ナイフを持たせる前に、命を手放そうとした妃
ワスト領では激しい雨が降っていた。
「少し休まれたらどうですか?」
エマが心配そうにシリを見上げる。
「争いが近いのよ。寝ている場合ではないわ」
シリはやつれた顔をしながら微笑む。
雨に洗われた爽やかな風がシリの青い顔を吹きすぎ、乾いた充血した目を冷やした。
あと数日・・・2日もしないうちにゼンシが攻めてくることがわかった。
レーク城は、争いの準備で蜂の巣を突いたように騒がしかった。
皮肉な事に完成したばかりの北の砦が役に立った。
グユウは城下町の領民に北の砦に逃げるように指示をした。
彼らは家財を抱え、続々と砦へと移動した。
グユウは争いの準備と重臣達との打ち合わせで忙しい。
シリとは一言、二言話すだけの日々だった。
この状況にシリはホッとした。
ーーグユウに妊娠のことを悟られたくないのだ。
つわりの影響だろう。
シリの体調は優れなかった。
始終、胃がムカムカするし、めまいを感じることが多々あった。
頻繁に椅子に座って休んだ。
シリは、食欲がないことを隠すために必死に元気なふりをした。
食べ物は、ほとんど喉を通らなかった。
ーー早く薬・・・堕胎薬が届いてほしい・・・
シリは薬の到着を心から待った。
シリは身支度を終えた後に、少し痩せた腰に帯を締めた。
そして、その帯に嫁入り道具のナイフを忍ばせた。
ーー争いが近い。
何があるかわからない。
この日から、護衛のためにナイフを身につけることにした。
◇◇
子ども部屋では、ユウとウイが揃って遊んでいた。
シリは真剣な眼差しでふたりを見つめた。
「あなた達は領主の姫です。いざという時があればセン家の名に恥じぬような行動をしなさい」
まだ3歳と2歳の子供達に言って理解するのは難しいだろう。
けれど、親の考えを伝えなければいけない。
聡いユウは、シリの真剣な眼差しを感じとった。
3歳のユウは、物心がつく前から争いの中で育ってきた。
今回は、いつもと違う空気を感じていた。
「はい」
即座に返答して、まっすぐな瞳でシリを見つめた。
隣に座るウイもつられて返事をした。
ーーその返事は、自分に安心してほしくて言った言葉。
シリはわかっていた。
なぜなら、幼い頃の自分もそうだったからだ。
二人に話した後は、乳母のヨシノとモナカを呼び出した。
「ユウに防衛のための作法を教えて」
シリが話すと、ヨシノの顔つきは変わった。
防衛の作法とは武術の一つだった。
非力な女性の武術は、相手を傷つけるものではなく、身を守るものが多かった。
争いは何があるかわからない。
辱めを受けた時に、自分の身を守るため、自害をするためにナイフの扱い方を含めて学ぶ。
シリ自身、幼い頃から嗜みの一つとして学んだ。
「しかし・・・シリ様!ユウ様はまだ3歳ですよ」
ヨシノは胸を押さえて話す。
「ユウは・・・聡い子です。3歳と思って接さなくても大丈夫です。
ナイフを扱えるように・・・作法を教えて」
シリは真面目な顔で話した。
「はい・・・でも・・・」
ヨシノの顔は不安げだ。
まだ3歳の子供にナイフを扱えるのか心配しているようだった。
「ヨシノ。争いが迫っています。もしもの時は・・・私が対応しますが・・・。
間に合わなかったら、ユウ自身が身を守る術を伝えて」
シリの顔は真剣だった。
「承知しました」
ヨシノは覚悟を決めてうなずいた。
「あの・・・」
ウイの乳母モナカが言いにくそうに質問をした。
「ウイ様に作法をお伝えしますか?」
その質問にシリは固まった。
たった1歳しか違わないけれど、ウイに作法を教えるのは幼なすぎる気がする。
「・・・ウイには伝えなくていいわ」
シリは答えた。
「その代わり、ユウの作法の時に見学をするようにして」
「承知しました」
二人の乳母を頭を下げた。
◇◇
雨が上がると、シリはアオソを採るためにマサキの館の裏の森へ向かった。
布生産は戦費を支える重要な収入源。
争いの前でも手を止めるわけにはいかない。
マサキの館からオーエンが出てきたが、
夢中でアオソを採っているシリは気づかない。
少し俯いて作業をするシリの姿は、オーエンの目を捕えて離さないものがあった。
雨後の鮮やかな緑の中で、
白いドレスに銀色の帯を締めているシリの姿を絵のように美しかった。
オーエンの視線に気づいたシリは顔を上げた。
急に顔を上げたせいで、シリの顔色はスッと青くなる。
ふっと視界が揺れた。
足元が頼りなく感じ、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
ーーおかしい・・・少し、休まない・・・
そう思った瞬間、視界が暗くなり——
ゆっくりと地面に倒れた。
金色の髪が土の上に散らばり、顔色は紙の様に白い。
「シリ様!!」
慌てて、オーエンはシリの元に駆けつけた。
オーエンは震える声で助けを呼ぶと、すぐにエマが駆けつけた。
「シリ様の身体は何が・・・?」
オーエンはエマを見つめた。
「食事を召し上がってないのです」
エマの唇が震えていた。
「レーク城に運ぶ。エマ、城のものに伝えてくれ」
状況を判断して、オーエンはシリを抱き上げ歩いた。
ーー胸の鼓動が聞こえる・・・グユウさんと違った匂い・・・
シリは意識を取り戻して、薄く目を開けた。
すぐ間近にオーエンのがっしりした顎が見えた。
「私・・・」
弱々しいシリの声に気づいたオーエンは、心配そうにシリを見つめた。
「倒れたんです。大丈夫ですか」
オーエンの大きな暗灰色の瞳が見えた。
まわらない頭でシリは状況を理解しようとした。
どうやら、オーエンは自分を運んでくれているようだ。
胸元にくっつけた耳からオーエンの心音が聞こえる。
「私は・・・重いでしょ・・・」
「確かに女性の割には重いです」
オーエンは微笑んだ。
「ひどいわ・・・」
その声は力がなかった。
「何がありましたか?」
オーエンはシリをじっと見つめる。
シリの瞳が潤んだ。
「何もないわ・・・疲れただけ」
シリは目を伏せた。
「嘘だ」
オーエンはシリから目を離さず、抱える腕に力をこめた。
2人の間に気まずい空気が流れる。
エマの知らせを受け、駆けてくるグユウが見えた。
「過ぎた振る舞いをしました」
オーエンは切なそうな目をして息を吐く。
「グユウ様が来られます」
オーエンの腕に抱かれたシリは、頭をぐったりとオーエンの肩にもたれていた。
それを見た瞬間、グユウは突然に心臓をグサリと突き刺されたような恐怖を覚えた。
滅多に感情を見せない男が、目を見開き、肩を大きく上下させていた。
地面を蹴る足は、重い鎧をつけているとは思えないほど乱れ、走り寄るその姿には威厳のかけらもなかった。
「シリは・・・どうした」
声がかすれ、震える手で彼女の頬に触れる。
「森で倒れました」
オーエンは、そっとシリをグユウに手渡した。
「シリ、大丈夫か?」
抱き抱えたグユウはシリの瞳をのぞきこむ。
「大丈夫です」
シリは伝えたけれど、大丈夫なようには見えなかった。
「横にならせましょう」
エマが声をかけた。
ーーもう、隠し通せない。
争いが迫っているのに・・・。
グユウの腕に抱かれたシリは、スッと意識が遠のくのを感じた。
4日後に再び寒波が来ることに慄いています。
次回ーー
妊娠を告げた夜、シリは涙と共に「流す」と決意する。
抱きしめるグユウの背後で、その会話を聞いていた幼い二人。
「ヨシノ、生んではいけない子って何?」――静かな夜に、声が落ちた。
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明日の17時20分 生んではいけない子




