笑わない赤子と、静かに迫る死の準備
「それにしても・・・笑わないわ」
レーク城の子供部屋では、シリとグユウ、そして兄姉達は
生まれて4ヶ月のレイの顔を見つめた。
父親譲りの瞳は、穏やかな夜の湖面のように凪いでいた。
レイは手がかからない赤ん坊だった。
乳母のサキの乳を淡々と吸い、満腹になったら眠る。
目覚めた時は、静かにその切長の瞳が開いた。
その表情が大きく動く時は、ほとんどなかった。
兄姉達は、なんとかレイを笑わせようと必死になっていた。
「レイ!見て!」
ウイは丸い頬を両手で潰して面白い顔をしてみた。
ユウとシン、そして乳母の子供 シュリは笑い転げたけれど、
肝心のレイは淡々とした瞳でウイを見つめていた。
「顔の表情筋が動かない所も、グユウさんに似ているのかしら」
シリは不安げにつぶやいた。
「オレは、いつだって笑ってるつもりだ」
グユウは真面目な顔で心外と言わんばかりに話した。
結婚以来、マシになったけれどグユウの表情は相変わらず無表情に見える。
喜怒哀楽はわずかに顔にでる程度で、
シリのような観察眼がない人間は、グユウは無表情にしか見えない。
「ユウは、この時期には笑っていたわ」
シリが不安げに話す。
「ウイ様は産まれた時から笑っていました」
エマも口を挟んだ。
「グユウが赤ん坊の時に似ているわ」
義母マコは言葉少なく話してくれた。
グユウにそっくりな3女の誕生を、心から喜んでいるようだった。
シリの胸のうちは不安と心配と後悔で渦巻いていた。
ーー私が・・・妊娠中にこの子を流すと話していたからかな。
お腹の中にいたレイがシリの言葉を聞いていたのかもしれない。
だから、笑わないのかも・・・と。
その悩みをグユウに打ち明けても、
グユウは不思議そうな表情をするばかりだった。
「シリ、お腹の中にいた記憶はあるか?」
グユウが真面目な顔で話す。
「ないです」
シリは答えた。
「オレもない。大丈夫だ」
グユウは答えるけれど、一向に笑わないレイを見るとシリは不安な気持ちが募る。
「とにかく、この気持ちは・・・父親にはわからないのだわ」
そんな独り言をシリはつぶやいた。
7月の初めになると、
シリはレイの問題を、一回脇に寄せなくてはいけない事態が起きた。
予想通り、国王は再び挙兵をした。
それを知ったゼンシは、建造した大船に乗ってロク湖を渡り始めた。
ーーこのまま、静かな生活をしたい。
そう願っていたシリの願いは叶わぬものになった。
国王とミンスタ領の争いが始まる。
シリとグユウは馬場から、ものすごいスピードで湖を走らせる大船を見つめていた。
ロク湖の辺りでは、
レーク城を包囲しているミンスタ領の兵が帽子を振り回して激励をしていた。
「ついに始まるわ」
シリの顔が緊張で歪んだ。
「あぁ」
淡々とグユウは返事をした。
その後の数日間は、シリは綱渡りのような張り詰めた緊張の中で過ごした。
ミンスタ領が勝ってしまえば、ワスト領は危機に陥る。
シリは国王よりも、ゼンシの兵の方が優勢だと思っていた。
けれど、争いは何があるかわからない。
「あぁ。神様、神様」
多忙なシリは、トイレにいる時しか1人になる時間がなかった。
トイレに行くたびに、湧き上がる震えを祈りながら抑えた。
猛烈な勢いでミヤビに辿り着いたゼンシは、
国王の元にむかっていると手紙に書いてあった。
シリとグユウの元に戦況が伝わるのは、どんなに早くても3日はかかる。
情報が欲しかった。
「どんな結果になっても、争いと籠城の準備をしましょう」
シリは重臣と家臣達に呼びかけた。
「兵達を餓死はさせないように食糧を準備します」
シリの瞳は煌々と輝いていた。
「頼んだ。シリ」
グユウは全幅の信頼を寄せて伝えた。
後ろの重臣、家臣達もうなずいた。
シリはその信頼に応えるために、朝から晩まで働いた。
「・・・あまり、無理をするな」
毎晩、グユウはハンドクリームを手に塗りながら、心配で眉をひそめた。
「大丈夫です・・・グユウさんだって忙しいじゃないですか」
シリはグユウを見つめながら答えた。
シリがありのままでいられるのは、グユウの前にいる僅かな時だけだった。
不安な気持ちを募る今は、グユウの胸に顔を擦り寄せ、深く抱き合って眠るようになった。
籠城の準備だけではなく、シリは様々な準備を平行して行った。
その中の一つは・・・
「エマ、このネックレスを私の部屋の隠し小部屋に保管してほしいの」
シリの手には青く輝く宝石が光っていた。
「そのネックレスは・・・!」
エマは驚きで息を呑んだ。
シリがワスト領に嫁ぐ前に、ゼンシからもらったサファイアのネックレスだった。
挙式以来、シリはそのネックレスを身につけることはなかった。
首にかかる重みは、途方もない狂気に満ちたゼンシを思い出すからだ。
「このネックレスは私の持ち物で一番高価なものです。
もしも・・・、もしもの事を考えてネックレスは安全な場所に保管したいの」
シリの顔は真剣だった。
「もしも・・・ですか」
エマの口はカラカラに乾いていた。
緊張のせいか喉は焼けつくようだった。
「ええ。このネックレスをユウが嫁ぐ時に贈りたいの」
シリは滑らかな口調で話した。
その話し方は、ユウが嫁ぐ頃には自分はいない前提だった。
エマの背中は恐怖で逆立った。
ーーその時が近づいてきた。
シリの覚悟を把握していたけれど、具体的な準備をするのは初めてだった。
「なぜ・・・ユウ様なのですか」
エマは緊張の最中、その疑問は忘れなかった。
シリには娘が3人いる。
ユウを名指しした理由を知りたかった。
「このネックレスの宝石は、兄が私の瞳を想いながら選んだそうです。同じ色の瞳のユウに渡すべきだわ」
シリは答えた。
「この手紙と一緒にネックレスを保管してください」
シリはエマに羊皮紙を渡した。
「わかりました」
エマは震える手で羊皮紙とネックレスを、
ミンスタ領の旗印が付いている布に包んだ。
ユウの父親はグユウではなくゼンシだった。
その事を知っている人物は、シリ、グユウ、エマだけだった。
シリは死ぬまで、この秘密を口に出すつもりはなく、
他の2人も同じ気持ちだった。
ーーそれでは、この手紙に何を書いたのだろうか。
手紙の内容について質問したら、シリは微笑んで『遺言状ですよ』と言いそうな気がした。
聞いたら認めそうな事実が怖くて、エマは何も言えなかった。
エマが部屋から立ち去った後、シリは独り言をつぶやいた。
「・・・まだ、やらなきゃいけないことが、あるの」
次回ーー
春の陽光が差し込むレーク城の広間。
商人ソウが軟膏の取引に訪れたその日、
妃シリはふと微笑んで――小さく囁いた。
「秋に、もし私たちが不在なら……」
穏やかな笑みの奥に、決意の影。
グユウの沈黙と、シリの覚悟がすれ違う。
明日の17時20分 やきもち




