お願い 産んでください
「スープも召し上がるようになったのですね」
エマが驚きの声をあげた。
妊娠して以来、青いトマトしか食べれなかったシリが、少しずつ他のものを食べるようになってきた。
日が経つにつれ、足が軽くなり、動けるようになってきた。
「ええ。身体の調子は前より良いわ」
そう話すシリの表情は浮かない。
乳母のエマも、唇を噛み締めたまま黙った。
争いが始まって1週間が経った。
籠城を続けるワスト領、そして攻撃を続けるミンスタ領。
ワスト領は軽い怪我人が数名程度だったが、
ミンスタ領は多くの死人が出ている。
けれど、勝敗の行方はどちらも平行線のままだった。
争いが続き、街道はずっと封鎖されていた。
その影響で、医師に頼んだ堕胎薬が入ってこない。
ーー困ったわ・・・。
シリはまだ薄いお腹をそっと撫でた。
今のワスト領の現状を考えれば・・・子を流す選択肢しかない。
産まれるまで、ワスト領があることも保証できない。
さらに産んだとしても、ゼンシの手で殺されるのかもしれない。
頭では子を流すことを理解しているけれど、気持ちがついていかない。
体調が良くなるにつれ、子供を産みたい気持ちが増してくる。
窓の外を見ると激しい土砂降りが降ってきた。
「エマ・・・」
シリは窓の外を見ながら乳母の名前を言った。
「なんでしょうか」
いつもと違う声色に緊張を帯びた声でエマが返答した。
「子を・・・子を流す薬草はあるの?」
シリの声は気丈だったけれど、目線は窓の外だった。
「あるといえば・・・あります。
ただし、濾した汁をたくさん飲まないと意味がないです」
「たくさん飲むって、どのくらい?」
シリは思わず振り返る。
「そうですね。一日3リットルくらいですかね」
「・・・そんなに飲めないわ」
「そうですね」
「・・・でも、飲むわ」
シリはため息をついた。
遠く離れたホールが賑やかになった。
「兵が帰ってきたようです」
エマが告げた。
外は、バケツをひっくり返したような雨が降り続いた。
「ミンスタ領の兵は雨の中、野外で過ごすなんてお気の毒ね」
シリの言い方は、優しいけれど毒が含んでいた。
「争いは一時中止だ」
シリがホールに降りると、グユウが家臣達に話していた。
濡れた髪が顔に影を落とし、ずぶ濡れの軍服を着たグユウは不思議といつもより見た目が良かった。
「グユウさん、着替えを」
ずぶ濡れのまま領務を続けようとするグユウに、シリは強く伝えた。
「しかし・・・」
グユウは口ごもった。
やるべき仕事がたくさんある。
「領主が風邪を引いたらダメです」
「そうか」
グユウが着替えている間、シリは思わずつぶやいた。
「兄が風邪を引けば良いのに」
他人の・・・それも兄の不幸を願うなんて良くないことだった。
それでも、シリはゼンシが死んで欲しいと願ってしまう。
そして、そんな事を思う自分に罪悪感を感じ、ため息をついた。
ーーこんな風に思うのは・・・妊娠の影響なのだろうか。
激しい雨風は2日間続いた。
「台風が近づいているようです」
ジムが窓の外を見て話した。
「兵達も・・・皆、疲れているわ。休めてちょうど良いわ」
窓ガラスは水滴がどんどん流れ、近くの木々は大きく揺れていた。
夏でも肌寒くなったので暖炉に火が灯され、部屋は暖かく気持ちが良かった。
「子供部屋に行かないか」
滞っていた領務が落ち着いたようで、珍しくグユウがシリに声をかけた。
「行く・・・!行くわ!」
淡い紫色のドレスに銀色の帯を締めたシリは、
妖精のように軽やかにグユウの元へ小走りでむかった。
「体調はどうだ」
「かなり良いです」
子供部屋に続く長い廊下を2人で歩いた。
子供部屋に辿り着くと、ウイは満面の笑みで2人を迎えた。
「ウイ・・・」
心に温かいものが灯るような笑顔にシリの心は和む。
「父上ー!!」
シンは子犬のように、はしゃいでグユウの胸に飛び込んだ。
何かを思い詰めたような表情のユウは、シリの胸にそっと忍び寄る。
「ユウ・・・」
ーー珍しい。
ユウは、いつもシンと争うようにグユウの胸に飛び込んでいた。
そのユウがシリに甘えた素振りを見せていた。
シリはユウを抱きしめながら絨毯の上に座った。
ーー争いで寂しい想いをさせてしまった。
申し訳ない気持ちを抱きながら、シリはユウの光輝く金色の頭を撫でた。
ユウは無言で、シリのお腹に顔をすりつけるように、抱きついてきた。
次の瞬間、ユウはシリの帯の中に手を入れ、挟んでいたシリのナイフを取り出した。
何食わぬ顔で淡々とナイフの刃を出した。
よく研がれたナイフがろうそくの光に反射する。
乳母が悲鳴をあげた。
「ユウ・・・!」
シリは青ざめた顔で叫んだ。
ユウは独特な瞳で、シリを見つめていた。
――ヨシノは言っていた。
「赤ちゃんは、お腹の中にいるうちに消えてしまうこともあるのですよ」と。
その時は意味がわからなかった。
でも最近、母の表情や話し方が少しずつ変わってきたことで、ユウはようやく理解したのだ。
ーーこの子は、産まれないかもしれないと。
「ユウ様、それは危ないものです。すぐに離して下さい」
乳母 ヨシノが震える声でユウのそばへにじり寄る。
グユウとシンは、驚きのあまり固まった。
ヨシノの子供、シュリもどうして良いのかわからず立ちすくむ。
何も状況がわからないウイは相変わらず微笑んでいた。
「知っています」
静まり返った子供部屋に澄んだ声が響いた。
「ヨシノ、教えてもらったから知っています。
ナイフは危険なもの。人を殺めることもできると」
「そうよ。ユウ、危ないわ。そのナイフを床に置きなさい」
シリの心は荒れ狂う海のようだった。
その気持ちを押し殺し、冷静にユウに伝えた。
シリにそっくりな眼差しで、ユウはナイフを耳の下に当てた。
ユウがナイフの刃を耳に当てた瞬間、
ドォン──という雷鳴が、空を裂いた。
窓ガラスがビリリと震え、誰もが息を飲んだ。
「ユウ!!」
グユウとシリはユウに近づこうとした。
「近寄らないで」
ユウはナイフをさらに皮膚に当てた。
「ユウ、やめないか」
グユウの声は静かだが焦りがこもっていた。
「やめません」
ユウは顔のむきを変えずにグユウを見つめた。
その瞳は・・・母に似ていた。
負けず、曲げない、意思が強い瞳。
その瞳を見て、グユウは背筋が凍り・・・身震いをした。
「母上、お腹の中にいる子を流さないでください」
ユウはシリを見つめながら話した。
「ユウ・・・何を言っているの?」
シリの声は震えていた。
なぜ、ユウが妊娠の事を知っているのだろうか。
「私の弟か妹を殺さないでください。産んでください。お願いします」
ユウの瞳は涙で潤んでいた。
その瞳を見て、シリは動けなくなった。
次の瞬間、グユウはユウの手を取りナイフを遠くへ放り投げた。
青く燃えた瞳で、ユウは放り投げたナイフを取り戻そうとしたが・・・グユウが先にナイフを掴んだ。
「ユウ、ふざけた振る舞いをしてはいけない」
グユウは静かにナイフをしまった。
「ふざけてないわ!!」
滅多に感情を表に表さないユウが声を張り上げた。
「父上、母上、僕からもお願いします。
お腹の子供を殺さないで。産んでください」
シンが叫んだ。
「シン・・・」
グユウは真っ青な顔で二人を見つめた。
「母上、お願い。お願いします」
ユウが泣きながらシリの首に縋りつき、シンも泣きながらシリにしがみついた。
「シン・・・ユウ・・・」
シリの唇は震えた。
事情を知らない他の乳母達はざわめいた。
シリはどうして良いかわからず、呆然と座り込んだ。
「シリ・・・」
グユウが3人のそばに近寄った。
思い詰めたような眼差しで、青ざめたシリを見つめた。
子供たちの涙に、口を閉ざすつもりだった決意が溶かされていく。
今まで一度も強く言えなかった本心が、ようやく喉まで込み上げた。
「オレからもお願いしたい。子供を産んでくれないか」
グユウは泣きそうな顔をしていた。
「けれど・・・この子は・・・」
シリの声は震えた。
ーー情に流されてはいけない。
今のワスト領は危機的状況なのだ。
「戦う前から諦めるつもりか」
グユウが話した。
その言葉は、2年前の争い前夜の時にシリがグユウに伝えた言葉だった。
ハッとした顔でシリは顔をあげた。
「未来のことなんて誰にもわからない。戦う前から諦めるな。シリ・・・子供を産んで欲しい」
グユウはユウとシンの後ろからシリを抱きしめた。
「あぁ・・・」
シリは思わず天を仰いだ。
抑えていた気持ちが涙と共に溢れ出した。
ーー子供を産みたい。
グユウとの子供を産みたい。
この子達の弟か、妹を産みたい。
ワスト領のため・・・未来のため…そう思って決意した行動は、大切な家族を傷つけた。
「ごめんね。ごめんね。心配かけてごめんね」
3人をぎゅうと抱きしめた。
青い瞳、そして2人の黒い瞳を見つめて、
シリは泣きながら伝えた。
「産むわ。この子を産みます」
投稿時間を間違えました。
楽しみにしていた方もいるかもしれません。
お待たせしました。
評価をしてくれた方がいました。
連載途中なのにありがとうございます。
お陰様で頑張れます。
次回ーー
嵐が過ぎ、戦が再び始まる。
だが今夜だけは、雨音に守られた小さな安らぎがあった。
シリは誓う――たとえ明日が終わりでも、この人の隣で生きたいと。
明日の17時20分 ありがとう




