今度こそ、絶対的な勝利を掴み取りたい――そして妃は立ち上がる
「シズル領は必ず撤退するだろう。逃さぬように十分注意せよ!」
ゼンシが宣言をし、先頭に立ち馬を走らせた。
この3年間、何度も激戦を繰り広げていたワスト領。
ーー小領のくせに、しぶとく生き残っていた。
その影には協力領のシズル領があった。
ワスト領を確実に滅ぼすためには、味方のシズル領の滅ぼす方が容易い。
今度こそ、絶対的な勝利を掴みたい。
ゼンシの後ろをゴロク、ビルを始め多くの兵がついてきた。
キヨとエルはレーク城の監視を任された。
◇◇
「ミンスタ領の兵が迫ってきています」
スパイからの知らせにトナカの顔色が変わった。
「レーク城ではなく、こちらを攻めるのか?」
トナカの声にスパイは黙ってうなずいた。
ーー不意打ちだ。
争いの準備をせずに野外戦になる。
この状況で戦闘は難しい。
「すぐに城に戻るぞ。城に戻って争いの準備をする」
撤退を決断した。
馬を返したトナカは、誰にも聞こえぬように奥歯を噛み締めた。
重臣たちの叫び声と、退く兵の足音の中で、自分が選んだこの決断が、
どれだけの命を犠牲にするのかを思い知っていた。
ーーグユウ、シリ・・・力になれず・・・すまない。
声には出さず、心の中でそう呟いた。
皮肉にもゼンシの予言は見事に当たった。
ゼンシは愛馬に鞭を打ち、驚異的なスピードでシズル領の兵を追いかけた。
すぐ近くにシズル領の兵が見える。
退戦中の戦意がない兵を打つのは、百戦錬磨のゼンシにとって容易いことだった。
その日の夜、月の光を浴びたゼンシは満足そうに周囲を見渡した。
無数の死体がゼンシの周囲を取り囲んでいた。
異様で恐ろしい光景の中、ゼンシは薄く微笑んでいた。
「3000はいったか」
ゴロクに問いかけた。
「はい。3800名は超えているかと。今、死体を数えさせています」
ゴロクが答えた。
「抵抗する家臣もいたが・・・圧勝ですね。
シズル領の軍事中核を成していた重臣は、ほとんど死にました」
ビルが満足そうに報告をした。
「ゼンシ様、勝利の兆しですな」
「・・・当然だ。裏切り者には、こうして報いを与えるのが筋というものだ」
ゴロクはその言葉に込められた怒気に気づき、言葉を飲み込んだ。
「シズル領の領主は?」
月光の中で佇むゼンシの瞳は鋭く光った。
「少数の手勢のみを率いて逃げています」
ゴロクが報告をした。
「必ず探せ」
ゼンシが顎を上げて命令した。
◇◇
月が特別黒い雲から意気揚々と顔を出した。
シリは黙って廊下で月を眺めていると、ウイが駆け寄ってきた。
争い中は多忙な両親に会えないことが多い。
幼いウイにとって、城内で母に逢えることは嬉しい出来事だった。
母は悲しげな顔で月を眺めていた。
そっと近づいて、シリのドレスの裾を遠慮がちに握った。
「ウイ、どうしたの?」
母は微笑んだけれど、その青い瞳は揺れている。
「お月様って悲しいお顔のようね」
群青色の瞳で、シリを見上げながらつぶやいた。
シリはウイの柔らかくて暖かい身体を抱きしめながら、2人で月を眺めた。
ウイの言う通り、月は悲しい顔のように見えた。
少し欠けた月は、
あたかも恐ろしい光景を見下ろしているように苦悶し、やつれた顔のようだった。
ーー月はシズル領では何を見ているのかしら?
戦果を待っている時が一番辛い。
この日の夜、シリは珍しく愚痴を吐いた。
「こんなに感情を張り詰めて地獄の責苦に遭っているのはうんざりするわ!!」
「シリ様・・・」
エマは困ったように眉を寄せた。
「今の私には雄々しいところは1つもないわ。スランプに陥っているの。
しばらくしたら、私は自分が恥ずかしくなるでしょうよ。でも、今夜は挫けそうになるわ」
シリは髪を乱れるのも気にせず、ソファーに崩れながら座った。
広げたスカートの裾はぐしゃぐしゃに乱れ、乱れた髪が額に張りついている。
青い瞳には涙が浮かび、普段は凛とした背筋も今は小さく丸まっていた。
どこから見ても、戦の指揮官ではなく、ただの“ひとりの疲れた女”だった。
「シリ様、疲れて気が挫けているんです。無理もありません。少し休憩をしてください。
熱いお茶と甘いお菓子を一口持って行ってあげますから。そうすれば落ち着きます」
エマはキッパリと言い切った。
「あぁ・・・それでも!何か毒づいてやりたくなるわ!」
シリは納得いかないように叫んだ。
ーーお茶とお菓子ごときで、この気持ちが立ち直るとは思えない。
「それなら、りんごの砂糖漬けもつけます」
エマは断固として遮る。
シリはエマの迫力に何も言えずに推し黙った。
「1時間後にお茶にしましょう。
その間、泣くだけ泣いて、言うだけの事を言ってしまったら元気を出しましょう」
エマの提案にシリは従った。
1時間後、テーブルの前に並んだお茶とお菓子を見て、シリの心は少しだけ慰められた。
エマが厨房にリクエストをしたのだろう。
お菓子はアップルパイだった。
争いに追われて忘れていたけれど、自分は甘いものが好きだった。
ソファーに座り直した時に、グユウが疲れた表情で寝室に現れた。
シリがティーカップを持っている姿に、少しだけ目を見開いた。
「・・・こんな遅い時間にお茶か?」
グユウは不思議そうな表情をした。
「ええ。夜のお茶です。グユウさんも一緒にどうですか?」
シリが微笑んだ。
「邪魔をする」
そう言い、グユウはシリの隣に座った。
エマは侍女にお湯の追加を頼んだ。
久しぶりに食べたアップルパイは、特別に美味しく感じた。
ーーこんな時でも美味しく感じる。
美味しさで顔が綻ぶシリを見て、グユウも少しだけ表情を崩す。
争いが始まってから、こんな風にグユウとお茶を飲む時間は少なかった。
「エマ・・・ありがとう」
シリはエマに微笑んだ。
ーー例え・・・親友に何かあったとしても、妃は落ち込んだり、自暴自棄になってはいけない。
戦時中にそのような姿を見せたら、家臣達の士気が下がるのだ。
これは、敵になった兄 ゼンシが背中で教えてくれた事だった。
シリは己の中に眠っている雄々しさにハタキをかけた。
そして、形の良い顎を少しだけあげた。
ーー何かあっても、せいぜい見せかけだけでも朗らかにしないと。
その翌朝、シリの元に届いた知らせは、
昨夜に奮い起こした覚悟すら、吹き飛ばすほどの冷たさを持っていた。
次回ーー
祈りは届かなかった。
4000の命が消え、友は行方不明。
シリは涙をこらえ、グユウと共に“明日”を信じようとした。
だがその夜、北西の砦では新たな地獄が始まっていた。
安堵の眠りの裏で、裏切りの刃が光る。
――次に倒れるのは、誰か。
明日の17時20分 この道を選んだのは私です
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