夫には聞けない子供のこと
その年は4月になっても、昼は寒く夜は強情だった。
5月になると雪はしぶしぶ消えていき、一気に爆発的に春がやってきた。
「何もかも、一気に花が開くわ」
シリはグユウにむかって話した。
温暖なミンスタ領で育ったシリの感覚では、春は静かに息づくものだった。
けれどこの地では違う。
冷たさの帳が裂けた途端、命が競うように咲き乱れる。
「水仙もエルダフラワーも、りんごの花も一気に咲き始めるのよ」
不思議そうな顔をしたグユウに説明する。
「・・・それが普通じゃないのか?」
「違うわ。普通は順番に咲くの。少しずつ、春が息をしていくように・・・
でもワスト領では、春が――怒ってるみたいに咲くのよね」
二人が歩いていたのは、レーク城の奥、まだぬかるむ森の中。
ニワトコの枝に、小さな白い花が香っていた。
村の女たちが慎重にハサミで切り落としていく。
「母上、この花から甘いシロップができるの?」
シンがワクワクした顔でシリを見上げる。
「ええ。シンも・・・グユウさんも好きなエルダーフラワーのシロップよ。たくさん作りましょうね」
シリが微笑むと、シンの頬はピンク色になった。
ユウとウイは、乳母の子供シュリと一緒にタンポポを摘んでいた。
明るい茶色の髪と群青の瞳をもつウイは、屈託なく笑い、
一方で、金髪に氷のような青い瞳を持つユウは、じっと人の顔を見つめるくせがある。
――まるで、兄のように。
その目を見つめ返すたびに、シリはひやりと胸を締めつけられた。
あの子の父親がゼンシだと知っているのは、この場ではシリとグユウ、そして乳母のエマだけだ。
結婚のわずか二日前、シリは兄ゼンシに襲われた。
ジムも事実を知っていたが、誰ひとり口には出さなかった。
それでも周囲は皆、ユウをグユウの子と信じて疑わなかった。
――ユウの外見が、あまりにもシリに似ていたからだ。
サラサラの金色の髪、湖の底よりも青い瞳に、
少し顎を上げる癖、気の強そうな眼差しのユウは、シリのミニチュア版のようだった。
シリとグユウの間でも、ユウの父親についてはハッキリと口にしなかった。
シリが口にしたのは1回きりだったし、
その件に関しては、お互い触れない事柄になっている。
グユウが無条件でユウを可愛がっているのに、変な波風を立てたくない。
無言で腕を上げるユウを、グユウは優しい眼差しで抱き上げる。
その光景を見て、シリは感謝の気持ちと少しだけ胸が疼く。
グユウはゼンシの事を『信頼できない人』とハッキリと評している。
2年前の争い以来、言葉の端々にゼンシを軽蔑するような言い方をしているけれど、
ゼンシとシリの子供であるユウに対して、心の底では、どのように思っているのか。
それを聞きたい気持ちもあるし、怖くて聞けない気持ちがシリにあった。
◇◇
ワスト領 南砦
「やれやれ、やっと春が来た」
湿度が残る春の空気を感じて、キヨは大きく伸びをしていた。
「今年の冬は厳しかった・・・」
キヨの弟 エルがつぶやいた。
「毎日、雪が降って空は灰色。こんな気候で育ったのだからグユウ殿は暗いのだろう」
キヨは大きくあくびをする。
「この砦で過ごして2年になる」
「あぁ。2年も辛気臭いところで過ごしている。早く帰りたいが・・・」
「ゼンシ様のためにも頑張らないと」
エルが言葉を引き継ぐ。
「ゼンシ様だけではない。あそこの城にはシリ様がいる。シリ様のためにも、あんな暗い男から引き離したい」
キヨはレーク城を眺めながら忌々しそうにつぶやいた。
「領民からも聞きましたが、シリ様とグユウ殿はたいそう仲が良いとか・・・」
「それが癪に障る。ワシの目に狂いはない。あんな陰気な男より、ワシの方がふさわしい」
キヨの発言にエルは驚きを隠せなかった。
「・・・兄者、本気でシリ様を第二夫人に?」
いくら兄弟で親しい仲とはいえ、
ゼンシの妹であるシリを第2夫人にするなんて、恐れ多くて普通は口にしない。
「兄者は昔からシリ様はお好きですよね。あんなに尽くしてくれる奥様がいるのに」
エルは呆れた顔でため息をつく。
「ミミとシリ様は別物だ。あの凛としたお顔、美しい立ち姿、誇り高い性格、何もかもが別格だ。
ワシはな、シリ様が12歳の時から目をつけていた」
キヨは薄い頭を撫でつけ、ムフフと笑った。
明日、食べるものさえ困っていた貧しい領民から、ミンスタ領の重臣まで成り上がったキヨ。
領民が重臣になるなんて、あり得ない出来事だった。
合理的で先見の目を持つゼンシは、家柄ではなく実力でキヨを雇用し出世をさせた。
今まで皆に『無理だ』と笑われたキヨの大きな夢は全て叶ってきた。
「ひょっとすると・・・ひょっとするかもしれん」
エルは小さな声でつぶやいた。
「もうすぐ西の砦の家臣が落ちそうだ。エル、今日も招いて宴会を行おう!」
痩せたしわくちゃな笑顔でエルに命じた。
長い冬の間に、キヨは何度も西の砦に行き、
砦を守っている家臣達に一緒に酒を飲もうと誘っていた。
「承知しました」
「たくさん酒を用意してな。もちろん女もだ。近くの地主も呼べ」
キヨの淡い茶の瞳が、濁った光を放つ。
この時代、相手を自分に屈服させる手段は争いが中心だった。
体格が貧弱なキヨは、武力でなく接待などで戦術を用いていた。
屈した相手はそのまま味方になり、兵の人的被害は少ない。
キヨは可能なかぎり争いを避け、周到な策略をめぐらせ相手を屈服させていた。
ワスト領の領地を少しずつ・・・しかし、確実に蝕んでいく。
「良いか、人も虫も明るいものが好きだ!何年かかってもいい。ワシはシリ様を手に入れる」
その言葉は、春の風よりも重く、湿って響いた。
雨日の地域は「すごい」雪から「ひどい」雪になりました。そんな灰色な時にブックマークをしてくれた人がいました。ありがとうございます。これで除雪が頑張れます。
次回ーー
春、りんごの花が一斉に咲き誇る。
白い花びらの下で、グユウとシリは静かに語り合っていた。
「シリが産めば、オレの子だ」
その言葉に涙をこぼした妻は、ただ微笑んだ。
戦と再生のはざまで、二人は確かな絆を見つめ直す。
明日の17時20分 殺したいほど憎いのに




