嵐が来る
その年の12月は雪が降らなかった。
けれど、冷たい風が頬を刺し、どこか空気は重く、落ち着かない。
「今こそ、南の砦を取り戻したい」
グユウが静かに口を開く。
一年半前の争いで、ワスト領の南の砦はミンスタ領に奪われた。
それ以来、ハゲネズミのキヨ――あの人懐こい笑みを浮かべる男が、砦に居座っている。
彼は、剣ではなく笑顔で人を従える。
言葉巧みに、領民の心を溶かしていく。
気づけば、南東の砦までが彼の支配下にあった。
「軟膏の売れ行きが好調ですしね」
ロイがうなずく。
「冬の間はミンスタ領も攻めてこない」
オーエンは言葉に力を込める。
「しかし、問題があります」
ジムの声が静かに落ちる。
南の砦は、レーク城ほどではないが、険しい山の上に建っている。
高所を攻めるのは、圧倒的に不利だ。
「弓矢は下から撃てば、軌道が逸れる」
名手チャーリーがぽつりとつぶやく。
「投石も銃も、当たりはしない」
サムは腕を組んだまま唸った。
攻め手が多くても、道が狭く、人数は活かせない。
それどころか、上から狙い撃ちにされれば、壊滅もありえる。
「とにかく攻めましょう!」
血の気が多いオーエンやロイは、盛んに出陣を望む。
「やみくもに攻めても兵が疲弊するだけ」
慎重派のジム、チャーリー、サムは躊躇している。
傍で聞いているシリも悩ましく思った。
どちらの言い分もわかる。
戦費を蓄えるべき今、勝算の少ない戦に出るのは愚かだ。
けれど、キヨがのさばるのを黙って見ているのも――癪だった。
グユウは、領主として怖い決断をしなければいけない。
「南の砦からキヨ殿が出ました」
カツイが報告してきた。
「外出か・・・?」
グユウは眉根をひそめる。
こんな寒い時期に馬で外出をするのは妙だ。
「東の方角へ行きました。家臣は数名程度です」
カツイが口を添える。
「数名・・・出陣ではないな」
グユウは首を傾げた。
「・・・新年を奥様と迎えるのではないですか」
シリが静かに話した。
「キヨ殿には妻がいるのか?」
「ええ。会ったことはありませんが・・・私より2歳年下の方です。
ミミ夫人と言いました。確か、キヨとミミ夫人は恋愛結婚だったはずです」
この時代、恋愛結婚は稀だった。
領主と同じく重臣も、自由に結婚ができない。
領の繁栄のためにお見合い結婚が多い。
「なぜ・・・恋愛結婚?」
オーエンが不思議そうな顔をした。
「彼は領民の出ですから。自由恋愛が許されていたんでしょう。
出世してからは、女性に困ってないようですけど」
シリは軽蔑を込めて言った。
「キヨ殿が不在なら・・・南砦も落ちやすくなる・・・」
グユウが独り言のようにつぶやいた。
やがて、彼は決断する。
「よし、明日南の砦を攻めよう」
◇
翌朝の早朝は、どんよりとした灰色の空が広がっていた。
「行ってくる」
軍服を着たグユウがシリに話す。
「ご武運を」
シリは緊張で青い顔をして送り出す。
争いに旅立つグユウを送り出すのは、何度経験しても慣れない。
「今日は冷えますね」
シリを励ますようにエマが少し明るい声を出した。
「エマ、帰ってきた皆のために豆のスープを出したいの」
「良いですね。身体も温まるでしょう。厨房に伝えます」
エマは厨房まで駆けた。
「とても寒いわ・・・。皆は大丈夫かしら」
隣にいるジムに話しかけた。
「厚手の冬服を着ていますし・・・南の砦までは馬で30分程度の距離です。
何かあったら、すぐ帰るでしょう」
穏やかな声でジムが話した。
落ち着いたジムの声を聞いて、少し安心した。
何より近くで争っている事は、冬の時期はありがたい。
◇◇
だが、砦は険しく、予想通り苦戦していた。
上からは矢と石が降り注ぎ、登ろうとすれば、容赦なく撃ち落とされる。
「やはり、厳しい・・・」
グユウが唇を噛む。
「裏側から攻めましょう」
オーエンが提案する。
「軍を半分に分け、傾斜のきつい裏手から奇襲を――」
そのとき、カツイが蒼ざめて叫んだ。
「嵐が来ます!」
カツイが真っ青な顔で西北の方角を指差した。
西北の空には、墨を流したような黒雲が広がっていた。
「これは・・・まずい」
嵐だ。雪雲だ。
天候が荒れると城に戻れなくなり、遭難する可能性がある。
「全軍、レーク城へ撤退!」
グユウが叫ぶ。
こうして、ワスト領は一矢も報いることなく、撤退を余儀なくされた。
◇◇
レーク城のホールでは、シリは包帯の数を数えていた。
傍では静かにユウとウイが遊んでいた。
淡いクリーム色の包帯が、急に灰色に変わったように見えた。
「どうして・・・」
シリが独り言を呟くと、
「母上、お日さまの色が変!」
ユウの声にシリははっと顔を上げ、窓へ駆け寄った。
西北の空が、墨のような雲で覆われていく。
「嵐がくるわ・・・」
ジムは、城にいる家臣たちに薪を運ぶように命じていた。
本格的な嵐がくる前に、たくさんの薪を城に入れる必要がある。
オリバーが腕いっぱいの薪を持って、城の中に飛び込んだ途端、
吹雪はうなりをあげて襲ってきた。
「ひどい風です。目を開けることも辛い」
オリバーが叫んだ。
風がレーク城の周りで金切り声をあげ吹きまくっていた。
シリはじっと、凍てついた窓の外を見つめていた。
ーーグユウさん・・・大丈夫だろうか。
そのとき、スカートを引っ張る小さな手に気づく。
ユウが、真剣な顔でこちらを見ていた。
「父上は・・・」
その青い瞳は不安で揺れていた。
シリはしゃがんで、ユウを抱きしめた。
「大丈夫よ。もうすぐ帰るわ」
それはユウに向けた言葉であると同時に、自分自身への祈りだった。
吹きつける雪が、窓を真っ白に覆い尽くす。
◇
昼食の時間になった。
シリは皆に昼食を勧めておきながら、自分は食べるのを忘れていた。
「母上、お腹が空いてないの?」
シンが指摘するまで食べることも忘れていた。
慌てて椅子に座ったけれど、フォークを持つ手が震えた。
「お腹が空いてないの」
シンに微笑みながら説明をした。
何も事情を知らぬ1歳のウイは、無邪気に美味しそうにパンを食べている。
吹雪はどんどんひどくなり、風が城をゆり動かしていた。
冷たい空気が床を這うように広がってきている。
ーーもう、そろそろ帰っても良いはず。
嵐が始まって1時間経っている。
同じく不安で目を曇らせているジムと目が合った。
彼も言葉にしないけれど、同じことを考えていることがわかった。
敵は――ミンスタ領だけではない。
今、兵たちは吹雪の中にいる。
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次回ーー
吹雪が荒れ狂う夜――
レーク城の窓にともる灯が、帰る者たちの命綱となった。




