春が怖い 敗北と痛み
その年の冬は、いつもより雪が多く、
深い雪がレーク城周辺に取り囲むように積もっていた。
城内の男性陣は武器製造や鍛錬に励み、冬の晴れ間は鹿狩りを行った。
「今日の夕食はご馳走だね」
シンが目を輝かしてシリを見上げる。
鹿肉はシンの大好物だった。
「そうね。楽しみだわ」
シリが優しくシンを見下ろす。
弓矢の練習に少年兵たちも引き連れ、マサキの館を抜け、長い真っ白な野原を横切る。
深い森の木々の間に一行が消えていく様子を、シリと子供達は二階から眺めていた。
「母上、いつお腹の子供は産まれるの?」
群青色の瞳を見上げながらウイが質問をする。
「まだわからないけれど・・・」
シリは曖昧に笑う。
この時代、出産予定日という明確なものはなかった。
シリの場合、生理不順だったのでハッキリとは言えない。
「ウイの誕生日ぐらいだと思うわ」
ユウが口を添えた。
ウイの誕生日は3月で3歳になる。
ウイの出産と同時にミンスタ領の争いが始まった。
争いは3年に及んでいた。
「そうね。いつになるか楽しみね」
シリは子供達に微笑んだ。
「お裁縫の時間ですよ」
乳母のヨシノが自分の子供 シュリの手を引きながら声をかけた。
ユウの顔がサッとかげる。
「お裁縫 好きではないわ」
その小さな唇は反抗的だった。
「そうですね。でも、覚えないといけません」
ヨシノは静かに言い聞かせる。
「シンみたいに剣技を覚えたい」
ーーどうして女の子はつまらない事ばかりなの。
ユウの顔は不機嫌そうだった。
「裁縫を覚えないと母上みたいに苦労しますよ」
エマが情け容赦なく話した。
シリが投石布を考案し、形にするため針と糸を持たせたら残骸ができた。
エマはその布をユウに見せた。
「きちんと学ばないと、こんなものができます」
子供達は目を丸くして、その残骸を見た。
「ひどい・・・」
思わずユウがつぶやいた。
「お裁縫ができなくて、母は苦労してます。苦手なものでも人並みにできた方が良いのよ」
シリは恥ずかしそうに布を隠して話し、一同笑いに包まれた。
城内の女性陣は軟膏作り、アオソ布、そして、投石布の製作に追われていた。
シリは朝から晩まで忙しかった。
夜になると、グユウはシリの荒れた手にハンドクリームをぬってくれた。
炎が揺らめく暖炉の灯りのもと、たちのぼるハンドクリームの香りと
グユウの慈しむような優しい眼差しにシリの心は震えた。
「幸せって、素晴らしいことや、胸が沸き立つような出来事が起こる日ではなくて、
小さな喜びが次々に現れる1日のことだと思うの」
シリがつぶやいた。
不思議そうに顔を上げたグユウにシリは微笑む。
「この時間・・・とても幸せです」
「そうか」
黒く美しい色の瞳がシリを捉え、
鼻筋の通った端正な顔立ちに薄い唇がシリの目の前まで近づいて、そのまま唇を重ねた。
「グユウさんっ」
「ダメか?」
「ダメとかそういう話ではなくて・・・」
「それでは何だ?」
シリをベットに寝かせた後に、グユウは手際よく衣類を緩めていた。
「オレはシリに触れたい」
そんなことを囁かれるとめまいがする。
ーーいけない人だ。
出産を控えているのに、こんな風に甘えてくるなんて。
「体型が・・・」
ーー変わってきているので恥ずかしい。
グユウの前では、いつもキレイでいたいのだ。
「問題ない」
グユウは、相変わらず無表情で淡々としているように見えた。
「もう・・・エマに小言を言われるのは私なんです」
シリが可愛い唇を尖らす。
その返事を聞いて、許されたと思ったのだろう。
嬉しそうに微笑むグユウを見ると敵わない思う。
グユウを許してしまう自分が恨めしかった。
「シリ」
「何ですか」
「情事が終わった後に、早々と身支度を整えば問題ないと思う」
グユウの顔は大真面目だった。
終わった後、シリは身支度をせず眠ってしまう。
その件について指摘をしているようだ。
「それならば手加減をしてください」
シリは言い返したものの、グユウの端正な顔が間近にあり言葉は勢いがなかった。
逃げようとする白い腕を捕まえて、グユウはそこに唇を寄せた。
大きな手が慎重にそっと触れた。
「シリ・・・」
名をつぶやいたグユウの顎先からポタリと汗が落ちた。
シリの身体を気遣って、ゆっくりしてくれた。
グユウに抱き寄せられると、とても心が安らいで・・・その後、乱れてしまう。
冬のレーク城の生活は、そのような明け暮れのうちに過ぎていった。
シリの喜びも驚きも楽しい日々の間に散りばめられて、月日は流れていった。
冬の間にシンは5歳、ユウは4歳になり、3月になった。
冬の力が弱まり、積もった雪が溶け小さくなり、
レーク城の玄関前は、領民たちが除雪をし、土塁と堀を作るために土を掘り返していた。
春が来てしまった。
ーー争いが始まる。
幸福な冬を過ごしていたシリにとって、春の訪れは憂鬱だった。
雪で閉ざされた街道が割られ、道が開いた。
急ぎの手紙を持った配達人がレーク城に訪れた。
羊皮紙を広げたグユウの表情がサッと変わった。
「どうしましたか」
シリの声は震えた。
良くない知らせだと気づいてしまった。
重臣達はグユウの顔を一斉に見つめる。
「国王がゼンシに敗れた・・・」
そうつぶやいたグユウの表情は硬かった。
雪で閉ざされている間に、他の領では大きな動きがあった。
ーー国王が領主に負ける。
そんな事があるのだろうか。
重臣達は声を出せずに凍りついた。
「ミンスタ領は・・・ミヤビを焼き払って攻撃をしたようですね」
グユウから手渡された手紙を読み、ジムが話した。
「あぁ。国王は敗れたけれど無事だ。ゼンシと和解したらしい」
グユウは落ち着きを取り戻し、淡々と話す。
「ゼンシは、兵糧攻めと火計を併用したようです」
ジムが告げた声は、静かに部屋に沈んだ。
国王の危機が迫っているとはいえ、ワスト領は何もできない。
なぜなら、城の周囲をミンスタ領に包囲されているからだ。
「この城を周囲するのに多くの兵を残している。それでも勝つのか・・・」
ロイが悔しそうに話す。
「そのまま国王が黙っているはずもない」
オーエンは声を上げた。
「まだ、ゲンブ様が率いるカイ領がある!」
サムが力強く話した。
カイ領は、ゼンシ率いるミンスタ領と互角に戦っていたが、冬の間は休戦していた。
「ゲンブ様がいる限り、大丈夫だ」
チャーリーは強がりを吐くように話した。
重臣達が口々に騒いでいる中、シリは椅子に座ったまま動けなくなった。
ーー兄は国王を倒すまで強くなったのだろうか。
国王が権力を失えばワスト領など、あっという間に滅びるだろう。
何か対策を考えなくてはいけない。
そう思うのだけど、何も考えられない。
知らず知らず、呼吸が浅くなり脂汗がにじんだ。
喧騒の中、グユウは疑問を感じ、シリを見つめた。
領に危機が訪れた時、シリは必ず皆を鼓舞する。
そのシリが何も言わず座っていた。
顔色は紙のように白かった。
「シリ、どうした?」
グユウが声をかけた。
グユウの声が届いたとき、シリはゆっくりと首を振った。
その動きも、どこかぎこちない。
「・・・朝から、少しお腹が張っていたの」
声はかすれ、手がゆっくりと腹部をさする。
最初は軽い鈍痛だった。
それが、今では身体の芯から突き上げるような痛みに変わっていた。
「お子が産まれるんじゃないですか」
カツイが弾かれたように立ち上がった。
――まずい。
そう思った瞬間、呼吸が浅くなった。
喉が詰まり、胸の奥に重い石がはまりこんだように感じた。
「・・・っ」
立ち上がろうとした足が、床を踏みしめきれず、がくりと崩れる。
頑張って呼吸をしようと思っても力が入らなくなる。
「そうかもしれません」
青ざめた顔で言いながらも、痛みが波のように押し寄せ、言葉が途切れる。
息を吸おうとしても肺がうまく動かず、視界が揺らいでいく。
グユウが、あわててシリの元に駆け寄った。
「すぐに産室へ! エマと医師を呼べ!」
鋭い声が飛ぶ。
重臣たちが立ち上がる中、シリはようやく浅くうなずいた。
「・・・忘れていたわ。この痛み」
駆けつけた医師、看護師、エマ達に抱えながら、シリは呟きながら産室に運ばれた。
「痛みって忘れるものなのか?」
客間に残されたグユウは、素朴な疑問が口からこぼれた。
ーーシリは3人目の出産だった。
グユウの疑問に重臣達は答えることができなかった。
次回
産声が響いた。
その報せと赤ん坊の瞳にシリは安堵の涙を流した。
争いの世に生まれた小さな命。名は「レイ」。
家族に灯す“光”となることを、誰もが願っていた。
明日の17時20分 この子の瞳は父親似
登場人物
シリ:ワスト領の妃。三度目の出産を控えながらも領地経営に尽力する。聡明で強く、家族を守る覚悟を秘める。
グユウ:ワスト領主。寡黙で誠実な夫。シリを深く愛し、彼女の才覚と強さを誰よりも信頼している。
マサキ:シリの義父。保守的だが、娘のようなシリを案じる。
ジム・ロイ・サム・チャーリー・カツイ・オーエン:重臣たち。ワスト領を支える忠臣たちで、それぞれの持ち場で最善を尽くす。
シン・ユウ・ウイ:シリとグユウの子どもたち。無邪気な笑顔が、戦と寒冬の中で家族に温もりをもたらしている。
エマ・ヨシノ:シリの側仕え。出産の際も寄り添い、母子を支える存在。




