3日目の距離
扉を開けると、乳母ヨシノは驚いた顔で振り返った。
入ってきたのは、新たに妃となったばかりのシリだった。
ミンスタ領の姫、あのゼンシの妹。
気性が荒く、冷酷だと噂される兄の血を引く后とは、一体どんな人物なのか。
この子——シン様が、もし殺されたら・・・
ヨシノは無意識に腕の中の赤子を強く抱きしめた。
「この子が・・・グユウさんのお子さん?」
シリは涼やかな声で尋ねた。
「はい・・・」
ヨシノは慎重に頷いた。
シリはおそるおそる、爪先立ちで赤ん坊に近づいた。
触れるつもりはなかった。赤ん坊を扱う心得がなかったのだ。
視線の先には、濡れた絹糸のような巻き毛に覆われた小さな頭、ぷっくりとした手足。
潤んだ黒い瞳がこちらを見ていた。
ーーなんて可愛いの。
その目は、グユウにそっくりだった。
一瞬で心を奪われる。
指先が、ふくふくとした小さな手に触れると、シンはぎゅっと握り返してきた。
ーーこの子の母親は、私が嫁いできたことで城を出された。そして、この子を置いて。
グユウが私に距離を置く理由が、少しだけわかった気がした。
妻であり、母親の座を奪った女。――それが私だ。
「・・・抱いてみますか?」
ヨシノがおずおずと声をかける。
「抱いてみたいけど・・・私が抱いたら壊れてしまうんじゃないかしら」
その言葉に、ヨシノも、侍女たちも、エマまでもが思わず吹き出した。
レーク城に、こんな風に笑い声が響いたのは久しぶりのことだった。
おそるおそる、腫れ物に触るようにしてシンを抱き上げる。
「肩の力を抜いて、シリ様」
エマが囁いたが、言われたところでそんな余裕はない。
ぎこちない抱き方でも、シンはにこっと笑った。
温かい、小さな身体。甘い匂い。ふっくらとした頬。冷たくて小さな手。
胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
たった一人で嫁いできた私と、母に置いていかれたこの子。
ーー似ている。
グユウさんは・・・この子にも無表情で接するのかしら。
そんな思いが過った。
ゼンシに報告するべきことは山ほどある。
けれど、その日、シンのそばを離れがたかった。
夜、再びグユウと同じ寝室に戻る。
昨夜、あれだけ取り乱したのに、またここに来てくれた。
少し、ほっとした。
ーーもう一緒には寝ないと拒まれるかもしれない・・・。
緊張から身体がこわばる。
先に口を開いたのは、グユウだった。
「シンに会ったのか」
「はい。とても可愛らしいお子さんです。目がグユウさんによく似ていて・・・」
「そうか」
シリは思わずベッドの上で正座し、真っ直ぐグユウを見つめる。
「私が嫁いだことで、前の奥様やシン様に酷なことをしてしまいました」
「・・・結婚はオレが決めたことだ」
「そうだとしても、グユウさんは望んでなかった。政略とはいえ・・・申し訳ない気持ちです」
「シリも、オレとの結婚を望んでいたわけじゃないだろう」
その言葉に、シリは身を乗り出した。
「名前・・・覚えていてくれたんですね!」
笑顔を向けると、グユウはわずかに目を伏せた。
少しの間を置いて、気まずそうに言う。
「もう遅い。疲れただろう」
そう言って彼は横になった。
ーーあれ? 今夜こそと思っていたのに。
グユウは、近づいたと思えば遠くへ行く。
隣で寝息を立てる彼を見ながら、シリもまどろみに落ちた。
翌日。
レーク城の広間には家臣、侍女、料理番、庭師まで、すべての者が集まっていた。
今日は、グユウとシリの正式なお披露目ーー披露宴の日だ。
朗らかな雰囲気と笑い声が、城に満ちていた。
人数が少ない分、温かくて、結束の強さを感じる。
シュドリー城とは、まるで別の世界。
その中で、シリはまたもや鋭い視線を感じ取った。
義父マサキの重臣たちが、険しい顔でこちらを見ている。
ーーまた。2日前と同じ。
けれど今回は逃げず、にっこりと笑みを返してみた。
多くの者がたじろぎ、視線を外した。
ただ一人、鋭い顎を持つ若い男だけが動じず、睨み続けていた。
その灰色の瞳に視線を返し、もう一度微笑む。
ようやく、彼も視線を逸らした。
ーーそれでも、隣の人は無関心。
淡い水色のドレスに身を包んだシリに、グユウは一瞥もくれなかった。
その夜も、彼はシリに触れず眠った。
見張り役のジムとエマは隠し部屋で監視を続けている。
2人が交わらない限り、彼らの任務は終わらない。
ーー3日目の夜も、何も起こらず過ぎていった。
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次回ーー
「疲れたわ」
結婚4日目の朝、シリはつぶやく。
乗馬、男装、質問攻め――常識知らずの新妻に、
無愛想な夫が放った一言は「美しい」だった。




