恋は静かに芽吹く
結婚して半月が経った。
シリは新しい環境に少しずつ慣れてきた。
城の家臣、侍女、女中、馬丁、庭師――
顔を合わせれば挨拶が交わされ、穏やかな空気が生まれた。
馬が好きなシリにとって、馬丁との会話はささやかな楽しみだった。
優しい目をした馬のたてがみをブラシで整えるたびに、エマはいつものように眉をひそめる。
「馬ではなく、ご自分の髪を手入れしてくださいませ」
そんな小言さえ、今は少し嬉しい。
赤子のシンは、シリと目が合うたびに笑ってくれるようになった。
たとえそれが生理的な反応であっても、笑顔を見るたびに胸の奥がくすぐったくなる。
ーー母親の代わりにはなれない。
でも、できるなら近い存在でいたい――そんな願いが芽生えていた。
けれど、そんな中でも一人、露骨に敵意を見せる者がいた。
重臣と呼ばれるには若すぎる青年だった。
顔立ちはグユウとは違うが、別の意味で目を引く。
ガッチリとした顎に、大きな暗灰色の目をしている。
身長は高いほうだ。
シリと同じぐらいある。
彼は、シリに出会うたびに眉をひそめ、一応の礼をする。
その態度からは、頭を下げたくないけれど、一応妃だから下げよう。
そんな心の裡が読める。
「彼は誰?」
シリがジムに尋ねると、即座に返答があった。
「オーエン。マサキ様の直属の若手重臣で、最年少で任命されました」
――23歳。グユウと同い年だ。
その年齢で重臣とは、きっと才ある人物なのだろう。
だが、その警戒心がシリに向けられているのは明らかだった。
シュドリー城では女性らしく振る舞おうと我慢をすることが多かった。
レーク城ではやってみたいことを気にせず行うことができた。
それは“そのままで良い“と話してくれたグユウのお陰だった。
そんな訳で、今日も昼下がりにグユウ、ジム、カツイと共にりんごの木を見に馬を走らせた。
乗馬をするシリの姿は、近くに住む領民たちの話題になっていた。
凛々しく馬を操るシリを見て、この地域の女の子たちは乗馬に憧れを抱くようになってきた。
1週間前まで満開だったりんごの花は半分以上散り、緑色の葉っぱが濃く繁るようになっていた。
ここからどうやって赤いりんごの実になるか想像ができない。
グユウに問うと短い返事がきた。
「秋になればわかる」
シリとグユウとの会話はシリが話すことがほとんどだった。
グユウから話題を提供することもない。
それについてはシリも承知の上なので、グユウはシリからもたらされる他愛のない話題を
聞いては時々、「ああ」「そうか」と相槌を打つだけだった。
シリが話す、レーク城での日々の細やかな出来事、
シンがいかに可愛く成長しているかに耳を傾けてくれる。
上手な切り返しや会話の応酬ができないけれど、
それでも、最近はその黒い瞳が、優しさを帯びるようになっていた。
シリはグユウのわずかな表情や眼差しで何を考えているか。
何を思っているのか察するようになってきた。
シュドリー城で、気が短く気性が激しいゼンシと暮らしていた事で培われていた観察眼だった。
結婚式で直感した通り、グユウは話すことよりも瞳で気持ちを表現することが多い。
真っ黒の瞳が薄いまぶたの動きにあわせてて、長いまつ毛が揺れる。
グユウの感情を読み取ろうと瞳を見つめるたびにシリは頬に血が上るのを感じた。
そうやって日々を重ねることで、2人の空間、
そして城の中では絶えず優しい空気に満たされていた。
シリはグユウの姿を見るたびに、胸の奥が痛むようになってきた。
こんな感覚、初めてだった。
――これが、恋?
まさか自分が恋をするなんて。
それも政略結婚の相手に。
恋をしたら幸せな気持ちになるだろうと思っていた。
現実は違う。
胸の奥が絶えず痛くなり、顔を赤くなり、動悸がうるさく、癇癪を起こしたり、
涙が出たり感情の制御ができなくなる。
この想いは、自分だけのものとして――
宝石のように、心の奥にそっとしまっておく方が美しい気がした。
夜になると、
シリがそっとグユウの袖を控えめに引っ張り、口づけを求めることが多かった。
あからさまな仕草なのに、グユウはいつだって照れたように問う。
「口づけをしていいか?」
わざわざ質問をする。
「良いですよ」
照れ隠しでシリは拗ねたような顔をしてしまう。
それに気づいたような微笑を浮かべて、グユウは静かに唇を重ねる。
そのたびに、シリの胸は震えた。
グユウさんは、私のことが――好き?
「嫌いではない」ことは、わかる。
けれど、どうしても、それ以上を望んでしまう。
結婚は領と領を結びつけるものであって、愛情は芽生えない。
それは理解している。
でも、グユウの優しい目を見ると勘違いしそうになる。
子を成すために、こんなに優しいのだろうか。
政略結婚なのに・・・勘違いしてしまう。
目を閉じると、柔らかいものが頬をすべった。
それは唇であることに、すぐ気がついて、
押し当てられた柔らかさに思わず笑ってしまう。
嫌ではなかった。
それどころか、どうしようもなく胸が震えて、もっと触れてほしくなる。
私だけがこんな想いをしているのだろうか。
目を開けると、黒い瞳をそのまま捕まえ視線をからめる。
シリの方から唇を寄せた。
グユウさんは私のことをどう思っているのだろう。
気になるけれど、聞けなかった。
次回ーー
政略結婚に愛情はない――そう思っていたのに。
やさしい黒い瞳、触れた唇、ふいに熱くなる胸の奥。
シリの心は静かに恋に落ちていく。
その中ーーシリに敵意を向けた眼差しがーー




