堀と砦と、落ちたのは誰の心か
「素晴らしいわ!」
シリは頬を紅潮して完成した堀を眺めていた。
「そうですね」
隣に立つオーエンも、嬉しそうに目を細める。
ワスト領では、迫り来る争いに備えて、レーク城の麓に新しい堀が作られていた。
それは、ただの堀ではない。
シリが提案した、五段に区切られた独特な構造を持つ防御堀だ。
山の傾斜を利用して、段差ごとに城への接近を妨げる造りになっている。
堀が完成したと聞き、シリはその目で見たくて仕方がなかった。
マサキの館にいるオーエンを呼び出し、2人は見にきたのだ。
「この堀の仕切りの上を、歩いてみたいわ」
唐突にそう口にしたシリに、オーエンは反射的に制止の声を上げた。
「危ないですから、おやめくだ——」
言い終える前に、乗馬服姿のシリはひらりと飛び乗り、
堀の細い仕切りの上を、慎重に歩き始めていた。
ーー惚れた方が負け
何度そう思わされたことか。
シリが一度言い出したことは、誰にも止められない。
勝気で真っ直ぐなその姿を、オーエンはいつだってハラハラしながら見つめるしかなかった。
「歩きにくいわ! 武器を持っていたらなおさらね!」
喜び混じりの声を上げた次の瞬間、シリの身体がふらりと傾いた。
「危ない!」
オーエンは駆け寄り、咄嗟にシリを抱きとめた。
受け止めたはいいが、勢いは止まらず、二人はそのまま堀の中へと転げ落ちた。
「・・・だから言ったじゃないですか」
オーエンは呆れたように言葉を吐き出す。
泥の中で見上げたオーエンの目に、バツが悪そうな顔をしたシリが重なった。
自分の上に覆いかぶさったシリの柔らかな体温と、かすかに香る甘い香りに、
オーエンの意識は一瞬だけ、遠くへ持っていかれそうになった。
ーー駄目だ。
すぐに理性が働く。
邪念を振り払うように、彼は泥を払って立ち上がった。
「お怪我はありませんか?」
「ええ」
そう答えたシリの顔から、さっと血の気が引いた。
オーエンは両肩に手を添え、彼女の瞳をのぞき込んだ。
「・・・大丈夫ですか?」
オーエンはシリの瞳をじっと見つめた。
そのとき——
「そこで何をしている」
地の底から響くような低い声が、二人の頭上に落ちた。
見上げれば、堀の縁に立つグユウと、重臣たちの顔があった。
グユウの表情には怒りこそ浮かんでいなかったが、沈んだ瞳がすべてを物語っていた。
狭い堀の中で妃と二人きり親密な会話をしているように見える。
シリに対して胸に秘めた想いを抱えているオーエンは、
冷水をかけられたような心境になった。
「グユウさん!」
一方、シリはグユウに会えたことが心底嬉しそうだった。
オーエンとの距離の近さに頓着した様子はない。
「すごい堀ね!私、仕切りの上を歩いてみたの。とても歩きにくいわ!!」
泥だらけの乗馬服、乱れた髪のまま、シリは興奮したように話す。
「そうか」
グユウは一歩、身を乗り出した。
深い黒い色を潜ませた目をスッと上げて、オーエンを見た。
その底光りするような目を見て、オーエンは固まる。
シリに触るな、と言わんばかりの雄弁な目だった。
「シリ様が転落しそうになったのでお守りしました」
オーエンは一歩引きながら、静かに釈明した。
グユウはため息をつき、手を差し伸べた。
シリはその手を取って堀をよじ登る。
「登りにくいわ。これなら・・・城攻めも難しいわね」
「・・・本当に」
オーエンも後に続いて登り、泥を払いながら立ち上がった。
「ちょうど良い。北の砦が完成した。見に行こう」
グユウの声に、場の空気が切り替わった。
◇
北の砦は、すでに“砦”というには広すぎる建物に生まれ変わっていた。
急ごしらえとはいえ、広間も備え、屋根もしっかりとした造りになっている。
シリはその空間をぐるりと見回し、満足そうにため息をついた。
「急ごしらえだが・・・」
グユウがつぶやく。
「素晴らしいわ。これで領民達は雨露をしのぐことができるわ」
シリが微笑んだ。
「気に入ったか」
その声に、シリは微笑んでうなずいた。
この砦は、彼女が「褒美」として望んだものだった。
「ええ」
ふたりの間に、ふわりと甘い空気が漂う。
グユウはそっと、シリの頬に手を添えた。
「・・・コホン」
咳払いが空気を裂き、ジムが気まずそうに視線を逸らす。
シリは一歩下がり、口元を押さえた。
「ここに食料を3ヶ月分ほど備蓄したいの。調理道具も置いておきたいわ」
シリが慌てて話した。
「・・・そうだな。準備を整えよう」
グユウが応じる声には、淡々としながらも、確かな意志が宿っていた。
今朝、4時間ほどで30センチの雪が積もりました 涙
大雪のピーク、いつ終わりですか?(遠い目)
次回ーー
キヨがレーク城の目前に陣を張った。
迫る戦の気配の中、シリは新たな命を宿していると知る。
それでも彼女は静かに決意する――「この子は、産まない」
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明日の17時20分 夫には秘密にして




