売れた日、抱きしめた日
その年の12月は、雪が降らず、静かな陽射しが続いていた。
「何度も挑戦したけれど・・・できないわ」
シリがため息をついた。
レーク城の西の一室では、アオソの糸を形にする作業が始まった。
エマが苦笑しながら答えた。
どう努力しても、シリの裁縫の腕前は壊滅的だった。
エマは、布くずとなった試作品を見下ろしながら、そっと視線を逸らした。
繊細な糸を裂き、織り機にかけて布を織るこの作業は、領内の年配の女性たちに託されることになった。
冬の間、レーク城の地下室は武器製造、二階の西側はアオソの作業所となり、多くの人が出入りするようになった。
10時と15時に、お茶とりんごの砂糖漬けが登場するので、子供達も仲間に入ってきた。
◇◇
その頃、商人ソウが長旅を終え、レーク城を訪れた。
「カイ領の領主 ゲンブ様が軟膏をお求めです」
グユウに報告をする。
「カイ領・・・」
グユウは呆然とする。
「ゲンブ様ですか?!」
ジムとシリは思わず椅子から立ち上がった。
北西にあるカイ領。
そこの領主 ゲンブは歴戦の名将だった。
ゲンブが率いる軍団は強軍で有名で、ゼンシが最も警戒していた。
軟膏の売り上げが良かったリャク領が滅んでしまったので、
ソウは他の領に行き営業をしてきたのだった。
「はい。ゲンブ様は、シリ様の噂を耳にしておられました。
軟膏の説明をすると、たいへん関心を示されて・・・」
ソウの声は誇らしげだった。
グユウとシリは驚いた顔をして目を合わせた。
「・・・どのくらいの量を求めていますか」
興奮を抑えきれないジムが質問をした。
「今あるものを、すべてと」
ソウは答えた。
「戦が続き、怪我人が絶えないとのことで・・・」
「あるわ!山ほどあるの!」
シリの声が弾む。
「荷台にすると・・・3台はある」
グユウが答える。
「全て買い取るとのことです」
ソウは安堵した顔で微笑んだ。
軟膏を作り続けて良かった。
「あぁ・・・!!」
興奮がドレスのようにシリを包み、目からもれ、全身にほとばしりでていた。
その報告は、重臣たちにも大きな喜びをもたらした。
「・・・売れないと言った私が馬鹿だった」
一番反対したサムが声を震わせた。
「相変わらず・・・敵わない」
オーエンは尊敬半分、呆れたような何とも言えない声を出した。
「売れない時に、売れる準備をしていたのか」
チャーリーがぽつりと呟き、ロイが静かにうなずいた。
「カツイが提案したお陰よ」
シリが微笑むと、カツイは照れくさそうに頬をかいた。
こうして、レーク城の二部屋を埋め尽くしていた軟膏は、すべてカイ領へと運ばれた。
・・・そして、
「こんな嬉しいことはないわ!!」
シリは風に吹かれた妖精のように踊りながら歩いた。
軟膏の収入が入ってきたのだ。
寒風が吹く中、グユウとシリは夕方の散歩をしていた。
「このお金で・・・」
「鉛を買いましょう」
シリがすかさず答えた。
「鉄砲玉ではなく鉛を買った方が価格を抑えることができるわ。皆で鉄砲玉を作れるもの」
「あぁ。オレも考えていた」
グユウは柔らかく微笑む。
「後は鉄砲、鉄砲はどんなに頑張っても作れないわ。
20丁ほど欲しい・・・槍。傷んだ武具、馬具も・・・」
「買えるはずだ」
「嬉しいわ」
シリは、あまりの興奮でモミの木にもたれて身を支える必要があった。
「シリ・・・ありがとう」
グユウが、そっとシリの手を取った。
「おまえがいなければ、軟膏は売っていなかった。
・・・いや、オレたちはもう、持ちこたえられなかったかもしれない。・・・シリはすごい妻だ」
不器用に、けれど誠実に紡がれた言葉が、冬空にしんと沁みた。
「グユウさんにそう言ってもらえるなんて・・・」
シリは、ほころんだばかりの花のように微笑んだ。
見上げたグユウの顔は無表情に見えたが、瞳はあたたかな光をたたえていた。
その視線に、シリの心はまた小さく跳ねた。
◇
「見て!父上と母上がいるわ!」
レーク城の西側の窓の一角は、二人の散歩コースである馬場が丸見えだ。
4歳のシンともうすぐ3歳になるユウは、踏み台を使って
外の景色を眺めていた。
二人の後ろに乳母の子供 シュリも遠慮がちに眺めている。
父に似た黒い瞳と母に似た青い瞳を持つ子ども達は、両親の様子を眺めていた。
モミの大木の下に両親が立っている。
シリは頬を赤らめて目を伏せ、モミの幹にもたれていた。
その一方の手をグユウがとり、シリの方に身をかがめて熱心な様子で話している。
シンとシュリは真っ赤な顔で目を瞑った。
二人が口づけをしていたからだった。
数歩離れたところで、ヨシノとエマが子どもたちを見つけた時、ふたりは抱き合っていた。
ヨシノは慌てて、踏み台からユウを降ろした。
「父上と母上は仲良しなのね」
ユウは澄んだ瞳でヨシノを見上げた。
「そうですね」
ヨシノは困ったような照れたような顔をして答えた。
「私も・・・母上のようになりたい」
「・・・なれます。ユウ様なら絶対に」
ヨシノは、言葉に力を込めた。
美しく成長しつつあるユウ。
その未来に、幸福の花が咲き誇ることを、ヨシノは願わずにはいられなかった。
だが同時に――
ーーその花が、棘を持つ日が来るとしても。
そんな思いが、胸の奥をかすめた。
「父上みたいな人と結ばれたい」
ユウの夢に満ちた瞳が、冬の光を跳ね返すほどに輝いていた。
「そうですね」
夢に満ちたユウの顔が美しすぎて、ヨシノは思わず目を細める。
のちに彼女は、何度もこの日のユウの表情を思い出すことになる。
「まったく・・・あの二人は・・・世界に自分たちしかいないと思っている」
エマが肩をすくめた。
軟膏の成功が、戦費を生み、ワスト領に希望をもたらした。
「今こそ、キヨ殿がいる南砦を取り戻したい」
グユウがつぶやき、シリは力強くうなずいた。
今日は節分ですね。恵方巻きを作り食べる予定です。
明日から暦の上では春。
皆さんにとって良い春になりますように。
次回ーー
その年の十二月、雪のない冬に、嵐だけが訪れた。
南の砦を奪還しようと出陣したグユウ。
だが突如の吹雪が襲い、シリは凍える窓辺で、帰らぬ夫を祈り続けていた――。
明日の17時20分 嵐が来た




