前に自分の髪を見せる。
グユウは女性の髪の色には詳しくなかった。
けれど、この場合迷う必要がなかった。
「茶色・・・だろ?」
ウイが不満そうな顔をしたので、シリは慌てて口添えをする。
「金褐色よ」
ウイはため息をつきながら、その髪の毛を手から離した。
「茶色・・・土・・・畑の土と同じ色・・・」
ウイがつぶやく。
「ウイの髪の毛はキレイよ」
シリが褒めると、ウイは納得しない表情をした。
「大人になったら母上みたいに金髪になれるの?」
ウイは真剣な顔で質問をした。
「オレとシリの髪の色が混ざった色だ。ウイの髪と瞳は・・・気に入っている」
グユウがつぶやくと、ウイは少しだけ顔の表情が緩む。
「あなたの瞳の色は夜明けの空のよう」
群青色のウイの瞳をいつも褒めた後に、シリは必ず伝えていた。
「・・・あなたが産まれた時は嬉しくて幸せだった」
ウイは、シリとグユウにとって3人目の子供だ。
1人目のシンは、グユウと前妻の子供、2人目のユウは、シリとゼンシの子供だった。
2人にとって初めての子供がウイだった。
シリの発言に、ウイは満足げな顔をする。
廊下の方から軽快な足音が聞こえ、ドアが開かれ、
母親譲りの美しい金髪を持つユウがグユウの腕の中に飛び込んできた。
久々に笑い声と歓声が子供部屋に響く。
外では激しい雨が音を立てて窓を打ちつけていた。
肌寒い午後だったけれど、暖炉の炎のお陰で暖かい。
ユウとウイは競うように、グユウに話しかけ、
グユウは多くは語らないけれど、黒い瞳は優しさが滲んでいた。
シリは、この日の暖かい穏やかな平和な景色を、いつまでも覚えていた。
それは悲しみが訪れる前の最後の夜だった。
一度、その悲しみに触れると、もう2度と元には戻らない。
◇◇
激しい雨が石か氷を投げつけるように降り続いている。
背の高いポプラの木が雷に打たれて倒れた。
松明を掲げたキヨが200名ほどの精鋭を鼓舞する。
「ワシについてこい。この雨なら敵は油断している!
この崖をよじ上って、ワスト領のマサキの首を切るぞ!何としても敵を倒す!! 」
視界が遮る暴風雨の中、密かに兵達はマサキの館にむけて足を進めた。
息を切らして崖を登り切ると、予想通りマサキの館は静まり返っている。
完全に油断をしている。
キヨはニヤリと笑った。
エルに、館とレーク城をつなぐ橋を壊すように命じた。
エルと兵達は、斧を取り出し橋を壊した。
これで、マサキとグユウの父子の連携は途絶える。
交渉が優位に進むだろう。
キヨは背中に背負っていた槍を手に大音量で号令を下した。
「それ、かかれ、かかれぇーーーー!!」
キヨの咆哮が雷鳴と重なり、雨に煙る崖に轟いた。
「おおおおおっ!」
二百の兵が一斉に声を上げ、泥を蹴り上げて突進する。
稲光が槍先を白く照らし、刃は一瞬だけ炎のように閃いた。
暴風雨の中、鬨の声は嵐をも圧するほどに響き渡った。
次回ーー
雨上がりの朝。
壊された橋の向こうから、黒煙がゆらゆらと立ちのぼる。
マサキの館、消息不明。
オーエンの安否も知れぬまま、レーク城には緊張が走った。
けれど、シリの瞳はまだ消えていない。
――三年前、彼女が密かに備えた“もうひとつの橋”が、
今まさにその命をつなごうとしている。
今日の17時20分 襲撃 希望をつなぐ




