最後のりんごの花
「もう通常の生活に戻って大丈夫です」
出産後、シリの身体は順調に回復しており、医師の許可が降りた。
産まれたばかりのレイは日に日に愛らしくなり、兄姉たちの熱愛の的となっていた。
季節は4月になっていた。
領民や兵たちは玄関前の土塁と堀を作っており、ワスト領は表面上平和だった。
シリとグユウは窓辺に立ち、その様子を見ていた。
「ミンスタ領がカイ領と争っている間に完成させたいわ」
シリがつぶやく。
「そうだな」
グユウがうなづく。
「兄が他の領と争っている間は、ここは平和だわ」
「国王の力が弱まった今、ミンスタ領に対抗できるのはカイ領くらいだ」
グユウは淡々と話す。
「カイ領がミンスタ領を倒してくれたら・・・」
シリは願うようにつぶやいた。
グユウは相変わらず多忙で、シリも産後とはいえ、ゆっくり休む事が難しかった。
やるべき事が山のようにあった。
「シリ様 お久しぶりでございます」
商人 ソウが出稼ぎから戻ってきたので面会をした。
ソウは挨拶をした後に、シリは冬の間にレーク城で作ったアオソ布を見せた。
軟膏、アオソ布の管理はシリに任されている仕事の1つだった。
「昨年のものより品質が良くなっていますね」
ソウが嬉しそうに話す。
「この布が売れたら・・・」
シリが期待を込めてソウを見つめる。
「これは高く売れるでしょう」
ソウが布地を触りながら太鼓判を押した。
アオソ布は王都 ミヤビで需要がある。
アオソ布が売れたら軟膏を売り行く。
ソウはシリに約束して、昨年の秋に作った軟膏の代金を支払ってくれた。
ワスト領に大きなお金が入ってきた。
裕福な家で育ったシリは、お金に困る経験をしたことがなかった。
ワスト領に嫁ぎ、財政難を経験し、
軟膏作りやアオソ布でお金を得る楽しさを知った。
「お金はないより、あったほうが良いわね」
しみじみと乳母のエマに話した。
「りんごの花を見たいです」
4月の終わりにシリはグユウに声をかけた。
「もう・・・そんな時期か」
「ええ。もうすぐ結婚5年目になります。明るい間に見にいきたいです。・・・グユウさんと」
「・・・わかった」
シリのささやかな願いをグユウは受け止めた。
「身体は大丈夫か?」
グユウは不安げにシリを見つめる。
りんごの花は馬に乗らないと辿り着けない場所だった。
「大丈夫ですよ」
シリが微笑む。
ーー本当は少し違う。
医師は通常の生活なら大丈夫と話した。
乗馬は足腰に負担がかかる。
通常の生活とは言い難いだろう。
シリから乗馬に行くと聞いたエマは、何か言いたくて口をもごもご動かした。
ーー産後に無理をすれば、後々身体に響く。
そんな忠告をしたかったけれど控えた。
後々という言葉は未来がある人の言葉だ。
シリは何も言わないけれど、グユウに殉ずる覚悟をエマは感じていた。
ーー来るはずもない未来を心配するより、今を優先するべきなのだ。
エマは小さなため息をつき、シリの支度を手伝った。
長い金髪を一つにまとめ、紺色の乗馬服を着たシリを見て、
グユウの瞳は柔らかくなった。
2人は、はしゃぎながら馬に乗り出かけた。
この2人の姿を城の門の前でエマとジムは見送った。
「お子を産んでまだ1ヶ月しか経ってないのに」
エマはシリの前で押しとどめていた本音を、ジムにこぼした。
「4人も子供がいても新婚のような振る舞いです」
声には、心配とほんの少しの棘が混ざっていた。
「領主と妃の仲が良い事は幸せではありませんか」
ジムが好ましげに2人の背中を見つめた。
「そんなお二人に仕えることができて・・・幸せだと思いませんか?」
ジムは微笑み、エマに問いかけた。
エマは言葉を飲み込む。
――幸せだと思いたい。
けれど、その幸せが続かないとわかっているから、余計につらいのだ。
心の底は、人一倍優しいエマは渋々うなずいた。
たどり着いたりんご並木には無数の白い花が咲き乱れていた。
「今年は咲くのが早いな」
馬から降りたグユウはつぶやく。
「ええ。今年もキレイですね」
シリが微笑んだ。
「シリはりんごの花が好きなんだな」
グユウは、毎年座るりんごの木の根元に座った。
「好きです。キレイな色も、力強く咲くところも、潔く散るところも・・・」
シリも隣に座った。
5年前、結婚したばかりの頃、グユウと初めて出かけたのはこの場所だった。
恋に落ちる。
そんな言葉があるけれど、おとぎ話の世界の話だと思っていた。
領と領を繋ぐ婚姻など、ただの橋渡し。
想いなど、期待する方が愚かだと、かつての私は思っていた――。
けれど、この場所でシリはグユウと恋に落ちた。
結婚してから恋が始まることもある。
春が来るたびに、2人でりんごの花を見た。
この5年間は、シリとグユウを取り囲む戦況は悪くなっていく一方だった。
「りんごの花は10日ほどしか咲かないそうです。次にまた見られるとは限らない」
シリは咲き誇る花々を見上げた。
「この美しい花を目に焼き付けたいのです」
シリは夢見るようにつぶやいた。
グユウは黙ってシリを見つめていた。
サァと春風が吹き、花弁が舞い散った。
「キレイですね」
「あぁ」
グユウはりんごの花ではなく、シリを見つめて答えた。
「オレも目に焼き付ける」
グユウはつぶやいてシリを抱き寄せた。
シリは無言でグユウの肩にもたれた。
ーー来年の春はどうだろうか。
グユウは、そして自分は生きているのだろうか。
決して聞けない問いを胸の中に秘めたまま、
シリはグユウの顔を見上げた。
満開の白いりんごの下でグユウがシリを優しく見つめた。
ワスト領がこの先どうなるかなど、全くわからなかった。
「シリ」
低くて落ち着いてかすれた甘い声で名前を呼んでくれる。
優しく髪を撫で、頬に触れる大きくてマメだらけの不器用な手、
黒く美しい切れ長の瞳は、見つめ合うと凪いだ瞳が水面のように煌めく。
シリの唇にグユウの唇が触れた。
ーーこの人が好き。
こんな自分に合う人はいないと諦めていた。
グユウの声も、手も、眼差しも、唇も、
自分が生きている限りは覚えていたい、シリはそう思った。
ようやく最終章です
次回
レーク城では、シリとグユウが静かな幸福を噛みしめていた。
しかし、白水仙の香る朝――重臣たちの前に届いた一通の報せが、
その春のぬくもりを凍らせていく。
「……ゲンブ様が亡くなった」
明日の17時20分 絶望




